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学院を退いてから、数ヶ月が経った。
宮廷で未来の王妃になるための教育を受けながら、学業も並行して行う毎日は相変わらず多忙極まりない。
礼儀作法や舞踏、政務に必要な知識に、外交での言葉や立ち居振る舞い。
学ぶことは山程あって、ひとつひとつ自分の中に刻み込むように過ごす日々だった。
でも朝から晩まで学び続けていると、稀に息が詰まるように感じることもある。
そんな私を気遣い、薫様が「気分転換をしよう」と誘ってくださったことで、今日は王宮の外へ出かけることになった。
王都の街の空気を吸い込むのは久しぶりで、胸の奥が軽くなる。
小さなカフェでお昼を食べて、可愛いお菓子を半分こして、服飾のお店を巡って。
薫様の隣を歩いていると穏やかな時間が流れて、本来ならこういう時間を幸せというのだろうと思った。
けれど、どんな時も私の心の中に浮かぶのは総司だった。
綺麗な草花を見れば、公爵邸の庭園で過ごした総司との日々を思い出す。
甘いお菓子を口にすれば、私の作ったお菓子を食べて嬉しそうに笑った横顔が蘇る。
隣に立つのが薫様であることを頭では理解しているのに、どうしても総司を重ねて心を痛めてしまう私がいた。
街娘の装いで総司と街に出かけた日は、楽しくて幸せだった。
気づけばあっという間に時間が過ぎてしまうから、時間が止まればいいのになんて願ったよね。
その日が終わってしまうことがとても悲しくて、でも総司が繋いでくれる手の温もりを感じられることが幸せだった。
あんな風に想えたのは、総司だけ。
そしてきっとこれから先も、ずっとそうなんだろうな。
でも私は、この道を選んだことを後悔していない。
総司を護るため、そして公爵家の跡取りとしての役目を果たすために。
この選択は、きっと私に与えられた宿命なのだと思う。
それに生涯を共にする相手が薫様のように優しくて穏やかな方であることは、きっと幸せなことだ。
だからこそ、胸の奥に広がる寂しさや切なさも、抱きしめながら生きていくと決めた。
悲しみに飲み込まれて、総司と出会えた奇跡や大切な思い出までも霞んでしまうのは絶対にいや。
だから私は強くなろう。
総司を想う気持ちと二人で過ごした時間だけは、この胸の奥で永遠に守り続けていけるように。
通りを歩いていると、「ハーバリウム」と書かれた看板が目に入った。
ガラス瓶の中に閉じ込められた花々が、陽の光を浴びてきらきらと揺れている。
あまりに綺麗で思わず足を止めてしまうと、薫様が「入ってみようか」と優しく声をかけてくれた。
店の中には香油や髪油、香水がずらりと並んでいて、ふんわり花の香りに包まれた。
その香りに触れた時、総司の髪に漂う清らかな匂いを思い出して、胸が切なく締めつけられる。
私はそんな気持ちを隠すように笑みを作りながら、ふと視界に入ったカレンデュラの香りのオイルを手に取った。
『あ、この香り……優しくて好きです。それにこの瓶もインテリアとして飾っても可愛くないですか?』
私の指先に触れたカレンデュラの瓶は、柔らかい光を透かしてきらめいている。
オレンジ色の花びらを見つめていると、酷く懐かしい気持ちになった。
カレンデュラ……それは、公爵邸の温室にたくさん咲いていた花だった。
まだ総司が騎士団の見習いだったころ、傷の痛みを少しでも和らげてあげたくて、必死に作ったオイルを渡したことがある。
あの時、照れくさそうに「ありがとう」って笑ってくれた、幼い総司の顔が浮かんで心が温かくなった。
総司と離れてからの私は、彼を思い出すたびに、ただ悲しみが胸に押し寄せて泣いてしまうばかりだった。
けれどこの香りに包まれると、不思議と心に温かな日差しが差し込んでくるみたい。
