10

王宮の長い廊下を歩きながら、胸の奥が痛むように締めつけられていた。
心は焦るのに、足取りはどうしても重たくなる。
総司のことを思えば今にも泣いてしまいそうになるけど、こういう時こそ冷静でいるべきだと自分に言い聞かせながら歩いていた。

薫様のお部屋の扉の前で立ち止まり、拳を握りしめて小さく息を整える。
総司を護るためには、強くいなければならないと震える指で扉を叩いた。


『失礼いたします。セラです』

「セラか。入ってくれ」


中から落ち着いた声が響き、ゆっくり扉を開けた。
部屋には柔らかな灯りがともり、机の上にはまだ公務の書類が積まれている。
外套を脱いだ薫様は、私を見てふっと口元に笑みを浮かべた。


「セラから来てくれるなんて珍しいね」


優しい微笑み。
いつもならその眼差しに安心できるのに、今は胸が痛むだけだった。
この人を疑わなければならないなんて、どうしてこんな現実が訪れてしまったのだろう。
それでも総司のために、私は裾を握りしめ、決意を胸に言葉を紡いだ。


『薫様に大切なお話がございます。今お時間よろしいでしょうか?』

「ああ、構わないけど」

『昨日、薫様は総司の任務を国境防衛と仰っていました。ですが今日、耳にしてしまったんです。総司はもう一週間以上前に、反逆勢力の鎮圧に向かったと……。どうして薫様は、私に異なることをお伝えになったのですか?』


なるべく落ち着いた声で尋ねたつもりだったけど、喉の奥が痛くて、最後は少し掠れてしまった。
薫様は私から視線を逸らし、口元に笑みをこぼした。


「なんのこと?沖田の任務は、ただの国境防衛だと把握していたけど」

『本当のことを仰ってください。総司の休暇のことも、本当は嘘だったのでしょう?増援を手配されいないのも、何か意図があるからですよね?』


言葉にしてしまえば、胸の奥に押し込めていた痛みが一気に溢れ出す。
私が薫様と王都で笑っている間、総司は一人で戦場に向かっていた。
私が綺麗な景色に心を安らげている間、総司は命を賭して剣を振るっていた。
考えれば考えるほど、涙がにじんで視界が揺れる。
今頃、怪我をして苦しんでいるかもしれない。
増援を待ちながら不安に耐えているかもしれない。
それにもしかしたら総司はもう……、そんな最悪の可能性さえ頭をよぎってしまう。


『薫様、お願いです。黙っていないで、本当のことを教えてください』


抑えきれず、目の前に立つ薫様の胸元を掴んだ。
彼は驚いたように目を見開き、すぐに眉を顰める。


「それ、誰から聞いたの?」

『わかりません。偶然、騎士の方々のお話を耳にしただけです。けれど誰からかなんて、重要なことではありません』

「それなら一人の騎士の任務についてなんて、俺にとっても重要じゃない」

『そんな……総司は私の近衛騎士です。それに、薫様にとっても大切なご友人ではないのですか?』

「友人だって?」


その言葉に薫様の表情が一変する。
そして怒りを露わにして、低く吐き捨てるように続けた。


「友人なんてよく言えたね。沖田もお前も、俺のことを友人だなんて思ってないだろ」

『思っています。だからこそ、こうして薫様にお話をして……』

「都合の良い時だけ友人ぶるな!」


ばん、と大きな音が響いた。
薫様の手が私の横の壁を打ちつけ、私はびくんと体を揺らし、怯えながらも彼を見上げた。


「折角俺がお前には黙っていてあげようと思ったのに」

『……何を……』

「セラと沖田の関係のことだ。千鶴から聞いて、全部知ってる」


耳を疑う言葉に心臓が止まりそうになった。
最悪の可能性を突きつけられて言葉が出てこない。
それでも、まったく予想していなかったわけではなかった。
だからこそ逃げずに受け止めるしかないと、胸の奥で覚悟を決める。


『……どうして、すぐにお話してくださらなかったのですか?』

「話してどうなる?俺が咎めて、何かが変わるのか?」

『薫様……申し訳ありません。総司とのことは……』

「今更そんな取り繕った謝罪なんて聞きたくない!」


薫様の声が鋭く響き、私の胸を深く突き刺す。
優しく微笑んで迎えてくださったはずの薫様が、今は目の奥に暗い炎を宿して私を見下ろしていた。


「そもそも千鶴がお前にあの香を使わせたのは、俺がお前と沖田の関係に気付くよう仕向けたかったからだ」

『仕向ける……?』


私が小さく問い返すと、薫様は唇を歪めて続けた。


「俺が暫くぶりに王宮に戻ってきた夜、一緒に寝たって前に話したよね。お前は俺に失礼がなかったかって、やたら気にしていたけど……」


その声音が耳に落ちた瞬間、私の背筋にひやりとした汗が伝う。


「あの夜、お前は俺を沖田だと勘違いしたんだろうね。ベッドの中で何度もあいつの名前を呼んで、擦り寄ってきたんだ。それだけじゃない。自分が何をしたかなんて、もう想像できるよね」


