6
セラの部屋の前に辿り着くと、戸口の脇で待機していた侍女が、静かに頭を下げた。
「おかえりなさいませ。お嬢様、沖田様」
落ち着いた物腰に、長く仕えてきた者特有の冷静さが滲んでいる。
けれど僕の腕の中で横たわるセラの姿を見て、一瞬だけその瞳に揺らぎが走った。
「実は今日、学院でセラお嬢様が湖に落ちてしまわれたんです。熱もあり、体調が優れないご様子でしたから、こうしてお連れしました」
「……さようですか。ありがとうございます。ではこちらでお嬢様をお預かりして……」
そう言いかける侍女に、僕はすぐに首を振った。
「いえ、僕が寝台まで運びますよ」
「ですが……王太子殿下以外の殿方がお嬢様のお部屋にお入りになるのは、周りにいらぬ疑念を招く恐れがございます」
慎重な声音、至極もっともな言葉。
けれど僕も譲るつもりはなかく、平然とした調子で告げた。
「大丈夫ですよ。僕は王太子殿下から直々に、殿下がご不在の間、セラお嬢様を護り、気にかけるよう仰せつかっています。体調の悪いこの子を放っておくわけにはいきません」
侍女が言葉を探す前に、さらに続ける。
「そもそも公爵邸にいた頃から、お嬢様が体調を崩した際はいつも僕が傍にいましたから。心配ならあなたも部屋に一緒にいて頂いて構いませんよ。僕の行動を見張ってくださって結構です」
堂々と口にしたせいか、侍女は反論をのみ込み、ほんの少し眉を曇らせた。
やがて落ち着きを取り戻すと、静かに問いかけてくる。
「このことは、王太子殿下へ報告することになりますが、宜しいですか?」
僕は肩をすくめ、いつもの調子で笑みを浮かべた。
「勿論、構いませんよ。殿下と僕は友人ですから。僕をここへ呼んでくださったのも殿下のご厚意です。きっとご理解くださいます」
しらっと言い切ると、侍女は観念したように小さく息を吐き、「わかりました」と告げて部屋の扉を開けてくれた。
僕はセラをそっと抱え直し、そのまま寝台に横たえた。
濡れた衣服の感触がまだ残っているし、体温も高い。
早く休ませてあげないとと、僕は再び口を開いた。
「すぐお風呂の用意と着替えをお願いします」
侍女に声をかけると、彼女は恭しく一礼し、すぐさま支度に取りかかった。
静かになった部屋で、僕はベッドに身を沈めたセラの前髪を指先でそっと撫でる。
濡れた髪が額に張りついていて、痛々しいほど弱々しく見えた。
「……大丈夫?」
声をかけると、セラは潤んだ瞳で僕を見上げて、少しだけ嬉しそうに笑った。
「なに笑ってるの?」
『公爵邸にいた頃を思い出したの』
隣の部屋にいて、呼ばれればすぐに駆けつけられた日々。
体調を崩した時は、眠りにつくまで手を握ってあげたこと。
その寝顔を見守るだけで、心の底から幸せを感じられたこと。
思い出すほどに、切なさが募っていく。
もう二度と戻れないはずの日常を、こんな風に思い出してしまうなんて。
「……そうだね。僕も思い出したよ」
そう言いながら、セラの指先に自分の手をそっと重ねる。
温もりが伝わってきて安心出来るのに、心の奥ではセラを失いたくないという焦燥が湧き上がっていた。
それから程なくして湯浴みの支度が整ったのだろう、侍女が静かに告げると、セラは小さく頷きながら僕を振り返った。
その瞳がほんの少し不安げに揺れているのを見て、僕はあえて柔らかく微笑んでみせる。
「ここで待ってるね」
そう告げると、侍女がすかさず言葉を挟んできた。
「あまり長居されるのはおすすめいたしません。お嬢様のご体調もありますし、殿下以外の殿方がこちらに滞在されますと……」
「確かにそうですね。じゃあ外で待ちましょう。ただ、お嬢様が戻られた時に僕がいないと、きっとまた心細く思われるはずです。ですから、湯浴みを終えられたら必ず知らせてください。その時に改めて伺いますから」
「ですが……」
「あなたも心得ているでしょう。体調不良の時は何が起きるか分かりません。ただ、護るべき人のすぐ傍にいる方が安心できる。それだけですよ」
その堂々とした物言いに、侍女は言い返すことができず、わずかに瞼を伏せた。
僕はにこやかに一礼すると、セラへと目をやる。
「行っておいで。部屋の外で待ってるから」
セラがほんの少し心細そうに僕を見上げる。
その視線を受け止めるように、僕は静かに頷いた。
部屋を出る前に、ふと視線を巡らせる。
何気ない素振りを装いながらも、隅々まで観察することを忘れてはいけない。
壁際に置かれた小さな香炉は空。
棚や机の上にも、不自然に隠されたものは見えない。
