3

王太子と共にセラの部屋へ戻ると、セラはまだ安らかな寝息を立てていた。
苦しみも痛みも忘れたような無垢な寝顔を、王太子は黙って見つめていた。
慈しむような眼差しを向ける横顔は、あの残虐さを見せた男とは思えないほど柔らかい。
その優しく揺れる瞳を見てしまえば、王太子の想いは嫌というほど伝わってきた。

この先、王太子が真撃に気持ちを伝え続ければ、いずれセラの心は揺れてしまうのではないか。
この子の気持ちが、僕から王太子に移ることだってあるのではないか。
そう考えるだけで息が詰まって、ここに立っていることも辛く感じられる。

なぜなら、王太子は堂々とセラの隣に立てる。
王家の人間として、一緒に過ごす時間をいくらでも持てる。
けれど僕は違う。
せいぜい移動中の馬車の中で、短い時間を盗み取ることしか出来ない。
普段なら、こんなふうにセラの部屋に足を踏み入れることだって叶わないんだから。


「沖田」


不意に呼ばれ振り返れば、王太子の双眸がまっすぐ僕を射抜いていた。


「セラが起きるまで、少し話をしようか」


あまり良い予感はしなかった。
それでも短く肯定し、王太子と向かい合ってソファに腰掛ける。
彼は腕を組みしばらく黙していたけど、やがて低く呟いた。


「千鶴のことは片付いた。あそこまで痛めつければ、二度とセラに手出しはできないだろ」

「そうですね」

「でも問題はまだ残ってる。あとは、沖田。お前の処遇をどうするか、だ」


淡々と告げられるその言葉に、胸の奥が冷え込む。
問い詰めるでもなく、ただ確認するように投げかけられることが余計に重苦しかった。


「お前は一体、どういうつもりでここに来た?」


まっすぐに射抜く視線。
この答え次第で、僕の首どころかセラの立場すら揺らいでしまうから、息を整え冷静を装って言葉を選んだ。


「今更、嘘を並べても仕方ありませんから正直に言いますけど。僕はセラのことが何よりも大切です。あの子を脅かすもの全てから護りたいしですし、傍でずっと見ていたい。だからここに来ました」