思い出すこともできない夜の出来事。
けれど薫様の瞳が告げている。
私が総司を想いながら、薫様に触れてしまったのだと。
胸の奥が痛みに抉られて、言葉が喉に詰まった。


「愕然としたよ。仲がいいとは思ってたけど、まさか友人だと信じていた男が、自分の婚約者に手を出していたなんて。良かれと思って同行を許可したのが、裏切りを招いていたなんてね」


薫様の言葉は鋭く、心を切り裂く。
確かにその通りだった。
薫様は私に誠実であろうとし、信じてくださっていたのに、私は……


「だからすぐにでも沖田を罰してやりたかった。でも、お前が……」


言葉を途中で止めた薫様は、私の顔を見て苦しげに顔を歪める。


「セラはあの時、精神的に相当追い詰められていただろ。あの状況で真実をぶつければ、お前を壊してしまうんじゃないかと思ったんだ。だから黙って、我慢して、沖田に看病をさせることすら許した」

『薫様……』

「なのに……なぜ俺ばかりが責められなければならない?先に俺を欺いていたのは、お前たちじゃないか!」


その言葉は真実だからこそ覆せない。
薫様は私に誠実に向き合ってくれていた。
優しくしてくれて、気遣ってくれて、私の歩幅に合わせようとしてくれていた。
それを裏切り、踏み躙り、傷つけてしまったのは私だ。
あまりにも醜い自分の今までの行為を振り返れば、涙が止まらなくなる。
あの夜、総司の傍にいることを選んだ自分の愚かさがこの結果を招いてしまったのだから。


「沖田を不敬罪で死罪にすることは容易い。でもそうすれば一番傷つくのはお前だろ?だから俺は沖田に名誉ある死を与えてやった。それの何が悪い」


薫様の瞳に滲む痛みは私をさらに追い詰めるものだった。
でも、私はまだ総司が生きていると信じてる。
だからこそ、この手で救わなければならない。
私は涙を拭うことも忘れてその場に跪き、薫様を見上げた。


『薫様、本当に申し訳ありませんでした』

「なんの真似?そんなことして許されると思ってるの?」

『許していただけるなんて思っていません。薫様が望まれるのであれば、私は死罪でもどんな罰でも受け入れます』


それが私の答えだった。
罪を犯したのは私、罰を受けるのも私。
ただ、総司を巻き込みたくなかった。
けれど薫様は大きく目を見開き、私と同じ高さにしゃがみ込むなり、私の肩を強く掴んだ。


「死罪?ふざけるな!そんなもの、絶対に許さない!そうやって、また俺から逃げる気か!」

『逃げるつもりではありません……っ』

「お前はいつだって俺から逃げてるじゃないか!死ぬなんて簡単な方法で終わらせてたまるか!」


その声音は震えていて、憎しみよりも哀しみと渇望が入り混じっていた。
薫様の心が私を憎むと同時に、どうしても手放せないと叫んでいるのが伝わる。
痛みに耐えるような彼の表情を目の当たりにして、胸が余計に苦しくなった。


「死ぬことなんて絶対に許さない。お前は沖田が死んだ後も、生きて一生俺に償い続けるべきだ」


薫様の言葉は、冷たい刃のように私の胸を貫いた。
償い続けろと告げられたその響きは、総司を失ったまま生きろという残酷な宣告に他ならなかった。
涙は視界を滲ませ、世界をぐらぐらと揺らしていく。
喉の奥から込み上げる嗚咽を必死に押し殺し、私は小さく首を横に振った。


『薫様……どうか総司を……お助けください……』

「絶対に嫌だ」

『お願いします。これからは薫様にきちんと向き合っていくとお約束しますから』

「お前の言葉なんて信用できない。だから沖田のことは諦めてくれ」


涙は止めどなく頬を伝い落ちていく。
いくらこの身に叩き込んだとしても、淑女としての振る舞いも矜持も、この悲しみの前では無力だった。
だけど総司を失うわけにはいかない、その想いだけが私を支えていた。


『もし総司が命を落としたら……私はもう薫様の婚約者ではいられません』

「それは俺を脅してるつもり?お前が拒もうと、決定権は俺にある。何も状況は変わらないと思うけど」

『脅してなどいません。ただ……総司が私のせいで命を落としたのに、私だけが何事もなかったように生きていくなんて……できないのです』

「時間が経てば痛みも和らぐ。想いだって消える。たった四年の付き合いじゃないか」

『そんな簡単なものではありません。総司は何度も私の命を救ってくれました。私のために命を懸けてくれました。今回の任務だって、私のためだからこそ、不安ながらも承諾したのです。そんな人が私のせいで命を落とすことになって……それを受け入れられると思いますか?』


