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血の匂いが、この国境の空気に染みついて離れなかった。
もう何度目の夜を越えたのか、数えるのも馬鹿らしくなっていたけど、それでも頭のどこかで刻み続けていた。

僕がこの地に派遣されてから一週間と三日。
二十数人程いた仲間は、今ではもう十にも満たなかった。

最初の三日はまだ耐えられた。
敵の奇襲にも対応できたし、兵糧もあった。
けれど五日目を過ぎたころから補給線は途絶え、援軍が来る気配もなければ、撤退命令すら届かない。
いつまで持ちこたえればいいのか分からないまま、疲弊した身体で剣を振るうしかなかった。

ドランヘルの残党、奴らは粘り強く抵抗した厄介な一族だと聞いていたけど、実際に目の当たりにすると厄介どころでは済まされない。
重装備に身を固めた連中はしぶとく、倒れても倒れてもまた別の奴が現れる。
数を減らしているはずなのに、まるで湧き出すように現れて、気がつけば僕たちの数の方が圧倒的に削られていた。
仲間の叫び声が夜明けと共に消えていくたび、胸の奥が冷たくなるのに、その感傷に浸る余裕すらもうなかった。

僕の両腕は剣を振り過ぎて痺れ、肩も腰も鉛のように重い。
肺の奥が焼けつくみたいに痛むのは過労か、それとも内側に溜まった血のせいか。
とにかく呼吸をするたびに胸が軋む。
それでも斬らなければ、次の瞬間には自分が地に伏す。
分かっているから止まれない、止まったら死ぬだけだからだ。


「……はは、きりがないな」


唇に浮かんだ笑みはひどく乾いていて、喉の奥に広がる鉄の味を飲み込みながら、敵の槍を弾き喉笛を断つ。
血飛沫が頬にかかり視界が赤く染まっても、剣の軌道だけは外さなかった。

仲間は今日もまた次々と倒れていく。
気がつけば互いの背を預けられる相手すら殆ど残ってなくて、周囲は屍と敵の怒号だけというどこを見ても地獄の景色だった。

増援を待った。
初日からずっと、それだけを心の支えにしていた。
長引けば補給線を確保してくれると言われた任務。
きっと今日こそ増援が来る……そう信じようとした。
でも六日目を過ぎたころから、胸の奥に不安が巣食い始めた。
このまま援軍なんて来ないのではないか、最初から意図的に見捨てられていたのではないか。
十日目を迎えた今日、その不安は確信に変わろうとしていた。

体力はもうとっくに限界を超えている。
脇腹や背中、右腕には深い裂傷があり、左腕も痺れて感覚が鈍い。
呼吸のたびに咳き込み、吐き出すのは血混じりの唾。
立っていられることが不思議なくらいの状態だった。

そんな僕が今も剣を振り続けられたのは、ただ一つの理由しかない。
セラの顔が、声が、頭の奥に焼き付いて離れなかった。
僕のために涙を流す姿、笑った顔、少し首を傾げて問いかけてくる仕草。
どんなに血に塗れてもその記憶だけは鮮やかで、心を繋ぎ止めていた。
セラを護りたい、これからもあの子の傍にいたい。
それだけで脚を動かし腕を振り、剣を握り直すことができた。

でも限界はすぐそこまできていた。
重装の兵士の斧が振り下ろされ、咄嗟に剣で受けたものの、衝撃で腕に走った激痛に思わず膝をつく。
視界が揺れ、呼吸が乱れ、全身の力が抜けそうになった。
周囲にはまだ十を超える敵が残っていて、今の僕ではとても斬り伏せられる数じゃなかった。


「……ごめん、セラ。僕はここまでみたいだ」


情けない、こんな日を迎えるために僕は強くなったわけじゃないのに。
でも心のどこかで、僕がいなくなった方があの子が自由に生きられるのではないかとすら考えてしまった。
ここ最近の悲しそうに微笑むセラの顔が頭に浮かんでしまえば尚更。
あの夜、無理にセラを決断させてしまった報いが、今自分に降りかかってきているのだろうと思った。

だけど僕が命を落とすことになれば、君はまた泣くのだろう。
自分のせいだと責めてしまうのだろう。
僕か先に逝くことで回帰できるかもわからない今、あの小さな身体にこれ以上の重荷を背負わせてしまうことが酷く辛く感じられる。
それだけはしてはならないと、僕は歯を食い縛り、振り上げられた斧を寸前のところで弾き飛ばした。

