6

次の日、朝食を終えたところで、セラの言葉どおり王太子が僕を訪ねてきた。
促されるままに王宮を出ると、待機していた馬車へと案内される。
王太子も同乗し、静かに扉が閉じられた。


「どこに行くんですか?」

「着けばわかる」

「まさか僕を消そうとしてます?」

「は?違うに決まってるだろ。お前を消す気なら、療養なんてさせずにとっくに殺してる」


そっぽを向いたまま告げる声は平坦で、感情を読み取ることができない。
確かにその通りだろうけど、行き先もわからないまま揺られる馬車の中で、妙な不安が胸の奥に広がっていく。
身体がまだ万全じゃないせいか、余計に落ち着かなかった。


「身体はどう?」

「どうなんでしょうね。傷はこの一ヶ月でだいぶ塞がりましたけど」

「右腕は?」

「わかりませんよ。剣すら握れてないんですから」


右手の感覚はいまだに鈍く、思うように力が入らない。
だけど下手に弱音を吐けば、セラの近衛騎士から外されるかもしれない。
そんな未来だけは絶対に避けたいからこそ、余計な言葉を言うつもりはなかった。


「……そう。まあ焦らず治していけばいいんじゃない?セラもそう言ってる」

「焦らず、ですか。そうしたいのは山々ですけどね。でもセラの傍に立つのが遅くなるのはどうしても嫌なんです」


口をついて出た本音に自分でも苦い気持ちになり、僕は小さく息を吐いた。
けれど王太子は、こちらを見ようともせず、ただ窓の外へ視線を向けている。
暫く続いた長い沈黙に押されて、僕はふと口を開いた。


「今回の任務は正直もう駄目かと思いましたよ。増援も来ないし、殿下に見捨てられたのかと思いましたけどね」

「ああ、見捨てるつもりだった」

「でも結局、増援の要請をしてくださったじゃないですか。殿下がそうしてくださったって、セラが前に言ってましたけど」

「仕方なくだ。セラに頼まれたからね」

「セラに?」

「セラには、あの任務のことを話してなかったんだ。沖田には一週間休暇を与えてるって説明していたし、その後の任務も国境防衛だと嘘を教えていた。でもどこで調べたのか……セラはお前が反逆勢力の討伐に行ったことを知って、俺に詰め寄ってきたんだよ」


つまり、あの増援は王太子の意思ではなかった。
あの時僕を救ったのは、セラの必死の願いだったのか。
胸が熱くなるのと同時に、どれほど心配をかけたのだろうと思えば、息苦しいほどの痛みが広がる。


「お前が宮廷を出て一週間経った頃だったかな。セラに、沖田を助けてくれって泣きつかれたんだ」

「それで、増援を?」

「ああ。不本意だけど、仕方ないだろ。あのまま沖田が死んだら、セラは自分を責める。自分のせいで沖田が死んだら、生きていけないって泣くんだから」

「自分のせいって……セラが責任を感じる必要なんて、どこにもないじゃないですか」

「でもセラは言ってたよ。沖田を王宮に連れてきたのは自分の意思だって。お前を従わせたのは自分だから、全部私が悪いんですってね」


その言葉に、僕は思わず息を呑んだ。
セラの言葉は、まるで僕たちの関係を王太子が知っていることを前提にしているような口ぶり。
けれどセラは、そんなこと一言も僕には話さなかった。


「……セラは、殿下が僕たちの関係に気付いていることを知ってるんですか?」

「知ってるよ。今回の件で俺が話したからね」

「それで……セラは、何て言ってたんです?」


鼓動が早まる。
嫌な予感が確信に変わっていくのに、どうしても次の言葉を聞かずにはいられなかった。


「沖田を見逃してやって欲しいと頼まれた。俺の権限で、沖田をアストリア騎士団に戻してあげて欲しいとも言われたよ」

「……アストリアに?」

「その代わり、沖田のことは忘れて一生を俺に捧げると約束もしてくれた」


殿下の声が耳に落ちても、すぐに言葉が出なかった。
掌に汗がにじみ、心臓は強く早く打ち続けている。
冷静でいろと自分に言い聞かせても、到底無理だった。


「だから今、この馬車はアストリアに向かっている。ほら、もうだいぶ馴染みのある景色になってきたんじゃないか?」


窓の外へ目をやる。
そこには、セラと過ごした記憶の場所が続いていた。
春に一緒に回った建国祭。
街中で並んで眺めた夕焼けや、一緒にボートに乗ったこと。
街娘の格好をしてはしゃいでいたセラの姿を思い出せば、胸が締めつけられる。
全部、セラとしか作れなかった時間だった。


