8
昨日は一日中、セラのことが頭から離れなかった。
セラの部屋を出た後もどうしても気がかりで、気付けば時計の針が夜の十時を指す頃、僕は再び彼女の部屋を訪れていた。
扉を開けたときの侍女の視線は、僕を歓迎するものではなかった。
それでもただあの子の様子を、この目で確かめずにはいられなかった。
中に入れば、セラは僕が部屋を出た時のまま、まだ静かに眠っていた。
一度も目を覚まさなかったと侍女が言うのを聞いて、心の底から安堵したのを覚えている。
部屋に漂う甘い匂いはなく、忌まわしいお香がすでに完全に回収されていることを悟ったとき、証拠を残さないように周到に動いているその冷徹さに、より怒りが込み上げるばかりだった。
けれど今はセラに危害が及んでいない。
小さな規則正しい寝息を聞けば、張りつめていたものがほどけて、深く息を吐き出してしまった。
その寝顔に名残惜しさを覚えながらも、僕は背を向けて近衛騎士の詰所へと戻った。
そして翌朝。
少しでも侍女の動きを確かめようと、いつもより早くセラの部屋の近くに立っていた。
でも今日は誰も部屋を行き来する様子がないから、そのことが胸に小さな不安を芽生えさせた。
やがて迎えの時間が近づき、僕は扉を二度ノックする。
すぐに足音が近づくのが聞こえ、制服に着替えたセラが笑顔で出迎えてくれると疑いもせずに待っていた。
でも開いた扉から響いたのは、低く苛立った声音。
「だから、俺達はまだ休むって言ってるだろ」
扉を押し開けたのは、上半身に何も身につけていない王太子だった。
言葉を失い、僕はただその姿を見つめた。
王太子も一度目を見開き、すぐに冷ややかな笑みを浮かべて僕を見た。
「なんだ、沖田か」
「殿下、なぜここに……」
「昨日帰ってきたんだ。久しぶりにセラと会えたから、そのまま一緒にいただけだけど?」
当たり前のように放たれる言葉。
腹の底から煮えたぎる怒りを押し殺そうと必死だった。
でも何よりも胸を抉ったのは、王太子が纏う裸身の現実。
そして視界の端に映ってしまった、床に落ちた夜着。
それは昨日、セラが身につけていたはずのものだった。
その一枚が意味することを否定できなくて、血が沸騰するような感覚が全身を駆け巡る。
気付けば僕は王太子を押し退け、部屋の中へと足を踏み入れていた。
「おい、沖田!なに勝手に入ってるんだ……!」
叱責の声など耳に入らず、真っ直ぐに進んだ先のベッドの上で眠るセラの姿を捉えた。
けれど身につけているのはレース素材のシフトドレス一枚。
腕も脚も胸元も、無防備に晒されている。
そして僕の視界が捉えたのは、白い肌に散る赤い痕。
首に、肩に、胸元に……支配を刻むように浮かぶそれらが、僕の心臓を締めつけ、怒りで視界が赤く染まっていった。
「おい……!聞こえないのか!」
背後から肩を掴まれた時には、反射的に腰の剣を抜いていた。
冷たい光が王太子をかすめ、王太子は目を見開き一歩下がる。
「……まさかこの子に何かしたんですか?」
抑え込んだ声の低さは、自分でも驚くほど震えていた。
けれど王太子は怯むどころか、挑発するように口の端を上げた。
「何かって?」
「まだ婚前ですよね。それなのにセラに何をしたんですかって聞いてるんですよ」
「俺が答えたとして、真実かどうかわからないのに沖田はそれを信じるの?」
その問いに僕が押し黙っていると、王太子は瞳を細めて僕を睨みつけた。
「こんなものは無駄なやり取りだ。それに俺がセラとどんな関係になろうと、お前にとやかく言う権利はないだろ」
「僕は言った筈ですよ。セラを悲しませる奴は許さないって」
「それなら何も問題はない。昨夜はセラの方が俺を必要としてくれたんだ。可愛かったよ、甘えてくるセラは」
剣を握る手に力が入り、骨が軋む音がした。
僕が今にも斬りかかりそうになるのを寸前のところで留めていると、王太子の眼に宿る色が変わった。
そして王太子もゆっくり剣を抜き、僕を見据えた。
「斬りたいなら斬ればいい。でも俺だって伊達に剣術をやってないからね、お前を殺すかもしれないよ」
「僕はそう簡単に殺されませんよ。いくら殿下が相手でも容赦はしませんから」
「だろうね。まあ、一度本気でやり合ってみるのも悪くないか。お前……邪魔だしね」
突き刺すように向けられた瞳。
その奥に見えたのは明らかな嫉妬と憎悪だった。
前の世界でも確かに感じた、あの感情と同じ。
