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そして次の日、僕とセラは近藤さんのいる執務室の前で、深く息を吸い込んだ。
隣に立つセラは少しだけ不安そうに唇を噛み、すぐに小さく頷く。
僕もそれに頷き返して、扉を叩いた。
「入りなさい」
近藤さんの穏やかな声が聞こえた。
重い扉を押して中に入ると、机の前で重厚な椅子に座っている近藤さんと、その隣に立つ山南さんが微笑んでいた。
「話があると聞いたが、どうしたんだね」
近藤さんの声は穏やかだったけど、その奥には威厳があった。
山南さんは眼鏡の奥の瞳で、静かに僕らを見つめている。
僕は一度だけ息を整えて、まっすぐに言葉を紡いだ。
「今日はお時間を作って頂きありがとうございます。近藤さんと山南さんには、僕たちのことで、お話ししたいことがあります」
近藤さんと山南さんの視線が、まっすぐ僕に向く。
逃げ場のない視線を受けて、鼓動はらしくもなく早くなる。
けれどこれは僕の口から伝えると決めたからこそ、意を決して言葉にした。
「近藤さん、山南さん……もうお気づきかもしれませんが、僕はセラお嬢様のことを、特別に想っています。
身分のことを考えて、何度も気持ちを封じようとしました。ですが……どうしても手放せませんでした。セラお嬢様を想う気持ちだけは、どう足掻いても消えなかったんです」
静かな沈黙が落ちる。
近藤さんの視線が、まっすぐに僕を射抜いた。
それでも目を逸らさず、胸の内を言葉にしたい。
胸の奥が焼けつくように熱くなるけど、その熱を押し殺すことなく、真正面から伝えた。
「僕は継ぐ家もなく、国を追われた身です。そんな僕に剣を持つ理由を与えてくださったのは、近藤さんと山南さん、そしてセラお嬢様でした。あの時からこのアストリアを護ることが、僕の生きる理由になりました」
その誓いは今も変わっていない。
けれど今は、それだけでは済まされない想いが胸に宿っていた。
「その想いは今も同じです。ですがセラお嬢様を公爵家のご令嬢としてではなく、一人の大切な人として護りたいと思うようになりました。お嬢様の笑顔も、涙も、迷いも……全部、僕が受け止めたい。それが、僕がここにいる一番の理由になっていました」
言葉が震えそうになったけど、その震えごと誠意に変えて続けた。
「ふさわしくないのは、重々承知しています。だからこそ努力を惜しむつもりはありません。この公爵家を支えるために、学び、鍛え、何よりも誠実に生きます。アストリアの繁栄のために、できる限りの力を尽くします。そして誰よりもセラお嬢様を大切に想っている自信があります。どんな立場にあっても、その想いだけは誰にも負けません。なのでどうか、お嬢様との交際をお認めいただけないでしょうか?」
今直ぐには無理だとしても、近藤さんと山南さんにはこの想いが軽いものだと思わないで欲しかった。
真剣な想いが伝わることを願って、二人を見つめていると、山南さんが静かに頷きながら、近藤さんの方へ目をやった。
でも近藤さんはまだ何も言わない。
その沈黙の中、セラの優しい声が柔らかく響いた。
『総司はこの公爵家のため、そして私のために、これまで命を懸けて戦い、護ってきてくださいました。その誰よりも誠実な姿を、私はずっと傍で見ていました」
セラが僕を支えるように、言葉を重ねてくれる。
セラも緊張しているのだろう、息をそっと吸い込んで話す言葉は真剣そのものだった。
『私は、総司と一緒にいる時が一番幸せです。誰よりも信頼できる人なんです。勿論、公爵家の跡取りとしての自分の立場を忘れたことはありません。ですが、人生を共に歩む人は私自身が一番大切だと思える人を選びたいんです。総司となら、この公爵家をより繁栄させていけると思っています』
「……ならば、そう思う理由を聞こうか」
近藤さんの声は静かだけど、試すような響きを帯びていた。
セラは少しだけ息を整え、落ち着いた声で続けた。
