3
その夜は、昼間の晴天が嘘のような大雨だった。
窓の外では大粒の雨が勢いよくバルコニーを打ち、風がうなりを上げている。
時折響く雷鳴が空を裂くたび、胸の奥に不安が渦巻いた。
いつからだろう、こんな嵐の夜には何か良くないことが起きそうで、胸がざわめくようになったのは。
その感情を見ないふりをするように、私はそっと視線を逸らした。
今日はどんな夢を見るのだろう。
ここしばらくは悪い夢ばかりで、正直心が少し疲れてしまっていた。
それらは全て夢なのに私の心を食べてしまうような、妙な現実味を帯びていて。
まるで別の世界で、実際に私が体験したかのような感覚に近かった。
学院の中庭で刺された夢。
シャンデリアの下敷きになる夢。
自分の手で誰かの命を奪ってしまう夢。
そして、昨日見たあの悍ましい夢も。
どれも目が覚めても、痛みや悲しみ、色や匂いまで覚えていて、ただの夢ではないような気がしてならなかった。
本当にあれは夢だったのか……
そんな思いが、心のどこかにずっと引っかかっている。
だから今日、総司と一緒に城内の図書室に行った時、ふと一冊の本に目が止まった。
それは夢に関する考察本。
前から少し気になっていた著者のもので、いい機会だからと手に取ってみた。
ページをめくると、前半は学術的な内容が多く、後半は著者自身の自由な考察が綴られていた。
例えば、夢は予知や暗示の一形態であり、時に魂の記憶を映すこともあるという。
その中で、ひとつだけ妙に心に残った考え方があった。
「この世界の他にも無数の時間軸が存在していて、人が命を落とすと、魂の欠片が別の時間軸の同一人物に吸収される」というもの。
そうして魂が混ざり合う時、別の世界で生きた自分の一部を夢として見るのではないだろうかと書かれていた。
それは普通の夢よりもずっと鮮明で、色や香り、感情までもが現実のように感じられるらしい。
『本当にそうだとしたら怖すぎるよ……』
思わず声に出して呟いた瞬間、背後から静かな声が返ってきた。
「何が怖いの?」
顔を上げると、総司が隣接した扉の前に立っていた。
濡れた髪を少しだけ払う仕草をしてから、柔らかく笑っている。
「ノックしても反応なかったから、開けちゃったんだけど。勝手に入って平気だった?」
『うん、大丈夫だよ。気付かなくてごめんね。本に夢中になっちゃって』
「今日選んでた本?」
『そう。最近悪夢続きだから、少しでも改善できたらいいなと思って。でも、そういう内容ではなかったみたい』
総司は私を気遣うように見つめると、傍に来てそっと頭を撫でてくれる。
黙ったままその本に視線を移した総司に、私は読んでいた場所を指さして見せた。
『ここ、読んでみて?』
「ん?」
総司は目を瞬くと、何気ない様子でその部分に目を通してくれる。
総司の性格的に、こんなことはあり得ないよって笑うと思っていた。
でも総司は途中から本を持ち上げ真剣に読み始めるから、首を傾げながらただ静かに総司が読み終えるのを待っていた。
「……これ、どういうこと?本当にそうなの?」
『ふふ、違うよ。これはあくまでもこの著者の先生の考察の一部だよ。私が見る夢ってたまに妙に現実的だから、そうなのかなとも思ったけど、そんなことあり得ないよね』
総司は何も言わずに本を閉じ、表紙や著者名を確かめるように見つめた。
いつもなら、こういう本には興味を示さない人なのに。
その真剣な横顔に、少しだけ胸が高鳴る。
「これ、僕も読みたいな。いつでもいいから貸してくれる?」
『うん、勿論。珍しいね、こういう非現実的な本を総司が読みたいと思うなんて』
「でも最近夢見が悪いんでしょ?少しでもセラの悪夢を減らせる解決になればって思うじゃない」
『……私のため?』
「当然だよ。君のために動くことは、僕のためでもあるんだから」
『ありがとう……』
嬉しいな。
ただの夢のことなのに、こんなにも総司が気にかけてくれて。
笑って終わるかと思っていたから、総司の優しさに胸があたたかくなる。
「そういえば思い出したんだけど、まだ僕がここに来たばかりの頃も、セラは夢見が悪くて寝不足だって言ってたことあったよね」
懐かしい記憶が蘇る。
確かお城のバルコニーで話した時、風が冷たくて、でも総司の声は優しくて。
その時は総司も笑っていたんだよね。
『うん、覚えてる』
「あの時はどんな夢を見てたの?」
