5

総司の温もりに包まれている夢を見ていた。
髪を優しく撫でてくれる心地よさに胸の奥が安らいで、ずっとこのままでいたいと思った。
けれど次第に意識がはっきりしてくると、瞼を開いた先にいたのは薫様。
思わず見渡した部屋の中に、もう総司の姿はなかった。


「起きた?」


柔らかな声に思わず瞬きをする。
部屋の高い位置にある小さな三角窓からは、夜空に星がちらちら瞬いていて。
いつの間にか時間が経っていたことに気付いた私に、薫様がベッドサイドに座りながら微笑んでいた。


『薫様、今日もお勤めご苦労様です。ごめんなさい、私寝てばかりいて……』

「お前は体力を回復しないとならないんだから、気にしなくていい。体調はどうだ?」

『だいぶ良くなってきました。お医者様にも順調に快方に向かっていると仰って頂きましたし、この調子で早く良くなるように努めますね』

「焦る必要はないけど、お前が元気になってきたなら良かったよ」


ベッドの上で上体を起こして、元気に見えるよう明るく返す。
薫様の眼差しはこのところいつも少し切なげで、その理由が分からないまま心の奥では疑問が膨らんでいった。


『薫様は最近はどうですか?お仕事、忙しそうですよね』

「俺の方は……まあ、いつも通りだよ」


そう言って微笑む顔は疲れているように見えるのに、声は不思議なくらい穏やかで。
婚約してから知ったことだけど、薫様は思っていたよりもずっと優しい方だった。
私が体調を崩してからは、公務などが終わると必ずここへ来て、私が眠っていても傍にいてくれる。
毎晩この部屋のソファーで休まれていることも、申し訳なく思っていた。


『薫様?今日はお部屋に戻って頂いても大丈夫ですよ?』

「それは出来ない。またお前に何かあったらどうするんだ」

『でも、私は薫様の方が心配です。毎晩ソファで寝ていたら、疲れも取れないですし身体が痛くなってしまいますよ』

「だったら俺もベッドで寝ていい?」

『え……でも、それは……』

「一度、一緒に寝ただろ?」

『え?』


耳に届いた言葉が信じられなくて、思わず固まってしまう。
そんな記憶はなくて、頭の中で何度も過去を探った。

ソファーで膝枕をしながら眠ってしまったことはあったけど……。
でも実際あの麻薬成分のせいで記憶が途切れてしまっていることも多いから、もしかして本当に……?
そう考えてしまえば、総司の顔を思い浮かべて胸がぎゅっと苦しくなった。


「やっぱりお前は覚えてないんだね」

『あの……本当に……?』

「ああ、本当だよ。医者に診てもらう前日の晩だ。お前の様子が一番おかしかった時かもね」

『私、何か……ご迷惑をおかけしていませんか?』


声が震えてしまう。
思い出せないことが怖くて、薫様の瞳を必死に覗き込んだ。
でも薫様が少し迷った素振りで口を開きかけた時。
部屋の扉が控えめに叩かれて、侍女の方々がお食事を運んできてくださった。


「ようやく来たか。腹が減ってたんだ、セラも食べよう」

『はい……』


小さなテーブルに並べられた料理は、香ばしい肉料理と温かいスープ、それに焼きたてのパン。
立ち上る湯気と香りに、思わずお腹が小さく鳴って恥ずかしくなる。


『とてもいい香りですね。今日もご一緒してくださるんですか?』

「もちろんだ。ひとりで食べるなんて味気ないしね。それにお前がちゃんと食べるかどうか見てないと、俺が心配だ。好き嫌いはするなよ」

『ふふ、私はもう子供ではありません。見張られてなくてもお食事くらいちゃんと摂れます』

「なら沢山食べるんだね」


薫様のお心遣いがありがたくて、思わず口元に小さな笑みがこぼれる。
スープを口に運ぶと、身体の芯まで温まるようで、ほっとした息がこぼれた。


『とても美味しいです。温かいものを食べると、元気になれる気がします』

「それなら良かった」


薫様は水を口にしながら、私の様子をさりげなく見守ってくれている。
その視線が、やっぱり少し切なく揺れているように見えた。


食事を終え、食欲が戻ってきたことを嬉しく思っていると、侍女の方々が片付けを終えて静かに部屋を後にした。
部屋に残されたのは私と薫様だけ。
満腹感からそっと息を吐くと、薫様がこちらを見て言葉を投げかけてきた。