でも再び身体が激痛に苛まれてふらついた時、地響きのような音が戦場を揺らした。
押し寄せるのは敵ではなく、味方の叫び。
王宮からの援軍を目の前に、どうして今更……と、そんな皮肉が頭を過った。


「よく持ち堪えてくれた!あとは我々に任せてくれ!」


剣を振るう音が周囲で響き、味方の影が敵を蹴散らし押し返していく。
握っていた剣が指の間から滑り落ち、地面に転がる音も聞こえなかった。

最後に頭に浮かんだのは、愛しくて堪らないあの姿。
泣きながら僕を呼ぶセラの顔が、僕の脳裏に浮かんでいた。
掠れた声でその名を呼んだ瞬間、僕の意識は暗闇に飲み込まれていった。



それからどれくらい経った頃だろう。
目を開けると、最初に飛び込んできたのは見慣れた天井ではなく、白い布に囲まれた静かな部屋だった。
息をするたびに胸の奥が軋み、背中や脇腹に重い痛みが走る。
ここが戦場ではないと理解したのは、手の甲に温かい滴が落ちてきたからだった。


『……そ……じ……』


涙で濡れた瞳で僕を見下ろしているのはセラだった。
ベッドに横たわる僕の直ぐ傍に腰掛け、泣いている。
その声を聞いた瞬間、張りつめていた心がほどけて、僕は生きているんだと実感できた。


『良かった、総司が目を覚ましてくれて……』


涙に震えた声に安堵が混じっていて、僕は喉の奥から掠れた声を押し出す。


「……セラ……」

『三日間も目を覚まさなかったんだよ……?』


セラは涙の跡を指で拭うと、ますます顔をくしゃりとさせて嗚咽を漏らした。


『身体は……大丈夫……?すごく……痛いよね……?』

「平気だよ」

『……辛いところは……?』

「ないよ」


微笑んでそう言ったものの、背中も脇腹も熱を帯び、呼吸をするたび胸が焼ける。
でも泣いているセラを見てしまえば、これ以上不安にさせることは言いたくなかった。


『ごめんね。総司が戦場に行ったこと……私、すぐに気づいてあげられなくて……本当に……ごめんなさい……』

「どうしてセラが謝るの?謝るのは僕の方だよ、君をこんなに泣かせたんだから」


彼女の涙を拭おうと手を伸ばすと、セラは堪えきれずに僕の手を握り返してきた。
小さな温もりがじんわりと伝わってきて、胸の奥にしみる。
でもその時、部屋の空気がわずかに動いた。
王太子が一歩近寄ったことで、僕は初めて王太子が傍にいたことに気づいた。


「お前の容態についてだけど、背中に深い斬り傷がある。筋肉は深く裂けていて、治るには時間がかかるそうだ」


王太子の声は冷静だった。
でも抑えきれない苛立ちがわずかに混じっているように感じられた。


「脇腹の傷も深く、あと少しで臓器に届くところだったと報告を受けている。右腕も複数斬られているから、今は力が入らないはずだ。骨は折れていないが、剣を握れるようになるには相当な時間が必要だろう。それに肺も傷ついているから、呼吸を乱せば出血する可能性がある。打撲や切り傷も全身にあるし、いつ命を落としてもおかしくないほどの状態だった」


言葉のひとつひとつが、胸に冷たい刃のように突き刺さる。
セラの顔は青ざめ、唇をきつく噛みしめて震えていた。


『……そんなに……そんな酷い怪我を……』

「大丈夫だよ。セラがいてくれるなら、痛みなんて何でもないよ」


強がってそう言ってみても、セラの涙が頬を伝って落ちる。
その愛らしい泣き顔は荒んだ僕の心をいとも簡単に色付けてくれるから、僕の口元には自然と笑みが浮かんだ。


「セラ、泣かないで。こうして僕は生きて帰って来れたし、もう大丈夫だから」

『……でも、怖かったの……総司がもう……この世界からいなくなっちゃうんじゃないかって……』


セラの言葉は震えていて、その胸の奥にどれほどの恐怖を抱えていたのかが痛いほど伝わってくる。
僕はその肩を掴もうとしたけど腕に力が入らなくて、泣きじゃくるセラの手を握ることしかできなかった。


「ごめんね、心配かけて」

『総司は……謝らないで……、悪いのは私なのに……っ……』

「なんでセラが悪いのさ、こうして僕の帰りを待ってくれてただけで十分だよ」

『……ひ、……ぅっ……総……司……』


僕が怪我をする度にこうして泣いてしまうこの子を、どうにかして護りたかった。
戦場で僕を支えていたのは剣でも技でもない。
ただ、もう一度セラに会いたいという願いだった。
そして今、こうしてセラが泣きながら僕の名前を呼んでくれる。
その奇跡が、身体中の痛みよりも胸を熱くさせていた。


