6

柔らかな陽射しが差し込む王宮のテラスで、しばらく談笑が続いていた時のこと。
ふと薫様が私を見つめ、すぐに小さく声を落とした。


「セラ、背中の紐が緩んでるよ」

『え?』


慌てて手を伸ばすと、ドレスの背のリボンがわずかにほどけてしまっていた。
座っている間に緩んでしまったのだろう。
ほんの些細な乱れだけど、薫様は真剣な眼差しで私を見つめていた。


「このままだと落ち着かないだろ。隣の控室で直そう」

『ですが、折角皆さまがいらっしゃるのに……』

「すぐに戻ればいい。心配するな」


同じテーブルの方々に「少し席を外す」と言って薫様は立ち上がり、自然な仕草で私の手を取った。
ほんの数歩歩いただけでこんなにも落ち着かないのは、この場に総司がいるから。
まさか今日、総司に会えるなんて思ってもいなかったから、自分がうまく笑えているか心配だった。

控室に足を踏み入れると、薫様は扉を静かに閉める。
外のざわめきが遠ざかり、二人きりの空間にほっと息を吐き出した。


「ほら、じっとして。すぐに結び直す」

『ありがとうございます、薫様』


指先が器用にリボンを結び直していく感覚が、背中越しに伝わってくる。
黙って身を任せながら、ぼんやりと総司のことを考えていた。

今日、総司は私を見て優しく微笑んでくれた。
お祝いの言葉まで口にしてくれたその笑顔に安堵しながらも、どうしようもなく胸が苦しくなる。
ほんの少し前まで、共に歩む未来を夢見ていた人だからこそ、なおさら切なく感じてしまった。

総司がここに来てくれたのは、もう私とのことに区切りをつけたからなのかもしれない。
だからこそあんなにも変わらない笑顔で、私達に祝福をくれたのだろう。
だから私もいい加減悲しくなるのはやめて、前に進まないと。
この選択をしたのは、他でもない私自身なんだから。


「はい、できたよ」


不意に肩に温かい手が触れ、そっと振り向かされる。
お礼を告げた私をじっと見つめる薫様は、少し言いづらそうに口を開いた。


「ねえ、セラ」

『はい?』

「沖田と会って、気持ちが変わったりしてないよね?」


薫様が総司のことを気にされていることはわかっていた。
だからなるべく意識して薫様に話しかけ、微笑みかけるように気を配ったつもりだった。
けれど今目の前にいる彼は、いつになく不安気に瞳を揺らしている。
薫様を不安にさせることはあってはならないと、私は笑顔を浮かべた。


『変わっていません。私は薫様と結婚します、今日はそのためのお茶会なんですから』

「……それなら良かった。ごめん、つい心配になって」

『薫様が謝ることではありません。私こそ、先程は余計なことを言ってしまってごめんなさい。正直に話した方が、場がぎこちなくならないかと思って……』


もしあのままだと、まるで私や薫様が三人に声をかけたくなかったように思われてしまいそうで、それが心配だった。


「別に構わないよ。むしろ助かったくらいだ。千鶴が余計なことをして、本当にすまない」

『いいえ、このくらいのことは気にしていません』

「そう言ってくれると俺も安心するよ。ただ、気をつけて。千鶴は今日の様子だと、また何か仕掛けてくるかもしれないから」


薫様の言葉に、私も小さく頷いた。
確かにわざわざ総司達を呼んで、あえて空気を乱そうとした千鶴様の意図は感じていた。
けれどそうであっても、隣で私を気遣ってくれる薫様の存在が、今はとても心強く思えた。


『大丈夫ですよ、薫様がいてくださるから怖くありません。私、負けませんから』

「お前は千鶴に取って食われそうだから心配してるんだ。だからといって他の客人がいる手前、あいつを退場させるわけにもいかないし」

『心配してくださってありがとうございます。でも私は薫様の方が心配です』

「俺が?」

『はい。私のために我慢して、あの席に座ってくださっているんですよね。今日は薫様のご友人の方々も沢山いらしているのに』


控室の静けさの中でそう言葉を紡ぐと、胸が少し痛くなった。
薫様にとって今日という日は、晴れやかに楽しむための大切な一日のはずなのに。
けれど彼がいるのは、決して気楽とは言えない席。
私のせいで窮屈な思いをさせているのではと思うと、申し訳なく感じた。


「別に我慢はしていない。セラが隣にいてくれれば、それでいいから」

『……ですが、ご友人の方々ともっとお話しになりたいでしょう?もしよければ、私は別のテーブルに移っても構いませんよ。皆とはもう沢山お話しできましたから』

「それはしない」


薫様は即座に首を横に振る。
その表情は迷いのない決意のようなものに見えた。


「そんなことをしたら千鶴の思う壺だろ。俺があの場でお前を護れないと認めるようなものだ。そんなふうに思われるなんて、癪でしかない」

『そう……なんですか?』

「そうだ。だから俺は絶対に逃げない。どんなに居心地が悪くても、あの場から離れるつもりはないよ」


真っ直ぐに告げられたその言葉に、胸が熱を帯びた。
薫様が抱えているのは、私のことを大切に思うからこそ生まれる意地と誇り。
その強さが心からありがたくて、同時に私もこの人を護りたいと思えた。


『薫様……ありがとうございます。私、薫様がそうしてくださるなら、どんな空気でも大丈夫だと思えます。だからどうか、一人で抱え込まないでくださいね。私もちゃんとお傍にいますから』