「セラ、少し湯浴みをしてきたらどうだ?汗もかいてるだろ」

『はい。でも長く浸かるのはまだ良くないですよね』

「そうだな。温まる程度でいい。俺はここで待ってるから」

『ありがとうございます。すぐに済ませますね』


浴室へ向かい湯気に包まれると、少し緊張していた心まで解けていく気がして、思わず小さく微笑んでしまった。
髪を洗い流し、身体を軽く温めて、ほんの少し頬を紅潮させながら部屋へ戻る。
すると薫様はもう部屋着姿で、ソファに腰を下ろしていた。


『薫様、お待たせいたしました』

「いや、ちょうどいい。体は冷えてないか?」

『はい、大丈夫です。あの……薫様は今からお風呂に?』

「もう済ませてきた。ここへ来る前にね」

『そうだったのですね。お仕事のあとでお疲れなのに、毎晩申し訳ないです』

「気にするな。それより、無理してないか?顔が少し赤いけど」

『大丈夫ですよ、お湯のせいだと思います』

「そうか、ならいい」


薫様の笑みを見て、その気遣いに胸の奥が温かくなる。
けれど同時にその微笑みがまた寂しそうに見えて、どうしても心がざわついた。
ベッドに腰を下ろし、髪を乾かしながらそっと視線を向ける。


『薫様。毎日こうしてお時間を割いてくださって、本当にありがとうございます』

「俺がそうしたくてしているんだ。礼を言う必要はない。それにこうなったのは千鶴のせいだしね」


今回の件は千鶴様が企んだことだということは、先日総司と薫様から話を聞いて知っている。
けれど千鶴様が何故そのようなことをしたのか、いまだ詳しくわからない。
総司に聞いても薫様に尋ねても、今は身体のことだけを考えてと言われるだけで、詳細は聞けていないままだった。


『いいえ。お忙しいのに、ご負担になっているのではないかと心配です』

「お前は、まだそんなことを気にしてるの?負担になんて思うわけないじゃないか」

『ですがお手を煩わせてるのは事実なので、ごめんなさい』

「ほら、また謝った」


薫様は苦笑して、私の髪にそっと触れた。
指先が髪をすくうように滑って、それだけで心が落ち着かなくなる。


「早く元気になりなよ。それだけでいいって言ってるだろ?」

『はい……』


一瞬だけ視線が重なって、ぎこちなく微笑む。
薫様の優しさはありがたいけど、どうしても胸の奥が少し痛んだ。

部屋の灯りが少し落とされて、夜の静けさが濃くなる。
寝支度を整えてベッドに腰掛けると、薫様がソファーに腰を下ろすのがわかった。


『薫様、やっぱり今日はベッドでお休みになられてください。私は先程まで寝ていたのでソファーでも全然眠れます』

「それは出来ない。またさっきの話を蒸し返すのか?」

『でも本当に毎日ソファーでは身体に良くありません』

「なら、俺に隣で寝ろってこと?」

『……それは……』


心臓が大きな音を立てて、言葉が詰まってしまう。
薫様は小さく笑って、その表情を和らげた。


「冗談だ、安心しなよ。俺はここでいい」

『薫様……』

「ほら、早く寝て」


その声が優しくて、胸の奥に溜め込んだ想いをどうしても吐き出せない。
私はそっとコンフォーターを握りしめ、背を向けるように横になった。
けれど夕食前に途切れてしまった話の続きをどうしても確かめたくて、思い切って口を開いた。


『前に一緒に寝た時のこと、私全然覚えてなくて。薫様に失礼なことをしてしまっていたらごめんなさい』


ぽつりと声を落とすと、部屋に少し沈黙が満ちる。
だいぶ薬が抜けてきたのか、以前より少しずつ冷静に物事を考えられるようになってきたように思えた。
あの頃は考えようとしてもすぐに思考が別の方へ流れていって、結局忘れてしまう。
まともな思考力ではなかったんだと、今ならわかる。
そんな私の隣で薫様が夜を過ごされたのだとしたら……相当なご迷惑をかけたに違いない。