僕とセラの関係を知ったからこその反応に見えてならなかった。
「昨日はセラの様子が相当おかしかった筈です。弱ってるこの子に付け入って、恥ずかしくないんですか?」
「それはお前だよ、沖田。お前はちゃんと身の程をわきまえている奴だと思ってたけど、実際はただの盛りのついた雄犬じゃないか」
「……誰が盛ってるって言うんです?」
「……お前だよ。セラに手を出してただろ。俺の……婚約者に……!」
王太子の瞳に燃える怒りが溢れた瞬間、剣が勢いよく振り下ろされた。
火花を散らしてぶつかる二つの刃。
互いに全力で押し合い、どちらも一歩も退かなかった。
そして二度目に振り下ろされる剣を受け止めた時、重い衝撃が腕に響いた。
でもここで反撃して王太子に刃を向ければ、その時点で僕は完全に反逆者になる。
それこそがこいつの狙いかもしれないと、冷静に思考の一部で考えていた。
だから、受け流すだけで決して僕からは攻撃はしなかった。
何度か剣をはじき返すたび、王太子の苛立ちが増していくのが見てとれたけど、やがて舌打ちとともに彼は剣をおさめた。
「いけすかない奴だね。いっそ少しでも俺を斬りつけてくれれば良かったものを」
その声音には、挑発というよりは自分の苛立ちをぶつける色が濃く滲んでいた。
そしてそれは僕も同様だったけど、今は僕自身の感情を優先させるべきじゃない。
セラの身体が何よりも気がかりだった。
だからこそ感情を押さえ込んで剣を鞘に戻すと、正面から殿下を見据え、深く頭を垂れた。
「先ほどは取り乱し、無礼を働きました。殿下に刃を向けるような真似をしたこと、騎士として深くお詫び申し上げます」
この場を収めるために必要な言葉を選んだだけの僕を見て、王太子は鼻で笑った。
「そんな謝罪で誤魔化されると思う?お前がセラに何をしたか……それが公になればお前の立場なんて一瞬で崩れるよ」
殿下の瞳は嘲るように細められていたけど、その奥にあるのは憤りだけじゃない。
セラを巡る何かしらの痛みが滲んでいた。
「では僕がセラに何をしたって言うんです?それこそ証拠もありませんし、殿下がなぜ僕達の関係を疑っているのかわかりません」
声は静かに、できるだけ平坦に。
でも内心では、先程の王太子の話が頭を過ぎっていた。
もし殿下の言う通りなら、セラは僕だと思い込んで、王太子と過ごしてしまったのだろう。
それを知る殿下の矜持が、どれほど傷ついたかは想像に難くない。
だから殿下は僕を睨んでいた。
けれど自尊心の高いこいつが、自分が僕の代わりだったなんて易々と口にするとは思えない。
だからこそ沈黙の隙を逃さず、僕は重要な話へと踏み込んだ。
「殿下に大切なお話があります。殿下もこの子の様子がどこか変だと、お気づきですよね」
王太子は眉根を寄せしばらく僕を睨んでいたけど、やがてため息をつき、静かに視線をセラの寝台へと移した。
そして彼女の傍に腰掛けると、眠る横顔を見つめながら声を落とした。
「……ああ。でも、どこか変どころじゃない。昨晩、十二時過ぎにセラは外にいたんだよ。裸足で、しかも泣きながらね」
その言葉に息が詰まった。
まさか僕がここに様子を見に来た後、そんな状態になっていたなんて考えてもみなかった。
「お前を探してるみたいだった。この部屋も自分の部屋じゃないと言ってたし、ここが王宮であることすらわかってないみたいだったね」
その声音は苛立ちよりも、深い困惑と痛みに染まっていた。
これは僕とセラの関係を責める以前の問題だと、王太子自身も気づいているのだろう。
「沖田、お前……そこの紅茶、飲んでみてくれる?」
「紅茶……ですか?」
王太子の目線の先には、テーブルに乗ったティーポットとカップがある。
カップに残っていた紅茶を眺めて、僕は再び王太子に視線を戻した。
「まさか毒入りですか?」
「疑うなら飲まなくても別に構わないよ。セラのことがどうでもいいなら、紅茶を飲まずにこの部屋から出ていけばいい」
その言葉を聞いてしまえば、僕の中で逡巡する余地はなかった。
気付けば迷わずカップを掴み、そのまま口に運んでいた。
舌に触れた瞬間から、強烈な違和感が走った。
苦味とも甘味ともつかない、舌を痺れさせるような妙な感触。
喉を通り抜けると同時に胃の奥がひどくざわつき、反射的に咳き込みそうになる。
胸の内側で脈打つ鼓動は乱れ、呼吸の通り道がひどく狭く感じた。
