5

あの日、セラと別れた時から、心の奥に沈殿したものは消えないまま、ただ積もっていくばかりだった。

あんな心にもないことを言った僕に、セラは優しく「それでもいいよ」と言ってくれた。
僕の身体を気遣い「ありがとう」と言ってくれた。
あの子の微笑みが、胸の奥でいまだに痛く残っている。
僕の嘘を見抜いていたのかはわからないけど、セラの瞳は温かい光を宿したままだった。

愚かな僕の言葉を受け止め、最後まで僕を大切にしようとしてくれたセラの優しさが、今になって僕を苦しめる。
どうしてあの時、優しい言葉の一つもかけてあげられなかったのだろう。
思い返すたび後悔ばかりが胸を締めつけて、眠れぬ夜を重ねていくばかりだった。

偶然でもいい、もう一度どこかで会えないかと考えることもあったけど、そんな奇跡が二度も起きるはずがない。
そうしている間にも月日は流れて、セラの十七歳の誕生日が間近に迫っていた。
デビュタントを迎えてしまえば、王太子と正式に結婚が発表されてもおかしくはない。
焦る気持ちを抱えながら過ごす毎日の中で、頭の片隅にはいつも一つの想いが渦巻いていた。

それは勿論、死に戻ることができるこの力のこと。
僕が死ねば、また回帰できるかもしれない。
またセラとやり直すことができるかもしれない。
至極愚かな考えだけが、僕の中で支えのようになっていた。


そんなある日、伊庭君と平助と並んで学院の廊下を歩いていると、馴染みのある顔に出くわした。
陽の光が差し込んだ窓辺に立つその姿は、見間違えようがない。
あの日以来、言葉を交わすことはなかった王女だった。


「ごきげんよう、王女殿下」


自然と足を止め、僕は伊庭君と平助と共に恭しく頭を下げた。
アストリアに仕える従者として、相応しい礼を尽くす必要がある。
その様子を見つめている王女は、取り繕うような微笑みを浮かべて僕たちを見返した。
王女の笑顔はまるで精巧な仮面のように整っているのに、その奥の感情がまるで見えないところは相変わらずだった。


「総司さん、お久しぶりですね。元気にされていましたか?」

「はい、お陰様で。王女殿下もお変わりなくお過ごしですか?」

「ええ。薫とセラさんが学院を退いてしまったから、少し物足りないですけれど……二人はとても仲睦まじくされていますよ。セラさんのデビュタントが過ぎたらすぐに結婚できるよう、薫が張り切って婚儀の準備を始めているの」


軽やかに笑うその声を聞いただけで、胸の奥が鋭く抉られるように痛かった。
僕がいくらあの子を想っていようと、この世界での僕とセラの繋がりは、とうに断ち切られている。
そう思わされるのが悔しくて、唇を噛んだ。


「そうですか。それは……喜ばしいことですね」


心にもない言葉を言った僕の心情なんて見透かしているのか、王女はくすりと笑って僕を見上げる。
苛立ちを隠して笑みを浮かべていると、何かを思い出したかのように僕達三人に視線を向けた。


「そう言えば、皆さまにお伝えしたいことがあったんです。今日お会いできてよかったわ」

「僕達に……ですか?」

「はい。実は近いうちに王宮で小さなお茶会が開かれる予定なんです。薫とセラさんのご婚約を祝うための、若い方々だけを招いた親しい集まりなのだけど。よろしければ、あなた方にもぜひご出席いただきたいと思っています」


その一言に、隣にいた平助と伊庭君が同時に顔を上げる。
平助は驚きながらも瞳を輝かせ、伊庭君は嬉しそうにすぐに頭を下げた。


「伺っても宜しいんですか?」

「光栄なお誘いでございます、王女殿下」

「後ほど王宮から招待状を送らせて頂きますので、楽しみにされていてくださいね」

「……お言葉ですが、本当に王太子殿下とセラお嬢様が、僕達を招待してくださっているんですか?」


思わず口をついて出た問いに、王女は少し微笑んで、まるで当然のように肯定する。


「ええ、セラさんが、あなた方三人に久しぶりに会いたいと仰っていたの。結婚も間近ですし、懐かしい顔ぶれで過ごすのも良いことだと薫も話していたわ。王宮でお待ちしておりますね」