「……ああ。あの時は心底失礼な奴だとは思ったけど、別に……迷惑ではなかった」

『………』


思わず息をのむ。
薫様はいつもはっきりとものを言う方だけど、あまりに真っ直ぐすぎる言葉に愕然としてしまう。


『やっぱり私、失礼なことを……?』

「かなりね」

『申し訳ありません……』

「覚えてないのに謝られても、困るんだけど」

『確かにそうなのですが……』

「あー、もういい。この話はやめよう。お前をいじめて、せっかく良くなってきたのにまた体調が悪くなられたら困る」


盛大にため息を吐いて、薫様はそう言った。
けれど、かえって気になってしまって、私はますます眠れなくなる。


『私、薫様に何をしてしまったんでしょうか?』

「さあね」

『寝相が悪かったとか?それとも機嫌が悪くて薫様に当たり散らした……とか、ですか?』


恐る恐る尋ねながら、コンフォーターの端をぎゅっと握る。
一番症状が酷かった時のことはほとんど覚えていない。
けれど、あの麻薬のせいで私の情緒は大きく乱れていたと聞いている。
もし感情的になって薫様に無礼を働いたのだとしたら……。
それはきちんと知って、改めて謝らなければならないと思った。


「その程度だったら気にしてない」

『……え?』


思わず振り返りそうになる。
つまり……その程度ではなかったということ?


『それより酷かったんですか……?』


口にした途端、胸が冷たくなる。
そもそも「その程度だったら気にしてない」なんて……。
まるで今でも気にしていることがあるような言い方に聞こえたから、私はどうしようもなく不安になってしまった。


「もういいって言ってるだろ、しつこいぞ」

『だって薫様が教えてくださらないのに、意味深な言い方をされるから気になってしまうんです』

「俺のせいみたいに言うな」

『でしたら教えてください。私は薫様に何をしてしまったんですか?』

「言いたくないから言わない」

『言いたくないって、どうして……』

「どうしてって、お前を困らせたくないからね」


その声音は少しだけ柔らかくて、私の心臓はかえって痛む。


『そんな……そういう言い方はずるいです……』


怒ってくれた方がずっと良かった。
迷惑だったと突き放された方が、どれだけ安心できただろう。
でも薫様は、そうはしてくれない。
不器用だけど優しくて、私の心はまた落ち着かなくなってしまうのに。


「ずるいのはお前だ」

『私が?』

「俺はお前が何を考えてるのか、よくわからない」


確か、以前にも一度言われた言葉だ。
でも薫様がそう言うのは、私が敢えてそうしてるから。
総司を想い続けているこの立場柄、薫様と距離を縮めることを拒んでしまっているからだ。
こんなことをいつまで続けていくのだろうと悩みながらも、結局私はとっくに総司を選んでる。
だから薫様に向き合うことが出来ないまま、今夜もこうして彼の隣にいる。


『私は、今はこのような状態ですが……薫様を支えられるように努力したいと思っています。ルヴァン王国を薫様と一緒に守り、繁栄させていけるように精一杯努めます』


嘘はつきたくない。
だからこそ、今言える本心を伝えた。
婚約者として、未来の王太子妃として、私が一番に求められていることはきちんとこなしたい。
そう思って告げたけど、しばらく経っても薫様からは何の返事も返ってこなかった。


『……眠られたのですか?』

「……そんなに早く寝れるわけないだろ」

『ですが、返事が頂けなかったので……』

「当たり前だ。そんな取り繕った言葉を言われたところで、返事をする気も失せる」


薫様の言葉に胸が刺されるようで、思わず私はベッドの中で上体を起こしてしまった。
震える手でコンフォーターを握りしめ、薫様の方を向く。


『ご気分を害してしまったのなら謝ります。ですが嘘ではありません。今言ったことは本心です』

「本心だとしても嬉しくない。むしろ不快だ」

『どうしてですか……?私はただいずれ王妃として……』

「うるさい……!もう黙ってくれ……!」


その一言にびくりと肩が揺れて、息が詰まった。
視界がにじんで、涙が勝手に溢れてくる。
鼓動は苦しいほど速く、手が細かく震えて、落ち着こうと心に言い聞かせても不安は押し寄せるばかりだった。

どうしてこんなふうに怒られてしまったのだろう。
何がいけなかったのだろう。
考えても答えは見つからなくて、ただ涙ばかりが頬を伝っていった。


「……セラ、ごめん……」


はっとしたように薫様がソファーから立ち上がり、私のそばへと駆け寄ってきた。
大きな手がそっと頬に触れて、溢れる涙を拭い取ってくれる。


「そんなに泣かないでくれ……」


その顔は辛そうに歪んでいて、そんな表情をさせてしまったことが苦しくて、胸が締めつけられる。


『……ごめ……なさい。私まだ、本調子ではないみたいで……でも、すぐに泣き止みますから……』


声も震えてしまって、掠れてうまく出てこない。
嫌だった、ままならないこんな身体も、感情も、全部。
そして何よりも、薫様を傷つけてしまう自分自身が嫌でたまらなかった。

