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朝の光が、薄いカーテンを透けて柔らかく差し込んでいる。
揺れる光がセラの頬を淡く照らしていて、静かで穏やかな朝だった。

そろそろ侍女が来る時間だ。
セラを部屋に戻さなければと思いながらも、僕はしばらくその寝顔を見つめていた。
昨日はあんなに泣いていたのに、今は静かにすやすや寝ている。
その穏やかな寝顔が、どこか儚くて胸が痛んだ。

前の世界での記憶を、セラはまた思い出してしまったんだろう。
たとえ断片的だったとしても、あの嗚咽混じりの泣き声を聞いた時、すぐに分かった。
一番恐れていたことだったから尚更。
あの何かに怯えた瞳や、震える手で必死に身体を洗おうとしていたあの子の姿が、頭から離れてくれなかった。

あの時の無力感が、今も消えない。
どれほど強く誓っても、セラの心を護りきれなかったという現実が、また胸に刺さるようだった。
どうすれば、セラがこれ以上傷つかずに済むのか。
何が正しいのか、答えなんて分からない。
それでも僕がこの子を支えなければと、白く柔らかい頬をそっと撫でた。


「セラ」


声をかけると小さく身じろぎして、綺麗な碧瞳がゆっくりと開く。
昨晩泣きすぎたせいで、目元が少し赤い。
それでもその瞳は、朝の光を受けていつものように澄んで見えた。


『総司、おはよう』

「おはよ。体調はどう?無理しないで今日は学院休んだら?」

『大丈夫だよ、ちゃんと行けるよ』


甘えた声でそう言って、セラは僕の胸元に頬を寄せてくる。
その仕草がいつも通りで、複雑な心情になった。


「本当に?」

『うん。昨日はごめんね、総司のこと起こしちゃって』

「謝らなくていいよ。本当に平気なの?」

『うん。ただ怖い夢を見ただけだもん。それなのにあんなに取り乱して、おかしいよね』


えへへ、と笑って見せたその笑顔はいつも通りに見えるけど、どこかで無理をしているようにも感じられた。


「あんなに泣いてたから心配なんだけど。やっぱり今日は無理しないで休もうよ」

『本当に平気だよ。学院に行った方が気が紛れるし、総司がずっと抱きしめてくれたからもう元気。ありがとう』


……本当に平気なのかな。
とは言え、あまり心配しすぎると、セラが余計に気にしてしまう。
それだけは避けたいと思い、僕は静かに身体を起こした。


「わかったよ。それにそろそろ部屋に戻らないとね」


そう言いながら、セラを横抱きに抱き上げる。
細い肩が僕の腕の中に収まって、彼女が少し驚いたように見上げた。


『え、なに……?』

「僕も着替えたら君の部屋に行くよ」

『ありがとう……。最近お姫様抱っこばっかりしてもらって、なんだか恥ずかしいよ』

「恥ずかしがる必要はないよ。僕にとってセラはお姫様だしね」

『ふふ、またそんなこと言ってる』


その笑顔を見られたから、胸の奥が少しだけ軽くなる。
そっと彼女をベッドに座らせ、頭を撫でて微笑んだ。


「じゃあ、一度部屋に戻るね。今日は山南さんと朝食を摂るって言ってたよね?」

『うん。公務のことでご相談したいことがあるの』

「了解。あとで部屋に迎えに行くね」


ドアの方へ向かう途中で、もう一度だけ振り返った。
朝の光の中、セラがこちらを見て微笑んでいる。
どうか今日一日も、あの子の笑顔が曇りませんように。
そう心の中で祈りながら、僕は静かに部屋を後にした。


学院の制服に袖を通し、セラと並んで食卓へ向かう。
窓の外では春の光がまだ淡く、庭の噴水が小さく揺れて、彼女の淡いブロンドがふわりと光を帯びた。


「ちゃんと食べられそう?」


小声でそう尋ねると、セラはほんのり笑ってうなずいた。


『うん、もちろん。お腹減っちゃった』


扉の前に立つ給仕に案内され、僕たちは席に着く。
すでに山南さんが待っていて、穏やかな笑みを向けてくれた。


「おはようございます、セラお嬢様、沖田くん」

「おはようございます、山南さん」

『おはようございます』


三人の朝食が静かに始まった。
テーブルには焼きたてのパンと卵料理、温かなポタージュ、果実を添えた白い皿。
いつもの優雅な朝の風景。
僕は昨晩のことをまだ胸の奥に抱えたままだったけど、セラがちらりと山南さんを見上げて口を開いた。


