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天体観測が行われる夜。
学院の裏手にある天文台跡地の展望庭園は、星界学の生徒だけに開放されていた。
私と総司は早速課題に取り組んでいたけど、同じグループの王太子殿下はまだここに来ていない。
殿下の分まで仕上げた課題を目の前に、私は総司をちらりと見上げた。


『総司の予想、当たったね?』

「ん?」

『殿下が遅れて来て、私達が課題を手伝うって話』


総司はくすりと笑って私を見つめる。
夜空の下、星を見上げて佇む総司が綺麗で、思わず見惚れてしまう私がいた。


「寒くない?」


そっと重ねられた手から総司の温もりが伝わり、またすぐに離れていく。
ほんの少し触れただけなのに、心は一気に温かくなった気がしていた。


『うん。総司がいてくれるから大丈夫』

「ははっ、それならいいけど。それにしても殿下、遅いね。なんだか雲行きも怪しいし」


空を見上げれば、先程まで晴天だった空には今は雲が広がり星を隠してしまっている。
星界学の他の生徒達も、皆帰り支度を始めていた。


「悪い、公務が立て込んでて思ったより遅れた」


私達が片付けを終えた時、王太子殿下は眉を顰めてこちらへ歩いて来る。
その顔色はあまり良くなかったけど、私達の前に置かれたノートに目を落とすと、少し目を見開いた。


「まさか、俺の分も仕上げてくれたのか?」

「セラが殿下の分もって言い出したんですよ」

『計算は全部総司がしてくれたんです。私はそれを書き写しただけですよ』

「すごいな。まるで天文院の記録書みたいだ。数式も正解だし無駄がない」

『ふふ、私と総司で頑張りました』

「僕達、こういうの得意なんですよね」

「ありがとう、助かった。だいぶ雲も出て来たから、課題は半分諦めていたんだ」


殿下は少し肩の力を抜いたように、安堵の息を漏らしていた。
恐らく王太子としての務めに追われ、ようやくこちらへ来られたのだろう。
それでも学院の課題一つを疎かにしない姿勢には、頭が下がる。
真面目で努力を惜しまない方だと知っていたけど、その誠実さを見習いたいと思った。


「今度何か礼をさせてくれ」


突然の言葉に、私は思わず瞬きをした。
本当に昨晩、総司が言っていた通りの展開になっている。


『いえ、お気になさらないでください。友人同士なんですから、困った時に助け合うのは当然です』

「そうですよ、殿下。もしどうしてもって言うなら、次の課題が出た時に、殿下が三人分仕上げてください」

「は?俺はそんなに暇じゃない」

『ふふ。では、そろそろ行きましょうか。空の様子も怪しいですから』

「行きましょうかって、もう課題は全部終わったのか?」

「はい、ちょうど終わったところですよ」

「はあ……完全な無駄足だったじゃないか。すまなかった、全部任せてしまって」

『謝るのは禁止です。今度は、三人でゆっくり星を見られたらいいですね』


そう言うと、殿下はふと柔らかな笑みを浮かべた。
けれど、その時だった。
夜空からぽつりと冷たい雫が落ちてきて、瞬く間に雨へと変わっていった。


「セラ、これ羽織って」


総司が自分のローブを脱ぎ、迷いもなく私の頭にかけてくれた。
総司の肩まで濡れてしまっているのに、そんなことを気にする様子もない。
温かな布の下から彼の香りがして、胸がぎゅっとなる。


『ありがとう。でも総司が塗れちゃうから』

「僕はいいよ。馬車まで走ろう、殿下も行きましょう」


ついさっきまで満天の星が見えていたのに、嘘みたいに強い雨と風。
私と総司、殿下、そして殿下の護衛の方々と一緒に、馬車の停めてある場所まで駆け出した。
裾が濡れて重くなっていくのも気にしていられない。
ようやく辿り着いた時、公爵家の御者が眉を下げて私の方に駆け寄ってきた。


「お嬢様、申し訳ございません。馬車の車輪が先程穴に嵌って破損してしまいまして……。今、別の馬車を手配しておりますが、到着まで少しお時間を頂きそうです」

『そうなんですね。手配してくださってありがとうございます。あとどのくらいかかりそうですか?』

「ええ……この天候ですので、早くとも三十分ほどは……。雨脚も強まっておりますので、安全に到着させるにはもう少しかかるかもしれません」

『そうですか、わかりました。ありがとうございます』


今は屋根のある場所で雨を凌げているけど、風が入り込むせいで、濡れた髪や服が肌に張り付いて少し寒い。
総司も同じように濡れていて、前髪が頬にかかっていた。
それでも彼は私の顔を見て、小さく笑ってくれる。
そんな時、殿下がふと私達を見て静かに口を開いた。


