2
公爵邸に戻ってからの日々は、セラがいないまま静かに過ぎていった。
慣れ親しんだ場所なのに、どうしても空虚で、やけに静かに感じる。
廊下を歩くたびに、ふと振り返ればあの子が笑ってついてくる気がして、胸が痛んだ。
無性に寂しくなると、僕はついセラが生活していた隣の部屋に足を運んでしまう。
その場所は時間が止まったみたいにあの頃のまま残されていて、まるで今も彼女がここに戻ってくるのではないかと錯覚してしまう。
机の上に整えられた小物や、本棚に並ぶ本。
淡い香りがまだ残っている気がして、思わず深く息を吸った。
けれど、いくらセラの温もりを探しても、結局は僕を苦しめることには変わりない。
どんな場所もセラの存在と結びついて、あの子がいない現実を突きつけられるばかりだった。
そんな中でも、僕は療養期間を終えて、少しずつ日常を取り戻し始めている。
ここ最近はようやく稽古にも顔を出せるようになって、身体に負担にならない任務も任されるようになっていた。
右手は思うように力が入らず、以前のように剣を振るうことは難しい。
それでも握ることはできるから、それだけで今は少し救われていた。
だから今日も学院から戻ってきた足で、稽古場に立ち寄った。
少しでも早く以前の自分に戻りたくて。
あの子の隣に立てる自分でありたくて。
木剣を握り直し、何度も素振りを繰り返す。
右手の痺れがじわりと広がり汗が滲むけど、それでも歯を食いしばって振り続けた。
「沖田君、僕と平助君はそろそろ上がるつもりですが、まだ続けるんですか?」
「うん。まだ全然疲れてないからね。伊庭君、戻る前に一回だけ手合せお願いできる?」
「いいですよ、やりましょう」
伊庭君と向かい合って木剣を構える。
打ち合えば、かつては負ける気がしなかった相手。
それなのに今の僕は、ほんの小さな隙を突かれるたび、あっさりと弾かれてしまう。
乾いた音を立てて木剣が床に落ちる。
指先が微かに震えて、僕は思わず奥歯を噛み締めていた。
「沖田君……」
伊庭君の声が静かに響く。
そこに勝ち誇った響きはなく、ただ真っ直ぐな気遣いだけが滲んでいた。
「今日はここまでにした方がいいですよ。あまり無理をしては、身体によくありません」
「そうやって優しく言われると、余計に惨めになるんだけど」
八つ当たりのようにそんなことを言ってしまったのは、自分自身に辟易していたからだ。
右手が思うように動かない苛立ち。
でも胸の奥を焼いているのは、それだけじゃなかった。
セラのことだ。
学院に戻れば、またあの子に会えると思っていた。
それだけを支えに剣を握り続けてこの感情を押し殺していたのに、クラスの担任の口から淡々と告げられたのは、セラが妃教育に専念するため学院を退いたという知らせだった。
手紙一通で、ただ一方的にアストリアに帰されて。
僕の想いすら伝えられないまま、最後の望みまで奪われたようで、心の中が空洞になった。
もう一度会って、話がしたかった。
伝えたかった言葉が、まだ胸の奥にたくさん残っているのに。
「……っ」
荒い息を吐きながら、落ちた木剣を拾い上げる。
握り締める力が入らないのが、嫌でもわかった。
それでも今立ち止まってしまったら二度と起き上がれなくなりそうで、こうしていないと自分を保っていられない。
そんな心情を抱えて剣を構えた時、平助が僕を止めるように肩に手を置いてきた。
「総司、もうやめとけって。顔色も悪いし、無理する必要なんてねーじゃん」
「そうですよ。今日はもう終わりにして、久しぶりに三人で夕食でも摂りましょう」
「二人とも優しいね。でも僕はまだできるから」
「俺達はさ、セラに総司が無理してたら止めてやってくれって頼まれてんの」
「え?」
「僕達三人が専属騎士候補に選ばれた時、セラが僕達に君がよく無理をするから心配だと、話していたんですよ」
「セラはここにいないけどさ、今の総司を見てたら絶対に止めると思うんだ」
「強くなることも大事ですが、セラのために元気でいることも同じくらい大切だと思いますよ」
慰めなんて欲しくないのに、二人の気遣いが胸に刺さる。
そしてセラが僕の身体を案じて二人に僕の話をしていたことを知って、余計に胸が痛んだ。
そこへ稽古場の奥から落ち着いた声が響いて、山崎君が静かに歩み寄ってきた。
「今の沖田さんの稽古を拝見していましたが、右手の痺れが気になるのであれば、一度王都にあるハーバリウムという店に行かれてみてはいかがでしょう?」
「ハーバリウム?」
