7
建国祭の街は今年も賑やかで、春の光が石畳をきらきらと照らしていた。
総司と並んで歩くたびに、行き交う人々の笑い声や笛の音が遠くから響いてきて、胸の奥まであたたかくなる。
『総司、見て。あのお店、すごく綺麗な飾りつけしてるね』
「ほんとだね。花の細工まで細かいな」
そのお店は色とりどりの花冠や、金糸で縁取られた布飾りが風に揺れている。
総司が小さく笑って、私の髪の上にそっと花冠を乗せてくれた。
「うん、似合うよ。まるでこの街の精霊みたいだね」
『そういうことは言わないで。恥ずかしいよ』
お店の方々まで私達を見て微笑んでいるから、頬が少し熱くなる。
でも本当は嬉しくて仕方なかった。
少し照れながら笑い合って、焼きたてのパイを半分こしたり、通りの音楽隊の奏でるリュートの音を聴いたり。
気づけば、二人でたくさん笑っていた。
花びらが舞うと、総司が私の髪に触れて取ってくれて、その指先が頬をかすめるたび、胸がくすぐったくなる。
総司と一緒にいると、ほんの小さなことひとつひとつが宝物になるから不思議だと思った。
夕方になり、私達は人通りの少ない高台になっている場所へ向かう。
夕日を眺める人達が集まる静かな一角では、街のざわめきも遠くに霞んでいた。
「あれ?セラと沖田じゃないか」
聞き慣れた声に振り向くと、数人の従者を連れた王太子殿下が、少し驚いたようにこちらを見ていた。
『王太子殿下、ご機嫌よう』
「ご機嫌よう。殿下もいらしていたんですね」
「ああ。いつもと雰囲気が違うから、最初はわからなかったよ」
私と総司は顔を見合わせてから殿下に微笑みを向ける。
建国祭の華やかな人混みの中にいるせいか、殿下の笑みもどこか柔らかく見えた。
『殿下も建国祭にいらしてくださっていたのですね』
「祭は民の心を映す鏡だからね。こういう日には街の空気を直接感じられるし、王となる身なら当然だ」
『さすがは殿下です。アストリアの建国祭、楽しんで頂けましたか?』
「ああ、それなりに。それに思いがけず、面白い格好のお前たちを見れたしね」
「殿下も今日はいつもと雰囲気が違いますね」
「堅苦しい格好だと、祭を歩くのに目立つだろ?どこへ行っても皆が構えてしまうから居心地が悪い。今日はあくまで祭を見に来ただけだから軽装にしたんだ」
「確かに、今の殿下は普通の人みたいですよ」
「俺を普通扱いする奴なんて沖田くらいだ」
総司の柔らかな言葉に、殿下は呆れたように笑みを零す。
二人の間に流れる穏やかな空気を感じながら、私はその横顔を交互に見つめていた。
「あ、そうだ」
殿下がふと、何かを思い出したように私を見る。
そしてゆっくりと外套の内側に手を伸ばし、丁寧に包まれたひとつの小包を取り出した。
殿下が私の方へ一歩進み、包みを開くと、その中から現れたのは一輪の白百合の花。
まるで雪明りを集めたように清らかで、私は思わず息を呑んだ。
「これ、お前に。もし会えたら渡そうと思ってたんだ」
『……私に……?』
「アストリアでは、お前のことを白百合って呼ぶんだろ?可憐で、気高くて、誰よりも清らかな象徴だって。だからこの花を渡したかったんだ」
思いがけない言葉に目を見開いてしまったのと同時に、白百合の花を見た瞬間、心の奥がざわめいた。
以前にも、殿下に白百合をもらった気がする。
もっと沢山の、手いっぱいに抱えるほどの白百合を。
殿下は少し照れたように微笑んで、「お前には白百合が似合うね」って、そう言ってくれた。
でも……そんなこと、現実では起きていない。
だからこれは……夢の記憶?
それとも、私の錯覚……?