出会ったばかりのころの穏やかな記憶が蘇って、私を前に進ませてくれるような気がした。
だから、この香りを選んでいたのだと思う。
「確かにいいね。じゃあこれを二つ買おう」
『薫様も本当にお使いになるんですか?』
「どうかな。俺は、お前に会いたくなった時にこの香りを嗅いだっていいけど」
薫様の穏やかな声に、胸がちくりと痛んだ。
総司を想ってこの香りを選んだことを、申し訳なく思った。
でも私は総司を忘れることなんてきっとできないし、忘れたくはない。
もし無理に全てを閉じ込めてしまったら、自分の感情まで殺してしまう気がするから、この痛みも優しさも抱きしめていた方が、薫様の隣でも上手に笑える気がした。
『ふふ。そんなことをなさらなくても、毎日お会いしているではありませんか』
「仕事中は会えないだろ」
少し子供みたいに返されて、思わず笑みが零れた。
総司も、時々こうやって意地を張ったり、可愛らしい物言いで拗ねたりしていた。
それが嬉しくて、愛しくて、たまらなかったことも思い出した。
薫様が会計をして店主と話をしている間、私は再びカレンデュラの瓶を見つめていた。
透明な中に閉じ込められたオレンジの花びらは、まるで過去の思い出そのものみたいだった。
眺めていると、まだ自分の気持ちが恋だと気づいてもいなかったあの頃の記憶が、溢れるように胸に広がっていく。
総司と過ごした日々。
何も知らず、ただそばにいることが出来た日々。
心がこんなに温かくなったのは、いつぶりだろう。
総司も、私との時間をふと思い出してくれることはあるのだろうか。
そんなことを考えていると、不意に頭上に影がさした。
顔を上げると、そこに立っていたのは、あの日以来一度も会うことのなかった総司だった。
心臓が大きく跳ねて、息が詰まる。
気付けばその腕に強く引かれて、店の奥にある棚と壁の狭い隙間に連れ込まれていた。
そして逃げ場を失った私の耳には、冷たく鋭い声が突き刺さった。
「王太子と随分と楽しそうにしてたね。僕のことはもう忘れた?」
世界が一瞬にして、薫様と歩いていた穏やかな時間から、総司の熱に呑み込まれていく。
何かを言う前に唇が塞がれて、その久しぶりの体温や温もりに、抑えていた気持ちが溢れてしまいそうだった。
『……そ……じ……』
いつになく余裕のないキスは、私の心まで不安定にしていく。
ようやく唇が離れ、息を吸い込みながら総司を見上げたけど、彼は苦しそうに顔を歪めて私を見下ろしていた。
「半年経っても、僕はずっと君を変わらず想ってた。毎日君のことだけ考えてたよ。でもセラは、もうあんな風に笑えるんだね。王太子の隣で」
総司の言葉が、胸を強く突き刺した。
必死に違うと言おうとしたけど、唇が震えてしまって、今にも泣き出しそうになる。
だから慌てて顔を背けても、総司の瞳はまっすぐに私を捉えていて、逸らそうとすれば追いかけるように覗き込んでくる。
その視線に逃げ場を失って、より涙が滲んでいくようだった。
「ねえ、どうしてあんな手紙で終わらせたの?何も聞かされないまま、いきなりアストリアに帰ることになって、僕がどんな気持ちでいたと思う?」
総司がそう思うのは当たり前だ。
今回のことは私の独断で決めたこと。
当日まで何も言わないまま、言葉を交わすことなく距離を置いてしまったのは身勝手な私の事情だったから。
『勝手に決めてごめんなさい。でも私はどうしても総司を護りたかったの。私には……あの時、ああすることしか出来なくて……』
「だったらどうして療養中に話してくれなかったの?」
『話しても総司は納得してくれないと思ったから……』
「そんなの、当たり前だよね。そんな理由で君が犠牲になるなんて、納得できるわけないじゃない」
『別に犠牲になってるわけじゃないよ。私がそうしたくてそうしたの。総司に何かある方がずっと辛いから』
