7
『うう……』
胸の奥を掻きむしられるような不安と息苦しさに押し潰され、私は思わず目を開ける。
朦朧とした意識の中、視界に映ったのは私を覗き込む侍女の方の顔だった。
「お嬢様、お身体の具合はいかがですか?」
その声を頭の中でゆっくり理解しながらも、言葉はうまく出てこない。
……私、眠っていたの?
でも……どうしてこんなに苦しいの?
「こちらをどうぞ。落ち着かれますから」
差し出されたカップを受け取ると、温かな紅茶の香りが胸の奥まで染み渡った。
震える指先で縁を掴み、そっと一口。
甘い香りが鼻に抜けて、強ばっていた呼吸が少しだけほどけていくような気がした。
『ありがとうございます……』
かすれた声でそう言えば、侍女の方は小さく微笑んで首を振った。
「いいえ。もう時刻は遅いですが、お夕食はお召し上がりになりますか?」
時計の針に視線を移すと、真夜中に近い時刻を指していた。
自分がいつから眠っていたのかもわからなくなり、少し呆然とする。
『……今日は大丈夫です。食欲がなくて』
「承知いたしました。紅茶はこちらに入れておきますので、必要に応じてお召し上がりくださいませ。それでは……失礼いたします」
静かに一礼し、侍女の方は部屋をあとにした。
扉が閉まる音が遠ざかると、部屋には再び深い静寂に包まれて心細くなった。
少しでも歩けば楽になるかもしれない。
そんな気持ちでベッドから身を起こしたけど、立ち上がった瞬間、視界が大きく揺れた。
『……っ』
足がもつれて、身体はそのまま寝台に崩れ落ちる。
手にしていたカップから紅茶がこぼれ、薄布の寝着の胸元へと染みていった。
温かい液体が肌に触れると、それはすぐに肌を刺す冷たさに変わる。
ぐっしょりと濡れた感触が胸元に広がり、私は思わず息を詰めた。
『……どうして……』
思うように動かない身体。
何をしても空回りばかりで、前みたいに笑って過ごせない。
そんな自分が情けなくて、どうして頑張れないのかと胸が締めつけられて、涙がぽろぽろと零れ落ちた。
『……ぅっ……』
もう一度、震える腕で身体を支える。
ふらふらと頼りない足で向かったのは、総司の部屋へと繋がる扉の前だった。
『……総司……』
総司に会えば、総司に傍にいてもらえたら、少しだけ前に進める気がした。
すぐ隣の専属騎士の部屋、あの扉の向こうに総司がいる。
そこまで辿りつけば、きっと……
震える指で取っ手を押し下げると、扉の先には冷たい床が広がっていた。
光を反射する大理石の壁に、整えられた調度品。
微かに水音が響くその場所は、見慣れた総司の部屋ではなく、バスルームだった。
『……え……?』
ここが……どこなのか。
胸の奥で何かがずれていく。
頭が霞がかって、考えるほどに混乱が広がった。
それでも私はここが公爵家の私室で、扉の向こうには必ず総司がいるのだと信じて疑わなかった。
だから自分が奇妙な空間に取り込まれてしまったように思えて、馴染みのないこの部屋が酷く怖く感じられた。
気がつけば私は裸足のまま扉を開き、冷たい石畳を踏みしめながら廊下に飛び出していた。
どこへ行けばいいのかも分からないまま、ただ泣きながら歩いていく。
真っ暗な廊下はどこまでも長く続き、心臓の音だけが響いているようで、余計に恐怖が胸を締めつけた。
外へ出れば夜気は寒く、足裏にまで染み込んでいく冷たさ。
歩いても歩いても総司には会えなくて、ついに私はその場で立ち止まってしまった。
『……総司……どこ……?』
もう戻ることもできないし、自分がどこにいるのかも分からない。
ただ総司に会いたいと考えるばかりで、涙が止まらなかった。
「……セラ?」
どこかで聞いたことのある声が耳に届き、はっとして顔を上げる。