セラが僕達に会いたい?
僕とセラの関係に引け目を感じていただろうあの子が、そんな浅はかなことを口にするはずがない。
あの日を境に、僕はアストリアに戻され、王太子とも正式な和解が済んでいるわけではない。
なのに、どうして今さら。
理由をいくら考えても答えは出なかった。

でもセラは伊庭君と平助には会いたいのかもしれない。
そうなれば僕だけに声を掛けない方がかえって不自然だ。
僕とセラのかつての関係を知っているのは、僕達の他には王太子と王女だけ。
だからこそ招待せざるを得ないのかもしれないと考えられなくはなかった。

とは言え、セラと僕が会わないよう学院まで退かせただろう王太子が、結婚前の大事な時期に僕達が顔を合わせることを許すとは思い難い。
もしもこれが王女の策略だとしたら、行かない方がいいのではないかとすら考えた。
でも万が一、王女な何かを企んでいて、その矛先がセラに向いているのだとしたら、僕は黙って見過ごすわけにはいかない。
そしてどんな理由であれ、もう一度セラに会えるのなら、僕はその機会を逃すつもりはなかった。


「総司、よかったな!今からすっげー楽しみになってきた!」

「セラに会えるのはいつ以来でしょうか。良い機会をいただけましたね」


王女が立ち去った後、二人は嬉しそうにそう言った。
王女の言葉を信じ、ただ素直に喜んでいる。
僕が否定すれば余計な疑念を抱かせてしまうだけだろうから、複雑な心情を押し込めて口元に笑みを浮かべた。


「……そうだね。僕も久しぶりに、セラと殿下にお目にかかれるなら、ありがたいことだと思うよ」


自分でも驚くほど、声は穏やかだった。
本当は胸の奥がざわついて、落ち着くどころではないのに。

でも、ようやくセラに会える。
あの声を聞いて、愛らしい微笑みを近くで見ることができる。
そう思うだけで僕の胸は高鳴ってしまうから、その日を心待ちにしないではいられなかった。



そして王女が言っていた通り、公爵邸には僕達三人宛に茶会の招待状が届けられた。
正装に身を包み、平助と伊庭君と共に会場へ向かうと、王宮のテラスには華やかな空気が漂っていた。
そこには身分の高い若者たちが集い、軽やかに談笑している。
その輪の中心にいるのは勿論、セラと王太子だった。

久しぶりに目にしたセラは、以前よりも大人びて、息を呑むほど綺麗になっていた。
純白のドレスに包まれたその姿は、光を受けて儚く輝いて見える。
大きく開いた胸元が白い肌を惜しみなく晒し、柔らかな影を描く胸の曲線がどうしても目に入ってしまう。
けれど艶やかさの中にも清らかさがあって、まるで手折られていない花のように初々しい。
その姿は可憐でありながら、どこか触れることを躊躇わせるほど神聖で、見惚れずにはいられなかった。


「なんか暫く見ないうちに、また綺麗になった気がするんだけど」


平助が小さく息を洩らす。
遠巻きに見つめるその横顔は、憧れを隠しきれていなかった。
伊庭君もまた心を奪われたように瞳を細め、言葉を落とした。


「そうですね。アストリアの白百合というより、まるで天使のようです」


確かにそうだと思った。
王太子の友人たちに囲まれ、微笑みながら会話をしているセラは優雅で愛らしい。
けれどその微笑みには僅かな隙があって、その隙間から零れ落ちる無垢さが、見る者の心を惑わせてしまう。
その瞳に真っ直ぐ見つめられたなら、一瞬にして恋に落ちてしまう者もいるだろう。
実際、周囲の若者たちは誰もが節度を保ちながらも、彼女に心を奪われているのが見て取れた。

そんな存在を、僕は一度でもこの腕に抱きしめて、愛情をもらった。
それがどれほど奇跡に近いことだったのか、今なら痛いほどわかる。
僕なんかが彼女の視界に入れたことすら、本当は分不相応だったのかもしれない。

