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僕と王太子は王女の手駒である侍女を伴い、王女の部屋を訪れた。
戸を開けた先、視界に映ったのは予想していた剣呑な顔ではなく、優雅に茶器を傾けて微笑む王女の姿だった。
「薫、おかえりなさい。予定より随分早く戻ってきたのね」
涼やかな声色には一片の慌てすらない。
けれど王太子の険しい表情を見れば、王女がすでに話の内容を悟っていることは明らかな筈だった。
「ああ、昨晩戻ってきたんだ。帰りが早くて、千鶴には不都合だった?」
「あら、どうして?」
「昨晩、セラの部屋に用意されていた紅茶を俺も飲んだんだ。勿論、とても飲み込めるようなものじゃなかったけどね。あれは千鶴の仕業だろ?」
そう言って王太子は、僕が連れていた侍女の腕を荒々しく掴み、王女の前へ突き飛ばした。
「この侍女からすべて話は聞きましたよ。麻薬入りのお香と紅茶をセラに勧めたのは、王女殿下ですよね」
王女は一瞬だけ侍女を冷たく睨みつけると、ため息を吐き、口元に美しい弧を描いた。
「そうですけど?」
あまりにも平然とした言葉に、僕は耳を疑った。
証拠を積み重ねても、開き直るだけで済ませるつもりだとしたら完全に頭がおかしい。
「そうですけど、だって?お前、一体どういうつもりなんだ!セラは俺の婚約者だぞ!次期王太子妃にこんな真似をして、ただで済むと思うのか!」
「心外ね。私は薫のためを思ってしてあげたのに」
「俺のため?セラを傷つけることの何が俺のためになるって言うんだ!ふざけるな!」
怒りをぶつける王太子を前にしても、王女は涼しい顔を崩さない。
その姿に僕の胸には違和感が広がっていた。
罪を隠そうともしない王女の態度は、予想していたどんな反応とも違っていたからだ。
「セラさんも随分騙されやすいのね。模造品のお香にすら気付かないなんて。そんな方に未来の王妃が務まるのかしら」
「セラはまだ王宮に来たばかりだ。妃教育だって必死に頑張っている大切な時期だろ……!お前がその努力を踏みにじったんじゃないか!」
「でも、何も収穫がなかったわけではないでしょう?」
「は?収穫?」
「一ヶ月も麻薬漬けにされたら、正常な判断なんてできなくなって当然だもの。昨晩会ったのなら、薫もセラさんがを隠していることに気づいたのではないの?」
にっこりと微笑みながら、王女は僕に視線を流してくる。
その言葉や視線がただの虚勢ではないことを直感で理解したからこそ、僕の背中には冷たいものが這い上がった。
そして王太子も同じことを悟ったのだろう。
一瞬だけ瞳を揺らし、それは悔しげに細められた。
「何が言いたい」
「可哀想な薫。セラさんのために、ディラントの元大公子を排除して婚約まで取りつけたのに、肝心のセラさんの瞳には全く映してもらえていないんだもの」
「黙れ……!回りくどい言い方をするな!」
「もう気付いているんでしょう?それとも認めたくないのかしら。セラさんと総司さんの関係、薫だってもう薄々はわかっているわよね」
心臓が嫌な音を立てた。
どうして王女が僕とセラの決して人に悟られてはならない関係を知っているのか。
思い当たる節はないのに、鎌をかけているのではなく、確信を持っている色を宿しているように見えた。
「私が直接、薫に教えてあげても良かったのだけど……でも私の言葉だけだと、きっと薫は信じないでしょう?」
「だから、セラにあんなものを与え続けたのか」
「ええ。麻薬漬けになったセラさんがどう変わるのか、見てみたかったの。どうせ婚約を破棄する相手なのだから、そんな人がどうなっても薫だって気にしないと思って。それに薫も分かったでしょう?セラさんの本質を見て、がっかりしたのではないの?」
このままだとまずいことになる。
王太子が王家を欺いた罪を、セラに押し付けることは容易だ。
麻薬に魅入られた令嬢として噂が流れれば、セラは立場を失う。
そんな焦りから必死に言葉を探していると、王女の視線が僕に留まり、すっと細められた。
まるで僕の焦りを見透かして楽しんでいるかのように、彼女は笑って再び話し始めた。
「ふふ、総司さんはどうして私がそのことを知っているのかとても気になっているみたいですね」
喉の奥に返す言葉がひっかかる。
不用意に言葉を漏らせば、僕とセラの関係を肯定するものになってしまうからだ。
「そうね、証拠を見せてあげましょうか?」
王女はそう言って、手帳から一枚の紙を抜き出し、僕と王太子の視線に晒すように机に置いた。
「なんだ、これは……。公演のチケット?」
王太子が手に取り、怪訝な顔で見つめる。
見覚えがあるそのチケットを目の前に、胸の奥に冷たい感覚が走った。
あの日、セルディアでセラと観た舞台。
