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妃教育が再開し、庭に咲き始めた秋薔薇の香りに包まれながら、私は歩みを止めた。
総司の代わりに護衛についてくれているセトさんが、少し後ろを控えるようにして歩いている。
その姿を見ると、胸の奥に小さな棘のような痛みが走った。


『セトさん、怪我の具合はいかがですか?総司と剣を交えられたと以前千鶴様から教えて頂いて、心配していたのです』


私の言葉にセトさんは一度目を伏せると、すぐに柔らかく笑みを浮かべた。


「ご心配には及びません、セラお嬢様。確かに総司君との試合は手厳しいものでしたが、命にかかわる傷ではありませんでしたよ。こうして今日も再び、セラお嬢様をお護りできておりますので」

『ですが怪我をさせてしまったこと……本当に申し訳なく思っています。ごめんなさい』

「お嬢様のお心にそのような負担をかけてしまうことこそ、僕の不明の致すところです。なのでどうかお気になさらないでください。僕が未熟だっただけですし、傷の方ももう大丈夫ですから」


その紳士的な返しに、ますます胸が苦しくなる。
セトさんはきっと総司のことを複雑に思っているはずなのに、私には誠実に対応してくれる。
しばらく沈黙が落ちて、私は躊躇いながらも口を開いた。


『あの、総司が今就いている任務のことなのですが……セトさんも同じ任務に就かれたことはございますか?』

「ああ、反逆勢力への対処のことですか?僕はまだ経験がありませんね。国境防衛の任務なら何度かありましたが、そちらは敵が攻めてこない限りは剣を抜くことも滅多にありません」


反逆勢力……その響きが胸の奥を突いた。
違う、薫様がおっしゃっていたのは国境防衛だったはず。
けれど今、セトさんの口から出たのは明らかに別の言葉。
心臓が強く脈を打ちつけたけど、私は顔色を変えないように微笑んでみせた。


『反逆勢力と言っても、いったいどの勢力なのでしょうか?』

「またドランヘルの残党らしいですよ。しつこいものですね」


その名を聞いた瞬間、息が止まりそうになった。
ルヴァン王国に幾度も牙を剥き、徹底して鎮圧されたはずの家。
重装備を誇り、粘り強く抵抗した厄介な勢力。
私の中に刻まれた記憶が次々と蘇り、総司がそんな相手に立たされていると知った瞬間、胸の奥に冷たい恐怖が広がった。


『……ドランヘル……ですか。そうなると、鎮圧には相応な時を要するのではないですか?』

「どうでしょうね。今回の件は急だったようですし、僕も詳しい兵数や布陣までは知りません。ただ……」


一度言葉を切り、セトさんは私を気遣うように声を落とした。


「ここを出て、もう一週間以上は経っているはずです。それなのに不思議なことに、増援の要請はまだ騎士団に来ていないんです」

『……一週間以上?』


自分の声が震えたのが分かった。
薫様は総司がその任務に就いたのは昨日からだと仰っていた。
けれど真実は、総司はもっとずっと前から戦場に立っている。
危険な場所に、命を懸けて。

どうして……?どうして私に嘘を?
薫様が本当のことを言わなかったのは、私を心配させないため?

ふと以前、ディラントの元大公子が爵位を奪われた時のことが脳裏をよぎれば、胸の奥で嫌な予感が膨らむ。
もしもあの時と同じように総司を排除しようとしているのだとしたら、今回の任務は総司のこれからを脅かすものかもしれないと考えずにはいられなかった。

でも、そんなはずない。
そんな酷いこと、薫様がなさるはずない。
必死にそう言い聞かせながらも、心臓は痛いほどに脈打ち、思わず拳を握りしめていた。

そして悟られないように微笑み、私はあたかも任務の内容を知っているかのように振る舞う。
真実を掴むために、さらに言葉を選びながら口を開いた。


『……そうですか。増援の要請がないのですね』


私は軽く頷きながら、胸の奥に広がるざわめきを抑えた。
あくまで落ち着いているように見せなくてはならない。
焦りを悟られれば、きっとこれ以上の言葉は引き出せないかもしれないから。


『ですがドランヘルの残党といえば、重装備で粘り強く戦うことで知られておりますよね。数は減ったとしても、簡単に制圧できる相手ではないはず。それでも増援がないのは、つまり……』