けれどそれが誰かは思い出せなくて、暗闇から歩いてくる人の顔もよく見えない。
『……だれ……?』
震える声で問いかけると、その人は少し驚いたように笑った。
「誰って……酷いね。まさか数週間で俺のことを忘れたの?」
近づいてきたその人の顔を見上げて、ようやく分かった。
王太子殿下である薫様。
けれどその名前を口にするより早く、薫様が目を見開いて私を見つめた。
「……お前、泣いてるの?」
しゃくり上げていたせいで、声は掠れて息もうまく吸えなくて。
いまだに止まらない涙が、また頬を濡らしてしまう。
「しかもそんな格好で……風邪を引いたらどうするんだよ」
うまく言葉にできないまま泣き続ける私に、薫様は困ったように眉を寄せ、それでも優しく私の名を呼んだ。
「セラ……」
肩にふわりと温かいものが掛けられる。
それは薫様が身につけていた外套だった。
「本当は明日帰ってくるつもりだったんだ。でも……お前に会いたくて、こんな時間になったけど戻ってきたんだよ」
熱を帯びた指が、涙のあとをなぞるように頬を拭っていく。
「もう寝てるかと思ったけど、ここまで来てみてよかった」
耳に届くその声を理解しようと必死に考えているうちに、薫様は「戻るよ」とだけ告げて、私の手をとって歩き出した。
けれど早足の歩幅にはついていけず、足がもつれて身体がふらりと傾く。
そして石畳に膝をつき、とうとう転んでしまった。
「おい、大丈夫か?」
慌てて振り返った薫様が、すぐに私を抱き起こす。
けれど不安と体の怠さに押し潰されて、また涙が零れてしまった。
『……っ……』
「本当にどうしたんだよ……」
深いため息のあと、薫様は私の前に背を向けた。
「ほら、乗って」
『……で……も……』
「こんなところを誰かに見られたら、変な噂が立つ。さっさと乗りなよ」
誘われるように、その背中に身体を預ける。
熱で重たい身体を委ねると、薫様がしっかりと立ち上がった。
揺れに合わせて身体も揺れて、熱に浮かされた頭はもう考えることをやめてしまう。
ただ薫様の背に頬を寄せて、総司を想いながら一人涙をこぼしていた。
それからしばらくして、先ほどまでいた部屋へ戻ってきた。
入った先の扉の前、私を下ろした薫様の眉がぴくりと動き、真っ直ぐに夜着へと視線が落とされる。
「夜着が濡れてるけど」
『……え……?』
「そんな格好でいたら身体を冷やすだろ。侍女を呼んで着替えを……」
そう言いかけて彼は言葉を切り、私を見るなり短くため息を吐いた。
「この状況じゃ、まるで俺が泣かしたみたいじゃないか」
『……ぐすっ……』
「仕方ない、俺が探すよ。だからお前はその濡れた服を早く脱いだ方がいい」
クローゼットの奥を探り始める薫様の後ろ姿を見つめながら、言われたことを胸の中で繰り返す。
身体はもう冷たく強張っていて、確かにこのままでは体調が悪化しそう。
私は誘われるように胸元の紐に手をかけ、ほどき始めた。
「夜着はどこにあるんだ?全然見つからない……」
外套と一緒にワンピース仕立ての夜着が足元へぱさりと落ちる。
胸元に目を落とすと、下に着ていたシフトドレスまでは濡れていなかったことに、少しだけ安堵する。
そのとき、不意に薫様の声がした。
「おい、どこにあるのか知らないのか?」
『……え……?』
「夜着が見つからないって……」
振り返った彼の目が、私に留まった瞬間、見開かれる。
次の刹那、薫様は慌てて顔を背けた。
「な……お前、なぜ脱いでる……!」
『薫様が……脱いだ方がいいって……』
「だからって普通こんなところで脱ぐか!」
鋭い声に胸が痛み視界が滲んでしまうと、泣きそうになる私を見て薫様の表情が苦しげに歪む。
そして彼はすぐに歩み寄り、自らの白いシャツを外して私に羽織らせてくれた。
「これを着ていろ」
『でも……薫様が……』