「……待ってください。つまり、僕はセラの近衛騎士ではいられないってことですか?」

「そうだ。既に陛下の許可も得ているし、近藤公へも通達済みだ」

「そんな理不尽な話、僕は承服できません」

「前にも言ったはずだ。お前の納得は必要としていない。これは俺とセラの間の約束だ」

「約束って……」


思わず声が震えた。
なぜなら僕はその約束に立ち会ってもいなければ、今初めて聞かされたばかり。
セラと引き離されそうなこの状況に、ただ黙っていることなんて出来る筈がなかった。


「それはそもそも、殿下があの任務で僕を排除しようとしたからこうなっただけですよね。セラがそうせざるを得ないように、殿下が仕向けたんじゃないですか」

「勘違いしてるみたいだけど、今回のことは俺からセラに何も強制はしていない。全てセラの意思で決めたことだ。セラは言ってたよ、沖田を王宮に連れてきたことが間違いだったって。本当はずっとその過ちに気付いていた、俺に申し訳ないことをしたって、謝ってくれたんだ」


息が詰まった。
あの夜、セラが涙を堪えて見せた顔を思い出す。
後悔していることなんて、とうに知っていた。
僕と王太子の間で板挟みになり、胸を痛めていることにも気付いていた。
それでも……それでも僕は、セラと離れたら全てが終わってしまうと思ったんだ。
だから傍にいることにしがみついてしまった。
セラを護るという大義を理由にして、自分の願いを押し通していた自覚はあった。


「セラと話して、あいつが心から俺に謝罪してくれているとわかった。だから俺はもう一度、セラを信じようと思った。やり直すためには、まずセラの望みを叶えてやらなければならない。だから俺はすぐに増援を差し向け、優れた医師を掻き集めてお前の命を繋いだ。今お前が生きているのは、偶然でも俺の采配でもない。セラがお前の命を救う代わりに、俺との未来を約束したからなんだよ」


言葉を失った。
そんなことを言われてしまえば、反論の糸口を見つけることができない。
だけどここで折れたら、セラとの未来が途絶えてしまう。
それだけは嫌だった。


「セラがそんな約束をしなくても、僕は生きて帰ってこれましたよ」

「あの有様で?ぼろぼろで、今にも死にそうだったじゃないか」

「それでも……僕は絶対に帰ってきてましたよ。セラを残して死ぬとでも?」

「でも実際お前は今、その身体じゃ満足にセラを護れないだろ。それにその右腕、完治しないかもしれないんだよ」

「……え……?」

「お前も薄々感じているだろ?以前のように力が入らないはずだ。損傷が激しく、今後も十分な回復は見込めない可能性が高いと診断されている」


視線を落とす。
震える右手は、いくら握りしめても思うように力が入らない。
あの日、セラにそのことを口にした時、彼女の瞳が揺れたのを思い出した。


「でも今回の負傷は、沖田をアストリアに戻すには好都合だった。重傷ゆえに長期の療養が必要で、職務の継続が困難になったというのが、お前がアストリア騎士団に戻ることになった建前だ。もちろん近藤公には国を護るために身を賭した結果の負傷だと伝えてある。だからお前の名誉は損なわれていないし、降格扱いにもなっていない。その点は安心してくれ」

「僕の名誉とか降格とか……そんなことはどうだっていいんですよ」


僕が強くなったのも、騎士階級の特級を得たのも、王宮の近衛騎士になったのだって、全部セラの隣にいたかったからだ。
それがなくなるかもしれない今、名誉なんてものに何の意味もなかった。