その記憶が鮮やかによみがえり、思わず目を見開いてしまった。
「ふふ、総司さんも気付きました?この日、私もこの舞台をセルディアで観ていたの。総司さんとセラさんが観に行った日と全く同じ時間に」
心臓が強く脈打ち、嫌な予感しかなかった。
けれど王太子が眉を顰めて口を挟んだ。
「これのどこが証拠になるんだよ」
「私ね、この日王室専用の二階席から舞台を観ていたの。そうしたらすぐ下に総司さんとセラさんがいて、ずっとお二人で手を繋いで観ていたことも……途中で総司さんがセラさんに口付けをしていたことも、ずっと観ていたの」
王太子の瞳が大きく見開かれ、ゆっくりと僕に向けられる。
反論すべきかどうか迷う暇さえ与えられずに、王女が畳みかけるように言葉を重ねた。
「それに……このチケット、セラさんも大切に取っておられたの。私がお話ししたら顔を真っ青にして頭を下げてくださったわ。最後にはきちんと、総司さんとの関係を認めてくださったのよ?」
そんな話、セラからは何も聞いていない。
知らされていなかったことにも、絶句するしかなかった。
「……まさか、それでセラを脅していたんですか?」
「いいえ?私は薫には言わないから、私と仲良くしてってお願いしたの」
「なんで俺にすぐ言わなかったんだ……!」
悔しさと苛立ちが一気に喉を突き上げたような声が王太子から響く。
けれど王女は気にした様子もなく、涼しい顔で続けた。
「だって私がお二人を見たのは、セラさんが薫と婚約する前のことだもの。セラさんは婚約前の話で、今は総司さんとは何の関係もないとおっしゃっていたし。それなのに薫に話してしまうのはお可哀想でしょう?」
「だったらなんであんなものをセラに使わせたんだ……!」
「総司さんが王宮に来たのはセラさんへの未練があるからでしょう?でも、セラさんの本心は残念ながら見えない……。だからあのお香を使ったの。あの香りを纏えば、今のセラさんが誰を想っているのか、薫にも伝わると思ったから」
言葉を失った。
こんなにも前から僕たちの関係を知っていて、狡猾に仕組み、僕達を一番追い詰める形で公にする。
彼女のやり方は恐ろしく、吐き気を催すほど醜悪だった。
「つまり……千鶴は俺に、セラの心を直視させたかったってこと?」
「そうよ。もしまだ信じられないなら、今からでもセラさんの傍で過ごして、彼女の本音を聞けばいいわ。隠しきれないものが必ず見えるから」
「そんな必要はない」
はっきりと切り捨てるように告げたのは王太子だった。
「必要はないってどういうこと?」
「俺はセラを手放す気はない。たとえあいつが今、誰を好いていようとね」
挑むようなその言葉に、王女が息を呑むのがわかった。
「……そんなはずはないわ。薫は昔から欲しいものを独占しないと気が済まなかった筈よ」
「子供の頃の話を持ち出すな。俺はもう昔とは違う、成長もするさ。千鶴とは違ってね」
王女の微笑が歪み、苛立ちが透ける。
王太子は挑発するように続けた。
「仮にセラが沖田を想っていたとしても構わない。どうせこいつは、俺からあいつを奪うことはできないんだから」
その視線は、確かに僕に向けられていた。
冷たく揺るぎない自信を帯びた瞳を目の前に、僕は奥歯を噛み締めるしかなかった。
「セラさんの心が手に入らなくてもいいというの?」
「なぜ決めつける?時間がある限り、人の気持ちは変わるものだ」
「ずいぶん自信があるのね」
「俺なりにセラのことは大切にしてるつもりだからね。セラだって、そのうちわかってくれるはずさ。あいつを護れるのは俺だけだってね」
そう言いながら王太子はゆっくりと王女の方へ歩み寄る。
そして王女の髪を乱暴に掴み上げ、腰の剣を抜いて彼女へと突きつけた。
「俺は俺なりに考えて、セラとの未来のために動いているんだ。それなのにお前は、とてつもなく余計なことをしてくれたね」
その声は穏やかに聞こえながらも、深く怒りを孕んでいた。
王女の喉元に向けられた剣先が微かに震え、場の空気が張り詰めていく。
僕はただ、呼吸を潜めながら二人を見つめることしかできなかった。
「千鶴のせいで、俺までセラに嫌われたらどうするつもり?」
「まさか……本当にセラさんが好きなの?薫と婚約したのに、総司さんを連れてくるような人のどこが……」
「煩い、黙れよ」
その声が耳に届いた時、王太子の剣の柄が、容赦なく彼女の腕へと振り下ろされた。
鈍い衝撃音が部屋に響き、椅子から転げ落ちた王女が床に崩れ落ちる。
同じ場所に二度三度と剣の柄が叩きつけられると、白い肌に赤黒い痣が浮かび、震える腕を抱え込むようにしながら、彼女は嗚咽を必死に堪えていた。
涙に濡れた眼差しで、王太子を見上げる。