『山南さん、昨日お渡しした政務報告の件なんですけど』

「税収の分配についてのご相談ですか?」

『はい。北部地区の孤児院に回す予定の支援金の一部を、今年は医療区画の方へ優先したいと思うんです。あちらでは感染症の流行が続いていると確認が取れました。孤児院の運営は、今どのような感じでしょうか?』

「実は孤児院の運営も逼迫しております。なのでまずは半分だけ振り替える形であれば問題ないかと思いますが、それで様子を見てみましょうか」

『ありがとうございます。そういたします』


セラがほっと息をついたように微笑むと、山南さんを笑みを浮かべながら紅茶を口にして言った。


「そういえば、近藤さんが近日中にお戻りになるそうです。公務の方も一段落したと伺いました」


近藤さんが公爵邸に戻り次第、僕達の関係を話したい。
そう二人で決めていたから、僕とセラは思わず顔を見合わせた。


「お嬢様が元気でお過ごしか、手紙でとても案じられていましたよ」

『ふふ、お父様には私からも直接お手紙を出しているのに』

「最近は物騒な事件が多いですから、心配なんでしょう。貴族の馬車を狙った野盗も増えてきてるみたいですから」

「城下の北側の街道で三件続いたと、騎士団にも報告が入りました。損害も大きいらしいですね」

「ええ。なんでも、護衛を一定数つけていても全滅させられているようです。殆どが胸を一突きにされて亡くなっているとのこと、その野盗たちの腕が立つのではないかと専らの噂です」

「それは厄介ですね。まあ、僕達アストリアの騎士団からしたら野盗なんて怖くはありませんけど」

「頼もしい限りですね。ですが気をつけてください、特に雨の日の襲撃ばかりだそうなので、雨の日は特に注意が必要かもしれません」


僕が相槌を打ちながら話を聞いていると、山南さんが少し沈んだ声色で言った。


「それに、野盗と言っても金品だけで済めばまだ良い方です。中には複数人の男達に弄ばれて、身体を傷物にされてしまったご令嬢もいるそうですから」


その言葉に、僕は思わず息を止める。
セラを見れば、彼女の指先がわずかに震え、唇の色が失われていった。


「野蛮な輩に襲われた挙句、妊娠してしまったご令嬢が公国内でもいらっしゃるという報告を受けました。彼女は精神的苦痛に耐えられず自害をなさったと……大変気の毒な話です。お嬢様も十分お気をつけください」


かちゃりという静かな音が、白い皿の上で響いた。
セラの手が震え、その瞳にはうっすらと涙が滲んでいる。


「……お嬢様?どうかなさいましたか?」


山南さんの声が響いた瞬間、僕はすぐに口を開いた。


「セラ、やっぱり今日は学院休みなよ」


昨晩、セラが怯えて泣いた理由を知っているのは、僕だけだ。
そしてこのことは恐らくセラ自身、誰にも話せることではないだろう。
だからこそ僕は穏やかな声を装いセラに話しかけていた。


「お嬢様、体調が宜しくないのですか?」

「ええ。昨晩から優れないみたいなんですよ。本人は大丈夫って言うんですけど、僕は休んだ方がいいと思うんですよね。顔色も悪いですし」

『ううん、私は本当に元気だから……』


セラは小さく首を振るけど、その頬はまだ血の気を失っている。
山南さんは彼女を見つめて少し眉を寄せ、落ち着いた声で言った。


「お嬢様、無理は禁物です。最近は公務の量も以前より増えておりますし、きっとお疲れなのでしょう。近藤さんが帰ってくる前に体調を崩されてしまえば、また近藤さんが大騒ぎしてしまいますよ」

『ですが……』

「今日は休んで、一緒に勉強でもしようよ。セラに教えて貰いたい教科があるんだ。だから僕に免じて、ね?」

『……うん』


ようやく頷いたセラが、僅かに微笑みを浮かべる。
山南さんはその様子を見て、静かに微笑んだ。


「やはり沖田君が傍にいると安心なようですね」

「まあ、心配するのも仕事のうちですから」


僕はそう言って笑ってみせたけど、胸の奥は沈む。
自ら死を選んだそのご令嬢の話を聞けば、セラの心労も案じてしまうばかりだった。



その日の午前中は、セラと学院の勉強に励んだ。
昼食後は折角の休みだからゆっくり過ごそうと、セラを誘って庭園へ。
専属騎士になってからは部屋で二人きりになれるという理由で庭園に来る頻度も減っていたけど、こうしてここに来るとセラと過ごした沢山の思い出が蘇ってくるようだった。