「はい。薬草の扱いに長けていて、痛みや痺れに効く調合薬が揃っています。値は張りますが、その分効果は絶大だと聞き及んでいますよ。王宮の医官も密かに頼りにしているほどの店だそうです」
「へえ、そんな場所があったんだね」
少し驚きながらも、心の中にわずかな希望が灯った。
「ありがとう山崎君。早速、今度行ってみるよ」
「それがよろしいかと。ただし今日は稽古をここで終わりにして、しっかり休まれてください」
山崎君はきっぱりと言い切ると、平助がにっと笑って僕の背中を叩いた。
「ほらな。今日は四人で飯でも食おうぜ!」
「いいですね。稽古ばかりではなくこうして語らう時間も大事だと思います」
伊庭君も穏やかに頷く。
僕は肩で息をしながら、皆の顔を見渡した。
「仕方ないな。今日は君たちに従うよ」
「賢明な判断ですね。さあ、行きましょう」
稽古場を後にして、四人で肩を並べる。
無理をしないでと言ってくれた以前のセラを頭に浮かべながら、また彼女のことを考えていた。
それから数日。
学院の帰り道、僕は一人でハーバリウムという店に足を運んだ。
山崎君に教えてもらった、王都でも評判の薬草店。
中に入ると花々の香りが広がって、思わず足を止めた。
入り口には、若い令嬢たちが好みそうな香油や髪油、香水がずらりと並んでいた。
瓶に光が差し込んで、きらきらと宝石みたいに輝いている。
瓶一つ一つも凝っていて、どれも値の張る品ばかりだった。
でも僕が探している薬剤は店の奥だ。
棚の向こうには乾燥させた薬草や調合済みの薬瓶が整然と並んでいて、静かな空気が流れていた。
右手に力が入らない感覚が、剣を握るたび僕を苛立たせる。
振り下ろすたびに、剣がかつてのようには応えてくれなくて、自信まで少しずつ剝がれていく気がした。
それでも、諦められない。
セラの隣に立つために、僕はもう一度強くならなければならない。
その気持ちを奮い立たせるように、手紙に書かれていたあの言葉を、何度も心の奥で繰り返していた。
セラは僕への気持ちを宝物にしてしまっておくと綴っていた。
僕を忘れるとは一言も書かずに、大好きなのはこれから先も僕だけだと、はっきり書いてくれていた。
だから、まだ終わりじゃない。
王太子との結婚はまだ先だ。
絶対に諦めないと、薬瓶を手に取りながら胸の奥で言い聞かせた。
けれど棚の奥へと歩きながら、ふと耳に馴染んだ声がして足を止める。
そしてその直後、鼓動がひときわ強く脈打った。
顔を上げると、少し先にいたのはセラだった。
半年ぶりに見る姿は、淡い光を纏ったように可憐で、花が咲いたような微笑みを浮かべている。
その隣には王太子がいて、高貴な装いのまま、香油の瓶を彼女に差し出していた。
『わあ、可愛い香油。それにいい香り』
その笑顔を見てしまえば、胸の奥に押し込めていた気持ちが溢れ返る。
あまりに懐かしくて、あまりに愛しくて……ただ、痛かった。
ほんの少し前まで、僕が一番あの子の近くにいたのに。
今セラの隣にいるのはあの男だ。
心が抉られるように痛むのに、目を逸らすことすらできなかった。
震える右手を握りしめながら、僕はただ二人の姿を見つめていた。
耳に入ってきた声は、あの頃のままで、心臓を強く締めつけるものだった。
「何かお揃いで買おうよ」
『いいですね。どれにしましょう』
「俺はどれでもいいよ。お前と同じ香りになれるなら」
『ふふ、またそんなことを言って』
ずっと思っていた。
きっとセラも、僕と同じように胸を痛めているだろうと。
半年経った今も、僕が想うように、あの子も僕を想ってくれているだろうと。
でも少し先にいるセラは、王太子の隣で以前までと何も変わらない笑顔を浮かべていた。
その笑顔があまりに自然で、嬉しそうで、胸の奥で、何かが音を立てて崩れる気がした。
それでもきっとこれは演技だと言い聞かせた。
そうでなければ、今にもあの子を奪いに行きそうになる自分を抑えられなくなりそうだったから。
『あ、この香り……優しくて好きです。それにこの瓶もインテリアとして飾っても可愛くないですか?』
「確かにいいね。じゃあこれを二つ買おう」
『薫様も本当にお使いになるんですか?』
「どうかな。俺はお前に会いたくなった時に、この香りを嗅いだっていいけど」
その言葉に、笑い合う二人。
公爵邸にいた頃、僕の香水はセラがブレンドして作ってくれたものだった。
今では使い切ってしまって、もう二度とあの懐かしい香りを感じることはできない。
あの子の香りすら、こうして以前までとは違うものに変わっていってしまう。
それがたまらなく怖かった。
半年の間に、セラが僕の知らない誰かになってしまったような気にすらさせられた。
