10
部屋の中、セラは深い眠りに沈んでいて、寝息がかすかに聞こえる。
その傍らに座り、ただその呼吸を確かめていると、先に沈黙を破ったのは王太子だった。
「今日からしばらくは、侍女の立ち入りを禁止にする。セラの容態が安定するまで、俺と沖田でセラを診るしかないな」
思いがけない言葉に、わずかに眉が動いた。
てっきり、僕はこの場に不要だと言うものと思っていたのに。
でも城内でセラの身が脅かされた以上、侍女に任せておけないのは確かだ。
王太子の苦虫を噛み潰したような表情は、その決断が彼にとっていかに不本意かを物語っていた。
「僕は、セラが回復するまで公爵邸に戻るべきだと考えています」
その言葉を聞いて、王太子の眉がぴくりと跳ねた。
「お前……それ本気で言ってるの?」
「今回の件は僕とセラだけで判断してはならないことだと思っています。近藤さんにはこのことを報告するつもりですし、そうなれば近藤さんだってこの子をこのまま王宮に置いておくことには反対される筈ですから」
王太子は沈黙したまま、じっと僕を見据えていた。
その視線は鋭く、けれど一歩も退けない頑固さと、セラを案じる強い執念が合わさっていた。
でも、僕もまた視線を逸らさなかった。
セラを護る方法を巡って、互いに譲れない思いがある。
ただ一つ確かなのはどちらも彼女を手放すつもりはないということだけだった。
「近藤公に報告するということは、国王陛下と王妃も知ることとなる。それがどういうことか、沖田はわかって言ってるのか?」
小馬鹿にしたような声音だった。
「元よりそのつもりですよ。今回の件は王女殿下が犯した罪です。王族であろうと罪は償っていただかないと、僕は納得できません」
「確かに、俺だって千鶴を許してはいないさ。証拠を集めて、いずれきちんと話をするつもりだ。ただ……この件を陛下に報告するのは賢明とは思えないけどね」
「……つまり、裁くつもりはないと?」
思わず目を細める。
前の世界で嫌というほど見せられた、この王宮の醜さが脳裏に甦る。
臭いものには蓋をし、きらびやかな表層だけを取り繕う。
守られた立場にいるからと、人を傷つけても痛みを知らない奴ら。
あの頃と同じ匂いが、この男からも漂っている気がした。
「勘違いするなよ。俺は本気で怒っている。何のお咎めもなく済ませるつもりはないよ。ただ、俺のやり方でやる。セラを護るためにも、千鶴には思い知らせなければならない。俺のものに手を出せばどうなるか、ということをね」
その視線が僕に向けられる。
含みのある言葉は、嫌でも僕自身をも指していることを告げていた。
「殿下が王女殿下を裁くことに異を唱えるつもりはありません。ただ、僕は正式な手段で罪を償わせたいと思っているだけです」
「正式な手段、ね。それは何のためだ?どうせ近藤公に報告して、この婚約を白紙に戻したいだけなんだろ」
「否定はしません。セラがここに来て、心も身体も傷つけられたのは事実ですから」
「……なるほどね」
王太子の笑みは薄く、その奥にかすかな苛立ちを滲ませていた。
「確かに、千鶴を阻止できなかった俺にも責任はある。でも実際俺は、王宮を留守にしていた。それにセラのことは沖田に任せていたつもりだったんだけどね。今回の件は、沖田の責任でもあるんじゃないの?」
痛い言葉だった。
王太子の言う通り、あの子の傍にいながら、異変を見抜けなかったのは僕自身の落ち度だ。
「はい。セラの体調不良の原因を、僕がすぐに突き止められなかったのは事実です。僕の力不足ですよ」
言葉にしてしまえば、その重みが喉を焼くように苦しかった。
この手で護れなかった悔しさは、誰よりも僕が一番よく知っている。
だからこそ、ここで諦めるわけにはいかない。
またこの場所でセラが傷つくのを指を咥えて見ているなんて、到底できるはずがなかった。
「だから、次は後悔しないように動きます。セラを公爵邸に戻せるよう、僕は必ず動いてみせます」
強く言い切ったけど、返ってきたのは冷ややかな視線だった。
王太子は呆れを隠そうともしない顔つきで、まるで子供に諭すように僕を見下ろす。
「お前はやっぱり何もわかってないんだな、沖田。お前や近藤公が千鶴の罪を持ち出したところで、それがどうなると思う?国王陛下が素直に自分の娘に罰を与えるとでも思うのか?」