「それだけじゃ足りないね。俺が聞いているのは、お前はセラを諦める気があるのか、ということだ」


喉が詰まる。
本来ならセラと決別することを表明しなければならないところだ。
でも僕にはどうしても、セラを諦めるという言葉を吐くことは出来なかった。


「それはわかりません」

「わからないだって?そんな曖昧な返事が、この場で通用すると思うのか?」

「ですが、殿下もセラを手放すつもりはないと仰ったでしょう。それなら僕が諦めるかどうかなんて、大した問題ではないはずですけど」


ほんの一瞬、王太子の眉が動いた。
僕は敢えて一歩踏み込むように言葉を続けた。


「それとも、殿下は僕がセラの傍にいると、セラを奪われるんじゃないか不安だと仰りたいんですか?」


空気が凍りついた。
王太子の瞳がすっと細められ、浮かんだ笑みは氷のように冷たい。


「お前は本当に生意気な奴だな。ディラントの元大公子の話も嘘だったんだろ?」

「あの件は、申し訳ありませんでした。まさか殿下があの男を潰すなんて、想像もしていませんでしたから」

「邪魔なものを消して何が悪い。俺はセラを護るためなら、どんな手段も選ばない」

「殿下のお気持ちは理解しています。ただ、最終的に大事なのは僕達がどう思うかより、セラが誰を選ぶかじゃないですか」


その言葉に王太子は短く息を吐き、椅子に深く背を預ける。


「なるほどね。結局、お前も譲る気はないということか」


やがて王太子が口角をわずかに上げた。


「お前さえいなければ、俺は迷うことなくセラを手に入れられる。お前の存在が、俺の邪魔なんだ」

「それで、殿下はどうなさるおつもりです?」

「どうしたいかだって?そんなものは決まってる。今すぐにでも殺してやりたいよ。ここで、お前の首をへし折ってやりたいくらいだ」


その言葉は酷く冷たい音色を含んでいた。
けれど僕は目を逸らさず、王太子をまっすぐ見据えていた。


「でも今のセラは精神的に不安定だし、セラの回復にはお前の助けが必要だ。だからどうもしないさ、今はね」


王太子の指先がソファの肘掛けを強く抉る。


「それにお前を殺せば、セラは俺を一生恨むだろ。それがわかっているから、手を出せない。忌々しいことにね」


低く噛みしめるような声を聞けば、この男の殺意は本物だとわかる。
けれどそれを今すぐ行動に移せない理由もまた、目の前に眠るセラの存在だった。


「……意外です。殿下はそれほどまでに、セラを大事に想ってらっしゃるんですね」

「そんな言葉じゃ足りないね。俺はセラをどうしても手に入れたいんだ」

「なら、僕のことなんて気にされなければいいじゃないですか。殿下ほどの立場と力があれば、セラは自然と殿下を選ぶんじゃないですか?」

「黙れ。そもそも俺は、お前を恐れているわけじゃない。ただ苛立つんだ。お前が近くにいるだけで、俺の思考が乱される。俺とセラの邪魔をする存在は、誰であろうと許さない」


吐き捨てるような声音。
その苛立ちは、殺したい衝動を抑え込んでいる証拠だった。


「お前は生きているだけで俺の苛立ちだ。今ここで殺さないのはセラのため、それだけだ。でもお前がセラの傍にいる限り、俺はずっとこの衝動を押し殺さなければならない。それがどれほど屈辱か、沖田には想像できないだろうね」


その声に滲む苦悩は、僕を殺したい欲望とセラへの執着の板挟みだった。
愛しいがゆえに殺せない、その矛盾に王太子自身が苛まれているようだった。


「想像くらいできますよ。僕も同じ気持ちですから」


僕だって、今すぐにでもその喉を掻き切ってしまいたい。
セラの隣に立つこの男を、僕の手で亡き者にしてしまいたい。
でもそれをすればセラの立場が危うくなる。
だから権力というものに従うふりをしながら、この殺意を押し殺さなければならなかった。


「だから僕はこれからも生き続けますよ。殿下にとっての一番の苛立ちとして」


挑発の言葉を口にした直後、王太子の瞳に怒気が燃え上がった。
その緊張を裂くように、ベッドの上でセラが小さく身じろぎして静かに寝返りを打つ。
その仕草に僕と王太子は同時に顔を向け、やがてゆっくりと開かれていく瞳を凝視した。


「セラ、起きたのか?」


王太子の声が落ちる。
僕もすぐさま立ち上がり、セラの傍へ歩み寄った。
まだ夢の中にいるのではないかと心配になったけど、その瞳は僕達を映していた。


「身体はどう?辛いところはない?」


顔色は悪くないか、意識ははっきりしているのか、そればかりを気にしていた。
するとふわりとした笑みが浮かび、セラの唇からいつもの愛らしい声がこぼれ落ちた。


『うん、大丈夫。薬のおかげかな』


その言葉を聞くと、胸の奥の緊張が一気に解けていくのを感じた。
先程までの記憶も残っているし、顔色も良い。
ようやく安堵の息を吐き出した。
横にいた王太子も少し安心した表情を見せると、水差しを手に取り、水を注いだコップをセラにそっと差し出した。


「ほら、これを飲んで。喉が渇いているだろ。それに軽く食事も摂った方がいい。胃に負担がないものなら食べられそう?」

『はい。お腹、空きました』


その言葉を聞いた途端、王太子の顔がぱっと明るさを増した。


「食欲があるのはいいことだ。すぐに作らせよう」


部屋の外にいる護衛達に、王太子はどこか弾む声で命じると、再び僕と同じようにセラの傍に座る。
でも一見普段通りに見えるセラの瞳は、どこか焦点を結ばず、虚ろに宙を漂っていた。
だからどうにかして彼女を現実につなぎとめたくて、僕は必死に言葉を探した。


