4

あの日、総司と別れてからも、毎日は変わらず流れるように過ぎていった。
忙しさに追われて、ほっと息がつけるのは少しの休憩の時と、眠りにつく前くらい。
でもその短い時間には、必ず総司のことを思い出してしまう私がいた。

最後に見た総司の顔。
私が言ってしまった言葉を思い返すたびに、あの人を傷つけてしまったのだろうと胸が痛くなる。
総司が最後に残した意地悪な言葉を思い出すと、この期に及んで悲しくなってしまう自分に呆れてしまって……ただ静かに涙を拭うことしかできなかった。

何度考えても、他に道はなかったはずなのに、私の心はずっと総司を求めたまま。
その気持ちを胸の奥に押し込みながら笑顔を作ることで、一日一日を乗り越えていくことしかできなかった。


そして十七歳の誕生日が間近に迫ったとある夜、私は薫様に誘われて王宮のバラ園に向かった。
夜の静けさの中で広がる庭園は、昼間とはまるで違う世界だった。
月光に照らされた無数のバラは、白銀の露をまとったように輝き、夜風にそよぐと甘い香りが漂う。
歩みを進めるたびに花弁が小さく揺れるから、まるで星空の下で微笑みかけているみたい。
薫様は私の手を優しく導きながら、静かに言葉を紡いだ。


「セラがデビュタントを迎えたら、すぐにでも結婚したいと思ってる。だから今から少しずつ婚儀の準備を進めているんだ。俺はセラと夫婦になれることが、今から楽しみで仕方ないよ」


その声音は真剣で、私は胸が熱くなると同時に、どうしても抑えられない切なさを覚える。
総司と並んで歩む未来は、もう完全に叶わないのだと突きつけられるからだ。
それでも、薫様はこれまで私に惜しみない愛情を注いでくれた。
過ちを犯した私を責めることなく手を差し伸べ、私の心を守ってくれた人。
優しさに守られてきた日々を思えば、この人の気持ちに応えたいという想いが自然と込み上げてくるのも確かだった。

今までの日々を振り返っていると、ふと薫様は立ち止まり、私の前に静かに跪く。
月明かりに照らされるその姿は凛々しく真剣で、私は思わず息を呑んだ。


「セラ、俺は一生かけてお前を大切にする。だからこれから先も俺の隣で、一緒に歩んでほしい。俺と結婚しよう」


小さな箱を開けると、そこには澄んだ湖を閉じ込めたような輝きを放つアクアマリンのピアスが収められていた。
雫のようにカットされた宝石が、小さなダイヤモンドと組み合わされ、水面の光のようにきらめいている。


「指輪は式の日に渡すけど、代わりのものとして、どうしても今すぐに贈りたかったんだ。セラの瞳に似合うと思わないか?」


その真っ直ぐな言葉に、私の胸は熱く締め付けられる。
まさかこんな風に改めて求婚して頂けるなんて、考えてもみなかった。


『薫様、本当にありがとうございます。こんなに素敵な贈り物まで用意していただいて……私、幸せです。薫様が私のことを想って選んでくださったこと、とても嬉しいです』


言いながら涙が滲んでしまったけど、笑顔を崩さずに彼を見つめた。
薫様の瞳に温かな光が宿り、私の心を包み込むようだった。


『私、薫様のお傍でこれからも頑張りたいです。薫様が大切にしてくださるから、私も薫様を大切にして、一緒に歩んでいきたい。どうか……これからも、よろしくお願いします』


総司と過ごした夢のような日々は、今でも胸の奥で切なく疼く。
それでも薫様の深い愛情を受け止め、これからを歩む決意を少しずつ自分に刻んでいった。

薫様は私の手をとり、庭の奥へと歩みを進める。
たどり着いたのは、バラに囲まれた石造りの小さな東屋。
月明かりに照らされた白い柱には、夜露を纏った花々が咲き誇り、薫様は石のベンチへにハンカチを一枚敷くと、その上に私を座らせてくれた。


「俺がつけてあげる」


そう言って薫様は箱を手に取り、私の横に腰を下ろした。
そっと髪を耳にかけられ、温かな指先が耳朶に触れる。
僅かな感触なのに胸が跳ね、くすぐったさに思わず目をぎゅっと閉じてしまった。
その仕草を見たのか、薫様はくすりと笑った。


