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その後、僕とセラは学院で用意された制服に着替えたものの、下着までは替えがなく濡れたままだった。
先生に許可をもらって、ひと足先に馬車へと乗り込むと、セラは肩を落としてまるで自分を責めるみたいに小さな声を零した。


『総司……迷惑をかけて、本当にごめんなさい……』


セラは悪くないのに、こうして必要以上に気にしてしまうのは、そのお香のせいなのかもしれない。
そう思うと、やるせなさと一緒にこの子をどうしても護らなければという気持ちだけが強くなる。


「僕は平気だよ。だから気にしないで」


微笑んでそう告げた後、まだ濡れているセラの髪を撫でる。
きっと今も寒いのだろう、セラは学院に借りたタオルで身を包みながらも、唇は僅かに青かった。


『くしゅっ……』

「風邪ひかないようにしないとね。ほら、おいで」

『え?でも……』

「いいからおいでよ」


セラの腹部に回した手で、そっと身体を引き寄せる。
膝の上に横抱きにした状態で彼女を乗せると、セラは少し恥ずかしそうに視線を逸らした。


『下着が濡れてるから……もしかしたらズボン濡らしちゃうよ?』

「別にいいよ。くっついてた方が温かいでしょ」

『うん……あったかい……』


セラは僕の肩に頬を寄せ、甘えるように擦り寄ってくる。
柔らかい頬を撫でれば、今度はその手に頬を擦り寄せていた。


『総司?』

「うん?」

『今日はもう……アイス、行けない?』


セラは寂しそうな眼差しでそう聞いてくる。
この子を連れてデートはしたいけど、正直はじめ君の話を聞けば、そんな悠長なことをしている場合ではないことがわかった。


「……そうだね。この格好のままアイスなんて食べたら余計に冷えちゃうし、来週改めてデートしようか」

『うん……』

「ごめんね。でも必ず行こう」

『総司は謝らないで。私が湖に落ちたのがいけないんだから……』 

「違うよ。君が落ちる前に止められなかった僕のせいだ」

『それこそ違うよ、落ちちゃった私がいけないの……』

「でも僕はセラを護るために傍にいるんだから、本来なら君に危険が及ぶ前に助けてあげたい。それが出来なかったのは僕の力不足なんだよ」


湖に落ちたことだけじゃない。
セラの身体を害するものも、本来なら僕がもっと早くに気づいて対処すべきだったのに。
これじゃあ近衛騎士なんて名ばかりじゃないかと、奥歯をきつく噛み締めた。


『そんなこと言わないで。私は総司にたくさん助けてもらってるよ。今日も私を助けてくれて、ありがとう……』


セラは僕の首筋に腕を回して抱きつくと、涙声でそう言ってくれる。
その言葉が優しくて辛かった。


「セラ、前にお香……使ってるって言ってたよね」


まずはそのお香について、念のために聞いてみる必要がある。
だから敢えて微笑みながら、柔らかい雰囲気で彼女に尋ねた。


『うん?』

「今日はじめ君から聞いたんだけど、今街の令嬢達の間で凄い人気のあるお香があるんだってね。セラが使ってるのも、それなのかなって思ったんだけど」


この聞き方ならセラを不安にさせたり勘繰らせたりしない筈だ。
きょとんとしている顔を目の前に、僕は静かにセラの言葉を待っていた。


『どうなのかな……?それのことなのかはわからないけど、私が使ってたお香も街で人気があるって聞いた気がするよ』

「それ……誰に教えてもらったの?」

『千鶴様だよ。千鶴様がね、私に使って欲しいって、そのお香を持ってきてくださったの』


全身が凍りつく感覚がした。
そして直感で、そのお香がはじめ君の話していた麻薬成分入りの模造品に違いないと感じた。
あの女は前の世界で僕達を引き裂きセラを苦しめ、あの子の死すら愚弄した。
そしてまたこの世界でも、僕の大切なセラの身体を蝕んだのかと著しい殺意が込み上がっていく。


『……っ、総司……痛いよ……』


セラの声に我に返り、彼女の腕を掴んだ手に力が入ってしまっていたことに気づく。
はっとしてセラを見れば、涙目で怯えたように僕を見つめていた。


「セラっ、ごめん……」

『……総司、怒ってるの……?』

「いや……怒ってないよ。びっくりさせてごめんね」


セラをそっと抱き寄せて、小さな背中をそっと摩る。
けれど心の中には憎しみが溢れ、この怒りの鎮め方がわからなかった。


「そのお香ってさ、いつもらったの?毎日使ってる?」

『ちょうど薫様がお城を空ける前だから三週間くらい前……かな。それから毎晩つけて寝てたよ』

「……え?まさか朝まで?」

『うん。決まった時間に侍女の方が部屋にいらして、焚いてくださるの。とても良い香りで、あのお香を焚くと朝までぐっすり眠れるんだよ』


吐き気が込み上げてきそうだった。
気が向いた時に少し焚く程度を想像していたのに、まさか毎晩朝まで何時間も……。
それだけの麻薬がセラの身体をぼろぼろにしているという事実が、酷く心に重くのしかかっていくようだった。


「あの……さ……、そのお香……しばらく使わないでもらえる?」

『え?』

「というか、良かったら少し僕も借りたいんだけど……いい?」


まずはそのお香の成分を調べるべきだろう。
そしてこれ以上セラが使用することを避けるためにも、僕が預かるのが得策に思えた。
けれどセラは申し訳なさそうに眉を下げると言った。


『ごめんね、それはちょっと難しくて……』

「え?どうして?」

『今朝千鶴様にお返ししたの。薫様は匂いの強いものが苦手だから、お香を渡したことが知られたら怒られちゃうって。だからそのお香を返して欲しいって言われて……。だから今は手元にないの』