「セラ?どうしたの?」
総司の優しい声で我に返った。
はっとして顔を上げると、殿下が首を傾げて私を見ている。
「何してるの?早く受け取りなよ」
少しだけ焦れたように言いながら、殿下が私の手に白百合を握らせた。
殿下の手が私の上に重なり、しっかりとその花を持たせてくれる。
その温もりは怖くなくて、むしろよく知っているような気がしてしまった。
だからこそ、そう感じる自分の感情を不思議に思いながらも殿下を見上げた。
「うん、お前には白百合が似合うね」
……同じだ。
夢の中で聞いたのと、まったく同じ言葉。
思わず殿下を見つめてしまうと、彼も私に視線を返して、それから少し照れくさそうに目を逸らした。
「なに?じっと見て」
『あ、あの……白百合、ありがとうございます。とても綺麗で……嬉しいです』
「ああ」
『まさか殿下からお花を頂けるなんて思ってもいませんでした。ですが、どうして式典の時ではなく、今?』
「あんな大衆の前で、王太子である俺が列に並んでお前に花を渡せると思うのか?」
「律儀に順番を守って並ぶ殿下も、僕は見たかったですけどね」
総司がにこりと笑って言うと、殿下は呆れたようにため息をついた。
「ふざけるな。そんなこと、誰がするか」
そう言いつつも、どこか柔らかい笑みを浮かべる殿下。
この花を、他の誰でもなく私に渡そうとしてくれたのだと思うと、胸の奥が温かくなった。
でも同時に、なぜか少しだけ痛くもあった。
白百合を見ると安らぐのに、殿下を見ると切なくなる。
理由はわからないのに、心が揺れて仕方なかった。
「なんか……今日はやたらとぼんやりしてない?」
「きっと今日は式典や花贈りの儀で、この子も疲れてるんですよ」
総司が庇うようにそう言うと、殿下は「ふーん」と小さく呟いた。
「まあいいけど。取りあえず花は渡したし、俺はもう行く。また学院で」
背を向けて歩き出す殿下の背中を見れば、理由もなく、胸の奥が強く締めつけられた。
何か言わなければならないことがあった気がする。
でもそれが何かもわからないまま、気づいた時には殿下を引き止めるように彼の手を握っていた。
驚いたように振り返る殿下と目が合って、はっとして慌てて手を離した。
『あ……ごめんなさい……』
自分でも、なぜ引き止めてしまったのかわからなかった。
ただ今このまま別れたら、もう二度と会えないような気がして、身体が勝手に動いていた。
『殿下、今日はお忙しい中、アストリアの建国祭にお越しいただいて本当に光栄でした。綺麗なお花も、ありがとうございます。大切に飾らせていただきますね』
ようやく口にできたのは、そんな当たり障りのない言葉だった。
それでも感謝の気持ちだけは込めたくて、そっと微笑んだ。
「お前が喜んでくれたなら良かった」
殿下は少し目を細めてくすりと笑うと、人混みの向こうへと歩き去っていった。
残された私は、ただその後ろ姿を目で追いながら、白百合を胸に抱きしめる。
指先に残る温もりがどうしてか離れなくて、流れ込んできた記憶の断片を不思議に思っていた。
「セラ」
『うん?』
「その花、貸して」
穏やかな声に頷いて、私は殿下からいただいた白百合を差し出した。
けれどそれを受け取った総司の瞳が、一瞬だけ曇ったように見えた。
その花を大事に持ってくれるのかと思っていたのに、総司は私を連れてすぐ傍の街のダストボックスへと歩いていく。
その手が花を放とうとした瞬間、私は思わず彼の腕を掴んでいた。
『待って、どうして捨てるの?』
「どうしてって、今さら花なんていらないでしょ。持ってたら邪魔になるし」
『邪魔じゃないよ。私、持てるから……貸して?』
笑顔でそう言ってみても、総司の目は静かに細められるだけ。
どこか苦しげなその表情に、胸の奥がざわめくのを感じた。
「なんで?王太子からの花がそんなに大事?」
『そういうことじゃなくて……折角いただいたお花を無碍に捨てるなんてしたくないの』
「大丈夫だよ。気付かれなければ問題ないと思うけど」
『そういう問題じゃないよ。それにそれは私が貰った花だよ。だから……返して?』
静かに訴えると、総司は眉を寄せて私を見下ろしていた。
「嫌なんだよ。君が他の男からもらった花を持ってるのは。だから捨てて欲しいって言ってるんだけど」
『でも……相手が誰からだとしても、心が込められたものを捨てるのは良くないと思うから……』
「じゃあセラは、僕が他の女の子からもらった花を大事に持ち歩いてても、何も思わないの?」
その言葉に息が詰まった。
総司がもし他の子から花を貰って、それを大切にしていたら、私だって胸が痛むかもしれない。
でも、だからといってそれを捨ててほしいなんて思わない。
総司の心は私にあると、そう信じているから。
『私は総司が好きだよ。特別なのは総司だけだよ。だからそんなに心配しないで?』
「質問の答えになってないけど」
『……たとえ総司が他の女の子からお花を貰って、それを大事にしていたとしても、それを捨ててほしいなんて思わないよ。だって……私は総司を信じてるし、お花に罪はないから』
はっきりと告げれば、総司の瞳がわずかに揺れた。
その奥に何かを押し殺すような影が見えた気がして、どうして総司がそんなにも不安そうなのかわからないまま、私は彼を見上げていた。
「信じてるって、便利な言葉だよね。根拠なんてなくても、そう言えば丸く収められると思ってる?」
静かな声なのに、どこか棘があった。