ただぼんやりとセラを見つめていると、ふと後ろから肩を叩かれる。
振り向くと、そこには千ちゃんが立っていた。


「びっくりしたわ。沖田君達、来てたのね」


鮮やかな色のドレスに身を包んだ千ちゃんは、目を丸くして僕たち三人を見ていた。


「ええ、招待をいただいたんです。ですが周りは由緒ある方々ばかりで、どうにも気後れしてしまいますが」

「千も招待されてたんだな。てことは、はじめ君も?」

「そう言えば、斎藤君の姿は見えないですね」


伊庭君が辺りを見渡し、僕も視線を巡らせながら尋ねた。


「はじめ君は来てないの?」

「斎藤君は来ないと思うわ。招待されてないもの」

「そうなの?千ちゃんも招待されてるのに?」

「だって……」


千ちゃんが神妙な顔つきで何かを言いかけた時だった。
僕たちの傍に、柔らかな笑みを浮かべた王女が近づいてきた。
自然と皆で姿勢を正しそれぞれが王女に挨拶をすると、彼女はまた感情の読めない笑顔で僕達に言った。 


「もう挨拶はされましたか?」

「いえ、僕達はまだですよ」

「では一緒に行きましょう?他の方々は皆、挨拶を済まされていると思いますよ」


表面上は何気なく応じながらも、胸の奥では静かにざわつきが広がっていた。
いざセラと王太子の前に立つとなると、息を吸うだけで空気が重たく感じて足が少し鈍る。
どんな顔で二人に向き合えばいいのか、答えなんて出るはずもなかった。

それでも、少なからず時間は流れている。
セラと王太子はきっとあの件に縛られることなく、前に進んでいる。
だからこそ、こうして僕にも声をかけてくれたのだろう。
大丈夫、普通にしていろ、そう言い聞かせて一歩ずつ近づいた。


「セラちゃん!ごきげんよう」

『千ちゃん……!』


先頭を歩いていた千ちゃんの声が弾むと、それに応えるようぱっと綻ぶセラの顔は花が開くみたいで、僕の知っている大好きなあの笑顔だった。


「王太子殿下、セラちゃん。この度はご婚約おめでとうございます。末長く幸せにね」

『ありがとう、千ちゃん。久しぶりに会えて嬉しいよ』

「鈴鹿家のご令嬢だね。今日は俺達のためにありがとう。今後もセラと仲良くしてやってくれ」


和やかに続く会話を聞いていると、やがてその空気を断ち切るように王女が前へ出て、静かに告げた。


「薫、セラさん。お客様をお連れしたわ」


二人は王女に目を向け、それから僕達へ視線を移す。
でもその瞬間、二人の顔から笑みが消えて、瞳が揺らぐ。
その表情から歓迎されていないことがわかってしまったからこそ、胸の奥に嫌な予感が針のように突き刺さった。


「……セラ、どういうこと?声を掛けたの?」

『い、いいえ……』


小さく震える声。
その場の空気を敏感に感じ取った平助と伊庭君も、黙り込むしかなかった。


「私がご招待したの。セラさんもきっと、護衛の方々にお会いしたいだろうと思って」

「千鶴、お前……また勝手なことを……っ」


王太子の瞳に怒りが閃いた時、セラがそれを止めるかのように声をかけた。


『薫様』


そのひと言だけで、王太子の瞳から怒りの色が溶けていく。
そしてセラは、僕達に向かって微笑んだ。


『今日は来てくれてどうもありがとう。みんなに会いたかったから、会えてとっても嬉しいよ』


本当だったら嬉しい言葉だった。
僕だってセラに会いたかったから。
けれどそれが彼女自身の意思ではなく、王女の思惑で導かれたものだと思うと、素直に受け止められない。
それでも嬉しいと告げる彼女を否定することなんてできなくて、心が揺れ続けた。