『私はこの家を背負う者として、家を守るために本当に大切なのは、血筋や名誉ではないと思っています。どんなに立派な名を持っていても、心が伴わなければ誰の信頼も得られません。誠実に人と向き合い、思いやりをもって支え合えることこそが、この家を支える本当の力になると思うのです。それに夫婦とは、互いを大切に想い合い、尊重し合える関係であるべきです。だからこそ、私は総司こそがこの家にとって、そして私にとっても最もふさわしい人だと信じています』
近藤さんの言葉を待つ間、胸の奥が静かに波打っていた。
その眼差しは重いものの、そこに怒りや驚きは感じられない。
暫く考え込むように黙っていた近藤さんは、やがてゆっくりと顔を上げ、僕達を見つめて口を開いた。
「セラの気持ちは、父親として何よりも尊重したい。元より、俺が願うのはお前の幸せだけだ。だがこの公国を背負う者として、感情だけで道を選ぶわけにはいかんのだよ。ただ……昨夜のことは俺もこの目で見ていたが、セラがあれほど取り乱し、誰の手も受け入れなかった状況の中、総司だけは違ったな。あの時のお前達の様子を見れば、もはや単なる主従の関係ではないことは明らかだった。あれほどの信頼を築ける者が、そういるものではないしな。セラが選んだ相手が総司であるということは、確かに納得できる話でもある」
その言葉の真意がまだわからず言葉を返せずにいると、今度は山南さんが控えめに言葉を重ねた。
「私も、あの時の様子を見ておりました。正直に申しますと、あれを見せられてしまったらお二人の関係がお嬢様と専属騎士という枠に収まるものではないと、薄々感じざるを得ませんでしたよ。幸い、そのことに気付いたのは我々と山崎君だけだったようですが」
近藤さんはそれを聞いて僅かに眉を下げ、ふっと小さく笑みを漏らした。
「お前たちが言いたいのは、将来を見据えた真剣な交際だということか?」
『はい。お父様が許してくださるのなら、今直ぐにでも婚約をしたいです。デビュタントを迎えたら、すぐに結婚したいと私は思っています』
「僕も同じ考えです。セラと生涯共に歩むことを、心から望んでいます」
僕達がはっきりと意志を伝えると、山南さんは僅かに眉を顰め、柔らかく言葉を紡いだ。
「お二人の気持ちはわかりますが、それはあまりに急ぎ過ぎるのではないでしょうか。今は公爵家も安定していますが、お嬢様がデビュタントを迎える一年後、この国やこの世界の情勢がどう変わっているかは予見できません」
『それは……政略結婚が必要になる場合もあり得るということですか?』
セラが不安を物語るような表情でそう尋ねると、近藤さんはゆっくりと説明を始めた。
「この公爵家はルヴァン王国の管轄下にある。公爵家の一族が婚姻を結ぶということは、単に家同士の結びつきではない。王家との関係、周辺諸侯との均衡、そして国内外における政治的影響、そうしたものが絡む。お前たちの個人的な想いだけで決められるほど単純な話ではないのだよ。もし今すぐ婚約を王に提示するとなれば、まず王家はその相手の出自や影響力、将来的な利害関係を審査する。今の段階で総司を婚約者として差し出せば、王家や他の有力家門から反発が起きる可能性は十分あるだろう」
「具体的には、王家は婚姻による同盟効果を期待します。高い爵位や有力な家門を持たない相手は、その期待に即しません。さらに周囲の侯爵や伯爵が、我が家の後ろ盾を弱める絶好の機会と見なせば、政敵が動き出す可能性すらあるのです。加えて、庶民や騎士団の内部でも動揺が生じるかもしれません。安定とは、外面だけでなく内側の信用によっても保たれるものですからね」
「だからこそ、今すぐに婚約を認めることはできん。だが、お前たちの覚悟のほどは受け取った。俺は決して頭ごなしに反対しているわけではないから、そこは勘違いしないで欲しい」
当たり前の反応だと思った。
以前、近藤さんに僕達の話をした時より、今はセラのデビュタントが近い分、近藤さんからの返答は予想通り甘いものではなかった。
思わず拳を握りしめ、どう言葉を返すべきか頭を巡らせていると、セラが僕の隣で話し始めた。