ここ最近の私は、先日の夢や処刑される夢、総司に私以外の大切な人ができてしまう夢……と、様々な悪夢を見てきたけど、あの時に見ていた夢もとても悲しい夢だった。
言うのは躊躇われて夢の内容まで総司に話したことはなかったけど、ここ最近は見ていないし、もう過ぎたことだと口を開いた。
『あの時はね、二つ夢を見てたの。一つは、自分で命を断つ夢』
「セラが自ら?」
『うん。もう一つは……これを言ったら総司が嫌な気持ちになるかもしれないけど』
「夢なんだからいいよ、気楽に話してよ」
総司は私の頬を撫でながら、微笑んでそう言ってくれた。その夢を思い出すと胸が少し苦しくなったけど、控えめな声で告げた。
『今日みたいな嵐の夜に、私が総司に殺される夢』
その言葉と同時に、窓の外で稲光が走った。
次の瞬間には雷鳴が部屋の空気を震わせ、思わず身体が揺れたけれど、総司は動かなかった。
まるで時間が止まったように立ち尽くし、その後すぐに頭を抱えて顔を険しくさせた。
「……うっ……」
『……総司?』
「……は……っ……」
『総司?どうしたの?大丈夫……!?』
突然頭を抱えた総司の肩を慌てて支える。
彼の呼吸が荒く、額には汗が滲んでいた。
その間も雷と雨は激しく音を立てていて、雷の音に掻き消されながらも私は総司の名前を懸命に呼んだ。
「ごめん、平気だよ……」
『でも……こんなに汗をかいてるよ。どうしたの?貧血……?』
「いや……なんか急に……頭が割れそうに痛くなって。なんだったんだろ」
『そんな……心配だよ。今すぐ医務室に行って先生を呼んでくるから、総司はここで休んでて』
「そんなことしなくて大丈夫だよ。もう痛みもないし、本当に一瞬だったんだ」
『でも……』
「本当に平気。それより僕は、セラといたいよ」
総司は床にしゃがみ込んだまま、私の手を包み込んでそっと引き寄せ抱きしめてくれる。
外の嵐の音さえも遠ざかって、聞こえるのは総司の穏やかな鼓動だけだった。
『本当に大丈夫なんだよね……?私、すごく心配したんだよ』
「じゃあ少しだけ仕返しができたかな」
『仕返し?』
「僕はいつもセラのことを心配してるからさ。少しくらい、僕の気持ちを味わってもらってもいいかなって思って」
『もう、そんなこと言って……私、そんなに心配かけてないよ?』
「どの口が言うのかな。君が一歩でも外に出るたびに、僕は心配でたまらないのに」
その言葉に思わず笑ってしまう。
総司の優しさや心配はたまに度を超えていて、胸がくすぐったくなる。
『それはちょっと過保護過ぎるよ』
「過保護にもなるよ。好きなんだから」
さらりとそういうこと言うのは狡いと思う。
照れくさい気持ちを誤魔化すように総司の肩に擦り寄ると、総司の腕は私を抱き寄せ、気づけば総司はそのまま立ち上がっていた。
『……っ、びっくりした……』
「今夜はお姫様抱っこじゃなくしてみたんだ」
『そもそも、抱っこしなくていいよ。恥ずかしいよ』
「そう?僕としてはこのままスクワットしたい気分なんだけど。いい筋トレになりそうで」
『冗談言ってる場合じゃないよ。ほんとに体調は平気なの?』
「平気だよ。セラの方こそ、心配しすぎなんだから」
『心配するのは当たり前でしょ?だって好きなんだもん』
さっきのお返しとばかりにそう言うと、総司は小さく笑って目を細める。
その笑みが嵐の夜の中で灯るひとつの光のように見えた。
総司は私の部屋の灯りを落とすと、抱き上げたまま自分の部屋へと運んでいく。
寝台にそっと下ろされると、ベッドに沈んだ直後に唇が重ねられた。
でも今夜は嵐の音が耳に煩わしく届く夜だった。
二人の息づかいさえ消されてしまいそうで、唇が離れて総司を見上げると、優しい手のひらが私の髪を撫でてくれた。
「さっきの夢の話だけど……もし僕が本当にセラを殺したことがあったとしたら、君は僕を嫌いになる?」
もし、そんな世界が本当にあったとしても。
私にとって大事なのは、その理由なんだと思う。
なぜなら私は、どんな世界の総司にも愛されていたい。
そしてどんな世界の私も、総司を愛しているはずだから。
『ならないよ?』
「へえ、本当に?」
『あ、でも……理由にもよるかな。例えば私と一緒にいるのに、他の人を好きになって私が邪魔になったから……なんて理由だったらさすがにむっとしちゃうかも』
「セラがいるのに他に好きな人ができることなんて、まずないけどね」
『それこそ本当?』