「それはどういう意味です?」
「民衆の前で堂々と命を奪ったなら話は別だろう。でも王宮の中で香や茶に薬が入っていたなんて、そんなものは言い逃れがいくらでもできる。知らなかったと千鶴が言えば、それで終わりだ」
「だからこそ、証拠を掴むと申し上げているんです。侍女の誰かは必ず関わっているはずですから」
「じゃあ、その侍女が口を割る前に消されたら?」
王太子の言葉に思わず目を見張った僕を見て、彼は薄く笑った。
まるで愚かさを嗤うかのように。
「ここは王宮だぞ。お前がいた生ぬるい公爵邸とは違う。絶対的な権力を持つこの場所で、お前みたいな一介の騎士が声を張り上げたところで何が変わる?」
「……つまり、国王に意義を申し立てても無駄だと」
「無駄どころか、セラが危なくなる」
その名前を出された瞬間、胸の奥で嫌な音がした。
心臓を握り潰されるみたいに、身体が一瞬で強張る。
「お前が真実を暴こうとすれば、国王はセラを切り捨てかねない。殺しはしないだろうが、自ら望んで薬に手を染めた令嬢に仕立て上げ、この王宮から追い出すことだってあり得る。そうなったらどうなるんだろうね」
「……っ……」
「社会的地位は失墜し、今まで積み重ねてきた努力も水の泡だ。婚約話どころか、セラを白い目で見る連中ばかりになる。王族を敵に回した女を、誰が好んで傍に置くだろうね」
「……それは、脅しですか?」
「脅しじゃない。現実に起こり得ることを言ってるだけだ。それともお前はセラを孤立させたいのか?その方が自分のものにできるとでも思ってるの?」
「そんなこと、考えるはずがないじゃないですか。僕はセラの幸せを一番に考えてます」
「なら余計な真似はするな。俺はセラを手放すつもりはないし、あいつが全てを失う姿なんて見たくない」
「そんなのはおかしいですよ。セラは何も悪くないじゃないですか」
「そうだね。だからこそ俺が護る。俺の言うことが信じられないなら好きにすればいい。ただしお前が余計なことをしようとすれば俺は必ず止める。他でもない、セラのためにね」
前の世界で、嫌でも味わった自分の無力さがまた胸を抉る。
納得できないことでも呑み込み、少しでも犠牲を減らすために心を削って生きるしかなかった、あの時と同じだ。
それでも僕が絶対に忘れてはいけないことは、自分の想いよりもまず、セラを護ること。
王家を敵に回すリスクを思えば、王太子の言葉はきっと正しい。
今僕達がいるのはそういう場所なのだと、この世界においても突きつけられた気がした。
「わかりました。その代わり二度とこんなことが起こらないよう、殿下が王女殿下に然るべき制裁を加えてくださるんですよね」
強気に口を切った僕に、王太子は短く目を細め、やがてゆっくりと頷いた。
「勿論そのつもりだ。信用できないなら、俺が千鶴に話をつけに行くとき、お前も同行すればいい」
「では、そうさせていただきます。念のためですが、今日のうちに侍女たちからも事情を聞くつもりでいます。もし証拠を掴めた場合、その者も同行させてもよろしいでしょうか」
「構わない。むしろ助かるよ。俺一人で千鶴とやり合うのは、正直時間と神経の無駄だからね」
吐き捨てるようにそう言って、王太子は机に片肘をつき、気怠そうに指先で額を押さえた。
こいつにとっては実の妹だろうに、そこに情を差し挟む素振りは一切ない。
むしろ自分の領分を乱す厄介者としてしか見ていないように映った。
「殿下がそう仰るのであれば、僕も覚悟を決めます。ただ一つだけ、約束してください」
「なんだ?」
「セラを何よりも優先して護っていただきたい。それが殿下のご意思だと、僕は信じていいんですよね」
短い沈黙ののち、王太子は薄く笑った。
「当然だろ。俺がここまで話してもまだ疑うなら、お前はよほど疑い深い男だな」
「疑い深くなったのは、この王宮で過ごした日々のせいかもしれませんね」
自嘲めいた言葉が零れた。
王太子は何も返さず、ただ面白そうに僕を一瞥する。
その視線には試すような冷たさと、どこか僕の心を見透かす色があった。
それでも今は退くしかない。
この場で剣を交えるよりも、セラの傍にいることを優先させるべきだろうと考える僕がいた。
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