言葉を濁しながら、あえて続きを相手に委ねる。
セトさんは一瞬だけ眉を寄せ、視線を逸らしかけてから小さくため息をついた。


「セラお嬢様は聡明でいらっしゃいますね。お察しの通り、確かに奇妙です。普通なら初戦の様子を見て早々に増援が送られるものです。帰還もない中、増援要請すら出ないということは……中央の判断が遅れているか、あるいは意図的に兵を出していないか」

『……意図的に、ですか?』

「もちろん、断言はできません。ただ……僕のような末端の騎士でも、その不自然さには気づきます。今回の件、王都の上層部はもっと早くから把握していたはずでしょうから」


私は胸の奥に広がる不安を押し隠すように、ゆっくりと頷いた。
そしてセトさんを真っ直ぐ見据えて、言葉を紡いだ。


『不思議ですね。薫様は、昨日から総司が国境防衛の任務に就いているとおっしゃっていたのに、今セトさんから窺ったお話は全然違うのですから』


思い切ってそう口にすると、セトさんの瞳が揺れた。
ほんの僅かに、驚きと動揺の色が交じっている。


「……昨日から、しかも国境防衛ですか。王太子殿下がそう仰ったのですか?」

『はい』

「……そうですか」


短く返された声には、どこか冷ややかさが滲んでいた。
彼が総司をよく思っていないだろうことを知っているからこそ、わずかな言外の感情にも胸が締め付けられる。
けれど今はそれを意識してはいけない。
私はただ、真実を見極めるために会話を続けなくてはならなかった。


『薫様がお間違いになるはずはないと思うのですが……。それとも、あえて仰らなかったのでしょうか。戦況が不安定だからこそ、私を心配させないように』


セトさんは暫く黙り、視線を遠くに逸らした。
その沈黙が何より雄弁に語っている気がして、胸の奥に焦りと冷たいものが広がっていく。


『セトさん。もし私が、総司の無事を確かめたいと申し出たら……王宮のどなたかに取り次いでいただけるでしょうか』

「それは……難しいでしょうね。任務の詳細は上位の者しか知らされません。お嬢様のお立場でも、直接の確認は許されないかと」


やっぱり直接確かめることはできないんだ。
でも、今の会話で十分に分かった。
総司は昨日からではなく、一週間以上前から命の危険に晒されている。
しかも増援も送られず、不自然な状況に置かれている。

思わず唇を噛み締めた私を目の前に、セトさんは僅かに眉を寄せた。
けれどすぐにいつもの柔らかな笑みを取り戻し、静かに口を開いた。


「セラお嬢様。これ以上は……申し訳ありません。王太子殿下が絡んでいると分かった以上、余計なことを申し上げれば、僕の立場が悪くなりかねません」

『そうですよね……』

「セラお嬢様がご心配されているのを見れば、つい余計なことまで申し上げたくなるのですが……殿下の采配に異を唱える形になるのは、僕には許されないことなのです」


その声音には私への思いやりと同時に、自身の苦しい立場が滲んでいるようだった。
これ以上踏み込ませるのは酷だとわかっていたからこそ、私は深く息を整え、静かに首を横に振った。


『セトさん……ここまで教えていただいただけで、私には大きな意味がありました。無理をさせてしまってごめんなさい。それに、優しいお心遣いにも感謝いたします』

「セラお嬢様……」

『どうか安心してください。今伺ったことを誰から聞いたかなど、決して口にはいたしません。セトさんのお名前を出すようなことは絶対にいたしませんので』


私の言葉に、セトさんの瞳がわずかに揺れた。
ふっと柔らかく目を細め、苦笑のような笑みを浮かべる。


「お嬢様は、本当にお優しいですね。そこまでお気遣いいただけるとは思いませんでした」

『私にとっては当然のことです。セトさんが勇気を持ってお話してくださったこと、決して無駄にはいたしません。本当にありがとうございます』


自分の胸の奥で確かな決意が芽生えるのを感じた。
総司の身に何かが起こっていて、薫様がそれを隠している。
その理由や思惑まではわからないけど、薫様に問い詰めるしかない。
一刻も早く対処しなければと、今にも泣きそうになる気持ちを奮い立たせて立っていた。


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