7

控室から戻ってきたセラと王太子は、心なしか先ほどよりも穏やかな顔をしていた。
王太子が椅子を引き、綺麗な所作でセラをその場へと導いている。
二人が微笑み合う様子に、以前にはなかった絆のようなものを感じ取ってしまい、胸の奥が苦しくなった。

僕にできることは、セラの幸せを喜んであげることだけなのだろうか。
彼女が生きているだけで満足すべきだと、必死に自分に言い聞かせても、この心の痛みはなくなってはくれなかった。


「そういえば、薫とセラさんはもう学院をお辞めになったからご存じないかもしれませんけれど……総司さん、学院でご令嬢方から大変人気がおありなんですよ」


ぼんやりと紅茶を飲んでいると、王女からいきなり話を振られて、僕は目を瞬かせた。


「確かに、総司はめっちゃ人気あるよな」

「この前も、沖田君と話したいとご令嬢が教室まで押しかけてきてましたよね」

「そうよね。前から沖田君とお近づきになりたいっていう子は多かったけれど、復学してからは一段と目立っている気がするわ」


平助も伊庭君も、さらには千ちゃんまで同調するから、僕は苦笑いするしかない。
確かにセラが学院を退いてから、やたらと声をかけられることは増えた。
でもセラの前でそんな話題を出してほしくはなかったというのが本音だ。


「へえ、そうなんだ。良かったじゃないか、沖田」


王太子が軽く笑ってそう言うから、余計に苦い気分になる。
それを悟られないよう僕はわざと肩を竦め、言葉を返した。


「いえ、殿下にはかないませんよ。殿下こそ学院で大人気だったじゃないですか。しょっちゅう女の子達に囲まれていましたよね」

「俺はセラ以外に興味はないよ。他の奴なんて、どうだっていい」


殿下の言葉に、胸の奥が痛む。
僕だって同じ気持ちなのに、それをここで口にできるはずがなくて、ただ穏やかに笑って見せた。
そんな僕に追い討ちをかけるように、王女が優雅に首を傾けて言葉を継いだ。


「実はね、とあるご令嬢からあなたとのご縁を取り持ってほしいと頼まれているの。もし総司さんがお望みなら、正式なお見合いの席を整えて差し上げようと思っているのですけれど……いかがかしら?ご年齢的にも、そろそろご結婚をお考えになっても不思議ではございませんもの」


整った微笑みを浮かべていながら、それがただの善意ではないことはすぐにわかった。
これは僕とセラを揺さぶるためのものだ。
心底苛立ったものの、皆が見ている場で態度を荒げるわけにはいかず、僕は笑顔のまま言葉を返した。


「王女殿下のお心遣いは大変ありがたく存じます。ただ、僕はまだそういったことに関心がないんですよ。なので今回は遠慮させていただきます」

「まあ……関心がないというのは、嘘でしょう?もしかしてまだセラさんのことを引きずっておいでなの?」


さらりと紡がれた言葉に、思わず僕は目を見開いた。
王女の微笑みはさらに深まり、続けざまに言葉が落とされる。


「セラさんも、つい先日まで恋仲であった総司さんが縁談を受けるとなれば、やはり複雑なお気持ちになるのかしら?」


その瞬間、僕とセラだけでなく、周囲の空気も一気に凍りついた。
ただの軽い揺さぶりだと思っていた。
でも王女の狙いはそれだけではない。
僕とセラの関係を周囲に明らかにし、さらには王太子の面子までも貶めようとしているのだと理解した。


「……え?恋仲……?」


平助の声には動揺が滲み、伊庭君は信じられないといった瞳で僕を凝視している。
千ちゃんもこの異様な空気を感じ取ったかのように黙り込んでしまった。


「あら、もしかしてご存じなかったの?お三方はお二人と親しくしていらっしゃるから、当然知っているものだとばかり思っていたのだけれど」

「……千鶴、黙れ」

「でしたら……総司さんがアストリアへ戻された理由もご存知ないのかしら?」

「沖田君は任務で怪我を負い、長期療養が必要と判断され退いたんですよね?」

「いいえ。お二人が親密な仲だということを薫に知られて、総司さんは近衛騎士を解任させられたの。婚約した後も関係が続いたままというのは、いくらなんでも問題でしょう?」