『総司……帰ってきてくれて、本当に……ありがとう……』


その言葉を聞いて、情けなくも涙が滲んで視界が揺れた。
綺麗な瞳の奥にある温かい想いに胸が詰まり、こうして再びセラに会えたことに喜びを噛み締めていた。


「セラ、そんなに泣くなよ。沖田も困ってるじゃないか」


黙ったまま僕たちを見ていた王太子が、セラの肩にそっと手を置く。
その視線には冷たさだけでなく、どこかに憂いのような影が滲んでいた。

王太子の意図はわからないけど、まさか僕を助けてくれた?
セラも王太子の言葉に素直に頷くと、涙を拭って僕を見つめた。


『ごめんね……本当は……ちゃんと笑っていたかったんだけど……』

「別にいいよ。セラはこういう時、いつも泣いちゃうでしょ?」

『だって……それはもう……仕方ないことなの……』


わかってるよ。
僕がこの任務に就いたと知った時から、きっと凄く心配してくれてたんだよね。
挙句僕の身体はぼろぼろで、今までにないくらい怪我を負った。
僕だって幾度となくセラの死を経験しているからこそ、胸が押し潰されるようなあの苦しみや悲しみは理解しているつもりだ。


「沖田、しばらくは絶対に動くな。下手に動けば傷が開く。少なくとも一ヶ月は寝たきりになると思っていてくれ」

「一ヶ月も……ですか?」

「右腕に関してはもっとだ。剣を握れるようになるには、早くても半年はかかると医師が言っていた。それに肺も損傷しているから、声を張ったり走ったりすることも当分は許されない。つまり今までのように剣を振ることは、すぐには叶わない」


王太子の言葉が胸に重くのしかかり、愕然とする。
最低一ヶ月は寝たきり、半年経たなければ剣も握れないなんて。


「……そんな」


思わず吐き出すように声が漏れた。
今まで通り剣を振れなければ、セラの隣に立つことも護ることもできなくなる。
その事実だけが頭の中を真っ白にして、焦燥だけが膨れ上がっていった。

けれど実際、右腕に力を込めようとしても、指先は震えるばかりで思うように動かない。
感覚すら曖昧だ。
肺の奥は熱を帯びるように痛み、咳ひとつで胸の奥が軋んだ。


「……僕は回復が早いんですよ。だからそんなに時間をかけなくても、今まで通りやっていけます」


言い切った声が、妙に頼りなく響いた。
でもそれを聞いていたセラが小さく首を振り、潤んだ瞳で僕を見つめてくる。


『総司、今回の怪我は甘くみないほうがいいの。無理をすれば、もっと治りが遅くなる場合があるんだよ』


優しいけど、芯の通った声だった。
僕の強がりをすべて見透かしているようなまっすぐな眼差しは、僕がアストリアに来たばかりの頃を思い出させた。


「でもそれだとその間、君の護衛ができなくなっちゃうじゃない」


焦りを隠しきれず、情けない言葉が口から零れ落ちる。
そんな僕を、彼女は包み込むように優しく見つめてきた。


『私はね、総司が元気で健康に生きていてくれることが一番嬉しいんだよ。だからお願い、今回はもう絶対に無理はしないって約束して?』


懇願するように、穏やかに紡がれた言葉が胸に沁み渡っていく。
心の奥に溜め込んできたものが、静かにほどけていくようだった。

セラは本気で僕を案じてくれている。
僕が立てなくても、剣を握れなくても、それでも僕という存在そのものを、大切に思ってくれている。

勿論そんなことは当の昔からわかっていたことだけど、もしまた僕が無理をすれば、今日のようにセラを泣かせてしまうかもしれない。
それだけは絶対に嫌だった。


「……わかったよ」


かすかに笑みをつくって頷くと、セラの瞳が少し潤んだまま、愛らしく細められた。


『約束だよ?総司は自分のことを一番に考えて。私にはそれが何より大事なの』


その一言が、胸の奥に焼き付いた。
護らなければならないのはセラだけじゃない。
セラにとっての僕という存在を、壊さないこと……それもまた、僕に課された大切な務めなんだと改めて気付いた。

僕が微笑んで頷けば、セラは花が咲いたように嬉しそうに笑ってくれた。
その笑顔を見ることができたから、この痛みもこれから先の不安も和らいでいくようだった。


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