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総司と別れてから、時が止まってしまったみたいに感じていた。
けれど流れる日々は私の心を置き去りにしたまま容赦なく続いて、私はただ総司のいない毎日を生きていた。
新しく専属の近衛騎士になったのはセトさんだった。
真面目で誠実な方だとわかっているのに、部屋の扉が叩かれる音を聞くたび、心のどこかで総司がいることを期待してしまう自分がいる。
「おはよう」と穏やかに笑ってくれた姿。
馬車の中でカーテンを引き、外界から切り離された二人だけの空間に、ひそやかな幸せを感じた時間。
歩けば必ず私の歩幅に合わせて、温かな眼差しで寄り添ってくれたこと。
その一つ一つを思い出すたび、胸の奥が締め付けられて、泣き出しそうになった。
でも……私はもう決めた。
薫様と共に歩むこと。
彼を支え、彼に尽くして生きること。
だからもう、前に進むしかない。
妃教育を受ける毎日は厳しかったけど、私はひたすら勉強に打ち込んだ。
遅れてしまった分を取り戻すように、がむしゃらに机に向かうことが多かった。
余計なことを考えてしまうより、文字や知識の中に身を置いている方が心が楽だったから。
そしてあの日から、薫様はよく私の部屋に顔を出してくれた。
でも何かを強いることもなく、ただ他愛のない話をして過ごすだけ。
きっと私の心がまだ総司にあることを知っていて、それでもそっと寄り添おうとしてくれているのだと思った。
そんな日々が三ヶ月程過ぎ、学院への復学日が近づいてきた頃。
部屋の扉がノックされ、薫様が入ってきた。
けれどいつもと少し様子が違って、両手の後ろに何かを隠している。
少しだけ気恥ずかしそうにゆっくりと近づいてくると、私の前に差し出した。
「これは、セラに」
目の前に広がったのは、大きな花束だった。
真っ白な百合を中心に、淡いピンクのスイートピーや可憐な忘れな草、そして淡い緑を添える草花たち。
まるで清らかな風を束ねたように、華やかだけど優しい色。
驚いて見つめていると、薫様は少し照れた様子で口を開いた。
「アストリアでは、お前のことを白百合って呼ぶんだろ?可憐で、気高くて、誰よりも清らかな象徴だって。だからこの花束を渡したかったんだ」
その言葉に胸が熱くなって、自然と笑みがこぼれた。
私は両手で花束を受け取り、顔を近づけてそっと香りを吸い込む。
優しく甘い香りに包まれて幸せを感じた。
けれど次の瞬間には、どうしても思い出してしまう。
建国祭の夜、総司が私に差し出してくれた一輪の白い花のこと。
「ずっと一緒にいたい」……その花言葉と、総司の瞳に宿った温かな光。
あの瞬間の喜びは、昨日のことのように鮮明で、胸の奥がまた痛んだ。
でも今はそのことを考えてはいけない。
私はぎゅっと花束を抱きしめて、笑顔で薫様を見上げた。
『とっても綺麗な花束、どうもありがとうございます』
「ああ。お前には白百合が似合うね」
『ふふ』
薫様の気持ちが嬉しい。
こうして私のために何かしてくれようとする真心も、私のために花を選んでくれたことも。
心はまだどうしても総司を想って泣いてしまうけど、傍にいてくれるのが薫様のような優しい人で良かったと思った。
「お前が喜んでくれて良かった」
『白百合、大好きなのでとても嬉しいです。どこに飾ろうかな』
いくつか花瓶の飾られている部屋の中を歩き、どこに飾るべきか悩んでいる私を見て、薫様は笑ってる。
彼を立たせたままでいるのは申し訳ないからソファーに腰掛けて貰い、頂いた花束はソファーの横の花瓶に飾った。
『とってもいい香り。白百合のこと、知っていてくださったんですね。百合はアストリアのシンボルマークなんです』
「俺は学院で会う前から、お前のことを知ってたよ」
『え?』
「まあ、お前は俺のことなんて、まったく知らなかったみたいだけど」
少し不服そうに睨まれて、薫様にぎこちなく笑みを返す。
『やっぱり以前、どこかでお会いしたことがありましたか?』