「そんなに可愛い反応をされると困るんだけど」

『だって、なんだかとてもくすぐったいのです』

「耳が弱いの?」

『そう言うわけでは……』


返す声が少し震え、胸の奥で遠い記憶が疼く。
耳をくすぐられて、同じように笑われた日のこと。
思わず総司の姿が蘇ってしまい、慌てて心の奥に蓋をする。
今は考えてはいけない、薫様の前では絶対に。

やがてピアスがきちんと耳に収められ、薫様の顔がぱっと綻んだ。


「やっぱりよく似合う。綺麗だ」

『ありがとうございます。とっても嬉しいです。ずっと大切にしますね』


鏡がなくて、自分の姿を見ることができないのが少し残念。
でも指先で宝石に触れると、澄んだ輝きが伝わり、心まで柔らかく温かくなった。


『私も薫様に渡したいものがあるんです』


いつも与えてもらってばかりで、返せるものが何もなかった。
せめて少しでも、私の真心を伝えたくて、私は懐から包みを取り出した。
薄い青の布に丁寧に包まれたそれを開くと、中から細長い革のしおりが現れる。
柔らかな白革に、銀糸で薔薇の花を刺繍したものだった。


『本を読むのがお好きな薫様に……と思って作りました。お手元に置いていただけたら嬉しいです』


胸の奥ではまだ痛む想いがある。
それでも今は、この人に少しでも自分の気持ちを届けたいと願った。

薫様はしおりを受け取ると、まるで少年のように目を輝かせて「凄く嬉しい」と囁き、私をふわりと抱きしめた。
胸元に顔が埋まると、薫様の心音が耳に届いて、私の指先まで熱くなる。
やがて薫様は私の頬に手を添え、顔を上げさせると、そっと唇を重ねてきた。

触れるだけの、遠慮がちなキス。
薫様の唇はいつだって私の心を気遣ってくれるように、柔らかくて優しい。
けれど今夜は、一度離れた後、再び重ねられた唇の奥に、そっと彼の舌が忍び込んできた。
ぴくり、と身体が揺れ、思わず薫様の胸元の服をぎゅっと掴んでしまう。
そんな私ごと包み込むように、背中に腕が回されて、優しく深い口付けが繰り返された。
薔薇の香りと夜気が混ざり、世界が揺らぐような感覚に胸がざわめいた。


『……薫……様……』

「……ごめん。ずっと我慢してたんだけど、嬉しくて……ついね」

『ふふ』

「なんで笑うの?」

『薫様ってもっと強引な方なのかなって最初は思っていたんですけど、実際は違って、凄く気遣ってくれて優しいんだなって』

「そんなんじゃない。変にがっついてるって思われたくないだけだ」

『あははっ……』

「だから、なんで笑うんだ!笑うな」


少し不器用で、でもとても優しい人。
それでいて、時々ふと寂しそうに笑う人。
そんなところが、どこか総司に似ている気がしてしまう。
だから私はこの人を憎めないし、こうして共に歩むことになった今は、きちんと向き合っていきたいと思える。


『薫様、好きですよ』


自分から告げるのは初めてだった。
総司に向けていた、焦がれて泣きたくなるほど幸せな溢れてしまう「好き」とは違う、もっと穏やかで、相手を包みたいと思えるような「好き」。
家族への想いにも似ていて、ちゃんと温度を持って胸に息づく気持ち。
薫様を思うと胸が温かくなるこの感情を、私は今やっと自らの意思で口にできた。
薫様の瞳が大きく揺らいで、嬉しそうに、そして切なそうに微笑んだ。


「初めてお前から言ってくれたね。嬉しくて、今夜は眠れそうにないな」

『ふふ。私も嬉しいですよ、今日のことがまた一つ、薫様との大切な思い出になります』

「ああ、俺も。セラ、お前が好きだよ。本当に、大好きだ」


再び唇が近づき、何度も確かめるように重ねられた。
こうしてこれから薫様に触れられるたび、総司がどのように私に触れてくれていたのか、思い出せなくなってしまうのではないか……そんな恐れが、胸の奥で小さく震えた。


「早くお前と結婚したい」

『楽しみですね、結婚式』

「挙式ももちろん楽しみだけど、俺はもっとお前を近くに感じたい。早くセラを隣に迎えて、時間をすべて共に過ごしたいんだ」


彼の瞳はもう一度私を見つめ、夜風に揺れるバラの香りの中で、指先がそっと私の髪を撫でた。
薫様の言葉に頬がじんわりと熱くなる。
落ち着かなくて思わず視線を逸らしたくなるのに、薫様の瞳があまりに真剣で、逃げられなかった。