『婚約が今すぐに無理なことは理解致しました。ですが、私たちは真剣です。とても真剣な気持ちで、今日はお父さまと山南さんにお時間を作って頂いたのです』
セラの少し震えた声が真横から聞こえてくる。
これで話が終わってしまえば、結局今までと何も変わらない。
そう彼女もわかっているからこそ、その声には必死さが滲んでいた。
『なので、教えてください。頭ごなしに反対しているというわけではないということは、総司との交際自体は認めて頂けると、そう思っても構わないのですか?』
「……ん?ああ……まあ、そうだな」
「認める……というよりも、お二人はもう、そういうご関係なのでは?」
山南さんの鋭い突っ込みが入り、一度セラは無言になる。
今度は僕が代わりに一歩出て、セラの言葉を引き継ぐことにした。
「山南さんの仰る通りです。お許しが出る前にお嬢様にこの想いを打ち明けてしまったこと、申し訳ありません。ただ、それが軽率でいい加減な気持ちではなかったことだけは、ご理解いただきたいんです」
「うむ、では総司の気持ちは今後も揺らがないと、そう言い切れるのか?」
「はい、絶対に変わりません。僕は何年もセラお嬢様を想い続けてきました。冷めるどころか……むしろ日に日に強くなってしまって、自分でも困るくらいですから」
「はははっ、そうか。確かに総司は今まで何度もセラの命を救ってきてくれたな。お前の言葉が決して軽いものではないと、わかっているぞ」
堂々と言い切ると、セラの方が顔を赤らめている。
けれど意を決したように顔を上げると、再び近藤さんを真っ直ぐに見つめた。
『お父さま、山南さん。私はお二人に背中を押していただきたいんです。私と総司がこれから先も一緒にいられるように、離れなくてもいいように……どうかお力を貸して頂けませんか?そのための努力でしたら、私は決して惜しみません』
name#が必死に紡いだその声は、震えているのに凛としていて、胸の奥を強く揺さぶった。
あんなふうに僕との未来を願ってくれるなんて。
その想いが真っ直ぐに伝わってきて、胸が熱くなる。
気づけば僕も自然と一歩前に出て、二人に向かって頭を下げていた。
「僕もお嬢様と同じ未来を歩みたいと本気で思っています。そのために今足りないものを身につけ、お嬢様の隣に立つにふさわしい人間になりたいんです。その道のりで、何を学び、どう強くあるべきか……お二人の知恵を貸して頂けませんか?そのすべてを糧にして、精進できる機会を与えていただきたいんです」
待っているだけでは理想の未来は訪れない。
だからこそ今できることをがむしゃらになって努力したかった。
その想いを胸に近藤さんを見つめていると、彼は微笑みを浮かべながら二度頷いてくれた。
「お前達の気持ちはわかった。これから示す覚悟が本物ならば、我々も道を作る手助けをしよう。まずは順を追って準備をしていていってくれ。王家への申請に相応しい人物になれるよう、力量と信用を積み上げるんだ。政治の理、礼節、そしてこの家を担うに足る力を示すこと、それが最短の道だろうからな」
その言葉を聞いて、僕の胸は不意に軽くなった。
認められたということよりも、近道ではなく正しい道を示されたという安心感があったからだ。
焦りに任せた婚約ではなく、確かな根拠をもって進めるなら、それが一番だと思えた。
「はい。僕はこれからも学び続けます。戦術だけでなく、政務の理、領の治め方、人を統べる術を学びます。公爵家を護り、セラと共にこの家を担える人間になるために、努力を惜しみません」
『私も、総司と一緒に学び、支えます。お父様がおっしゃるように、理を整えることが必要なら私はそれを受け入れます。私の気持ちは変わりません』
「お二人とも、その覚悟と理性があるなら、私も背中を押したいと思います。家の安定と未来のために、私からも推薦できる事項を挙げさせていただきます」
近藤さんは長く目を閉じ、やがてゆっくりと顔を上げた。
「王家に認めてもらえるだけの準備を整えていく過程で、総司がこの家の一員としてふさわしいと我々が認められるようになれば、その時に正式に申し出よう。分かったな?」