身体が拒絶している、そうはっきりとわかる不快感だった。
「……うっ……」
舌に残る異様な後味が、身体の奥からこみ上げてくる吐き気と重なり合う。
胃が灼けるように熱を帯び、呼吸が不自然に詰まってしまう。
これはまともな飲み物ではないと本能が告げているようだった。
「お前、まさか本当に飲んだの?俺は昨日、口に入れてすぐ吐き出したけど」
王太子の声音には呆れよりも、僅かな憐憫すら滲んでいた。
「……なんなんですか、これは……」
自分の声が震え、掠れているのがわかった。
ただの紅茶ではない。
わかっていてもなお、セラのためならと身体を突き動かされて飲んでしまった。
「さあ、なんなんだろうね。でもセラは昨晩、これを平気な顔して飲んでたよ」
その一言で、心臓を握り潰されるような衝撃が走った。
セラがこんなものを日常のように口にしていたと知り、冷たい汗が背筋をつたうのがわかった。
「いつもこんなものを飲んでるのかって聞いたら、そうだと言っていた。でもこれは明らかに普通のものじゃない」
王太子は立ち上がり、彼女の学院の鞄に手を伸ばす。
ゆっくりと水筒を取り出すと、僕の前に差し出してきた。
「気になって、さっきこいつの鞄の中を少し見させてもらったんだ。そうしたらこの水筒の中にも同じものが入っていた」
「……これは昨日、セラが飲んでいた……」
震えた手でそれを受け取り中を見れば、先程のものと同じ香りが漂ってくる。
そしてその香りはここ最近では嗅ぎ慣れてしまったセラの髪についた甘い香りとよく似ていた。
「俺が言いたいのはね、沖田」
静かな響きに胸の奥がざわついた時には、王太子の指が僕の胸ぐらを荒々しく掴んでいた。
「どうしてお前は何も気づかなかったんだ……!」
「……っ」
「俺が城を空ける間、セラのことを頼んだだろ……!気にかけてやれって、何度も言ったはずだ!」
その剣幕に押され、息が詰まる。
睨み据えるその瞳から痛いほど伝わってきたのは、セラを案じるあまりの必死さだった。
彼女を失うかもしれない恐怖と、取り返しのつかない悔恨。
その感情が王太子の言葉に乗って、まるごと僕に叩きつけられているような感覚だった。
喉の奥が詰まり、言葉にならない。
何より苦しいのは、王太子の怒りが正しいとわかってしまうことだ。
この一ヶ月、僕はセラの異変に気づきながらもその原因をつきとめることができなかった。
護ると誓ったのに、ただ隣で見過ごしてしまっていた自分の不甲斐なさに奥歯を噛み締めることしか出来なかった。
「申し訳ありません。全て僕の力不足が招いた結果です」
「お前ならセラを護れると思ってここに呼んだのに、期待外れだったよ。てんで駄目じゃないか」
胸の奥が酷く痛む。
言い返す言葉なんて何もなかったけど、僕は事実を伝えるため口を開いた。
「セラの様子は少し前からおかしかったんです。明らかに思考が鈍っていて、情緒も不安定で。原因を探したくても、この子に何が起きているのか、昨日まで僕には何一つわからなかったんですよ」
「昨日まで?今日までだろ」
吐き捨てるような声音。
胸ぐらを掴んでいた手が離され、王太子は再び寝台へと腰を下ろした。
「確かにこの紅茶のことは僕も今知りました。ですがセラの様子がおかしいのは、この紅茶のせいだけじゃないと思うんですよ」
「まだ何かあるっていうのか?」
「殿下は令嬢たちの間で流行しているお香をご存知ですか?」
「お香?……ああ、模造品がどうとかいう、あれか」
「はい。セラはそのお香を使っていた可能性が高いです」
「は?」
王太子の動きが止まり、信じられないというように部屋を見回した。
「でも、この部屋にそんなものは見当たらない。それに俺が城を空ける前、ここに来た時にもお香の匂いなんてしなかったけど」
「セラが言うには、そのお香を使い始めたのは殿下が城を空けた日の夜からだそうです」
「……今は?沖田がそれを知ってるなら、もう使ってないんだよね」
信じたくはないと言うような王太子の視線から目を逸らし、僕は再び真実を伝えた。
「僕が気付いたのは昨日です。セラは殿下がご不在の一ヶ月近く、眠る間ずっとそのお香を焚いていたと」
「……っ、馬鹿な……!あの模造品には強い麻薬成分が混じっていると、今まさに問題視されているんだぞ。そんなものを一ヶ月も焚き続けていたら、身体が蝕まれるに決まっているじゃないか!」