「この右腕だって、あと少し治療を続ければ治りますしね」


強がって言い切った僕に、王太子は冷ややかに言葉を返した。


「だから何?わかってるよね。お前はもう王宮の近衛騎士じゃない。今日からはアストリア騎士団の一介の騎士として、職務を果たす立場だ」

「ですから……そんなこと、いきなり言われて納得できるはずないじゃないですか……!」


僕の声は震えていた。
それでも王太子は一歩も揺らがず、ただ淡々と言葉を告げた。


「俺とセラの間では、増援を要請した時から決まっていたことだ。これはセラからの命令だよ。あいつがお前を護りたい一心で下した命令を、お前は否定するの?」

「僕はそんなこと、一度も望んでいません」

「沖田が望んでなかろうが関係ない。これはセラの望みだ」

「セラの望み……?こうやって僕と離れることが、あの子の本当の望みだって、殿下は仰るんですか?」

「ああ、そうだよ。セラはお前に生きて幸せになってほしいと思ってる。だからこそ離れたんだよ。このままお前が王宮に居座るつもりなら、俺はそのうちお前を殺すよ?」


その声音には一片の迷いもなく、冷徹な本気だけが滲んでいた。
前の世界の時同様、揺るがない力ですべてを捩じ伏せる。
それがこの男の戦い方だ。


「……結局、殿下があの子を脅しているのと変わらないじゃないですか」

「それはお前だって同じじゃないか。どうせ王宮についてきたのも、お前が駄々をこねたからじゃないのか?セラは自分が命じたって言ってたけど、あいつが沖田を縛りつけるようなことを自ら選ぶとは思えないからね」

「確かにセラについていくと決めたのは僕です。ですが、セラも僕といることを望んでくれましたけどね」

「でも、その結果がこれだ。それでもまだお前は、セラの傍にしがみつくつもり?お前の存在は、もうあいつを縛って苦しめるだけなんだ。セラの立場ではお前を選べない。いくら選びたくてもね」

「それは殿下が……っ」

「相手が俺じゃなくても同じことだ。公爵家の跡取りと、継ぐ家すらないお前が釣り合うと本気で思っているのか?」


その言葉を聞いて一度黙り込むと、王太子は瞳を細めて言葉を続けた。


「最初からお前達に未来がないことなんて、常識があればわかっていた筈だ。それがわかっていながら、お前はまだセラに何かを求めるの?それがどれだけあいつにとって残酷なことなのか、お前はまだわからないのか?」


胸を抉るような正論だった。
セラはアストリア公爵家の跡取りで、背負わなければならない未来がある。
だからこそ、あの時も、今も……僕と離れることを選んだ。
それをわかっていながら、僕はあの子の気持ちに甘えて、どうにもならないものを望んでしまった。
あの子の決意を揺るがせ、困らせ、苦しめていたのは……他でもない僕自身だった。


「……僕は……殿下が羨ましくて仕方がないですよ……」


気づけば、喉から絞り出すように言葉が漏れていた。

いくら努力しても、どれだけ強くなっても。
どれほどあの子を想っても。
僕には、セラの隣に立つ資格すら与えられない。

それでも努力をすれば、きっといつかはと夢を見ていた。
けれど現実は、この世界でもまた打ち砕かれる。
セラと出会う前、父親の罪を暴き、自ら爵位を手放してしまったことが、今になって痛いほど悔やまれてならなかった。


「俺だって……お前が羨ましいよ」


不意に聞こえた声に顔を上げれば、王太子が窓の外を見たままそう呟く。


「あんなふうにセラに想ってもらえるんだから」


ふと以前いた世界のことを思い出した。
あの時も王太子は言っていた。
セラが好きだった、俺だけを見て欲しかったと。
あの悲痛な叫びを思い出せば、王太子の心情もわからなくはない。
それでもセラと過ごす未来がある王太子が、羨ましくて憎くて堪らなかった。


「でしたら、身体でも交換してくれません?」

「嫌だね。俺はこれからセラを振り向かせる。沖田以上に好きになってもらうつもりだ」

「そんなの無理ですよ。殿下は僕には敵いませんから」

「そう言っていられるのも今のうちだと思うけど?」

「前にも言ったでしょ?あの子の心はあげませんって」

「でもセラは約束してくれた。沖田を忘れて俺だけを見てくれるってね。だから勝算は俺にあると思わないか?」

「そうだとしても、殿下が僕を追い越せるのって一体何年後になるんでしょうね。その頃には、おじいさんとおばあさんになってるかもしれませんよ」

「ちっ……本当に口が減らない奴だな」


こうして他愛ないやりとりをしていると、学院で軽口を叩き合っていた頃の僕たちを思い出す。
胸が痛くてたまらなくて、黙っていたら気が狂いそうで。
思いつくままに、ずっと心の奥に引っかかっていた疑問を口にしてしまった。