「セラ。俺はもう、ずっとお前に触れたいって思ってるんだ。その意味、わかるよね?」


耳元に落とされた声は低く、熱を帯びていたからこそ目を見開く。


「結婚したら、多分……俺はもう我慢できなくなると思う。だからちゃんと、そのつもりでいてよ」


真摯に告げられる声に、心音が早くなってしまう。
顔が熱くなりすぎて、絶対に真っ赤になっていそうだと居た堪れない気持ちになった。


『そんなことを言われたら……どうしたらいいかわからなくなってしまいます……』

「どうしたらいいって、俺を受け入れてくれればいいだけなんだけど」

『今からそんな話をしないでくださいという意味です。薫様、破廉恥です……』

「ははっ、ごめん。でもわかっておいてもらった方がいいかなって思ってね」


思わず俯いてしまうと、薫様の指先がそっと顎に触れて、顔を上げさせられた。
目が合った瞬間、熱を帯びた眼差しを目の前に言葉が出なくなってしまった。


「俺はお前を大切にしたい。でも同じくらい、欲しいんだ。お前の笑顔も、声も……温もりも。全部俺のものにしたい」


耳に届く度に胸がぎゅっと掴まれるようで、息がうまくできない。
ただ薫様の瞳に見つめられて、抗うことなんて出来なかった。


「結婚したら、きっと今以上にお前に触れたくなると思う。だから……覚悟しておいてよ」

『……あの……私……』

「そんな顔するなよ。また我慢できなくなる」


引き寄せられるなり唇が重なって、私の瞳は閉じられた。
当たり前のようにこの温もりを受け入れているのに、当たり前のように総司を思い出してしまう私はきっと最低なんだろう。
こうして薫様と過ごしていれば、いつか……薫様だけを見て薫様だけを想える日が来るのかな。
そうなることを望んでいるのか、望んでいないのかもわからないまま、今夜も薫様の隣で微笑んでいた。


「そう言えば、近いうちに王宮で茶会を開く予定だ。俺達の婚約も正式なものになったし、結婚前に友人達にお前を紹介したいんだ」

『素敵ですね。薫様のご友人にお会いできることが今から楽しみです』

「幼い頃から付き合いのある者ばかりだし、気楽に構えてていいよ。以前セラが身体を壊した時に医師を一人呼んだだろ?あいつにも声をかける予定でいる」

『そうなんですね。あの時は本当にお世話になったので、改めてお礼が言える機会を持てて嬉しいです』

「ああ。だからセラも親しい友人がいれば呼んでもらって構わないよ。学院をやめてから誰とも会ってないだろ?」

『私もお声を掛けて宜しいんですか?』

「勿論。呼びたい相手がいたら誰でも招待しなよ」


嬉しい。
急に学院を退いてしまったから、皆に挨拶すらできていないままで心残りだった。
千ちゃんにだけは手紙を出したけど、流石に同性以外に出すのは憚れて、それっきりだったから。
でもはじめや伊庭君、平助君に声をかけるにしても、総司は……?
総司はどうしたらいいのだろうと固まったまま考えていると、不意に肩を薫様に掴まれた。