王女の声は涼やかなのに残酷で、場は再び沈黙に包まれた。
王太子の瞳には怒りが宿り、その鋭さがより空気を張り詰めさせていた。
けれどセラは怯むことなく、柔らかな微笑を浮かべ、まっすぐに言葉を紡いだ。


『確かに私と総司は以前、千鶴様が仰られた通りの関係でした。そのことで薫様には心労をかけてしまい、今も本当に申し訳ないことをしたと思っています』


静かだけど、迷いのない告白。
その素直さに、王太子がその瞳を見開いた。


『ですが薫様はそんな愚かな私を今も傍に置いて、大切にしてくださっています。総司の身体も案じて、今後の立場が悪くならないように配慮もしてくださいました。なので私は今、薫様のことを心から大切に思っています』


はっきりとした響きを持つ言葉に、胸の奥が痛んだ。
その横で王女もまた笑みを消し、セラを真っ直ぐ見据えていた。


「でしたらセラさんはもう、総司さんに未練はないというの?」

『はい。私はもう薫様と未来に向かって一緒に歩き始めています。そしてそれは総司も同じだと思います。こうしてお祝いの言葉を述べに、今日もここに来てくださったではありませんか』


本当は僕の心の中からセラが消えることはない。
薄れる気配すらなく、むしろ日々深まっていく。
今セラがどんな気持ちを持ってその言葉を紡いだのかは僕にはわからないけど、僕はあの日の後悔を繰り返したくない。
懸命に前に進もうとするセラの足枷になるのではなく、少しでも背中を押せる存在でありたかった。
だからセラが選んだ未来を護るために僕ができることは、ただ悲しみに暮れるだけじゃない。
少しでもこの場を修復できるよう、言葉を添えることくらいは僕にも出来る筈だと口を開いた。


「そうですね。僕は以前、自分の感情に任せて動いてしまって、セラや王太子殿下にはたくさんご迷惑をおかけしました。ですが、その感情も今はもう過去のことです。僕自身の気持ちも、時間の中で静かに整理できましたから。だから今はただ、殿下とセラのご婚約を心からお祝いしたいと思っています」


そう言い切ったとき、セラがこちらを見て、温かな笑顔を見せてくれた。
まるで僕の心の奥まで知ったうえで、「ありがとう」と言ってくれているように。
でも王女は、悔しさを隠すように小さく笑みを浮かべていた。


「そうかしら?この前総司さんと話した時、とてもそうは見えなかったですけれど。総司さんはセラさんに捨てられた立場ですものね。わざわざ王宮の近衛騎士にまでなったのに、結局お傍にいることすらできなくなるなんて、本当にお可哀想」


苛立ちが胸の奥で膨れ上がり、口元の笑みも消えかけた時だった。
ふっと低く笑った声が響き、王太子が口を開いた。


「沖田が可哀想だって?こいつは別に可哀想なんかじゃない」


ずっと黙していた王太子の言葉に、思わず視線を上げる。
矛先がこちらへ向かうのを覚悟したものの、彼の鋭い眼差しは王女へと注がれていた。


「沖田は今後、アストリア騎士団でも十分やっていけるだろ。王宮の近衛騎士だけが出世の道じゃないし、沖田程の腕があれば、どこでだって問題なく活躍できると思うけど」


思いがけない庇い方に、僕は息を呑んだ。
あの日以来、会うことも言葉を交わすこともなかった王太子が、今僕をどう思っているかはわからない。
でも以前の世界で僕に殺意を向けていた王太子とはまた違うのだと感じずにはいられなかった。


「それに本当に可哀想なのは……千鶴、お前だよ。この場でその話を持ち出せば、俺やセラが困るとでも思ったのか?残念だけど、俺たちの間ではもうとっくに決着のついていることだ。互いに未来を選び、それぞれの道を歩いている。なのに、いつまでお前だけが過去に取り残されてるの?俺はお前のその姿こそが気の毒で仕方がない。もし心に何か抱えているのなら、俺やセラが聞いてあげるよ。ねえ、セラ」

『はい、そうですね。これからは家族になるのですから、なんでもご相談くださいね』


王太子とセラの言葉に、王女は目を見開き、悔しさを噛み殺すように唇を結んだ。
王太子の態度は、挑発するでもなく、ただ冷ややかに、子供のわがままを受け流すかのよう。
王女にとっては、それこそ最も屈辱的な返しだったのだろう。
再び僕達の周りは沈黙に包まれたけど、気まずい空気を破ったのは、千ちゃんだった。


