6
馬車の中で、セラがちらりと僕を見上げる。
その瞳がふと僕と合うと、照れたように微笑んだ。
式典の間は顔が強張っていたから、少し心配していたものの、今は穏やかな顔をしている。
そのことにほっとして、僕の口元も緩んでいった。
「楽しみだね、二年ぶりの建国祭」
そう言うと、セラは嬉しそうに小さく頷いた。
『うん、楽しみ。総司が私を好きになってくれてから、初めて一緒に回る建国祭だもん』
やたら嬉しそうに呟かれた言葉に、僕は一度きょとんとしてしまう。
「何言ってるのさ。僕は二年前からとっくに君が好きだったよ。僕は最初から君が好きだったって言ったじゃない」
『でも総司が私のことを好きって、二年前の私は知らなかったよ。でも今日は総司の気持ちを知っている上で、一緒に建国祭を楽しめるでしょ?それが嬉しくて』
弾んだ明るい声音が、僕の頬まで緩めていく。
こんな風に想いを伝えてくれるようになったのは、きっと今までの日々を積み重ねてきた証だ。
「じゃあ今日はいっぱい楽しもうね。二年前と違って、今日は遠巻きに山南さんと山崎君が見てることもないし」
『ふふ、そうだね。でも私、二年前の時もお二人が近くで護衛してくださってること、すっかり忘れてたの。総司のことしか見えてなかったんだ』
「ははっ、確かに。僕もセラを見つめることに精一杯だったよ」
『総司は完璧に護衛してくれてたもんね。私の場合はただ浮かれ過ぎちゃって。総司と二人で回れることが、本当に凄く嬉しかったんだ』
セラは頬を染めながら、外の街並みに視線を向けた。
窓の外には春色の旗が揺れ、人々の笑い声が響いている。
あの頃よりも少し大人びた横顔を見ながら、僕はふと懐かしさに囚われた。
「懐かしいな。あの時のセラは本当に嬉しそうにはしゃいでて、可愛かったの覚えてるよ」
『総司は今の私と二年前の私、どっちが好き?』
真剣な眼差しを向けられて、少し笑ってしまう。
この子はたまに、どうしようもなく愛らしい質問を僕にしてくる。
「どっちも好きって言ったらだめ?」
『だめ』
「えー?それは困ったな」
少しだけわざとらしく考えるふりをしてから、僕はその髪を指先で梳いた。
「僕は、その瞬間ごとに目の前にいるセラが一番好きなんだよ。だから今の君が一番好きかな」
『ふふ、良かった……』
安心したように小さく息をつく彼女を見ていると、自然と頬が緩む。
けれどついからかいたくもなって、意地悪な言葉が口をついて出た。
「でも、もし今ここに二年前のセラが現れたら、可愛くて抱きしめちゃいそうだけどね」
『……え?酷い、総司。浮気するの?』
「浮気も何もどっちも君でしょ」
『私は一人だけだもん』
ふいに拗ねたように唇を尖らせる仕草があまりに可愛くて、思わずまた笑ってしまう。
だけどその笑顔の裏で、胸の奥が少しだけ痛んだ。
セラは知らない。
僕が何度も同じ時間を繰り返して、何度も彼女を失い、そのたびに選び直してきたことを。
その全てを思い出すたび、懐かしさと共に胸の奥に罪悪感が滲む。
セラにとっては二年前だけど、僕にとってはもっと遠い記憶のようにも感じられた。
「じゃあセラは、二年前の僕と今の僕、どっちが好き?」
『勿論、今の総司だよ』
「へえ、即答だね」
『だって今の総司には、二年前の総司も全部吸収されてるもん。だから私は今までの総司全部が入ってる今の総司が一番好き』
その言い方が妙に彼女らしくて、僕は小さく吹き出した。
「あははっ、その言い方ずるいな。完璧な答えじゃない」
『ふふ。それにね、今の総司の方がもっと優しいし、ちゃんと好きって言ってくれるし、本当に大好きなんだよ』
セラはこの世界の僕しか知らないけど、僕の中には幾つものセラが刻まれていて、その全部を抱えたまま今この瞬間の彼女を愛しているのだと思った。
僕はそっと手を伸ばし、馬車のカーテンを閉める。
二人だけの小さな世界ができたところで、静かにセラの唇に触れた。
軽く触れるだけの、短い口づけ。
それでも、セラの温度が僕の心まで染み込んでいく。
離れるとセラはほんのり頬を染めて、嬉しそうに笑っていた。
「僕も大好きだよ」
そっとセラの手を取ると、先程の花贈りの儀でのことが思い出される。
以前の世界では何事もなく微笑んでいたセラが、今日は明らかに怯えたように見えたからこそ、気になっていた。
「今日、大丈夫だった?」