「仕方ないだろ。夜着は見つからないし……それに、お前は平気で俺の前で……」
そこで言葉を飲み込む薫様の頬は赤く、けれどその手はとても優しく私の肩を包んでいた。
薫様に手を引かれ、私はふわりとベッドの端に座らされる。
隣に腰を下ろした彼の視線が、じっとこちらを射抜いていた。
「なんで、あんな場所で泣いてたんだよ」
『総司が……いなくて……』
「は?沖田?」
『私の部屋も……違う部屋になっちゃって……』
「違う部屋にって……何を言ってるんだよ。ここは変わってないだろ。お前が王宮に来た時のままだと思うんだけど」
『……王宮……?ここは……王宮……?』
「当たり前だろ。さっきから妙なことばかり言って……寝ぼけてるの?」
薫様の声が冷ややかに響く。
けれど頭の奥が混乱していて、うまく考えられない。
必死に記憶を手繰り寄せると、確かに私は薫様と婚約をして、王宮で暮らしていた。
そんな当たり前のことすら忘れていた自分に気づき、全身が震える。
私の肩の震えを見た薫様は、黙って片腕を伸ばしそっと抱き寄せてくれた。
けれど胸に押しつけられた顔からは、次々と涙がこぼれて止まらない。
「まさか俺がいない間に、何かあったんじゃないよね?」
『……こ……うちゃ……』
「え?」
『……紅茶が……飲みたい……』
「紅茶って……あそこにあるやつでいいのか?」
弱々しく頷くと、薫様は小さくため息をつき、立ち上がった。
卓上に置かれていたポットからカップへ紅茶を注ぎ、私の隣に戻ってくる。
「ほら。折角俺が淹れてやったんだ、ちゃんと感謝して飲むんだね」
『……はい……』
唇をカップに寄せて一口。
温かい液体が喉を通れば安心できるはずなのに、胸のざわめきは収まらなかった。
慌ててもう一口飲んでも、落ち着くどころか頭が揺れるようにふらふらしてくる。
「……なんか、変な匂いがする紅茶だな」
薫様は怪訝そうに眉を寄せ、私の手からカップを取り上げた。
鼻を近づけて香りを確かめると、躊躇いなく一口含む。
でもその直後に彼は目を見開き、口元を抑えながら立ち上がると、近くの洗面所で吐き出していた。
「……っ、何だこれ……!」
私の方を振り返る薫様の顔には、明らかな険しさが浮かんでいる。
「お前……いつもこんなものを飲んでるのか?」
頷くと、彼の表情が硬直した。
それからすぐに水差しを手に取り、グラスに注いで戻ってきた。
「あれはもう飲むな。普通のものじゃない」
『でも……』
「いいから。喉が渇いたなら、これを飲みなよ」
差し出された水を受け取り、私は小さく唇をつけた。
ひんやりとした水の冷たさが喉を滑り落ちていくのに、どうしてか心のざわめきは収まらない。
『……ごめんなさい……私……』
声が震えてしまい、最後まで言えなかった。
薫様はそんな私の顔を覗き込み、眉を顰めた。
「謝ることなんてないだろ。お前は何も悪くない」
薫様は一度視線を伏せ、しばらく黙ったまま考え込むようにしていたけど、やがて小さく息を吐いて再び口を開いた。
「さっきの紅茶だけど、普通じゃなかった。香りも味も……明らかにおかしい」
『……おかしい……?』
「俺の舌が間違えるわけないだろ。あんなものを出すなんて……理解できない」
薫様は再びカップを手に取ると、軽く揺らし、もう一度香りを確かめていた。
「やっぱり、この匂い……どこかで嗅いだことがあるな」
その横顔は鋭い眼差しを帯びていたけど、すぐに私を見て表情を和らげると、そっと手を重ねてきた。
「お前は何も気にしなくていい。このことは俺が調べる。だから何があっても勝手に一人で抱え込むな」
『……薫様……』
「辛いなら、全部俺に預ければいいよ」
温かい掌に包まれながら、涙はまた溢れて、どうしても止まらない。