「本当だよ。僕はセラ以外に恋愛感情やそれに似た感覚を感じたことは今まで一切ないんだ。だからセラが結婚してくれなかったら、僕は一生独身かな」
総司の言葉が嬉しくて、私はつい頬を緩めてしまう。
そんな私の顔を見た総司は、目を細めて微笑むと、ゆっくりと唇を重ねてきた。
『……ん……』
唇の間に舌が触れ、やがて優しく絡められる。
ゆっくりと、確かめ合うような動きに、胸の奥が熱くなった。
息が触れ合うたび心臓が速くなって、もっと総司が欲しくなる。
言葉にできない想いの代わりに、私もそっと舌を絡めて、総司の首に腕を回した。
昨晩、あの夢で感じたおそろしい感覚を忘れたかった。
総司が触れてくれたら、あの悍ましい記憶さえも消せる気がした。
だけど、今夜も総司は私から身体を離して、「寝ようか」と言って抱きしめてくれるだけ。
それだけで本当は十分幸せな筈なのに、少し寂しく思う私がいた。
『うん……』
……でも、当たり前だよね。
私は何もしてあげられていない。
今までだって、いつも私ばかりが気持ち良くしてもらって、総司には何も返せていなかった。
彼の優しさをわかっている筈なのに、どうしても不安になってしまう自分が情けなくて、私はそっと総司の胸に頬を寄せた。
「雨、すごいね。雷もさっきからそこらじゅうに落ちてるし」
総司の腕の中で、眠りにつく前に交わす何気ない会話。
こんな時間が、たまらなく愛しい。
もし本当に夫婦になれたら、今私の中にある小さな不安も、少しずつ減っていくのかな。
『そうだね。怖いから……もっとぎゅっとして』
私がそう言って擦り寄ると、総司は少しだけ肩を揺らして笑った。
その笑い方が、どこか照れくさそうで、優しくも感じる。
「ねえ、本当に怖いの?」
『怖いよ?』
「へえ、そう?ただくっつきたいだけじゃなくて?」
『……こうされるの嫌なの?』
「嫌じゃないけどね」
総司の胸元に抱きついたままその腕の力を強めると、総司はまた少し笑っている。
「あーもう、そんなにくっついたら寝れないよ」
『どうして?温かいのに』
「そうだけど、僕が落ち着かなくなるんだよね」
前は私を抱きしめると落ち着くって言ってくれてたのに。
それに、こんなにも大好きな人のぬくもりがそこにあるのに、離れる理由なんてないと思った。
『落ち着かなくてもいいよ。少しくらい話そう?』
「セラは、ほんとに甘えんぼだね」
『だめ?』
「ううん、セラが甘えてくれると嬉しいよ」
ふいに唇が重ねられ、心臓が跳ねた。
ほんの一瞬のことだったのに、胸の奥が締めつけられて、息が浅くなる。
そのまま総司の指先が髪を梳いて、背を包み込むように撫でてくれるから、その動作ひとつひとつに、言葉よりもずっと深い想いを感じた。
「今夜もし、また怖い夢を見たらちゃんと僕を起こして」
『ありがとう、総司……』
「大丈夫だよ、僕がずっと傍にいるから」
その言葉に、心が静かに安らいでいく。
外ではまだ雷の音が遠くで響いているけど、総司の声がそのすべてをかき消してくれた。
私はそっと彼の胸に顔を寄せ、聞こえる鼓動を確かめる。
穏やかなその音が総司が生きている証であり、ここにいるよと告げてくれているようで、少しだけ涙が出そうになった。
『……総司の心臓の音、好き。すごく落ち着く』
「それは光栄かな。じゃあ、今夜はこの音で眠りなよ」
『うん。総司がいてくれると安心して眠れるよ』
「そんなに握り潰されたら、こっちは眠れなくなりそうだけどね」
『もう、握り潰すってなに?そんなことしてないでしょ』
少しぎゅっと抱きついてるだけたのに。
私が反論すると、ふっと笑う声が胸に響いて、私もつられて笑った。
その笑い声が、嵐の夜の中に小さく溶けていく。
総司の指先が私の頬に触れて、ゆっくりと親指で撫でてくれる。
そして、そっと私の額に口づけを落とした。
「おやすみ、セラ」
『おやすみ、総司』
瞼を閉じると、すぐそこに総司のぬくもりがあった。
鼓動が重なり、呼吸が重なって、世界が静かにひとつになる。
嵐の音は次第に遠のき、代わりに残ったのは、総司の体温と、胸の奥に広がる穏やかな幸福だけ。
眠りに落ちる直前、夢の境目で聞こえたのは、かすかな総司の呟きだった。
「どんな世界でも、君を護るよ」
その言葉が心の奥に静かに沈み、私は深く安らかな眠りへと落ちていった。
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