5

王宮での療養を終え、数日ぶりに公爵邸へ戻ることになった、その日の昼。
出発の前に、王太子が一緒に昼食を摂ろうと声を掛けてくれたこともあり、僕達は王宮の食堂へと招かれていた。


『わあ、このお料理もとてもおいしいです』

「当たり前だ。王宮のシェフの腕は一流だからね」


セラは、心から幸せそうに微笑んでいた。
整った仕草でフォークを持ち、目の前の料理を口に運ぶ。
けれど、そんな彼女を見つめる王太子の眼差しがあまりにも優しくて、僕の胸の奥は少しずつ冷えていく。
この穏やかな食卓の中で、どうしても僕だけが食事を楽しむことができなかった。


ふと、野盗に襲われたあの夜のことを思い出す。
あの時、僕は確かに死にもの狂いで戦った。
けれどそれは、王太子を護るためじゃない。
セラを護るため、そしてセラの未来を絶望で汚したくなかったからだ。

あの時、僕は気付いていた。
馬車の上から狙いを定めていた野盗が、王太子を標的にしていることを。
それでも僕は動かなかった。
王太子がその場で命を落とせば、セラが婚約を迫られる未来は消える……そんな考えが、頭のどこかにあったから。

今となっては、王太子に憎しみなんて抱いていない。
むしろ、王太子の中に、自分と似た孤独を感じてしまうこともある。
けれど、それでも僕が一番に護りたいものは変わらない。
セラの隣に立つ未来を、誰にも奪われたくない。
たとえ相手が誰であっても、僕達の未来を脅かす奴は決して許せなかった。

でも、そう思っていた僕の前に、セラが飛び出した。
自分のことを顧みず、王太子を庇うように。
あの瞬間の光景が、今でも脳裏から離れない。
毒の刃が掠め、腕に血が滲もうとも、その小さな体を震わせながら、それでも必死に護ろうとしていた彼女の姿を、僕は一生忘れられないと思う。
僕が迷わず王太子を護っていれば、セラが痛みに苦しむことなんてなかった筈だ。

あの時、自分の中の醜さが、初めて心底嫌になった。
胸の奥にあるどす黒い感情が、ただの愚かに思えて仕方なかった。
そしてこの身勝手な想いが、またこの世界でもセラを傷つけてしまうんじゃないかという不安が、静かに胸に根を下ろしていった。


『総司?どうしたの?食べないの?』


考えに沈んでいた僕の心を、セラの柔らかい声がそっとすくい上げた。
心配そうに首を傾げ、優しい瞳で僕を見つめている姿を目の前に、この子をもう二度と傷つけたくないと切に思う。


「いや、食べるよ。騎士団の仕事、休んで大丈夫だったかなーなんて考えてたら、ちょっとぼんやりしちゃったみたいだね」


セラはふっと微笑みを返し、静かに頷いた。

セラは、僕の本当の心を知ったらどう思うんだろう。
僕を優しいと信じて疑わないそのまっすぐな眼差しが、時々胸の奥を締めつける。
どんな僕でもいいって言ってくれる彼女だからこそ、余計に苦しくなる。

そして王太子の穏やかな視線がセラに向けられるたび、また別の後悔が胸で疼く。
あの夜、もし王太子の命があそこで尽きていれば……そんな考えを、今でも完全に捨てきれない自分が嫌になった。


「騎士団の仕事のことなら問題ない筈だよ。近藤公にも今回の沖田の活躍は十分に伝えてあるからね」

「殿下、お気遣いありがとうございます」

「俺は当たり前のことをしているだけさ。セラの機転は勿論、沖田の戦闘力の高さが、俺や護衛達を救ってくれたんだからね」


王太子の言葉には心からの感謝が込められていると感じられたからこそ、再び妙な罪悪感が沸き立つ。
自分の中の良心と本質的な欲望が混ざり合い、ただ微笑むことしかできない僕の目の前ではセラが嬉しそうに顔を綻ばせていた。


『総司は素晴らしい騎士なんですよ。ただ強いだけではなく、何かを護るために迷わず剣を振るえる人なんです。私は今まで何度も総司に命を救っていただきましたから』

「沖田が実際に戦ってるところは初めて見たけど、セラの専属騎士に抜擢されたことは納得がいく話だ。あの人数相手に怯まず剣を交えられる騎士は早々いない。ましてや俺とセラを護りながらだったから尚更ね。あの強さには、圧巻したよ」