けれど痕跡は完全に消されている気配がある。
残り香がまったく感じられないことを考えると、誰かが手を回したのは間違いないように思えた。
そして廊下で待つこと数十分、僕は侍女に促されるまま再び部屋へ戻る。
セラが柔らかなガウンを羽織り、繊細なレースのあしらわれた寝間着姿で現れた。
まだ頬に残る蒸気の色が柔らかくて、つい見とれてしまう。
湯浴みの余韻を纏ったその姿が寝台へ身を沈めると、部屋にほのかな温もりが広がった。
「寝てなよ」
声を落とすと、彼女は小さな笑みを浮かべて「ありがとう」と呟いた。
そのまま頬を枕に預け、じっと僕の顔だけを見つめてくる。
言葉はなくても、互いの眼差しだけで充分に伝わるものがあった。
僕もまた視線を逸らさずに受け止める。
そのひとときは、言葉にするよりもずっと強く、セラの存在を僕の胸に刻みつけていくようだった。
ただ……部屋の隅に控える侍女の気配が、どうしても消えない。
控えめに佇むその姿は一見忠実そうに見えるものの、僕の胸には小さな棘のような違和感が残った。
セラが言っていた、毎晩決まった時間にお香を焚きに来る侍女……それがこの女なのか。
僕は視線を落とし、表情を崩さないままに心の奥で静かに疑念を募らせていた。
「寒くない?」
『大丈夫だよ、ありがとう』
僕らは、あくまで騎士と令嬢としての距離を保った言葉しか交わせない。
それでもこうしてセラが弱っている時、傍にいてあげることができるだけで十分だった。
「今日はちゃんと休めそう?」
『うん、総司がいてくれると安心できるから』
「それなら良かったよ。セラが眠るまでここにいるから」
『……ありがとう』
言葉の合間に、僕らだけが知っている時間が流れる。
外から見れば淡々とした会話にしか聞こえないはず。
けれど心の奥では、互いの想いが確かに響き合っていた。
やがてセラが、少し照れくさそうに僕を見上げた。
『ねえ、総司。昔みたいに眠るまで手を握っててくれる?』
「もちろん」
僕はそっと彼女の手を取る。
柔らかなぬくもりが掌に伝わり、互いの鼓動が重なり合うようだった。
寝台に横たわったセラは、もう瞼を半ば閉じている。
寝息にはまだ至らない浅い呼吸を、僕はその横顔を見守りながら数えていた。
部屋の隅に控える侍女は、規律正しく背筋を伸ばし、無駄のない動きで静かに待機している。
それでも、人はどんなに取り繕っても癖というものは隠せない。
視線を逸らすときの間、両手を組み替える小さな仕草、呼吸に合わせてわずかに揺れる肩。
細部を拾っていけば、彼女がどれほどの緊張を抱いているのかが見えてくる。
僕はわざと肩の力を抜き、さも気楽そうに声をかけた。
「侍女の方も大変ですよね。長い時間、付き添わないといけないなんて」
「いいえ。お嬢様のお傍に仕えるのが、私どもの務めでございますから」
「へえ、立派ですね。僕ならすぐ居眠りしちゃいそうだけど」
冗談めかして笑ってみせると、侍女はほんの少しだけ唇を緩めた。
笑みか、それとも単なる作法に従った応対かは読み取れない。
「騎士様が眠ってしまわれては困ります。ですがお気遣いありがとうございます」
「眠らないように気を張ってると、逆に疲れちゃうものですよ。君は普段、お嬢様のどんなお世話をしてるの?」
「着付けや髪結い、身の回りのことを。特別なことはしておりません」
淀みなく返すその声に、僕はただ頷いて見せる。
でも特別なことはしていない、か。
言葉を額面通り受け取るには、あまりにも無機質で均整が取れすぎていた。
「君みたいなしっかりした侍女の方が世話してるなら、お嬢様も安心だろうね。僕なんて、剣を振るしか能がないから」
「とんでもございません。お嬢様にとって一番の安心は、騎士様が護ってくださることだと思います」
「そう?」
軽く笑いながら、僕は彼女の指先へと視線を移した。
両手は組まれたままだけど、ほんのわずかに爪が手のひらに食い込むように力がこもっている。
やっぱり、何かを隠してる気がする。
でも、それを今ここで確証なく問い詰めるわけにはいかない。
「じゃあ、お互いちゃんと役割を果たさないとね。お嬢様のために」
その一言に、侍女は深々と頭を下げた。
セラの静かな寝息を耳にしながら、僕は視線を外へとやった。
夜気は澄み、窓の外には月明かりが落ちている。
まるで何もかもが平穏であるかのように。
けれど僕の胸の奥では、微かな棘がまだ疼いていた。
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