『ふふ、そんなことをなさらなくても、毎日会ってますよね』
「仕事中は会えないだろ」
くすくす笑う姿は、ほんの少し前まで僕と一緒にいた時のセラと同じだった。
嬉しそうで、とても無理をしているようには見えない。
王太子だけを見つめて、僕が大好きだった笑顔をあいつに向けていた。
「じゃあ、今日からは毎晩俺がお前の髪にこれを塗ってあげるよ」
『薫様が?』
「ああ。だから楽しみにしてて」
耳元で囁かれて、セラの頬が僅かに赤く染まる。
その表情だって、少し前までは僕の前でしか見せていなかったのに。
夜が来るたび隣で過ごしているだろうセラとあいつの姿を想像してしまえば、抑えていた怒りがより一層込み上げた。
「これ、買ってくる。ついでに店主に少し話があるんだけど、ここで待っててくれる?店の外に護衛を待機させてるから、ここは安全な筈だ」
『はい、わかりました。でも、何かあったんですか?』
「最近、王都に入る薬草の質が落ちていると聞いたんだよ。だから流通経路を確認したいんだ。あとは店の仕入れ先や、どの商会を通しているのかも聞こうと思ってね」
『薬草の輸送には税が絡みますし、商会の取りまとめは王家にとっても重要な案件ですよね。私はここで待ってますから、薫様はゆっくりお店の方と話されてください』
「ありがとう。じゃあ、行ってくるよ」
一人残されたセラは、棚に並んだ香水瓶を見つめていた。
白磁のように澄んだ横顔。
指先でガラスを撫でながら、ふっと浮かべた微笑みは、あまりに幸せそうで。
王太子のいない今なら、素の彼女のはずなのに。
そこに悲しみの影はどこにもなくて、僕のことなんて思い出してもいないんじゃないかと、胸が抉られたように傷んだ。
でと僕は今まで、セラが死ぬたびに、自分の命を絶ってまでセラに会いに行った。
あの子の命を繋ぐため、そして生きているセラの世界に帰るために、何度も。
それなのに、このまま諦めきれるわけがない。
気づけば足が勝手に動き、僕はセラの腕を掴んでいた。
『……総司……?』
驚いた瞳が僕を見上げる。
その潤んだ揺らぎを目の前に、胸が締めつけられるように苦しくなって、人目から遠ざけるように奥へとその手を引いた。
店の奥、装飾の施された大きな柱と棚の影。
香料の匂いが漂うその一角は死角になっていて、客の目には入らない。
その壁際へ追い込むように立ち塞がり、セラを逃さない位置に立った。
大きな瞳で僕を見上げるセラは、すぐには言葉を紡げないようだった。
でも半年ぶりに間近で見るその姿は愛らしいままで、胸の奥から込み上げるものを抑えられなくなる。
愛おしくて、切なくて、苦しくて。
半年も遠くに離されていたのに、こうして目の前にいるだけで心は全部あの頃に引き戻されてしまった。
「王太子と随分と楽しそうにしてたね。僕のことはもう忘れた?」
自分の声が僅かに震えていたことに気づいた。
セラを責めるような言葉なんて言いたくなかったのに。
でも目の前で微笑んでいた姿が、あまりにも綺麗で。
それがもう僕の知らない世界のもののように思えて、どうしようもなく苦しくなった。
セラは何も答えてくれないまま、ただ信じられないものを見るように、僕を見上げているだけだった。
でも潤んだ瞳が揺れていて、その表情を見てしまえばまだ僕を想ってくれているんじゃないかって……そんな都合のいい希望が胸を掠めてしまう。
だから込み上げる衝動に、もう抗えなかった。
伸ばした指先で彼女の頬をなぞり、そのまま顔を引き寄せる。
でも唇を重ねようとした瞬間、セラは目を見開き顔を背けた。
拒むような仕草が胸をまた抉り、同時に焦りが全身を駆け巡った。
このまま離れたら二度と触れられない気がして、細い手首を掴み壁へと押しつける。
逃がさないように身体ごと覆いかぶさり、その唇を力ずくで奪った。
『……んんっ……』
震える唇が、触れてはいけないものに触れるみたいに、そっと彼女の唇に重なった。
声が喉の奥で詰まるくらい苦しいのに、もう止められなかった。
忘れられたくない。
僕のことを、僕の温もりを、思い出してほしい。
唇を深く塞ぎ、何度も何度も貪るように口づけを繰り返す。
苦しそうに開いた唇の隙間に舌を押し込めば、セラの肩が小さく震えて、心臓が壊れそうなほど速く打った。
「……は」
大好きなんだ、失いたくない。
その想いだけで彼女の全てを自分のものに縫いとめようとするかのように、セラの温もりを感じていた。
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