「いいや、直接会って話したのは入学式の時が初めてだったけどね。ただルヴァンの宮廷音楽会でもお前の演奏を聴いたし、アストリアの建国祭に訪れた時だって、俺はお前を見ていたんだ」
『そうなのですか?それなら最初からそう仰ってくだされば良かったのに』
「お前が俺のことを知らないのに、そんなこと言いたくないだろ」
『どうしてですか?』
「どうしてって……。そういうものなんだよ」
薫様は一度少しむくれたように唇を結んで、それから低く付け加える。
「そもそも俺を見てわからないなんて、どうかしてる」
『それは……ごめんなさい』
謝る私を見て薫様は小さく息を吐き、それ以上は責めることなくただ優しい眼差しを向けてくれた。
「仕方がないから許してあげてもいいけど」
『ふふ、それはありがとうございます』
「ねえ、お前を見てたって言ったけど、ちゃんとその意味わかってる?」
『意味?』
「だから……わかるだろ?つまり、お前を見た時からずっと、話してみたいと思ってたんだ」
ルヴァン王国の王太子である薫様が私の存在を知っていてくれていたことにも驚いたけど、話してみたいと思っていてくださったなんて。
『それ、本当ですか?』
「本当に決まってる。その疑ったような顔はなんなの?」
『だって薫様、最初お会いした時はちょっと意地悪でしたよ』
「あの時は睡眠の邪魔をされて苛立ってたんだよ。お前もお前で落ち着きないし」
『あの日はたまたま粗相が多くて……。でも普段はそんなことはないと思いますけど……』
「そうだね。お前は意外としっかりしてるし芯もある。セラとならこの国を一緒に守っていけるって、今はそう思ってる」
『良かった……。そうなれるように頑張ります。薫様の期待を裏切らないように』
私の言葉を聞いて僅かに笑みを浮かべた薫様の手が、そっと私の手の上に重ねられる。
そのまま指が絡められると少し落ち着かなくて、黙ったまま薫様を見つめた。
「別に気負わなくていい。お前はお前のままで、俺の傍にいてくれたら十分だ」
『でも、私は努力したいです。薫様を支えられるようになりたいですから』
「そう思ってもらえるのは嬉しいけど、それよりも俺はセラに好きになって貰えた方が嬉しいよ」
その言葉を聞いて、私はまだ薫様に好きだと言えていないことに気がついた。
総司には言いたくて堪らなかった好きという言葉が、今は喉の奥につかえたようにうまく出てこない。
薫様のことは好きだけど、きっと私の中の好きは薫様が求めている好きとは違うのだろうと思った。
でも私は薫様に向き合うと決めた。
今までできなかった分、薫様の言葉や気持ちを真っ直ぐ受け取り、これからはそれに応えていきたいとすら思った。
だからこそ、今夜は一歩踏み出そうと小さな声で告げた。
『私は、薫様のこと好きですよ』
薫様は一度裏切った私のことを責めることなく、こうして優しくしてくれる。
私の心情を理解して、何も聞かずにいてくれる。
そしてたまにこうして、真っ直ぐな温かい気持ちを私に伝えてくれる。
総司に向ける特別な好きとは違うけど、薫様への好意にはきちんと言葉で返したいと思った。
「それ、本当?」
薫様の声は、ほんの少しだけ掠れていた。
私は深く息を吸って、胸の奥にあるものを素直に言葉にして伝えようと思った。
『はい。少し前までは私が身勝手なことをしていたせいで、薫様の優しさをどう受け止めればいいのかずっとわからなくて……。恐らく私は自分の中の罪悪感のせいで、薫様の優しさにきちんと向き合えていなかったと思うんです』
総司を大切にすると決めていたとき、薫様の優しさが苦しかった。
優しくされればされるほど、罪悪感が膨らんで、その優しさに目を背けることしかできなかった。
酷いことだとわかっていたのに、総司の心を護りたい一心で、私は見て見ぬふりをした。
そんなことをしても誰も幸せになれないことは、わかっていたのに。
『でも今は、薫様の優しさが本当に嬉しいんです。たとえば今日の花束もとっても嬉しくて、また薫様のことが昨日よりもっと好きになりましたし、私も何かお返ししたいなっていつも思っています。こういう幸せな思い出を薫様と一つ一つ増やしていって、いつか本当に結婚する時にはお互いを大切に想い合える素敵な夫婦になれたらいいなって。薫様とならそうなれるって、今はそう思っています』