「いや、誰でもは駄目だ」

『え?』

「男は絶対呼ぶな。俺が不快になる」

『…………』

「聞いてるの?まさか男を呼ぶつもりだったわけじゃないよね」


思い浮かべた人は、千ちゃん以外は皆男性だったから苦い気持ちになる。
余計なことは言わない方がいいだろうと、私は咄嗟に微笑みを浮かべた。


『勿論、女の子にしか声を掛けません』

「良かった。セラは大体何人くらい声を掛ける予定?」

『一人です』

「は?一人だけ?」

『その……親しいと言える女の子のお友達は一人しかいないので』


隠しても仕方ないからはっきり告げたものの、唖然としている薫様の視線が少し痛い。


「お前……千鶴並みに友人がいないんだね」

『その憐れむような目はやめてください。私は……その、父がとても心配性で、学院に入学する前は他の家門の方々とは関わりがなかったんです』

「本当にそれだけ?今思い出したけど、セラっていつも男とばかり一緒にいたよね。あの護衛三人と、斎藤とかいう奴とか」

『それは、そうですけど……』

「そんなことをしてるから同性の友人ができないんじゃない?自業自得だね」


物凄く苛立った様子で睨まれて、思わずしゅんとしてしまう。
あの六人でいると居心地が良くて楽しかったから、気付いた時にはあのメンバーで定着していただけなんだけど。


『意地悪な言い方、しないでください』

「俺は別に虐めていない、事実を言っただけだ。それにセラはもう俺の婚約者なんだ。あんまり他の男と親しくされるのは困る」

『親しくなんてしませんよ』

「それならいいけど。俺の友人達にもあまり愛想振り撒かないでよ。勘違いされたら困るからね」

『勘違い、ですか?』

「お前が笑顔を見せると、変な気を起こす奴がいるかもしれないってことだ。俺以外の前では極力笑わなくていい。いいね?」


そんなことを言われても、妃教育では歯を見せない程度に優雅な微笑みを浮かべることが大事だと習っているのに。
取り敢えず頷いてみせれば、薫様は納得したように微笑んでいた。


「あと、その茶会に千鶴を呼ばないわけにはいかないんだ。不仲だと思われるのは避けないとならないからね」


千鶴様……。
あのお香の件があってから、殆どお会いしていないけど、偶然お顔を合わせても素っ気ない態度でいつもどこかに行かれてしまう。
本当は腹を割って色々とお話したいのに、薫様に千鶴様とは関わっては駄目だと忠告されていることもあって、いまだきちんと話をできずにいた。


『勿論です。千鶴様もご友人を呼ばれるのですか?』

「さあ、どうだろうね。話してないからわからないけど」

『薫様、そろそろ千鶴様と仲直りされた方が宜しいのではないですか?お香の件でしたら私も悪いですし、もう気にしていませんよ?』

「仲直りも何も、別に仲違いしているわけじゃない。ただ俺はあいつを許せないし、これ以上関わり合いになりたくないから距離を置いているだけだ」

『ですがたった一人の血を分けたご兄妹ですよね。何かお互い誤解もあるかもしれないですし、一度ゆっくり話してみてもいいのではないですか?』

「セラは千鶴のことをよく知らないからそう言ってくれるのかもしれないけど、あいつと話しても時間の無駄だね。誤解とか、そういう次元じゃない。千鶴は昔からおかしかった」

『おかしい……?』

「子供の頃も、あいつが気に入っていた乳母がいたんだけどね。その乳母が妊娠したら、千鶴はその乳母を階段から突き落としたんだ。普通、そんなことしないだろ?」


どこかで聞いたことのある話だと思えば、それは以前千鶴様から聞いた薫様の話。
薫様がそんなことをするなんてとても信じられなかったけど、あれは千鶴様ご本人の話だったということ……?


「あいつは多分ずっと満たされてないんだ。だから人の幸せが憎いんだよ、恐らくだけどね」


千鶴様はとても綺麗で儚くて、寂しそうに笑う方だという印象がある。
幼い頃から病弱で色々なことを我慢されてきたのかもしれないと思えば、満たされないという感情が芽生えてしまうのは仕方のないことのようにも思えた。
でもだからと言って人を傷つけてもいいかと言われたらそれは違う。
もしまた何か千鶴様と揉めるようなことがあれば、私は自分自身でこの身を守らなければと考えていた。


「とは言っても、俺にも同じ血が流れてるから似たようなところもあるのかもしれないけど」

『薫様はそんなこと……』

「実際、俺は沖田を殺すところだった。あの時は、どうしても許せなかったんだ。あいつさえいなくなればセラは俺を見てくれるかもしれないのにって思ったら、消えて欲しいと思った。それが正しいとか間違ってるとか……そういうことを考えるよりも前に、腹立たしくて仕方なかったんだよ」


総司がアストリアに戻ってから、薫様と総司の話をするのはこれが初めてだった。
薫様はきっと、私がどの程度総司のことを吹っ切れたのか気になっているはずなのに、私に総司のことを聞いてくることは一切なかった。
総司を危険な目に遭わせた薫様の行動は、今も私の中で複雑に残っているけど、一番悪いのはこの私。
薫様が総司を憎んでしまったのは、私が薫様を裏切り続けてしまったからなのだから。