「あの、そういえば……!最近、学院で紅茶の美味しい淹れ方を習っているんです。王女殿下も同じ講義をご受講なさっていましたよね?」


場を和ませるように弾んだ声が響く。
王女は僅かに顔を曇らせながらも、「ええ」と短く応じた。


『私も先日、おもてなしの心が大切だと習いました。敢えてホスト自らが客人にお茶を淹れるのが新しいマナーとして貴族の中で流行っているのですよね』


セラが柔らかく同調すると、空気が少しずつ和らいでいく。
王女はため息を一つ落とし、ようやく微笑を作った。


「セラさん、総司さん……先程は無礼を言ってしまいごめんなさい。ここからは楽しいお茶会にしたいと思うのです。良ければセラさん、お紅茶を淹れてくださらないかしら?実は指の骨折がまだ響いていて、うまくできないの。あなたのお手本を見せてもらえたら嬉しいわ」


声は穏やかで、先程までの棘が嘘のようだった。
セラは微笑んで立ち上がり、軽やかに頷いた。


『勿論です。習い始めたばかりで所作に自信はありませんが、精一杯努めさせていただきますね』


そう言って視線をカップへ落とす。
その中でも赤い縁取りの器が、ひときわ目を引いた。


『この縁が赤いカップは、薫様専用のものですよね』

「ああ。俺の分、セラが淹れてくれるの?」

『はい、頑張りますね』


ポットを傾ける彼女の白い手。
静かに注がれていく琥珀色の紅茶が光を受け、揺れるたびにきらめいた。
立ちのぼる香りと共に、セラの微笑む横顔はひとつの絵画のように映るから、僕はただその光景を目に焼き付けることしかできなかった。


『薫様、どうぞ。おいしく淹れられているといいのですが』

「ありがとう。良い香りだね」


差し出されたカップを前に、王太子はわずかに目を細める。
その声音は柔らかく、セラに向けられる笑みはどこまでも穏やかだった。


「うん、おいしいよ」

『ふふ、良かったです。これは、私が淹れた初めての紅茶なんですよ』

「それは光栄だね」


王太子が微笑んで再び紅茶を口にしようとした、その直後だった。


「……ぅっ、ぐ……!」


低く喉を引き裂くような声に、空気が一瞬凍りつく。
腹を押さえ、苦悶に歪んだ王太子の口元から、鮮烈な紅が吐き出された。


『薫様……!?』


セラが駆け寄るも、王太子の身体が大きく揺れて彼女の前に崩れ落ちる。
真っ赤な血がテーブルや床を染めると、客人達の悲鳴が波のように広がり、辺りは騒然となった。
カップが床に砕け、琥珀色の液体が広がっていくのが、やけに鮮明に目に映った。


『……薫様……っ、今、お医者様を呼びますから……!どなたか!お医者様を!』

「……は……、セラ……」

『薫様……大丈夫です、私がいますから……!』


必死に声をかけるセラの瞳からは、涙がこぼれ落ちていく。
床に座り込んだセラが躊躇うことなく王太子の血に濡れた手を握った。
彼女の白い指先やドレスが赤に染まっていくその姿は痛々しいほど必死で、見ている僕の胸まで締め付けられるようだった。