初めて聞く総司からの冷たい声の響きに、思わず言葉を失った。
「セラは確かに、逆の立場でも僕に花を捨てろなんて言わないだろうね。でも僕は君みたいに余裕なんてないし、心も広くないんだよ。ごめんね、こんな奴で」
『……違うよ……そういう意味じゃなくて……』
「はい、これ返すよ。良かったね、綺麗な白百合。君にお似合いだよ」
差し出された白百合を受け取る指先が、小さく震えた。
白い花びらが夕方の風に揺れて、儚く見えた。
総司にこんな冷たい態度を取られたのは、今日が初めてだった。
いつもは優しくて、どんな時も穏やかで。
だからこそその変化が胸に刺さって、どうしていいかわからなくなってしまった。
「さ、行くよ」
短くそう告げて歩き出す総司の横顔は、いつもより少し遠く見えた。
でも人の多い通りでは、相変わらず私を庇うように歩いてくれる。
その変わらない優しさに胸が締めつけられて、言葉がうまく出てこなかった。
それからどれくらい歩いただろう。
街の喧騒が遠のいた頃、総司は馬車の前で振り返った。
「はい、乗って」
『……もう、帰るの?』
「帰るよ」
有無を言わせないようなその一言が、胸の奥に沈んでいった。
このままだと、折角の建国祭が終わってしまう。
それは嫌だと唇をきつく結んで、懸命に言葉を探した。
『私……星灯りの舟の儀式……行きたいな』
それは建国祭の最後を飾る、大好きな儀式。
灯りがゆらゆらと水面に揺れるのがとても綺麗で、湖に小さな灯りを流して願いを込める伝統行事。
二年前の建国祭でも、総司とその光を見ながら、静かに幸せを祈ったよね。
今日も総司と一緒に湖に浮かぶ光を見たかったから、ここで終わってしまうのが嫌だった。
きっと総司は、少し不機嫌な顔をしながらも「いいよ」って言ってくれる。
謝れば、またあの優しい声で笑ってくれる。
そう信じて見上げたけど、彼の瞳は私を通り過ぎるように逸らされた。
「行きたいなら、城に戻ってから他の護衛を連れて行ってもらえる?」
『え……?』
「疲れちゃったんだよね。今日はもう護衛に集中できそうにないし、そんな僕といて君が危険な目に遭ったら大変でしょ。だから伊庭君とか平助とか……山崎君あたりにお願いしてみれば?」
穏やかな声なのに、総司との間には見えない壁ができてしまったみたいだった。
私が儀式に行きたいって言ったのは、まだ総司と一緒にいたかったから。
ただ、それだけのことなのに。
総司はきっと、その気持ちに気づいている。
それなのに、どうして……
「取り敢えず、帰ろう」
帰りの馬車の中、総司は何も話さなかった。
いつもなら他愛のない話をして私を笑わせてくれるのに、今日はただ窓の外を眺めているだけ。
私も言葉を探しても声にならならず、たた涙がこぼれそうになるのを必死でこらえて、俯くことしかできなかった。
馬車を降りた後も、私たちはほとんど言葉を交わさないまま、お城の廊下を並んで歩いた。
でもこのまま総司と気まずいままではいたくない。
部屋の前に着いたとき、私は小さく息を吸って、思いきって口を開いた。
『今日は付き合ってくれてどうもありがとう。建国祭、とっても楽しかったよ。総司と回れて嬉しかった。あと白百合のこと、ごめんなさい……』
言葉を選ぶほどに胸が締めつけられて、声が震えそうになる。
それでも少しでも素直な気持ちを伝えたくて、勇気を出して総司を見上げた。
けれど、やっぱり彼は目を合わせてくれなかった。
静かに息を吐いて、小さく頷いただけだった。
「いや、気にしないで。セラは何も悪くないし、僕の方こそごめん。今日はセラも疲れたでしょ、ゆっくり休んで」
穏やかに聞こえるその声の奥に、ひどく遠い冷たさがあった。
総司は最後まで微笑むこともなく、ただそれだけを言って、自室の中へ入って行ってしまう。
『……あの、総司』
私はそっと呟いた。
でも返事はなく扉が静かに閉まる音だけが響いて、胸がまた痛み出す。
部屋に戻ると、窓辺から見える夕日はもう殆ど沈みかかっていた。
『……酷い顔』
鏡に映る自分の顔は少し赤くて、目の奥が潤んでいた。
どうしてこんなことになってしまったんだろう。
総司は、私が殿下から花を受け取ったことがそんなにも嫌だったのかな。
それとも、私の言葉が足りなかった?
どこで間違えたのか、何が正解だったのか、何度考えてもわからなかった。
でも……思うの。
きっと私は、総司の気持ちをもっと汲んであげるべきだった。
あの時、総司の言葉に反論せずに、総司が望む私でいれば良かった。
そうしたら、きっとあんな顔をさせずにすんだのに。
今も二人で建国祭を楽しく過ごせていたかもしれないのに。
けれど自分の気持ちを偽って、ただ総司の機嫌を取るように振る舞うことが、正しいとは思えなかった。
決して殿下を優先させたというわけではなく、嘘の笑顔で総司の隣に立つなんて悲しいと思った。
『……っ……』
涙が静かに頬を伝って、花びらの上に落ちる。
音も立てずに消えていくその雫が、まるで今日の記憶みたいに思えた。
どうして上手くできないんだろう。
どうして、好きな人をこんなに悲しませてしまうんだろう。
総司の隣で過ごした時間はあんなに幸せだったのに。今はもうそのぬくもりが遠くに感じる。
窓の外には、建国祭の灯りがまだ小さく瞬いていた。
けれどそのどれもが遠くて、まるで別の世界の出来事のようだった。
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