「僕もそう思ったので、昨日証拠を回収しようとしたんですよ。でもセラは、もう返したから手元にないと言ったんです」
「返した……?セラは自分でそのお香を買ったわけじゃないのか?」
「買い物なら必ず僕が付き添っていますけど、セラがお香を買ったことなんて一度もありませんよ」
「じゃあ……誰が……」
王太子は僕を見たまま言葉を途切れさせ、彼を真っ直ぐ見据える僕を見た。
そして無言のままでいる僕の様子から何かを感じ取ったかのように、その表情はみるみる青ざめていく。
「……まさか……千鶴が……?」
王太子がその名を口にした時、僕の胸の奥が冷たく波打った。
あっさりと、しかも疑念を確信に近い響きで口にする様子をみると、王太子から見てもあの王女は悪魔のような女だということだろう。
「王女殿下が、殿下ご不在の折にセラへ勧めたそうです。そして……殿下は匂いの強いものが苦手だからと、昨日の朝になって返すようにと」
「それは……セラがそう言ったのか……?」
「はい、昨日セラから直接聞いたことですよ。僕もそのお香を見たわけではないので、昨日の時点ではそのお香が体調不良の原因かどうかは半信半疑だったんです。でも……ようやく確信に変わりました。この数週間、セラからはいつもと違う甘い香りがしていたんですけど……そこの紅茶と同じ香りでしたからね」
「……セラは香と紅茶の両方から……麻薬を摂取していたっていうことなのか?」
王太子の瞳が大きく揺れる。
その言葉に僕の胸も軋むみ、声がかすかに強張るのを自分で感じた。
「セラには、このことはまだ話していません。今のこの子に告げるのは、あまりにも危ういと思ったので様子を見ようと思っていました」
沈黙の中、王太子の肩が小さく震えた。
その眉がぎゅっと吊り上がったかと思うと、そのまま勢いよく立ち上がり、空気が一瞬で張り詰めた。
「……千鶴に直接確かめる」
「殿下、待ってください。証拠がないのに動いても意味がないですって」
「でもセラがそう言ってたんだろ?それが証拠じゃないか!」
視線が僕に突き刺さり、焦燥を押し殺したような声が返ってくる。
どうにかしなければという一心が入り混じった声に、僕は言葉に重みを乗せて応じた。
「セラが正常な状態なら、そうですけどね。でも今のこの子は不安定なんです。支離滅裂なことを言っていると……そう受け取られたら、逆にこの子の立場が危うくなる。殿下だってそれは望まないことですよね」
言葉を飲み込んだ王太子は、悔しさを噛み殺すように歯を食いしばった。
そのまま頭を抱え、荒々しく髪をかき乱す。
「……じゃあ……どうしたらいいんだ……!」
彼の声には、王太子としての威厳よりも、一人の人間としての叫びが滲んでいた。
この一ヶ月の間、王太子がルヴァンを離れ、公務や調査で心身を削られてきたことを僕は知っている。
それでも王太子の中で一番重く占めているのは、目の前で眠るセラのことなんだろう。
その切実さが痛いほど伝わってくるからこそ、僕の心中も重苦しく歪んでいくようだった。
「一人、様子が気になる侍女がいるんですよ。その侍女に証言をさせられるよう、僕が動きます」
「……お前が?」
「殿下はこの紅茶について調べていただけませんか?それと、この子を医師に診せてください」
王太子の瞳が鋭く僕を射抜いた。
その目は疑いではなく、ただ真剣に考えている証だった。
暫くの沈黙ののち、彼は深く息を吐き真摯に頷いた。
「わかった。紅茶のことは任せてくれ。ただ医師は王宮お抱えの者だと周囲に気づかれる危険がある。俺個人の依頼として動かす必要があるな」
王太子の視線は、ベッドで眠るセラに向けられた。
そこに浮かんだ真剣な表情を見るたびに、王太子の想いが分かってしまうからこそ、僕は胸の奥を掻きむしられる。
僕と同じように王太子もまたセラのすべてを護ろうとしているのであれば、心強くもあり厄介でもあった。
「どうかセラの立場を危うくしないためにも慎重にお願いします。セラは殿下にとって護るべき存在のはずですから」
王太子は短く頷いた。
それが同意なのか、それとも別の想いを飲み込んだのかはわからない。
でも漆黒の瞳に宿る色を見れば、セラを巡っていつか避けられない瞬間が来るということを痛感せざるを得なかった。
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