「僕のことはどうでもいいんだよ。君さえいてくれれば他に何もいらないのに、どうしてわかってくれないの?」
『それなら総司は……総司がいない世界で生きていけって、私に言うの……?総司が王宮に運ばれてきた時、本当に瀕死の状態だったんだよ?総司がもう死ぬかもしれないって思ったら、私本当に怖くて、不安で堪らなくて……それなのに、僕のことはどうでもいいとか……そんなこと言わないで……』
あと少し増援が遅ければ。
そして総司の手当てに選りすぐりの医師数人を薫様がつけてくれなければ、総司は確実に命を落としていた。
あの時のことを思い出せば目頭が熱くなり、息を吸うたびに胸の奥が痛くなる。
今にも涙が溢れそうで、小さく唇を噛み、必死にこらえながら総司を見上げた。
総司は私の言葉を聞いて、まるで息を止めたように黙ってしまう。
その瞳は何も言わないまま私を映していて、痛いくらい真っ直ぐで苦しかった。
『私はもう、薫様に一生を誓ったの。だからこれ以上、総司とは一緒にはいられない。今だってもし総司といることが知られたら、また危険な目に遭うことになるかもしれないんだよ。だから私……もう戻らないと』
「……待って、セラ」
低く響く総司の声と同時に、私の手首は掴まれた。
その手は温かいのに、力強くて、私の腕を包み込んで離してくれない。
焦る心情で総司を見上げると、総司の瞳が必死に縋るように見つめていた。
「僕はまだ諦めてない。今すぐにはどうにもならないってわかってるけど、それでも終われないんだよ。それともセラは、本当にもう僕とは終わりだって、そう思ってるの?」
『……私たちはもう終わったの。総司は諦めないっていつも言ってくれるけど、気持ちだけではどうにもならないことがあるでしょう……?』
「わからないよね、そんなこと。でも諦めたら、全て終わりだよ」
『でも……ごめんね。私はもう……総司の想いに応えることができないの。だからお願い、もう離して……』
その言葉を言いながら、自分の胸の奥に刃を突き立てるような痛みに襲われた。
総司の瞳は深く揺れていて、苦しさと怒りと悲しみを宿した色をしている。
その顔を見ると胸が痛く切なくなるけど、総司の未来を護るためには突き放すしかないと思った。
本当はまだ大好きで、触れていたくて、ただ名前を呼び続けたいのに、今の私にはもうその資格がない。
その気持ちを飲み込むたびに、声にならない悲しみが心を壊していくようだった。
「ここで終わりなんて、僕にはできない」
総司の言葉は途切れ、その先は吐き出すのも苦しいように震えていた。
その瞳は大きく揺れて、ただ私だけを見つめてくれていた。
「セラを困らせたいわけじゃないんだ。君が公爵家を背負ってることも、あいつに縛られてることも、全部わかってるよ。でも……」
総司の私の腕を掴む手は震えている。
そのことに気付いて息を呑んだ時、総司が縋るように私を抱き寄せ、私の肩に頭を乗せた。
「……あんなふうに王太子に心を開かないでよ。心だけは、僕に残しておいてよ……」
『……総司……』
「僕のことを忘れないで。たまにでもいいから、僕との時間を作ってよ。君の心まで奪われるなら、僕はもう……耐えられない。君と二度と会えなくなるなんて、そんなの……僕には無理だ」
その懇願に胸が締めつけられて、涙がまた溢れそうになった。
あんなにも優しくて、真っ直ぐで、誰よりも強い人なのに。
今目の前にいる総司は、苦しげに泣きそうな声をしていた。
私の心は今もずっと総司にあるのに。
忘れることなんてできないし、私の気持ちは最初から全部、総司にしかないのに。
悲しみに震える総司を抱きしめてあげられないことが、辛くて堪らなかった。
『私が一番大切なのは総司だよ。どんなに時間が経っても、それは変わらないよ』
想いを込めて伝えると、顔を上げた総司の瞳が大きく揺れた。
その目に映る想いが私の胸をさらに痛くするけど、笑顔で言葉を続けた。