そう言って微笑みかけると、薫様はわずかに目を細めて息を吐いた。
ふっと肩の力が抜けるように見えて、私の胸も少し軽くなった。


「そうやって俺を支えてくれるのはセラだけだよ」

『私は薫様の妻になるんですから、薫様を護りたいと思うのは当然です。それに支えてもらっているのは私も同じですよ』


薫様の表情が驚いたように揺れ、優しく綻んだ。
そして静かに私を引き寄せると、そっと唇が重なった。
それはいつも以上にやわらかくて、温かい口づけだった。
離れた後も、頬に添えられた彼の指先がそのまま残っていて、その温もりだけが私を包んでいる。
至近距離で見つめ返す薫様の瞳は、深い湖のように静かで、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。


「セラは、沖田より俺が好き?」


思いがけない問いかけに、思わず息を呑んだ。
心臓が大きく跳ねて、総司の笑顔や過ごした時間が光の粒みたいに溢れ出してくる。
今日、総司に会ってしまったせいで、心の奥にしまい込んでいた本当の気持ちが揺れて、言葉が喉に詰まった。

でも、ここで答えを間違えてはいけない。
薫様を悲しませたくない。
大切にしてくださるこの人を、傷つけることなんてできない。
だから私は微笑んで、苦しい想いを押し隠して言った。


『はい、薫様が一番好きですよ』


それは私の本当の心ではなかった。
でも、どうしても他の答えは選べなかった。
胸の奥で小さく「ごめんなさい」と呟いてしまう。
薫様は優しく、そしてどこか寂しそうに微笑んで私に言った。


「お前は……嘘が下手だね」

『え……?』

「聞くべきじゃなかったね。でもわかっていたからいいんだ。それに俺にはまだこれから時間がある。必ずセラの一番になってみせるから、その時はセラから言ってよ」


その声は穏やかなのに、遠くを見ているみたいで、胸が苦しく締めつけられる。
薫様は小さく笑うと、「戻ろう」と背を向け、控室を出ようとした。
私は慌ててその背中を追い、彼の手をぎゅっと握った。


『薫様、私が今見つめているのは薫様です。私が毎日幸せを感じられるのは薫様がいてくださるからなんです。それは本当です』


指先から彼の体温が伝わってくる。
それは確かに今ここにあるから、薫様の手を握ったまま、私は必死に言葉を探す。
胸の奥の罪悪感は消えないけど、どうしても伝えたいことがあった。


『私、本当に薫様と一緒にいると安心できるんです。こうして手を握っていると、心が静かになって……幸せだなって思えます』

「本当にそう思ってくれてるの?」

『はい。だから……どうか、そのことは疑わないでください。私にとって薫様は大切な方なんです』


薫様はしばらく黙ったまま私を見て、それから小さく息を吐いて微笑んだ。
その笑みはどこか寂しげだったけど、指先に力がこもり、私の手を握り返してくれる。


「セラにそう言ってもらえると、それだけで救われる。十分嬉しいから、そんな泣きそうな顔しないでよ」

『十分なんて……そんなことありません。私はこれからもっと薫様のお力になりたいんです。支えていただいてばかりではなくて、私も薫様をお支えできる人になりたいから』


そう言ったとき、薫様の瞳が少し揺れて、私の顔をじっと見つめてきた。


「俺はやっぱり、お前が好きだよ。どんな顔をしてても、どんな言葉を口にしても、全部愛しいって思う」

『薫様……』

「だから、焦らなくていい。お前の気持ちがどこに向いていても、俺は待てる。でも、こうして今隣にいるのは俺なんだってことだけ忘れないでいてくれる?」

『はい、忘れません。私の隣にいてくださるのは、これから先も薫様だけだと思っています』


私の言葉を聞いて薫様はふっと目を細めると、本当に優しい笑顔を見せてくれた。
その表情を見た瞬間、胸の奥にあった痛みが少しだけやわらいで、指先から伝わる体温が心に沁みていくようだった。


「セラ、今夜は朝まで俺と一緒にいてほしい。勿論何もしないから」

『はい。じゃあ……今夜は、こうして手を握っていてもいいですか?』

「もちろんだ。お前が離したくなるまで、ずっとこうしてる」

『ふふ、離したくなるまで?』

「ああ。と言っても、すぐに離したいなんて言われたら離してあげないかもしれないけど」


その言葉に、胸の奥がじんわり熱くなる。
切なさはまだ消えないけど、薫様と過ごすこの時間が確かに心を支えてくれていた。

私はまだ総司が大好きで、薫様の気持ちに本当の意味では応えることが出来ていない。
けれど薫様が待っていてくださるなら、私はこれからもこの人を見つめて、その優しさに触れて、いつか薫様に真っ直ぐ好きだと伝えたい。

今はまだその日が来ることを想像してしまうと心が苦しくなってしまうけど、この苦しさも愛おしさも、全て自分の強さに変えていきたい。
総司との思い出は私にとってかけがえのない大切なものだからこそ、この悲しさを乗り越えられる自分でありたいと思えた。


「じゃあ、戻ろうか」

『はい』

「あ、その前に」


薫様が悪戯に微笑んだと思えば、柔らかく唇が重ねられる。
思わず目を瞬いてしまった私を見て、彼はくすくすと笑っていた。


「間抜けな顔だね」

『もう、間抜けとは何ですか』

「ほら、行くよ。主役の俺たちがいないと、皆が寂しがるかもしれないからね」


薫様に手を引かれ、私達は控室を後にする。
ほんの少しの時間だったけど、私達の中にはまた一つ新しい絆が生まれた。
だから不安に思うことは何もないと、彼の後ろを歩いて行った。


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