『式典のこと?』
「それもだけど、花贈りの儀でのことだよ。セラの手を握ってきた男がいたでしょ?怖がってたみたいだったからさ」
回帰してから、セラとは毎晩同じベッドで眠っているけど、この子が怖い夢を見てうなされたり、眠りの中で怯えたりする様子は一度も見られなかった。
けれど前の世界でのことが、いつこの子の中に流れ込んでしまうかと考えると、僕はどうしても以前のようにはセラの身体に触れることができない。
だからただ隣で、セラの穏やかな寝息を聞いているだけで今は十分だと思っていた。
『大丈夫だよ。最初はちょっと驚いたけど、総司が声をかけてくれたから安心したんだ。あの時はありがとう』
「僕は当たり前のことをしただけだよ。君に触れてくる男なんて、本当は八つ裂きにしても足りないけど」
『ふふ、総司あの時、目が少し怖かったもんね』
「そう?努めて穏やかに話したつもりだよ。それにセラが怖がってたみたいだから、そっちの方が気になってさ」
『知らない男の人に急に触られたりするのは、やっぱり少し……怖いかな』
前の世界で、僕は死ぬ間際にセラの身体を弄んだ近衛騎士五人を殺した。
それでも消えてなくならない怒りは今も僕の心で縛りつけて、ことあるごとに僕から冷静さを奪っていく。
セラの嗚咽混じりの泣き声、男達の高揚した会話や息遣い、部屋から聞こえてくる音。
あの全てが僕の中の大切な想いをずたずたに引き裂き、今も僕を苦しめていた。
「セラ」
そっとセラの頬を撫でれば、彼女の大きな瞳が僕をまっすぐ見つめている。
その眼差しに怯えはなかったけど、気付けば僕は聞いていた。
「僕に触られるのは、怖かったり嫌だったりしない?」
本当は、手を伸ばしたいと思う瞬間なんて、何度もあった。
けれどそれをしてしまったら、何かが壊れてしまいそうで怖かった。
それは僕自身があの時の傷をまだ癒せずにいるということもあるけど。
それ以上に、もし僕の手がこの子の記憶を揺らして、前の世界の苦しみを思い出させてしまったら。
もし、この子に拒絶されてしまったら。
そう思うと怖くて堪らなかった。
『うん。総司にはそんなこと思わないよ。むしろずっと触ってて欲しいくらい』
セラはふんわりと微笑むと、僕の手に彼女の手をそっと重ね、柔らかい頬を擦り寄せてきた。
その温もりに安堵と愛しさが混ざり合って、気づけば僕は小さな身体を抱き寄せていた。
「良かった。そう言ってもらえて」
首筋に顔を埋めると、セラの髪が香って、心臓の音が静かに重なった。
あの夜からずっと失う怖さを忘れられないでいたけど、今この瞬間だけはちゃんと生きている実感があった。
『総司のこと怖いとか嫌なんて、思うはずないのに』
「でも心配なんだよ。セラのことは大切にしたいじゃない。傷付けたくないんだ」
けれどセラはもう、何度も傷付けられている。
その身体も、心だって、もう何度も。
この子の記憶が残っていないのをいいことに、何もなかったことにして隣にいる自分が嫌だった。
でもこの回帰の話は他の人に話そうとしても、不可能らしい。
あれから文字に書き出す方法や、本の文字を指差しで伝える方法なんかも試してみたけど、僕の魂すら縛るようなあの感覚は、決して僕を自由にはしてくれなかった。
『何も心配しなくて大丈夫だよ。私は、総司と一緒にいられることが一番幸せで、今もとっても幸せ。今日は楽しい思い出たくさん作ろうね』
その笑顔を見た時、胸の奥の暗い影がすっと消えていく気がした。
前の世界で僕は何度も後悔して最後には君を失ってしまったけど、今はこうしてセラが目の前で微笑んでくれている。
だから、塞ぎ込んでばかりいても仕方ない。
この世界で、僕がやるべきことは決まっている。
過去を悔やむより、今目の前の彼女を護りたい。
この世界のセラの未来と笑顔を、何よりも大切にしたいと思った。
「そうだね。今日は久しぶりに二人で楽しくデートしようか」
『デート?』
「うん。ほかに何かいい言い方ある?」
『ふふ』
その笑い声が揺れて、春の光みたいにやわらかく響いた。
前の世界では、もうこんな笑顔を見ることはできなかった。
その事実を思い出せば、胸の奥に熱いものが込み上げて、僕はまたセラをそっと抱き寄せていた。
「セラ……やっぱり、可愛いね」
『なあに?急に』
「君が笑うと、僕はそれだけで嬉しいよ」
セラは照れくさそうに頬を染めて、視線を落とした。
