9
寝台の上で静かに眠っていたセラが、小さく身動ぎした。
僕と王太子が彼女の名を呼べば、その声に導かれるようにセラの長い睫毛が震えゆっくりと瞳が開く。
一度、何も映していないような曖昧な眼差しが揺れたかと思うと、セラは僕に気付くなり愛らしく微笑んだ。
『総司、おはよう。朝ごはん、食べに行こう?』
まるで公爵邸にいた頃のセラのようだった。
王宮に入ってから見せる思いつめた顔ではなく、何の翳りもないただ幸せそうに微笑む姿。
懐かしく感じてしまうその様子に胸の奥が締め付けられ、息をするのが苦しくなる。
そしてその笑顔に、隣の王太子の瞳が大きく揺れるのがわかった。
『どうしたの?行かないの?お父様と山南さんも、きっと待ってるよ』
そう言いながら、セラはまだ重い身体を引きずるようにして、寝台から立ち上がろうとした。
でもセラの細い身体がふらりと揺らぎ、そのまま倒れ込みそうになる。
先に支えた王太子の腕の中で、セラはようやくその存在に気づいたように瞳を見開いた。
『……薫様?どうしてこちらに……?』
「セラ……」
王太子の声には深く、抑え込んだ感情が滲んでいた。
「……お前、昨日のことも何も覚えてないのか?」
きょとんと首を傾げるセラに、殿下は必死に言葉を投げかける。
「昨日は俺と一緒にいたじゃないか。公務も全部片付けて、ようやく城に戻ってきたんだよ。今日から少し休暇だってもらえた。俺が戻ってくるのを待っててって……お前に言ったよね」
その言葉は真剣そのものだった。
でもセラは苦しそうに瞳を細め、答える代わりに小さく首を横に振る。
「……お前は俺と婚約したんだよ。それはわかるよね?」
『こん……やく……?』
「王宮で妃教育を受けてくれているだろ?指導係達がお前を褒めてるって、前に話したじゃないか」
セラの肩が震え、瞳が潤み、僕の胸の奥で冷たい焦りが膨れ上がった。
僕は思わず殿下と彼女の間に割って入り、声を上げていた。
「殿下、今はセラを刺激しないでください」
「刺激してるわけじゃない。話を聞くためにもセラには状況を理解してもらう必要があると思っているだけだ」
「セラは今、思い出そうとするだけで苦しんでいるんですよ。殿下の言葉はこの子を追い詰めるだけだと思うんですけど」
「追い詰める?そうやって文句つけて、沖田は俺とセラの邪魔をしたいだけだろ?」
「違いますって。こんな時に何を言ってるんですか」
「ここに来てからセラは俺に余所余所しくなった。それだってそうなるようにお前が仕向けたからだろ……!」
僕の言葉に眉を顰めると、王太子の瞳が怒りで揺れる。
「今回のことだって、俺はただセラを支えようとしているだけだ。忘れても、壊れても……俺がそばにいれば大丈夫だって、ただ安心させてやりたいだけだ!」
「それでセラが安心できるって本当に思ってるんですか……!?」
喉の奥が焼けるように熱くて、声を抑えられなかった。
「殿下はただ、自分の気持ちをぶつけてるだけじゃないですか……!」
「ならお前はどうだ、沖田!お前だってセラを手放す気なんてないだろ!結局は俺と同じじゃないか!」
「僕は……っ」
言い返そうとしたその時だった。
セラは寝台に座ったまま、苦しそうに顔を歪めて泣き始める。
それは僕達が言い争いをしていることに対してというよりかは、声を荒げた僕達に怯えているようにすら見えた。
「セラ、ごめん……」
「……怒鳴って悪かった、泣くなよ」
セラのことが心配でたまらない。
その想いから彼女の髪を撫でようと手を伸ばした時だった。
『……うっ……』
セラが手のひらで口元を覆い、その顔を歪ませる。
そして小さく声を漏らしながらも、苦しそうにベッドの下に吐き出してしまったから、僕も王太子も目を見開いて固まった
「セラ……!」
「大丈夫か、セラ!」
焦燥が胸を締め付け、手のひらで口元を覆ったまま肩を震わせるセラの姿に心臓が凍るようだった。
『ご、ごめんなさい……汚いことして……ごめんなさい……』