その言葉を聞いた薫様の瞳が、ほんの少し揺れた。
思わず手が伸びてきて、そっと私を抱きしめてくれる。
「お前がそう思ってくれることが、凄く嬉しい」
胸に感じる温もりも、香りも、総司とは違う。
でも私はこれから先、あと何十年……薫様と手を取り合って生きていく。
今はまだ慣れなくても、いつかこの温もりや体温が心地良くなるのかな、と考えながら、薫様の腕の中で私はそっと目を閉じた。
「ずっと不安だったんだ。俺はお前と沖田を無理矢理引き離したから、口では俺を見てくれるって言ってたけど、本心ではそうじゃないんじゃないかって」
『薫様……』
「セラのことは信じてるよ。でも人の感情って理屈ではどうにもならないものだろ?だからセラがいくら俺に寄り添うつもりでいてくれたとしても、難しいんじゃないかって」
耳元で聞こえる薫様の声は、いつになく少し弱々しい。
普段は弱音なんて吐かない人だからこそ、こうして彼の心の奥の不安を聞くのは初めてだった。
「でも俺の好意を素直に喜んでくれて、少しずつでも俺を好きになってくれてるなら、今はそれで十分だ。俺はそうやって些細なことを一つ一つ大事にしてくれるお前が好きだよ」
薫様の言葉が、あまりに真っ直ぐだった。
薫様に好きだと言ってもらえたのは今夜が初めてではないのに、今の言葉は胸の中にすんなりと届く。
そっと腕が緩められて、温かい指先が頬に触れた。
目の前には綺麗な薫様の顔があって、吸い込まれそうになるくらい澄んだ瞳が真っ直ぐ私を見つめている。
「嫌なら拒んで」
ゆっくり近づいてくる薫様の顔。
私は自分の心に決めたことを信じて、彼を受け入れるために瞳を閉じた。
そっと重ねられた唇は柔らかくて温かくて、薫様とのキスに心音が早くなる。
でもその瞬間、総司の言葉を思い出した。
「そういうことをする時は必ず僕を思い出して」、そう言って寂しそうに笑った総司の声が胸の奥に切なく響いた。
「セラ、ありがとう。ちゃんと俺を見てくれて」
『お礼をいうのは私の方です。本当なら私なんてとっくに愛想を尽かされていてもおかしくないのに』
「俺はどうしてもお前を手放したくなかったんだ。だから今、こうしていられることが嬉しいよ」
薫様に甘い言葉を言われるのは、まだ慣れない。
少し気恥ずかしくて視線を逸らすと、薫様がくすくすと笑っていた。
「ねえ、セラ。復学のことなんだけど」
『はい?』
「できれば俺は、セラに復学して欲しくないんだ」
復学の時期が近づいていることは、ずっと心のどこかで気になっていた。
学院に戻れば、きっとまた総司と顔を合わせることになる。
今の私にとって、それは胸が張り裂けそうに辛いこと。
でも逃げてはいけない、自分のためにも必要なことだと、そう思っていた。
『それは……どうしてですか?』
「もしお前が学院に行ったら、沖田と顔を合わせることになるだろ。そうしたら、またあいつに気持ちを寄せてしまうんじゃないかって……不安なんだ」
『そのようなことは……』
「別にお前を疑ってるわけじゃない。でも宮廷内なら、優秀な教員をいくらでも呼べる。お前が学院で学ぶ必要なんて本当はないんだ。お前が学院をやめるなら、俺もやめて宮廷内で一緒に学ぶ。だから……頼むよ。俺を不安にさせないでほしい」
薫様の気持ちは痛い程わかる。
私は一度薫様を欺いてしまったのだから、彼が不安に思うのは当たり前だ。
それに、学院に復学しても私はきっと薫様の隣で過ごすことになるだろう。
その姿を総司に見られることしたくないと思ってしまうから、私は一度唇をきつく結び、覚悟を決めて口を開いた。
『わかりました。学院には戻りません』
「……本当にいいの?」
『はい。薫様が不安に思うことを私もしたくないですし、これからは宮廷内で先生方に教えていただければ十分です。薫様のお傍で学べる方が、私にとっても良いと思うから』
薫様の目が驚いたように揺れて、それから安堵に満ちた。
そっと私の手を握り、温かい声で言う。