でも、これが私の選んだ道。
だから私が泣くのは間違っている。
弱さを見せてはいけないし、早く泣き止まないと。
早く、いつもの私に戻らないと。
何度も自分に言い聞かせながら、震える手で涙を拭おうとしたけど、薫様がその手を掴んでそれを阻止した。


「やめろ。そんなふうに無理して拭わなくていい」

『でも……』

「俺の前で泣くなとは言わない。ただ……俺のせいで泣いてるのなら、耐えられない」

『……違います。薫様のせいではなくて、私が今、弱いからです。だから泣いてしまって……』

「違わないよ。俺が怒鳴ったからだろ?本当にごめん。お前にそんな顔、させるつもりじゃなかったんだ」


薫様は困ったように視線を逸らし、けれどまた私を真っ直ぐ見つめた。


「前にも言ったけど、俺は取り繕った言葉も義務感からの誓いも欲しくない。俺が欲しいのはお前の気持ちだけなんだ」


薫様の声はかすかに震えていた。
私の心臓も強く脈打って、どうしようもなく動揺してしまう。


『……それは……』

「分かってる。お前が俺にそういう気持ちを向けていないことくらい。だから余計に苦しい」

『……薫様……』

「お前は俺の婚約者だ。これから先、お前の一番近くで生きていくのは俺である筈なのに、お前は心のどこかで俺をずっと拒んでる。俺はそれを感じ取ってしまうんだよ」


言葉が出なかった。
薫様の瞳には、強さと同じくらい脆さが宿っていて、見つめ返すことさえ辛くなる。


「今は無理に答えなくていい。お前を責めたいわけじゃないからね。ただ……俺が、どうしようもなく臆病なんだ」

『臆病……?薫様が……?』

「そうだよ。俺はお前を失うのが怖い。でもセラと婚約したことを間違いだったなんて思ったことはないよ。それにこれから先も、お前を手放すつもりはない。たとえお前が俺を嫌おうとね」


まさか薫様に想いを寄せて頂く日が来るなんて、少し前までの私は考えてもいなかった。
それにどんな言葉をかけてもらっても、私の想いが変わらないことは明確だった。

けれど薫様の言葉がこうして私の心のドアを叩く度、胸の中が罪悪感で押しつぶされそうになる。
自分の選択がいかに身勝手で薫様を傷付けているのかわかってしまうから、私の瞳にはまた涙が湧き上がった。


「それは何の涙?」


溢れないよう耐えていると、私の顔を覗き込むように薫様が尋ねてくる。


「俺に好かれて迷惑って、そう思ってる?」

『違……そのようなことは思っていません』

「別にいい。そう思われても仕方ない。お前の自由を奪ったのは俺なんだから」

『本当に迷惑なんて、そのようなことは思っていません。それに薫様はとても良くしてくださいますし……』


薫様のお心を知るまでは、何故私が薫様の婚約者に選ばれてしまったのだろうと、ただ苦しかった。
入学式の日、この人に出会わなければと考えてしまったこともあった。
でも、薫様は私と総司の関係も、私の気持ちも何一つ知らないのだから、この人を恨むことはできそうにない。
いっそもっと冷たい人だったら良かったのにと思ってしまうくらい、婚約してからの薫様は誠実に私と向き合おうとしてくれていた。


「ねえ、セラ」


涙を堪えて俯いていると、不意に呼ばれて顔を上げる。
すると伸びてきた腕に身体は包まれ、気付いた時には薫様の体温がすぐ近くにあった。
一瞬で身体が硬直して、直ぐに離れなければと彼の服を掴んだけど、それを察したように薫様の腕には力が込められて、いくら押してもその腕の中から抜け出すことができなかった。


「非力だね。そんなんじゃ、俺はお前から離れないよ」

『薫様、困ります……離れて……』

「嫌だ。俺だってお前に触れたい」

『駄目です、本当にもう……』

「別に何もしない。ただ泣いてるお前を少しでも慰めてやりたいだけだ」


直ぐ耳元で聞こえる声に唇を噛み締めた時、薫様の手が優しく髪を撫でてくれる。
労わるように触れると、そのまま私をベッドに寝かせ、コンフォーターをかけてくれた。


「さあ、もう寝なよ。これ以上余計なことは喋るな」

『あの、でも……』

「喋るなって言ったはずだけど」


そう言い切られて唇を結ぶと、薫様はふっと柔らかく微笑んだ。


「おやすみ」


薫様はそれだけ言って再びソファーに寝転がると、それから何も話さなかった。
そしてそれは私も同じで、ただ今夜薫様から言われた言葉を辿るように思い出していた。


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