「大丈夫だよ、汚くなんかないから」
「そうだ、謝ることなんかじゃない。何も気にしなくていいんだ」
途切れ途切れに泣きながら何度も繰り返される謝罪の言葉を聞きながら、僕ら二人は言葉を重ね、必死に彼女を慰めた。
僕はそっと懐からハンカチを取り出し、濡れた頬の涙を拭う。
続けて口元も優しく拭ってみても、セラは小さく肩を震わせて泣くばかりだった。
吐き出されたものを目にした瞬間、僕の胸の奥が強く締めつけられる。
固形物は何もなく、ただ紅茶のような液体がほんの少しだけ。
セラがほとんど食事すら取れていなかったことを示す何よりの証拠だった。
こんなに小さな身体がここまで脅かされていたのかと思うと、冷静さを保つのが難しくなる。
その傍らで王太子は何も言わず、近くにあったタオルを取り上げ、床に落ちた液体を丁寧に拭き取り始める。
自らの立場を取り払った行動の中に、セラへの深い思いが滲んでいることを僕は否応なく感じ取った。
「ほら、もう大丈夫だ。何も気にしなくていい」
王太子が顔を上げ、柔らかな笑みをセラに向ける。
セラは震えながらもそっと顔を上げると、小さな声で礼を告げた。
『……ありがとう……ございます……』
セラがそう言った時、今度は鼻からつーっと血が滲み落ち、ぽたぽたとシフトドレスに赤い染みを作る。
その様子に僕も王太子も一度言葉を失い、体を固くして放心してしまった。
「セラ……、平気か……?」
「これで押さえて……まだ横になってた方がいいよ」
セラを寝台に寝かせ、顔についた血を拭う。
どこかぼんやりと焦点の合わない瞳が左右に揺れて、彼女の手は天井へとそっと伸ばされた。
『あれ……?こんなところにお花が咲いている……綺麗……』
セラの指先は空を掴むように宙を揺れて、何かを掴もうと動いている。
その儚げな姿がどれほどセラの身体が限界を超えているかを嫌でも突きつけてきているようで。
無理をして耐えてきたすべてが、一気に表に出たように感じてしまった。
「セラ……」
隣で殿下が低く息を呑む気配がして、いつも揺るがない声音のはずが、今は明らかに困惑しているようだった。
「……沖田……医者を……今すぐ医者を手配する……!」
「適任な医者はいるんですか?王宮付きの医師を呼べば全て露見します。ここで騒ぎにすればセラは……」
麻薬の影響だと知れ渡れば、セラの立場は一瞬で崩れる。
アストリアの公爵令嬢であり、未来の妃候補でもあるセラの名誉は二度と戻らない。
殿下だってそれは理解しているはずだ。
「わかってる。俺だってセラのことを誰よりも護りたいんだ。でもこのまま放っておけば命に関わるだろ」
言葉が途切れ、喉の奥が焼けつく。
彼女の細い体が小刻みに震えているのを見るたび、どうしてこんなことになったんだと、自分の無力さに押し潰されそうになる。
王太子は一瞬だけ僕を鋭く睨みつけ、それから苦しげに息を吐いた。
「俺の信頼できる医師を呼ぶ。王宮内に属していない者だ。俺の指示で個人的に動いてもらえば、ここの者たちに知られることはない」
「……そんな医師が殿下の周りに?」
「いる。昔からの知己だ。そいつなら宮廷の目からは逃れられる」
殿下の声音に迷いはなかった。
必死に絞り出した策なのだろう、僕はその目を見つめ短く頷いた。
「お願いします」
殿下はすぐに寝台に近寄り、セラの髪をそっと撫でた。
「セラ、大丈夫だ。すぐに医者を呼ぶからね」
その言葉を聞いて、セラのまつ毛が揺れる。
「ありがとうございます」というセラのか細い声を聞いた王太子は、僕に短く命じた。
「沖田、セラのことはお前が見ててくれ。誰が来てもこの部屋には絶対入れるな。いいね」
「承知しました。医師に診せるのであれば、セラには今の状況を様子を見て話しておきます」
「……ああ、そうしてくれ」
殿下はそれ以上何も言わず、足早に扉へ向かう。
その背中から伝わる焦燥と苛立ち、そして切実な想いが僕の胸をさらに締め付けていった。
扉が閉じられれば、部屋に再び静寂が戻る。