「……うっ……」


震える声と共に、殿下のもう片方の手がゆっくりと持ち上げられる。
力を失いかけた指先が空を彷徨い、やがて彼女の頬に触れようと伸ばされた。


『……薫様……』

「……泣く……な……」

『……薫様、しっかりしてください……もうすぐ私のデビュタントですよ……?お祝いしてくださる約束だったでしょう……?』


涙を浮かべながらも、頬にかかるかすかな温もりをセラはただ受け止めている。
その泣き顔を見上げる王太子の瞳は、今まで見てきた中で一番優しい色を宿していた。


「……最後に……セラに触れられて……よかった……」


途切れ途切れの言葉が、血の匂いと共に僕の耳に届く。
彼女の瞳から涙があふれ、声にならない嗚咽がこぼれた。


『……駄目です、最後なんて……言わないでくださいっ……』


彼女の必死の言葉に応えるように、王太子はかすかに微笑んだ。
けれど王太子の手から力が抜けていく。
瞳に宿っていた光も、静かに失われていった。


『薫様……?薫様っ……!』


二人の元に、以前セラの療養時に診断してくれていた医師が駆け寄ってくる。
そして王太子の脈を確かめ唇を噛み締めると、顔を歪めて首を横に振った。


「……殿下は既に……お亡くなりになられています……」

『そんな……そんなはずありません!きっとまだ助かります……!何か……何か処置を……!』


声は震え、涙は頬を伝い落ち続ける。
セラは王太子の胸に顔を伏せ、何度も何度も名を呼んだ。


『薫様……!お願いです、死んでは駄目です……!』


その叫びにも、王太子は何も応えなかった。
僕はただ、この惨劇が何故起こったのかもわからないまま、ただその場で立ち尽くすしかなかった。
けれどセラの泣き声だけが聞こえていたテラス内の空気を、甲高い王女の悲鳴が引き裂いていく。
それを合図に、王宮騎士たちが一斉にテラスへ駆け込んできた。


「王太子殿下を毒殺した女を捕らえなさい!その娘を地下牢に幽閉せよ!」


鋭い声が響き渡り、指差された先にいるのは、涙に濡れたセラの姿だった。
セラは血に濡れた殿下の手を握ったまま、ただ呆然と震えている。
無垢なその瞳に浮かぶ困惑と悲しみを前に、容赦なく数人の騎士が駆け寄り、彼女の腕を荒々しく掴んだ。


「来い!」

『やっ……、……薫様……っ』


必死に抗うセラの声が耳を突く。
その刹那、胸の奥に冷たい現実が突き刺さった。

どの世界でも、セラは必ず死を迎える。
何度回帰しても、今まで一度としてデビュタントの夜を越えられたことがなかった。
そしてこの世界でも、王太子殺害の罪を着せられれば、きっと死罪は免れない。
脳裏に浮かんだその結末に、僕の身体は考えるよりも先に動いていた。


「離せ……!」


駆け出した僕は、セラを取り押さえていた騎士の腕を乱暴に引き剥がす。
そしてすぐに別の騎士の鳩尾へ膝を叩き込み、倒れ込む隙を突いてセラを抱き寄せた。


『……総司……』


震える声が耳元に届いたけど、安堵する暇なんてない。
視界の端では客人達が悲鳴をあげ、テラスは完全に混乱に包まれていた。


「この子は毒なんか盛ってない……!」

「それはお前が決めることではない!その娘をこちらへ寄越せ!」

「罪のない子をどうして捕える必要があるんです?!」

「もういい!二人とも捕らえろ!その男も共犯だ!」


怒号が飛び、次々と剣が抜かれる音が響く。
十はいるだろう騎士達に囲まれ、僕ひとりで抗うにはあまりに分が悪い。
背に感じるセラの体温が、このままでは失われる未来を突きつけてきた。


「……っ」


剣を手に歯を噛み締めた時、耳の近くでは鋼の音が重なる音がした。


「総司!」


次の瞬間には、伊庭君と平助が剣を抜いて立っていた。
迷いも恐れもない瞳で僕達の前に並び、僕とセラを護ろうとしてくれていた。


「セラは王太子殿下を殺してなどいませんよ!話を聞かず一方的に捕えると言うのであれば、ここから先は通すわけにはいきません!」

「総司、行け!セラを頼んだ!」


二人が声を張り上げると同時に、数人の騎士が彼らへ殺到した。
火花を散らす剣戟の音が重なり、血の匂いが強まっていくようだった。


「貴様ら、わかっているのか!この行為は反逆罪だぞ!」

「こんなことをして、死にたいのか!」

「構うもんか!俺たちはセラを護るためにいるんだからさ!」

「命なんて、今更惜しくありませんよ!沖田君、急いでください!」


彼らが全力で道を切り開いてくれている。
二人を置いて行くことに胸が痛んだけど、僕は迷わなかった。


「……ありがとう」


短く呟き、僕はセラの手を強く握る。


「行こう……!」


涙に濡れたセラの瞳と一瞬だけ視線を交わし、そのままテラスを駆け出した。
背後では剣と剣がぶつかり合う轟音、仲間達の叫び声。
その全てを振り返りたい衝動を抑え、ただ彼女を導くように走り抜ける。

絶対に、この手を離さない。
今度こそどんな結末からもセラを救ってみせると、固く心に言い聞かせていた。

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