「殿下が、セラの好きな相手を聞いてきたことがありましたよね」

「ああ。お前が嘘をついて、ディラントの元大公子の名を出した時のことか」

「はい。もしあの時、正直にセラとのことを話していたら、殿下はどうされたんですか?それを知っても、僕たちを引き離したんですか?」


あの時も、王宮に招かれた時も、狩猟大会の時だって。
本当のことを打ち明ける選択肢は頭に浮かんでいた。
でも前の世界で言われた身分の差が隔たりを生むという言葉が胸に残っていて、どうせ無駄だと、結局は邪魔されるんだと決めつけてきた。
そんな僕の選択が正しかったのか、今になって確かめたくなるなんて馬鹿げている。
でも無性に気になって仕方なかった。


「それは何のための質問?」

「別に。ただ、これは殿下の元友人として、聞いてみたかっただけですよ」

「元友人だって?ふざけるな。お前は俺のことを友人だなんて、一度だって思ってないだろ」

「そんなことはないですけどね」

「俺は良かれと思ってお前を近衛に引っ張ってやった。なのにお前はいつだって癪に障る。お前を殺せなかったのが残念でならない」


吐き捨てるような声音。
でも、その瞳の奥にはかつて前の世界で僕に向けられた憎しみの色はなかった。
苛立ちの影に、一瞬の寂しさのような揺らぎを見た気がした。
それは、王太子が心のどこかで僕を友人だと思っていたのではないかと錯覚させるものだった。


「それで?もし正直に言っていたら、どうされてたんですか?」

「引き離していたに決まってるだろ。俺はお前を友人だなんて認めてないからな」

「そんな相手をわざわざ近衛に引き上げてくださるなんて、殿下も随分お優しいんですね」

「……お前、本気で殺されたいの?」

「別に殺したいなら殺してくれても構いませんよ。生きていてもセラの傍にいられないなら、死んでるも同然ですし」

「おい、沖田。セラが必死に救った命を、そんなふうに軽んじるつもりか?」

「そういうわけじゃないですけどね。でも生きてる限り、僕はあの子を諦めませんよ。殿下がセラを泣かせたら、どんな手段を使ってでも奪いにいくのでそのつもりで」


結局、僕はこうなってもまだ諦められない。
あの子の笑顔や温かさにもう触れられないなんて、堪えられない。
だからこそ抗い続ける意志をはっきり告げると、殿下は心底面倒そうに瞳を細め、不意に懐から何かを取り出して差し出してきた。


「……はい、これ」

「なんですか?」

「セラから預かったものだ。本当は渡したくなんてなかったけど、あいつが沖田に渡してくれってしつこく頼むからね。仕方なくだ。感謝しろよ」


手渡された封筒は、見慣れた筆跡が浮かぶ手紙だった。
それと小さな包み。
そっと包みを開くと、中には刺繍の施されたハンカチが二枚入っていた。
セラが、僕のために縫ってくれたものだ。
その小さな温もりに、息が詰まりそうになる。


「……セラにありがとうと伝えてください」

「ああ」

「手紙は……後で読みます」

「勝手にすれば?それにもうすぐ着く」


窓の外へ視線を向ければ、そこには懐かしいアストリアの公爵邸が見え始めていた。

セラと過ごした日々の記憶が、一気に押し寄せる。
庭で隠れた交わした言葉。
僕を見上げて、嬉しそうに照れる顔。
触れられた手の温もり。

すべてが愛おしくて、もう二度と戻らないものだと思えば、胸の奥を鋭い痛みが貫いた。
懐かしさが、こんなにも残酷な痛みに変わるなんて知らなかった。
セラのいないこの場所で何事もなかったかのように暮らす想像なんて出来る筈もなく、見える景色から目を背けてしまう僕がいた。


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