僕は寝台に腰掛け、セラの冷たい手を両手で包み込んだ。
「大丈夫だよ。絶対に君をひとりにはしないから」
ただその指先が落ちてしまわないように、僕は必死に手を握りしめる。
するとセラの視線が僕に向けられて、それはすぐに潤みだした。
『わたしね……』
「うん……?」
『最近……おかしいの……。身体がうまく……言うことを聞いてくれないみたいで……』
目尻から涙がこぼれ、悲しそうに歪む顔を見ているのが辛い。
でも弱音を吐くことを好まないセラがこうして僕に素直に言葉をぶつけてきてくれることは、安堵できることでもあった。
『……頑張らないとって思うのに……どんどん何も……できなくなっていくの……』
涙に滲んだ声でそう告げたセラの肩が、弱々しく震えていた。
僕はその肩に手を置き、ゆっくりと撫でながら息を整える。
「不安にならなくても大丈夫だよ。君が頑張ってること、僕はちゃんと知ってるから」
『……でも……このままだと……総司やみんなに……迷惑ばかりかけちゃう……』
「君は僕に迷惑なんて一度だってかけてないよ。それに今、セラの身体がおかしいのは君のせいじゃないんだよ」
僕は彼女の手をもう一度強く包み込み、声を落とした。
「実は……ここで出されたお香や紅茶に、強い薬が混ざっていたんだ。麻薬に近い成分が、少しずつ君の身体に入ってしまってたんだよ」
セラの瞳が大きく見開かれ、動揺が見て取れる程揺れていた。
『……麻薬……?』
「うん……。だから、身体が思うように動かなくなったり、記憶が曖昧になったり……涙が止まらなくなったりするんだよ。全部、君の弱さじゃなくてその薬のせいなんだ」
僕が言葉を繋ぐたび、彼女の顔に浮かぶ不安と戸惑いが増していく。
その表情を見ると辛くなるけど、これから医師に診てもらうのであればセラにも自分の状況を理解してもらうべきだ。
正しく診断してもらうためにも、伝えた言葉だった。
『……じゃあ……わたし……もう……元には戻れないの……?』
小さな声でそう問われ、胸がきつく締めつけられた。
僕は首を振り、真っ直ぐにセラを見つめる。
「戻れるよ。君の身体はまだ取り戻せる。だから、何も心配しないで」
『……ほんと……?』
「本当だよ。僕が絶対にセラを護る。君をこんなふうにした奴らから、必ず遠ざけるから」
その言葉に、セラの目尻からまた一粒涙がこぼれ落ちる。
僕はそれを指でそっと拭い取り、続けた。
「だからね、辛いときは辛いって言って。気持ち悪いときも、息が苦しいときも、僕に隠さなくていいんだよ」
『……でも……総司に頼ってばかりいたら……私もっと……弱くなっちゃいそうで……』
「僕は嬉しいよ」
言葉を遮って、即座に答えた。
「君が僕にだけ弱さを見せてくれるなら、それは僕にとって誰よりも信じてもらえてる証拠だって思えるんだ。それに辛い時くらい、弱くなったっていいじゃない」
セラの瞳が揺れ、涙を抱えたまま僕を見つめ返す。
僕はその視線から逃げずに、ゆっくりと笑みを浮かべた。
「だからね今の君の全部を、僕に預けて」
セラの指先が、震えながらも僕の手をきゅっと握り返した。
『……総司……ありがとう……』
「君のことは僕が護るよ」
その言葉を胸の奥で何度も繰り返しながら、僕はセラの冷たい手をさらに強く抱きしめた。
これ以上この子が傷つくことのないように、ここからは僕が護りたい。
この世界でこそセラにはずっと笑っていてほしいと思った。
それからしばらくして、王太子が扉を押し開け、静かな足音で部屋へ戻ってきた。
その背後に続いたのは、品のある外套を纏った青年が一人。
手には革の鞄を提げていて、深く一礼をしたその男の眼差しは澄み、落ち着きがあるように見えた。
「こいつはアントワーヌ・ルフェーブル。王宮の医師じゃないが、腕は確かだ。余計な口を利くこともないよ」
『薫様、ありがとうございます。先生、どうぞよろしくお願いいたします』
「お任せください。セラ様の容体、詳しく拝見いたします」