「ありがとう、セラ。お前がそう言ってくれるだけで、俺は救われるよ」
その笑顔を見て、私もまた微笑んだ。
心のどこかで総司を想ってしまう自分がまだいる。
けれどそれを押し込めてでも、私は薫様を選ぶと決めたから。
『私も、薫様と一緒に前に進みたいです』
その言葉を聞いて薫様はほんの少し目を細め、優しく私を抱き寄せた。
「無理を言ってごめん。もし会いたい友人がいれば、好きに呼んでもらって構わないから」
『ふふ、ありがとうございます』
「セラ、好きだよ」
『私もです』
「俺はずっとお前を見てきたし、これからもずっとお前だけを見ていたい。それに……他の奴らにお前を見せたくないくらいだ」
身体が僅かに離れると、薫様の瞳の奥に何か強い想いが宿っているのがわかる。
普段は穏やかな薫様なのに、その声にはかすかに独占欲が混じっているようで、心音が僅かに早くなった。
こんなにもまっすぐで熱い想いを向けられるなんて、婚約したばかりの頃は想像もしていなかった。
「俺はもう、お前を失いたくないんだ。お前の心に他の誰かがいるなんて、考えるだけで苦しくなる」
『……薫様……』
「たとえお前を困らせたとしても、俺はもう譲れない。だから、セラにもずっと俺を見ててほしい。俺だけを見ててほしいんだ。それが、俺の願いだよ」
熱を帯びた低い声が耳元に触れ、頬がじんわりと熱くなる。
どう返せばいいのか戸惑いながらも、薫様の必死な想いが痛いほど伝わってきて、胸の奥が切なく満ちていった。
『私は薫様を選ぶと決めました。その気持ちは揺らぎません。私は薫様を見ています。薫様だけ……ずっと』
自分に言い聞かせるようにそう答えると、薫様の瞳が一層深い光を宿した。
その視線に見つめられるだけで息が苦しくなり、目を逸らしたくなるのに、逸らせない。
気づけば薫様の顔が近づいてきて、唇にそっと触れるだけの軽い口づけが落とされた。
驚く間もなく、もう一度、もう一度と、触れるだけの甘い口づけが繰り返された。
『薫様……』
呼んだ声は自分でも驚くほど震えていて、薫様はそんな私を見つめ、静かに微笑む。
「ありがとう、セラ。お前のその言葉と想いが、俺にとって何よりの力なんだ」
再び唇を重ねられるから、私は目を閉じてその温かさを受け入れた。
でも薫様に触れられる度に総司の温もりが思い出されてしまうから、結局心は総司から離れられない。
大切にしまった筈の想いが、今夜も私に語りかけてくるようだった。
「今日は遅くにごめん。そろそろ戻るから、セラもゆっくり休んで」
『薫様も。素敵な花束、ありがとうございました。おやすみなさい』
「ああ、おやすみ」
去って行く薫様を笑顔で見送って、部屋の扉が音もなく閉まる。
しばらくぼんやりとそこに立ち尽くしていた私の瞳からは、ぽろぽろと涙が溢れ落ちていた。
『……っ』
これは何の涙?
総司以外の人に触れてしまったことへの悲しみなのか、総司を想うが故の涙なのか、薫様に対しての申し訳なさなのか……。
私にはもう、はっきりとはわからなかった。
ただ一人で過ごす夜に剥き出しになる私の想いは、今でも総司に会いたいと叫んでしまう。
一体いつまで私はこんな状態のまま立ち止まっているのだろうと、自分の決めた道にもうまく馴染めない自分が嫌になった。
でも何をしていても、総司のことが浮かび上がってしまう。
だって私たちは本当に沢山の大切な思い出を作ってきたから。
花を見ても、おいしいお菓子を食べても、星空を見上げた時だって、総司との思い出が蘇る。
総司に言ってもらった言葉を思い出す。
これはもう……仕方のないことなの。
『総司……』
総司の怪我はどうなったのだろう。
右手は順調に回復してるのかな?
最後に総司の気持ちすら聞いてあげないまま、勝手に距離を置いてしまったことが悔やまれる。
思わず指先を伸ばした首元には、もうスフェーンのペンダントはなくて。
自らそれをしまった筈なのに、この気持ちだけは全く色褪せないことに漠然とした不安を感じていた。
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