手を引かれるままベッドに横たえると、柔らかなコンフォーターが肩に掛けられ、灯りがすっと消えた。
暗闇に包まれて心細さが込み上げてくると、隣に身を沈めてきた温もりがすぐそばにあった。
そっと髪に触れてくれる手が優しくて、胸の奥に溜まっていた不安が静かにほどけていく。
躊躇いがちな撫で方なのに、耳の横をなぞるたび、懐かしくて胸が熱くなる。
涙で滲んだ視界の中で、そのぬくもりだけが鮮やかに感じられるようだった。
『……総司……』
気づけばその名前を呼んで、胸にすがりついていた。
頬を擦り寄せれば、優しく抱き留めてくれるぬくもり。
それだけで心が安らいで、もう涙は零れなくなっていた。
「……セラ……お前……」
名前を呼ばれる声に、胸が熱くなる。
頬に触れる温もりに、次にどうされるのかもうわかっていた。
自然と顔を上げて静かに顔を寄せると、触れていた手が少しだけ強張った。
でもやがてゆっくりと近づいてきて、そっと唇が重ねられた。
優しくて、確かめるみたいな口づけ。
触れられるたび、総司のことしか考えられなくなる。
もっと欲しくなって自分から唇を開くと、柔らかな舌が遠慮がちに忍び込み、強く抱き寄せられる。
素肌が直接重なり合い、舌先も絡み合い、鼓動の音が耳元で重なった。
熱くて苦しいくらいなのに、どうしてこんなに安心できるんだろう。
何も考えられない中、ただ愛おしい人に抱きしめられている、その事実だけが胸の中に満ちていった
息が苦しくて一度唇を離しても、頬に触れていた手に引き寄せられ、また唇が重ねられた。
さっきよりも深く、熱を帯びた口づけ。
舌が絡め取られて逃げ場を失った呼吸は甘く乱れ、胸の奥まで痺れるような感覚に支配される。
押し寄せる熱に抗えず、私は首筋に回した腕にぎゅっと力を込める。
触れ合うほどに身体の奥まで火照って、もうどこまでが自分なのかわからなくなるくらい。
「……は、セラ……」
耳元で呼ばれる声が、熱に蕩けて聞き分けられなくて、ただ愛しい人の響きにしか思えなかった。
頬や瞼に繰り返し落とされる口づけは、優しいのに切なくて、心の奥を掻き乱していく。
唇を離れたかと思えば、首筋に、肩に、次々と熱い口づけが落ちてくる。
零れた声を抑えられなくて、彼に縋る腕に力を込めた。
苦しいくらいに胸が詰まって、なのにその全てが心地よくて、もう何も考えられなかった。
重なった身体の温もりが、息苦しいほど近くて。
熱を分け合うように抱き寄せられ、鼓動が重なったとき、心まで一つになったような錯覚に囚われていった。
『……総司、好き……大好き……』
想いが勝手に溢れて、唇から零れてしまう。
その一言に、抱き寄せる腕が痛いほど強くなった。
「……セラ……、お前は……酷い奴だね……」
掠れる声が何を言っているのか理解する前に、再び触れ合う唇。
理性なんてとうに失って、ただその温もりに縋ることしかできなかった。
どれほど時が経ったのかも分からないまま、ようやく落ち着いた吐息を整えながら、私は小さな声で囁いた。
『……眠るまで……手を握っててくれる?』
コンフォーターの中で指先を探すと、すぐに温かな手が重ねられた。
ぎゅっと繋がれたその手の力に、涙がまた滲んでしまう。
「……ああ。ずっと、傍にいるよ」
『約束だよ。ずっと総司と一緒にいたい、離れたくないの……』
「……わかってるよ」
暗闇の中で耳に落ちる声は穏やかで、でもどこか切なく震えていて。
その声に包まれながら、私は静かに瞳を閉じていった。
明日の朝になれば、今の不安も苦しさも全てなくなっていればいい。
怖いものは全て夢の中に置いてきてしまおうと、眠りの世界に旅立つ私がいた。
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