『人に憎まれることは凄く苦しいことですけど、私は誰かを憎むこともそれと同じくらい苦しいことだと思うんです』


もし、あの時総司が命を落としていたら、私はきっと薫様を憎んでしまっていた。
そして、その原因を作った自分自身のことも、同じくらい強く憎んでしまったと思う。
だからこそ総司が目を覚ますまでは、心の奥を負の感情に侵されそうで酷く苦しかったのを覚えている。


『薫様をそういうお気持ちにさせてしまったのは私のせいです。ですから心から申し訳なく思っていますし、あの時……薫様がその憎しみに負けずに総司を助けてくださったこと、本当に感謝しています。私の願いを受け止めてくださった薫様だから、私は薫様を信頼できますし、薫様を大切にしたいと思えたんです』


私はまだ、総司を忘れたとは言えていない。
薫様の方が好きだとも言えていない。
今それを告げたとしても、きっとそれは嘘だと薫様もわかるだろう。
だからこそ彼は何も聞いてこないし、何かを強いることもしてこないだと思った。
けれどそんな薫様の優しさにいつまでも甘えるのは間違っていることも理解している。
薫様と結婚した暁には、一日も早くこの言葉を伝えられるように、努力したいと思っていた。


「セラといると……なんでだろうね。俺は自分でも驚くくらい優しい気持ちになれるんだ」

『薫様はいつも優しいですよ?』

「俺は優しくないよ。言っただろ?沖田を殺そうとしたって。そんな人間が優しいわけがないじゃないか」

『それは……事情があったからですよね。そもそも私のせいでもありますし』

「確かにあの時はお前にも腹が立った。でもお前は俺に懸命に謝ってくれただろ。その様子が本心からだってわかったから、俺もお前ともう一度やり直したいって思ったんだ。でも、そんな風に思うこと自体、俺としては予想外だった。きっとセラじゃなければそんな風に思えないし、俺は相手が一番傷付く方法で婚約破棄をしていたか、相手の気持ちを無視して無理矢理縛り付けていただろうね」


薫様は苦く笑い、ほんの少し視線を逸らした。
けれどすぐに、真っ直ぐな瞳で私を見つめ続ける。


「俺はきっと、お前が思ってくれているより弱くて狡い人間だ。それに王太子という立場柄、国のために冷酷にならなければならない時がある。優しさだけで務まる立場じゃないからね。でも、お前がそんな俺を信じてついてきてくれるなら、俺はお前を絶対に裏切らない。お前のために優しくありたいって思うよ」


強さと脆さの両方を含んでいる言葉を聞いて、初めて薫様の本当の心に触れられた気がした。
きっと薫様も、最初は私をもう一度信じていいか迷ったのかもしれないし、途中不安に思ったりしたのかもしれない。
けれど月日を経て私が薫様に心を開くことが出来たように、薫様もまた私に心を開いてくださったのなら、それは嬉しいと思うから。
私は微笑み、薫様を見上げた。


『私はまだ未熟ですけど、薫様が苦しい時も悲しい時も、寄り添える存在になりたいです。薫様を支えられる人になりたいと、今は心から思っています』


どれほど願っても時間は巻き戻らない。
あの日の選択を変えることもできない。
だから私は、薫様と歩む道を選んだ。
それは妥協でも代わりでもなく、私なりに出したひとつの答え。
総司を一番大切に思う心と、薫様と共に未来を築こうとする覚悟。
その二つは決して消し合うものではなく、相反しているようでいて、どちらも今の私の中に確かに息づいていた。

そっと差し出された薫様の手の温もりに、自分の指先を重ねた瞬間、胸が切なく震える。
総司と手を取り合い、笑い合ったあの頃の景色が蘇ってくるから、温かさと同時にこみ上げる切なさが、どうしようもなく胸を締めつけた。


「ありがとう、セラ。これから時間をかけて、いい夫婦になっていこう」

『はい、薫様』


小さく応えながら、心の奥で別の願いも抱いていた。
総司と過ごした時間も、総司が残してくれた温もりも、決して消えることはない。
総司がいたから、私はここまで強くなれた。
総司が護ってくれたから、私は自分の想いを貫こうとする勇気を得られた。

だから私はきっと大丈夫。
これから薫様の傍で、立派な王妃になれるよう努力を続けていける。

だからどうか総司も、未来を諦めないで欲しい。
私にとって一番大切な人である総司には、これから先きっと素敵な未来が待っていると信じているから。

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