「はい。ありがとうございます」
近藤さんの言葉を聞きながら、胸の奥が熱くなるのを感じ、僕は深く頭を下げた。
厳しい眼差しの中には温もりと信頼が宿っていた。
「総司、お前の剣の腕は誰もが認めているぞ。だが今必要なのは戦う力ではない。この家を支える判断力と統治の理だ。人を導くための知識と、政治について学んでくれ。それに関しては山南君、後見を頼めるか?」
「もちろんです」
山南さんが即座に頷き、穏やかに微笑んだ。
「沖田君。君は情に厚く、忠誠心も強い。それゆえに視野を狭めてしまうこともありますね。なのでまずは政務と外交の基本を学びましょう。各領の収支、税制、軍備、そして貴族間の条約など……そのどれもが、君がお嬢様を護るために必要な力になります。私が毎朝書斎で講義をしましょう。公爵領の運営記録を見ながら、判断の仕方を一緒に考えます。理解できるように丁寧に教えますから、頑張ってついてきてください」
「山南さん、ありがとうございます。よろしくお願いします」
「ええ。君にはその素質があると思っていますよ。力だけでなく、心で人を導ける人ですからね。その資質を正しい形で育てていきましょう」
山南さんの言葉は深く心に染みた。
きっとこの人は、僕を本気で導こうとしてくれている。
そう思えたからこそ、その信頼を無駄にはできないと強く思う。
「そして俺はお前達の願いが実を結ぶよう、然るべき機会を作ろうと思うのだ。来月、ルヴァン王国の視察団が公国に来る。陛下の甥君が同行する予定だ。総司を護衛団の代表に任じよう。領を代表して客人を迎える立場を務めてくれ。これは名誉でもあるが、同時に試練だ。王家の目にどう映るかがすべてだからな。見事に務めを果たせば、いずれはお前の名も記録に残るだろう」
「はい、必ず果たします」
「セラ、お前は公務にも自ら関わり、補佐としての務めを果たしていると聞いている。だがこの先はさらに一歩進めよう。今まで通り政務を支えながらも、領の運営そのものを見渡せるようになってほしい。いずれはこの家を継ぎ、誰かと並び立つ者としてな。山崎君と共に書簡の整理や来賓の応対を学び、判断を重ねる中で自らの視点を養いなさい。そして総司が務めを果たした時には、共に報告を受けよう。それがこの家を共に背負う者としての第一歩になる」
『はい、お父様。ありがとうございます』
柔らかく返事をするセラの声に、静かな決意が滲んでいた。
山南さんが小さく笑って言う。
「お二人の努力は、きっと無駄にはなりません。あとは時間と、誠実さの積み重ねですね」
「焦る必要はないが、歩みを止めることなく努力することだな。そうすれば自ずと道は開けると思うぞ」
「ありがとうございます。僕にこのような機会をくださって、本当に感謝しています。僕がこの家の一員として、そしてセラを護り、支えるにふさわしい相手だということを必ず証明してみせます」
そう言い終えたとき、静かな決意が胸の奥に降りてきた。
願ってやまなかった未来が初めて現実として見えてきたように思えて胸が熱くなる。
近藤さんと山南さんに深く頭を下げ廊下に出ると、セラがそっと僕の腕を取った。
『ねえ、総司。お父様と山南さんは、きっともう認めてくださってるよね?』
「そうだね。近藤さんと山南さんの信頼を裏切らないためにも精一杯努力するよ」
『うん、私も』
セラは嬉しそうに笑うと、僕の腕をそのまま引っ張って自室へと歩く。
部屋の中へ入るなり僕に抱きついてくるから、笑いながら彼女を受け止めた。
『ふふ、嬉しいな』
「そうだね。今はまだ確約ではないけど、努力すれば道が開けるならここから死に物狂いで頑張れるよ」
まだ王太子の問題が残っているとはいえ、この世界では譲れない。
必ず君の笑顔を護れる場所まで連れて行く。
時間がかかっても、遠回りになっても。
いつか堂々と君の隣に立てる日を、必ず自分の手で掴み取る。
そう強く心に誓い、腕の中のセラを抱きしめた。
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