その姿は哀れにも見えたけど、殿下の眼差しは一片の慈悲もなく、氷のように冷たいものだった。
「……ひ、酷い……私にこんなことを……」
「酷い?先に仕掛けてきたのは千鶴じゃないか」
「私は……たいしたことはしていないわ。セラさんだって、療養すれば……」
「口先ばかりだね、千鶴。お前がこれまで何人もの令嬢を故意的に虐げてきたのは、俺だって知ってるよ。でも、それは好きにすればいいと思っていた。俺の知ったことじゃないからね。でも……」
鋭い眼光が王女を射抜く。
「セラに手を出したのは間違いだったね。俺がセラを捨てるとでも思ったの?」
床に転がる王女の肩を、薫殿下の靴先が押さえつけた。
動けぬまま見上げる彼女の瞳に、恐怖がじわじわと満ちていくのがわかった。
「……もうやめて……薫……」
「やめて?言うべき言葉はそれじゃないだろ?」
王太子は冷たく笑い、王女の手首を床へ押し付けると、もう片方の手で白く華奢な人差し指と中指を掴んだ。
「千鶴は昔から楽器を演奏するのが好きだったよね。ピアノも、ヴァイオリンも……。でも指が動かなくなったら、どの程度弾けるんだろうね」
「……や、やめて……お願い……」
声が震え、涙が頬を伝う。
王女の唇が懸命に懇願を繰り返すのを、殿下は冷淡な目で見下ろしていた。
「懸命な判断をしなよ、千鶴。今ここで謝ってもうしないと誓うのなら、少しは情けをかけてやってもいい」
「ご、ごめんなさい……。もう……セラさんには何もしない……約束するわっ……」
「……そうか」
王太子は小さく笑った。
「謝罪だけで済むと思うなんて千鶴も甘いね」
ぐい、と無慈悲に力が込められた。
骨の折れる生々しい音が響き、王女の悲鳴が部屋に満ちる。
苦痛に顔を歪め、床に身を丸める姿は、あまりにも惨い。
指先はあり得ぬ方向に折れ曲がり、血の気を失った顔に涙が滲んでいた。
「……ひ、酷い……痛いっ……」
「酷いのはお前だろ、千鶴」
殿下は剣先を床に突き立て、淡々と告げた。
「次にセラに何かしたら、その時は指だけじゃ済まさないよ」
「……もう、許して…………二度と、二度としないから……」
「許す?俺はお前を許すためにこうしているんじゃない。俺が国王になった暁には、お前をすぐに離宮へ送る。二度とこの城の敷居をまたがせはしない」
「そ、そんな……」
「一生、誰からも顧みられず、朽ち果てるまで孤独に過ごせばいい。お前の存在はこの王宮に不要だ」
冷酷な宣告に、王女の顔から血の気が引いた。
悲鳴を上げる気力すら失ったのか、ただ震えるだけだ。
王太子はその惨めな姿を見下ろしながら、さらに言葉を突き刺す。
「それから、この件は誰にも話すな。両親にも、宮廷の誰にもね。もし話したら、その時はお前を殺す」
その声音には、冗談も虚勢も一切なかった。
ただ、静かで冷徹な決意だけがあった。
僕は、拳を握り締めながら黙って見ていた。
妹に向けられたあまりの残酷さに、言葉を失う。
でも当然の報いだと、心の奥底ではどこか満足している自分がいた。
セラを辱めた罰を、こうして受けさせられるのならと本望とも言えた。
僕が黙って立っていると、王太子は振り返り、僕を真っ直ぐに見た。
「どうだ、沖田。お前の望み通りの処分だろ?これでも足りない?」
「……いえ、セラが再び傷つけられることがないのなら、僕からは何も言うことはありませんよ」
「そうか」
王太子は満足そうに小さく頷き、そして何事もなかったかのように口元に笑みを浮かべた。
「それならここにはもう用はないし、行こうか」
振り返った王太子は、床にへたり込んでいた侍女の腕を乱暴に掴み、立たせる。
そのまま部屋を出ていく王太子の後に、僕も黙って続いた。
扉の外には数名の騎士が待機している。
王太子は侍女を彼らに突き出し、冷ややかに告げた。
「この女は重罪人だ。首をはねろ」
「……はっ」
衛兵たちは表情一つ変えず、侍女を引き立てていった。
悲鳴を上げる間もなく、侍女の姿は廊下の奥へと消える。
王太子はその背を一瞥することもなく、涼やかな足取りで歩みを進める。
まるで今の出来事など、庭で花を摘んだ程度のことに過ぎないとでも言いたげな様子は、残虐だと思わざるを得なかった。
でも同時に、僕は共感できてしまう。
王女も侍女も、自分たちの過ちの報いを受けただけにすぎない。
セラを脅かす者がいれば排除したくなるのは僕も同じだからだ。
それでも胸の奥底に、ひどく冷えた重さが残った。
もし、あの冷酷さを向けられるのがセラだったら僕は耐えられないだろう。
それに、もしかしたら次に向けられるのは僕かもしれない。
そう考えながらも王太子の背中を追い、僕は静かに息を吐いた。
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