その仕草までがどうしようもなく愛おしい。
小さく頬を染めたセラの顔に右手を添えて、そっと唇を重ねた。
優しく、深く、確かめるように唇を重ねながら、彼女の甘い息を感じた。
忍ばせた舌でやわらかな口内をゆっくりと撫でると、セラの肩が小さく震える。
それでも逃げようとはせず、ただ僕の胸の中で、あたたかい鼓動を重ねてくれていた。
「顔が蕩けちゃったね」
『だって総司がずっとキス……するから……』
「嫌?」
『ううん……総司とするの、気持ちいいよ……』
その小さな声が胸の奥に沁みて、思わず微笑んだ。
「僕も気持ちいいよ」
もう一度、そっと唇を重ねる。
ゆっくりとお互いの想いを確かめ合うように。
舌先が触れ合い、やがて自然に絡まり合う。
そのたびにセラの息がかすかに震え、僕の胸の鼓動が彼女に伝わっていく。
互いを想う気持ちが重なっていくこの時間は、どんな言葉よりも優しくて、痛みも癒してくれるかのようにあたたかい。
まるでセラのぬくもりが、僕の中の悲しみや前の世界で感じていた孤独を溶かしてくれるようだった。
「困ったな。こんなことしてたら、馬車から降りられなくなりそうだよ」
『それはだめ。デートしたいよ』
「勿論するよ。なんて言っても今日は、世界一可愛い君を僕が独占出来る特別な日だからね」
「総司も世界一かっこいいよ。その服装も似合ってる。凄く……ドキドキ……する……」
可愛い……
そんな顔で見つめられて、そんな甘えた声で言われたら、離れた距離なんて意味を成さなくなる。
どうしても触れたくなって、伸ばしかけた手を、なんとか自分で押し留めた。
「セラは僕だけにドキドキしてね、これから先も」
『うん、勿論だよ。総司こそ、他の女の子にドキドキしたりしてないよね?』
「してると思う?僕がセラしか見てないこと、君だってわかってる筈だよ」
『これから先もずっと?』
「うん、ずっと。永遠に。死んだ後も君が好きだよ」
僕の言葉を聞いたセラは、ふわりと花が綻ぶように笑った。
たわいもないやり取りかもしれないけど、僕にとってはどんな誓いよりも本気の言葉だった。
「建国祭の花贈りの儀、僕は毎年、君に花を贈るって約束したけどさ」
僕の言葉にセラは静かに頷いて、目を細めながら聞いてくれる。
その姿が優しくて、少しだけ胸が熱くなった。
「これから先も君の隣で年を重ねていって、建国祭の日には毎年、僕のことが一番好きって、セラに言ってもらいたいな」
過ごす時間の分だけ、彼女の中に僕への想いを積もらせて欲しい。
それは僕の心からの願いだった。
『建国祭の日、毎年総司に言うよ。総司が一番好きって。来年も、再来年も、その先もずっと』
「約束してくれる?」
『うん、約束する。一年経つごとに私からの好きはどんどん大きくなるんだから、総司もちゃんと受け取ってね?』
少し眉を寄せながらそう言うセラの仕草が愛らしくて、思わず笑みが零れる。
僕はその手をそっと取って、指を絡めた。
「勿論だよ」
そう返すと、セラはぱっと花のように微笑んだ。
その笑顔を見ているだけで、胸の奥が穏やかに満たされていく。
『今から来年の建国祭まで楽しみになってきちゃった。私、こうやって総司と少しずつ一緒に大人になっていけることが本当に嬉しい』
一緒に大人になっていけること。
その何気ない響きが、僕にはとてつもなく重く、尊いものに感じられた。
なぜなら、僕はセラと過ごす未来を何度も願いながらも、今までの世界では叶えられなかったからだ。
でも今度こそは違う。
この世界では死を越えて、セラと同じ時間を生きていく。
彼女が歳を重ねるたびに、僕も同じように歳を取っていきたい。
皺が増えても、声が掠れても、隣で笑っていたい。
そしていつか、その全ての瞬間を幸せだったと言えるようにしたい。
その笑顔を見届けるためなら、何度でも運命に抗ってみせる。
『気持ちいい春の風……』
馬車を降り、見上げた空は穏やかで澄んだ青だった。
遠くで風が揺らす木々の音が、まるで未来を祝福するように聴こえる。
この世界では、君と最後まで生きる。
そう心の中で静かに呟きながら、僕はそっとセラの肩を抱き寄せた。
その温もりが確かにそこにある限り、僕は何度だって諦めないと思えた。
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