「……は?」


つまり……王太子が城に戻る前に証拠隠滅をしたってこと?
セラの部屋に入るのは侍女以外には王太子ただ一人だけ。
その王太子がいない間を狙って、あの王女はセラを陥れようと企んでいた。
これはもう……完全に黒じゃないか。


「……あの女……殺す……」


思わず感情が口に出ていたらしい。
セラが揺らいだ瞳で僕を見上げていた。
少し虚ろで不安そうな瞳。
前までは溌剌としていて明るくて、あんなにも眩しかったのに、いつからその瞳に陰りを見せるようになってしまったんだろう。


「セラ、王太子が戻ってきたら一度僕と公爵邸に戻ろう」

『……でも……許可を頂けるの……?』

「許可は出させるよ」


このことは明日、皆にも相談をして慎重に進める必要がある。
そして伊庭君と平助には近藤さんにこの事実を伝えてもらえばいい。
そうすれば近藤さんだって黙ってはいないだろうし、いくら王家がセラを縛りたくても、あの王女がやらかしたことだとわかればセラを王宮に置いておくことは王太子でも難しくなる。
セラを無闇に傷つけた報いは必ず受けさせると、セラをそっと抱き寄せた。


『くしゅっ……』

「……セラ、寒い?熱とか出てないよね……」


なんだか頬も赤いし、額やその他の肌も心なしか熱を帯びている気がする。
でもこの状況なら僕がセラの部屋に入る良い口実になるかもしれないと目論んだ。


「今日は僕が君を部屋の中までちゃんと連れてってあげる」

『中まで……?』

「そう。セラは湖から落ちて熱もある。僕が君を担いで部屋に入っても不自然じゃないよね」

『……でも、私は自分で歩け……』

「僕が君を担いで行けば、その分長く一緒にいられると思うよ。ね、そうしたくない?」


セラの虚ろな瞳は開かれて、少し微笑むと頷いてくれる。
僕も笑顔を返し、セラの唇に自分のを重ねた。


「……ん、……セラ……」


舌先が触れ合うたびに、セラは小さく身じろぎしながら僕を受け入れてくれる。
その仕草があまりに愛らしくて、唇を重ねるほどに胸の奥が熱くなった。

けれど、今回のことはどう対処すべきか頭を巡らせても答えは簡単には見つからない。
この子を王宮の医師に診せるのが一番なのか……それとも、外に漏れないよう内密に処置を探るべきか。
今まで懸命に努力を重ねてきたセラの経歴に傷がつくことだけはしたくないからこそ、考えれば考えるほど胸の奥に黒い焦燥が広がっていく。
それでも今は、この子に余計な不安を与えるわけにはいかなかった。

だから僕はただ唇を重ね、何度も深く口づけを繰り返す。
そのたびにセラの瞳はうるんで緩み、絡んでくる舌は頼りなく、それでいて僕の胸を締めつけてくる。
どうしてこんなにも可愛いんだろう。
護りたいと思う気持ちが、鼓動をさらに速めていった。

唇を離すと、セラは息を僅かに弾ませながら僕を見つめる。
その瞳が無垢で甘えるように揺れているから、僕はただ微笑み返すことしかできなかった。

けれどその時、閉め切られたカーテンの隙間から細い光が差し込み、馬車の中に影が落ちる。
すると突然、セラが小さな悲鳴をあげて身体を強張らせた。


「え?なに?」

『大きな蜘蛛が……肩にっ、……やだっ、や……』


その怯え方は尋常じゃなく、まるで目の前に本当に蜘蛛がいるかのように泣き出してしまった。
これは完全に幻覚のせいだとわかってはいても、泣きながら僕に縋る姿を前にすると胸が痛んで仕方がなかった。


「……大丈夫。もう追い払ったから、いないよ」


そう言って彼女を抱き寄せ、細い肩を腕の中で包み込む。
けれどその小さな身体は震えが止まらず、僕の胸に顔を埋めたまま嗚咽を漏らしている。
 

「僕がいるから大丈夫だよ。ほら、見て。蜘蛛はもういないでしょ」


恐る恐る馬車の中を見渡したセラは、泣きべそを書きながら頼りなく頷く。
安心できる場所がここにあると、そう思ってもらえることだけが大切だった。


『今の、毒蜘蛛……?総司、噛まれたりしてないよね?』

「……うん、なんともないから平気だよ」

『良かった……』


そう言いながらもセラの頭はふらり揺れて、その直後に辛そうに眉を顰める。


「セラ?平気?」

『……う、……くらくら……する……』

「……体調悪い?やっぱり身体が冷えたからかな……」

『ううん、ここ最近たまにあって……』


風邪からの眩暈ならまだ良かったのに……。
もしかしたらセラは身体が辛い中、学院に通い続けていたのかもしれないとやりきれない気持ちになった。


「無理しないで休まないと。ほら、僕に寄りかかって」

『ありがとう……』

「体調が悪いんだから、お香とか匂いの強いものは使ったら駄目だよ。なるべく自然のもので治した方がいいし、たとえだれかに何か勧められても、絶対にやめておいて。わかった?」

『うん……』

「もうすぐ着くね。僕がここから君を連れていってあげるから、君は寝てて」

『ごめんね、総司……』

「謝らないでいいよ。僕は少しでもセラの役に立てれば嬉しいんだからさ」


セラの額にそっと口付けを落とせば、僅かな微笑みが返ってくる。
馬車が止まり、その扉を開いた僕は、セラを横抱きにしたまま城の中へと入って行った。


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