「そうだ、セラは本が好きだったよね。療養中にゆっくり読んでみたらどう?」

『本……?』


曖昧に繰り返す声。
虚ろな瞳は僕を映しているのに、焦点はまた合わなくなってしまっていた。


「本なら王宮の書庫に山ほどあるんだ。どんな本がいい?歴史書でも、物語でも、お前のためならなんでも用意してあげるよ」


王太子が補うように言葉を投げかけると、セラは小さく首を傾け、ぽつりと呟いた。


『本……本って……文字がいっぱい並んでて……だから、凄く面白くて……』


その言葉を聞いて、息が詰まりそうになった。
問いに対して正しく答えることができていないその言葉は、セラの思考がまだ正常ではない証だった。
横目に映る王太子の表情もわずかに歪み、僕たちはセラはまだ麻薬に囚われているのだと嫌でも理解させられた。

けれどその時だった。
セラの瞳がふっと僕を捉え、伸ばされた小さな手が僕の頬に触れた。


『総司……どうしたの?』

「え?」

『怪我……したの……?』


触れる指先は震え、その瞳には涙が滲んでいた。

思えば先程、侍女を斬った時に飛んだ血が頬にかかっていた。
セラはそれを見て、僕が傷ついたと思い込んでいるのだとわかった。


「いや……僕は怪我してないし、元気だから大丈夫だよ」

『ほんとう……?』

「うん、本当だよ」


僕の答えに、セラはほっとしたように微笑んだ。
けれどその直後には瞳から涙がこぼれ落ち、こんな状況だと言うのに、その愛らしい泣き顔に僕の心はまた一つ奪われた。


『良かった……。総司に何かあったら……私、生きていけない……』


嗚咽混じりに溢れた声に、胸を鷲掴みにされたような痛みが走る。
今すぐ抱きしめたい、涙を拭ってあげたい、そう思った。

でもすぐ横にいる王太子の視線に気づき、その衝動を押し殺す。
苛立ちと深い傷を隠しきれない表情を浮かべたその存在が、今日も僕を縛りつけていた。


「セラ、泣くなよ」


王太子の声は低いが、不思議なほどに優しかった。


「沖田はここにいる。心配する必要はない」

『……はい……』


王太子の指が涙を拭う。
その手に委ねるセラを前に、僕はただ自分を想って流された涙を自分の手で拭えないやるせなさを噛みしめるしかなかった。
そしてこれからもきっと、こんなふうに僕はこの子との距離を突きつけられるのだろう。
きっと僕が生きている限り、ずっと。


『薫様?』

「ああ、どうした?」

『ずっと言いたいと思っていたことがあって……でも言えずにいたんですけど』


その続きを待つように、僕も王太子も同じようにセラを見つめる。
すると幸せそうに微笑んだセラは、僅かに頬を染めて言った。


『総司を私の近衛騎士にして頂き、ありがとうございます。薫様の優しいお心遣いに感謝しています』


その言葉は、あまりにも残酷だった。
今までセラが決して口にしなかったのは、セラの心のどこかに後ろめたさがあったからだ。
でも麻薬に侵された今、こうして無防備に溢れた言葉が、王太子を深く傷つけるものになっていた。


「……そんなことを感謝されても、俺は嬉しくないけどね」


その声には怒りでも諦めでもなく、ただどうしようもない痛みが滲んでいた。
王女が蒔いた種は、僕とセラだけでなく、王太子をも容赦なく傷つけている。
その事実を痛感させられた今、これ以上事態が悪い方にいかないことを願いながら、セラの回復を祈ることしかできなかった。


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