僕達三人はぎこちなくならないよう出来る限りの笑顔を浮かべ、それぞれ祝いの言葉を述べた。
言葉は宙を漂うばかりで、足元に落ちていくように感じられた。


「さあ、せっかくですもの。皆さん、こちらへどうぞ」


拒む余地を与えないような、王女の声が明るく響く。
視線の先には、王太子とセラが座るテーブルのすぐ傍に、僕達の席が整えられていた。


「ご一緒しましょう?薫とセラさんも。護衛の方々とも旧交を温める良い機会でしょう?」

「……セラ、平気?」

『勿論。座りましょう』


王太子の気遣うような視線を受けて、セラは笑顔で静かに頷いた。
その横顔は微笑んでいるのに、切なさを隠すように硬く見えた。
僕達は皆、同じテーブルへ導かれていく。
僕は複雑な心境のまま静かに息を吐いて、椅子に腰を下ろした。


テラスの奥に並べられたテーブルは、王宮特有の華やかさに満ちていた。
透き通るようなガラス皿には小さなフルーツタルトや、砂糖を纏った薔薇の花弁の砂糖漬け、蜂蜜をかけた焼き菓子がいくつも並び、その隙間には宝石のように色鮮やかなマカロンが置かれている。
チョコレートやナッツのプラリネまで用意され、目にするだけで贅沢に思えてしまうような、王宮ならではのデザートが用意されていた。
やがて給仕のメイドたちが、銀のポットを手にして静かに近づく。
流れるような動きで紅茶が注がれ、繊細な香りがテーブルいっぱいに広がっていった。

周りのテーブルでは、招待客たちがそれぞれ笑顔で談笑していた。
けれど、僕達のテーブルだけは静かで、微かに重たい空気が覆っている。
言葉を探しても見つからずにいた時、一番最初に口を開いたのはセラだった。


『でも本当に驚きました。まさか総司と伊庭君、平助君が来てくれていたなんて。千鶴様、お気遣い頂きありがとうございます』


持ち前の明るさと愛らしさを崩さずに、そう微笑んでくれた。
きっとこの気まずい空気を一生懸命変えようとしてくれているのだろう。
そう思うと胸の奥が温かくなって、僕達も自然と微笑み返していた。


「いいえ。てっきりもうセラさんからもお声をかけているものかと思ったのですが、護衛の方々のことはお誘いしていなかったんですね。それならお声をかけさせて頂いて良かったわ」


王女の声音には、どこか棘が混じっていた。
その瞬間、王太子の視線が苛立たしげに細められるのが分かった。
それを感じ取ったのだろう、セラはすぐに笑顔で口を開いた。


『本当にありがたいです。私も皆には会いたかったので』

「そうなのですか?でしたらなぜお声をかけなかったの?」

『それは薫様が……』


ちらりと王太子を横目で見るセラ。
その仕草に、王太子の瞳がぱちくりと見開かれた。


『薫様がおっしゃったんです。不快な気持ちになるから、男性には声をかけるなと』

「なっ、そういうことをこの場で言うな……!」

『でも事実ではないですか。私は三人は勿論、はじめにも声をかけたかったのですが、薫様が制限をかけたせいで一人しか呼べませんでした』

「一人しか呼べないのは、同性の友人が少ないお前が悪いんだろ。俺のせいじゃない」


セラはわずかに膨れたように王太子を見つめている。
けれどそれは、この場を和ませるために、あえて持ち出した話なのだと僕にはわかった。
僕達が気まずい思いをしないように、さりげなく声をかけなかった理由を話してくれるのころは、本当に彼女らしいと思った。


「ふふっ、セラちゃん、手紙にも書いていたものね。女の子しか誘えない、他の皆には申し訳ないから内緒で来てねって」


千ちゃんが援護するように笑ってそうこぼすと、伊庭君と平助の表情にもようやく柔らかさが戻ってきた。


「そうだったんですね。それなら良かったです、僕達がいてお邪魔でしたらどうしようかと」

「ほんとほんと。さっきはちょっとショックって言うか、帰った方がいいんじゃないかって思っちまったし」

『ごめんね、私が正直に話しておけば良かったよね。でもこうして会えたから本当に良かったよ』


セラは僕達を一人一人見つめながらそう言い、最後に僕を見て、ふわりと顔を綻ばせた。
その笑顔は、胸の奥に触れるたびに痛くて、温かくて。
やっぱりこの気持ちだけは諦めきれない、そう切に思ってしまう瞬間だった。

- 405 -

*前次#


ページ:

トップページへ