その医師は深く礼をして、寝台へ近づく。
そしてわかる範囲でセラの症状を伝えようと、僕は口を開いた。
「一ヶ月程前から、少しずつ様子が気になってたんです。特にここ数日は、普段のこの子らしくない振る舞いが増えていました。情緒が不安定で、泣いたり笑ったりが急で、考える力も落ちてきているように思います。記憶も途切れることが増えてきて……今朝は一度吐きました。それに鼻血も。それに、たまに幻覚が見えるそうです」
「……さようですか。セラ様、ご自身ではどの症状が一番辛いですか」
『胸が苦しくて……頭が霞んでしまいます。酷い眩暈と……目の奥が痛くて……すぐに疲れてしまうのです』
医者は一度頷くと、セラの脈を測り瞳孔を確かめていた。
「脈は速めですが、不整はありません。セラ様、吐き気は今もございますか?」
『……いえ、朝だけでした』
「鼻血は?」
『少し……ですが、もう止まっています』
灯りを傾け、鼻腔を覗いたアントワーヌが小さく息をついた。
「粘膜に出血の跡が残っていますね。強い刺激物、もしくは薬物の影響が疑われます」
「やはりそうか」
王太子は瞳を細めると、カップに入った紅茶を医師へと差し出す。
彼はその香りを確かめると、一つ小さくため息をこぼした。
「……セラ様の身体の不調は、この紅茶に仕込まれていた薬のせいで間違いないでしょう。症状から見て、神経系を侵す強力な薬物です。意識の混濁、感情の不安定、吐き気、出血……いずれも説明がつきます。今の段階で命に直結する危険は高くありませんが、蓄積されれば衰弱が進みます」
「解毒は可能なんですか?」
「完全に排出するには、多少時間がかかります。ですが投与を止め、体力を回復させる処置をすれば快方に向かうでしょう」
『……本当に治りますか……?』
セラが震える声で尋ねると、医師は即座に頷いた。
「ええ、必ず。ご安心ください。ただ急を要する状態ではございませんが、決して軽くもないというのが現状です。なので、今すぐにでも薬の摂取を完全に絶たせること。そして解毒のための煎じ薬を与え、少なくとも三ヶ月は療養が必要です。その間は精神の安定を保つため、外部との接触や、精神に刺激を与える行為は極力避けてください。幻覚や情緒の揺れはしばらく続くかもしれませんが、長い目で見てゆっくり治療していきましょう」
「セラ、お前は何も心配する必要はない。俺たちがいるし、一緒に治していこう」
『ありがとうございます、よろしくお願いいたします』
涙目でそう言ったセラは、ほっと息を吐き出している。
その様子や医師の診断を受けられたことに、僕も少なからず安堵できた。
「わかっていると思うが、ここで見聞きしたことはすべて伏せてくれ。宮中の者達に知られれば、噂は瞬く間に広がる。セラの身も、公爵家の立場も危うくなる。だから治療はすべて内密に進めてくれ」
「かしこまりました。お約束は必ずやお守りします。今宵はまず吐き気を鎮め、深く眠れるように処方いたしましょう。体力の消耗が甚だしいので、数日は安静を。徐々に体内の毒素を抜いていきます」
『はい、ありがとうございます』
「投与する薬の副作用で恐らく眠くなると思いますが、体力回復のためにも眠い時は寝てください。それと先程もお伝えしましたが、何よりも大事なのは、感情や環境に強い刺激を与えないことです。安らかな環境を整えることが、何よりも薬になります。なのでそれについては殿下やそちらの方にもご協力いただければと」
医師の言葉に僕と王太子が頷くと、セラは僕を見つめてかすかに微笑んだ。
「大丈夫だよ、セラ。必ず元に戻れる。僕も殿下も傍にいるから」
『うん、ありがとう……。早く元気になれるように頑張るね』
医師に薬を処方してもらうと、セラはそれらを服用し眠りについた。
医師が明朝また来ると行って去って行くと、僕と王太子の間には長い沈黙が流れた。
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