「セラと沖田は、俺の馬車に乗っていけばいいよ」

『殿下、お心遣いありがとうございます。ですが大丈夫ですよ。馬車の手配も済んでいるようですし』

「遠慮することはない。途中までは同じ道だし、公爵邸に寄ってもそれほど遠回りにはならないしね。濡れたまま、外で待たせるわけにはいかないだろ」

『ですが殿下こそ、雨に濡れたまま長く馬車に乗られたら、風邪を引いてしまいますよ』

「友人同士なんだから、困った時に助け合うのは当然のことだろ?さっきお前がそう言ってたんじゃないか」


殿下は少し意地悪そうに微笑んでから、視線を総司に移した。


「今日の課題のお礼ってことで、乗っていきなよ。ね、沖田」


総司はくすりと笑って、私の方をちらりと見た。
その瞳に優しさが宿っていて、ほんの少しだけ安心する。


「では、お言葉に甘えて同乗させて頂きます。殿下のご厚意に甘える形になりますが、セラもこれ以上ここにいると風邪を引きそうなので」

「ああ、構わないよ。さあ、行こう」

『ありがとうございます。本当に助かります』


殿下の馬車の方へ歩く間、総司がそっと私の手を取ってくれた。
濡れた指先が重なると、彼の体温が伝わってきて、寒さよりも胸の鼓動が早まる。

馬車に乗り込むと、外の雨音が一気に遠くなった。
殿下は向かいに腰を下ろし、濡れた髪を軽く拭いながら苦笑する。


「まったく、空の気まぐれには敵わないな」

『本当に……。ですが殿下の馬車に乗せて頂けて助かりました。ありがとうございます』

「礼はいらない。一人で馬車に揺られていても退屈なだけだから、お前たちがいると暇つぶしに丁度いいしね」


殿下の言葉にくすりと笑っていると、隣では総司が静かに私の髪を拭ってくれる。
ハンカチで優しく撫でるように水気を取ってくれる仕草が、くすぐったくて嬉しくて、ちらりと彼を見上げた。


『……ありがとう、総司』

「ううん。君が風邪引いたら大変だしね」


その言い方があまりに優しくて、胸の奥が温かくなる。
その様子を見ていた殿下が、若干の呆れ顔で私達に言った。


「沖田は本当に過保護だね。専属騎士というより従者みたいじゃないか」

「あれ?殿下、ご存知なかったですか?僕はセラの専属騎士兼従者ですよ」

「そうなの?」

『え?あ、はい。そうですね』

「ふーん、変なの」


雨音と馬車の揺れの中、三人で静かに過ごす時間。
殿下は外の景色を眺め、総司はそっと私の髪を指先で整え続けてくれている。
街まではまだ遠く、外は真っ暗な森が続いている。
一人なら不安になりそうだけど、今は総司と殿下がいるから落ち着いて座っていられた。


『あ、そう言えば。私、温かい紅茶を持ってきたんです。良かったら皆で飲みませんか?』


ふと思い出して、鞄の中からそっと水筒を取り出した。
本当は、星空を見上げながら飲もうと思っていたはちみつジンジャーティー。
ほんのり甘くて、夜風が冷たい夜にぴったりの香りがする。


『待ってくださいね。今、カップを……』


そう言いながら鞄の中を探してみたけれど、どこにも見当たらない。
あれ……おかしいな、確かに水筒の横に入れたはずなのに。
もしかして、慌てて準備していて忘れてしまったのかもしれない。


『……ごめんなさい。カップがありませんでした』


しゅんと肩を落として言うと、総司がくすりと笑って、自分の鞄から小さな布袋を取り出した。


「大丈夫だよ。カップなら、僕が持ってきたから」

『え?総司が?どうして?』

「んー、なんとなくかな。君って今日みたいな日は、人数分のお茶を用意してくると思ったんだ。でも、肝心なカップは忘れそうでしょ?」


その穏やかな笑みに、思わず目を瞬く。
まるで私の行動を全部見透かされているみたいで、少し恥ずかしい。


『そんなに抜けてないよ?多分』

「ははっ、そういうことにしておいてあげてもいいけど。でも念のためにね」


そう言って、彼は用意していたカップを三つ、丁寧に並べてくれた。
そのさりげない気配りに胸が温かくなる。
向かいに座る殿下も、そのやり取りを見てくすくすと笑い出した。


「あははっ、沖田は流石だね。よくセラのことがわかってるんだ」

「伊達に専属騎士をやってませんからね」


総司が軽く肩をすくめると、殿下は楽しそうに頷いた。


「良かったね、セラ。頼りになる専属騎士兼従者がいて」

『ふふ、本当に。ありがとう、総司』

「どういたしまして」


私はいつも、総司に助けられてばかり。
出会った頃も、心が折れそうになった時も、いつだって総司が傍にいて、手を差し伸べてくれた。

でも総司が私にくれるのは助けだけじゃない。
彼が優しくしてくれるたびに、私の心の中にはあたたかくて綺麗な花が咲いていく。
その花は、今ではもう花畑みたいに広がって、総司の愛情で満ちている。
きっとこの心の花は、私が生きている限りずっと枯れない特別な花だ。


『はい、殿下。こちらをどうぞ。総司もどうぞ』

「ありがとう」

「ありがとう、もらうね」


水筒から湯気の立つ紅茶をそっと注いで、それぞれに手渡した。
香り立つ蜂蜜と生姜の匂いが、静かな馬車の中を優しく包み込む。
自分の分も注いで、カップを両手で包み込みながら一口飲む。
舌の上に広がる柔らかな甘さと、喉を通るたびに感じる生姜のぬくもり。
冷えていた身体が、じんわりと温まっていくのが分かる。


『……あったかい。作ってきて良かった』

「うん、美味しいな。優しい味だ」

「セラの紅茶、昔から好きだよ」


外では相変わらず雨が降り続いているけれど、その音さえ今は心地良く感じる。
紅茶の湯気と三人の笑い声が混ざり合って、冷たい夜がほんの少し温かくなった気がした。


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