『私は総司のことを忘れるつもりはないよ。手紙にも書いたでしょう?宝物にして大切にとっておくって』
「だったら……」
『総司との思い出を大切にしたまま、私は薫様と結婚する。薫様を大切にする。だから総司とはもう会えないの。もう、決めたことなの』
綺麗事なのかもしれない。
でもこれは嘘偽りのない、私の本心だった。
どうにもならない総司への想いは残ってしまうけど、薫様との約束は果たすべきだし、果たさなければならない。
だって、私の一番大切な人を罪に問わないでいてくれたのだから。
『私ね、総司が幸せになってくれることを、なによりも願ってるよ。今は私だって辛いけど……でも時間が経てばきっと総司にもわかってもらえると思う。これが一番正しい道なんだって、そう信じてるから』
「僕の幸せは君といることだよ。僕から離れるのに幸せでいて欲しいなんて、そんなこと言われても無理だよ。セラは僕との思い出を大切にとっておくって言ってるけど、それって結局僕を忘れることと変わらないよね」
その問いに答えることはできなかった。
護りたいという願いや、愛してやまないこの気持ち、別れなければならない現実……その全部が胸の中で絡み合って、言葉にならなかった。
「僕はそんな中途半端なことはできないよ。会うことすら出来ないのに、思い出を残したままなんて辛いだけだ」
『総司……』
「それなら僕は、綺麗さっぱり君のことは忘れる。僕の中で、最初からなかったことにするよ」
胸の奥に鋭い刃を突き立てられたみたいで、思わず息が止まった。
さっきまで悲しみに滲んでいた翡翠色の瞳は、今は感情を閉ざしてしまったみたいに冷たく揺れていて、その視線がまっすぐに私を射抜いてくる。
「だから僕のことは心配しないで。君に幸せを願ってもらわなくても、君よりずっと可愛いお嫁さんをもらって、僕は幸せになるしね」
淡々とした声。
いつもはあんなに優しいのに、総司からの言葉は意地悪だった。
けれどこの言葉は、きっと本心とは違う。
ただ私を試すように、わざと突き放すことを言っているのかもしれないと思った。
だから涙を懸命に堪え、笑顔を作って、震える声で答えた。
『……うん、それでもいいよ』
そう言った瞬間、胸の奥が張り裂けそうに痛んだ。
だって本当は嫌だって……泣きながら縋り付きたいのに。
でも総司の未来を考えたら、それを口にしてはいけない。
総司が苦しいなら、私のことなんて忘れた方が総司はきっと楽になれるから。
けれど私の言葉を聞いて、総司の顔が苦しそうに歪んだ。
きっと私の言葉が、彼の心を逆に傷つけてしまったのかもしれない。
それでも私はそれに気付かないふりをして、微笑むことしかできなかった。
『総司……身体、まだ本調子じゃないんでしょう?無理はしないで、ちゃんと大事にしてね』
そう言って、掴まれた手首にそっと自分の手を重ねる。
温かい総司の手を、名残惜しさに震えながらも、ゆっくり指先でほどいていった。
『そろそろ薫様が戻ってくると思うの。見つかったら、総司がまた罪に問われたり、危ない目に遭うかもしれない。だから……ここでお別れにしよう?』
総司の瞳はなおも強く私を縋るように見つめていた。
その視線を受け止めるのが辛かったけど、総司と話すのはこれが最後になるかもしれない。
だから真心を込めて、総司に言った。
『総司、元気でいてね。今まで本当に沢山、ありがとう。私、総司と出会えて良かった』
総司に背を向け歩き出したものの、その足取りは震えていた。
一歩進むごとに、胸の奥が削り取られるみたいに痛かった。
でも、これが今の私にできる精一杯の愛し方。
この先の総司の未来が笑顔に溢れることを願いながら、大好きな人と決別した日だった。
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