涙に滲む視界の奥で、薫様の瞳がかすかに揺れる。
その一瞬を目の前に、私の言葉が届いたのではないかと、胸が痛むほどに願ってしまう。


「沖田には沖田の罪がある。俺を欺き、お前の傍にいるために王宮に来た。そんな男を俺が見逃せると思うのか?」

『総司は私に選択肢を与えてくれただけです。これからも共にいるのか、それとも別れて別々の道を進むのか……決めたのは私です。総司は立場上、逆らえなかったんです。ただ私が望んだから、総司は従っただけなのです。だからこれはすべて私の罪です』

「沖田を見ていると、とてもそうは思えない。むしろあいつが、自分からお前に縋りついたようにすら感じる」

『違います。全て私が決めたことです』


私はきっぱりと否定した。
震える声に、心からの確信を込めて。


『総司が無事に戻ってきたら……薫様のご権限で、総司をアストリアに戻していただけませんか?一度王宮に入ってしまえば外に出るのは難しいのかもしれません。ですが、総司は私の護衛や外での任務ばかりで、王宮の庶務にはほとんど関わっていません。ですから可能なはずです』

「沖田の罪をなかったことにしろと?」

『……いいえ。今回の任務をその罰としてください。それをもって……どうか、総司を見逃してください。その願いを叶えていただけたなら、私はこれから先の一生を薫様だけに捧げます。総司のことを胸にしまい、薫様に誠心誠意尽くして生きます。だから、お願いです……どうか、この一度だけ……』


震える声に、すべてを懸けた願いが込められていた。
薫様の瞳が大きく揺れ、その奥に灯る切なさを、私は確かに見た。
薫様の袖を掴んだまま、私は震える声で訴え続けた。


『薫様、お願いです……私も、ずっと後悔していたんです。薫様に優しくして頂くたび、自分の選択が間違っていたんだって、本当はもうとっくに気付いていました』


言葉を重ねるほどに、胸の奥から溢れ出すものを止められなかった。
あの時、一歩を踏み外してしまったせいで、私は薫様を傷つけ、総司をも危険に晒した。
それでも後に引くことができず、ただ前に進むしかないと自分に言い聞かせて生きてきた。

けれど総司と薫様の寂しそうな笑顔を目にするたび、胸の奥はずっと苦しくて。
自分を責めて、どんどん自分が嫌いになっていった。
明日なんて来なければいいと、夜ごと願ってしまうほどに。


『薫様、本当にごめんなさい……薫様を傷付けて、本当に……』


声が震え、涙が零れて止まらない。
堪えようと必死に目元を拭っても、嗚咽と一緒にまた新しい涙が溢れてしまう。
けれどその手は薫様に掴まれてしまい、動きを止められた。

代わりに伸ばされた薫様の指先が、そっと私の涙を拭ってくれる。
その仕草はあまりに優しくて、胸の奥に痛みと温もりが同時に広がった。


「お前は……本当に沖田を忘れて、俺だけを見てくれる?俺を好きになってくれるの?」


その声音には、信じたいのに信じきれない迷いが滲んでいた。
私は涙で濡れた視界のまま、必死に頷いた。


『はい、必ず。薫様のことだけを大切にします。薫様がまだ私をお傍に置いてくださるなら……』

「俺はお前を手放す気はない。たとえお前に憎まれようともね」

『薫様を憎んだりなんてしません。だって薫様は……私にたくさん優しさをくれましたから』


声は震えてしまったけど、心の底からの言葉だった。
だから信じてる、この願いをきっと聞き入れてくださると。
涙をこぼしながらも薫様を見つめると、彼の瞳がわずかに細められ、そこに決意の色が宿るのが分かった。


「……わかった。お前が今言ったことを約束すると言うのなら、沖田がいる部隊に今すぐ増援を送るよう要請する」

『……本当ですか?』


思わず零れた声は震えていた。
薫様は苦しげに瞳を細め、それでも頷く。


「ああ。でも……もう手遅れかもしれない。それでもお前は今の約束を守ってくれるんだよね?」

『はい。それに総司はまだ生きています。私はそう信じています』


自分の声が、涙に濡れながらも確かに響いた。
薫様は静かに頷き、深く息を吐いた。


「それなら、少しここで待ってて」


そう告げると、薫様は扉の向こうへと歩み去った。
残された部屋の静けさの中、私は震える両手を胸の前で組み、涙を拭いながら祈るしかなかった。
どうか総司が無事に戻ってきますように。
総司が何も失わずに、また心から笑える日が来ますように。
その願いだけが、今の私を支えていた。

- 393 -

*前次#


ページ:

トップページへ