『わあ……シロツメクサ、たくさん咲いてる』


セラは嬉しそうに笑って、僕の方を振り返る。
僕も無邪気な笑顔を見られたことが嬉しくて、その場に腰を下ろすと、以前のようにシロツメクサの指輪を作った。


「セラ、手出して」


瞳をきらきらさせて僕の向かいに腰を下ろしたセラは、小さな左手を差し出す。
薬指にシロツメクサの指輪を通し、彼女にだけ聞こえる声で囁いた。


「好きだよ。僕のお嫁さんになってくれる?」

『うん、総司のお嫁さんにしてください』


この世界でこそ、この誓いは本物になるんだろうか。
淡い希望を抱いてセラを見つめれば、彼女もまた頬を少し染めて、潤んだ瞳で僕を見ていた。


「再来年の今頃には、本物のリングが指に嵌められてたらいいんだけどね」

『もっと早くがいいな。デビュタントを迎えたらすぐに結婚したい』

「ははっ、まだ学院も卒業してないのに?」

『婚約が決まって卒業までいない生徒も結構いるって聞くよ。私は一日も早く、総司と夫婦になりたいな』


セラの純粋な想いが真っ直ぐ届くと、心が熱くなり、同時に少し気恥ずかしくもなる。
今はだいぶ慣れたけど、出会ったばかりの頃はこの子の真っ直ぐな言葉を聞いて、返答に困ったこともあったよね。


「僕もだよ。セラが十七歳になるのを待ってるね」

『うん。絶対に待っててね。それまで気持ち、変わらないでいてくれる?』

「変わるわけないじゃない」

『絶対?デビュタント前に変わってたら、私泣くからね』

「そんなに心配なの?」

『明日がデビュタントだったらいいのにって思うくらいには心配……』


思わず小さく笑ってしまう。
僕の気持ちは揺らがないのに。
でもこんなふうに不安を口にしてくれるセラが愛おしくて、僕は小指を差し出した。


「じゃあ、約束。僕はずっと君だけが好きだよ。ちゃんと待ってるから」


素直に気持ちを伝えるなんて、昔の僕には出来なかったことだ。
でも今は、出来る限り言葉で伝えたいと思う。
そうすればセラが笑ってくれるし、その笑顔が僕の心を温めてくれるから。


『うん、約束。急いで十七歳になるから、待っててね』

「勿論、待ってはいるけどさ」


そう言いながら、つい少し意地悪をしたくなった。
素直さを覚えた代わりに、彼女をからかいたくなる癖は、どうやらまだ治っていない。


「セラはいいの?」

『え?』

「折角社交界デビューするのに、他の人を見てから決めなくて大丈夫?僕よりもいい人が沢山いるかもしれないよ」


セラは瞳を丸くしたまま僕を見つめると、膨れるかと思いきや、少し寂しそうに瞳を伏せた。


『私には総司しかいないよ。どうしてそんなこと言うの?』

「だって結婚してから、やっぱり総司じゃなかったーなんて思われるのは一番嫌じゃない」

『そんなこと思うわけないでしょ?私がどれだけ総司のことを見つめてきたと思ってるの?私は総司以外の人を好きになんてなれないよ。自分のことだから、ちゃんと自分が一番良くわかってるもん』


少し潤んだ瞳で僕を睨むセラが、可愛くて仕方がなかった。
余計なことを言ったな、と少し後悔しながらも、僕のために真剣になってくれる姿が嬉しくてたまらなかった。


「僕もセラのことだけずっと見つめてきたよ。これから先も、僕の瞳に映したいと思うのは君だけだ」


春の風が吹き抜け、セラの髪が柔らかく揺れた。
細い指でそれを耳にかけてあげると、セラは静かに笑って僕を見上げる。
その瞳に映る自分を見て、胸の奥が少し痛くなる。
こんなにも真っ直ぐに見つめられているのに、僕はこの先この子の隣にい続けられるのだろうか、そんな不安が一瞬だけ過った。
でもセラは、迷いのない瞳で言った。


『その言葉、信じてる』


その一言に、心の奥の迷いがふっと溶けていく。
僕はただ、セラを護りたい。
セラが笑っていられる未来を、この手で作りたい。
たとえどんな運命が待っていようと、それだけは変わらないと彼女に優しく唇を重ねた僕がいた。


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