『ふふ、でしょう?でも私はいつも生きた心地がしないんです。総司は自分の身を犠牲にしても護ろうとしてくれる人だから……。それがいつも申し訳なくて』

「沖田からしたらセラが傷つく方が辛いんじゃない?それにセラにはセラの強みがある。お前たちはなかなかいい組み合わせだと思うよ」


二人の話をどこか遠くで聞きながら、再び微笑みを浮かべる。
王太子は一口ワインを口に含むと、落ち着いた音色で言葉を続けた。


「今回の件、セラと沖田には心から感謝している。俺だけじゃない、陛下も二人の働きに感銘を受けておられた。だから何かしらの褒美を授けたいと思っているんだ」


セラは殿下の言葉を聞いてすぐに首を横に振った。


『いえ、そんな……私達は殿下の馬車に同乗させて頂いた身です。そのようなお言葉を頂けるだけで十分です』

「それでは俺の気が済まない。たとえば、特別手当や、所領の加増、それに陛下のご裁可があれば昇爵もあり得る。どんな形であれ、お前達の働きに報いなければならないと思っているんだ。陛下も俺と同じ意見だよ。だからまずは俺が直接、お前達の望みを聞いておきたいと思ってね」


その言葉に、セラは小さく息をのんで、丁寧に微笑んだ。


『ありがとうございます。ですが、私達は今のままで十分に幸せです。そのお心遣いだけで十分ありがたいですから』

「そうですよ、殿下。帰り道に偶然野盗に襲われただけですし、褒美なんて身に余ることです」

「偶然であっても、俺は命を落とすところだった。お前達がいなければ、今ここでこうしてはいないだろう。それを救ったのは間違いなくお前達だ。感謝と褒美は、当然の筋だと思わないか?」


静かな声なのに、重みがあった。
その誠意の前に、軽々しく言葉を返すことができなくて、僕とセラは自然と顔を見合わせた。


「何もないなら、こちら側で勝手に決めることになるけど、折角だから俺としてはお前達の望むものを用意したい。なんでもいいから、何かないの?」


暫く沈黙が落ちた。
ワインの香りがかすかに流れる中で、セラがそっと目を伏せたのがわかる。
考え込むように唇が小さく動き、やがてその瞳がまっすぐに殿下を見つめた。


『可能であれば、一つだけお願いしたいことがございます』


その声音は穏やかだったけど、どこか緊張の色を含んでいた。
セラが要望を素直に言葉にするのは珍しい。
何を話すのか興味深く思っていると、王太子は軽く頷き、柔らかく笑みを浮かべていた。


「ああ。なんでも言ってくれ」


セラは胸の前で両手をそっと重ねて、深く息を吸った。


『殿下には、正直にお話しします。実は私、将来を総司と共にしたいと考えております』


その言葉を聞いた瞬間、時間が止まった。
王太子も、僕も、まるで息をするのを忘れたように、身体の動きがぴたりと止まる。


「……は?」

『総司とはもう二年程、交際を続けています。将来のことも見据えて、真剣にお付き合いしているんです』


胸の奥が熱くなり、鼓動が僅かに早くなる。
まさかこんな形で王太子に僕との未来を口にしてくれるなんて考えてもみなかった。
この先、もしセラが王家に嫁ぐことになったら、僕はまた何もできないまま見送るしかないのかと悔しい気持ちでいたところだったから。

けれど今、彼女の口からはっきりと告げられたその想いが、まるで胸の奥を灯すように温かく広がっていく。
驚きと同時に、溢れそうなほどの想いが込み上げてくるのを感じた。


『父の承諾はすでに得ております。けれどアストリア公国はルヴァン王国の庇護下にあります。婚約や結婚には、王家のご承認を賜らねばならないと伺いました。私達は今、そのご承認に値する者となれるよう努めています。いつかその努力が実を結んだときには、どうか私と総司の結びつきをお認めいただけないでしょうか?』


王太子はしばらく言葉を失っていた。
長い沈黙の中、王太子が静かに息を吐いたとき、その顔にはわずかに滲んだ苦笑が見えた。


「……まさか、そう来るとは思わなかったよ」


声は穏やかだったものの、そこに混じる微かな痛みを僕は感じ取った。
それは王太子としての立場よりも、一人の人間としての揺らぎのように思える。
その瞳の奥には、複雑な光が交錯していた。


「俺は……正直に言えば驚いている。お前達のことは信頼しているし、互いに支え合っているのも見てきたけど……まさかそういう関係だったとはね」

『驚かせてしまって、申し訳ありません。けれど私は、総司と共に生きることを心から望んでいます。それは私個人の願いであると同時に、アストリア公国を支えていくための覚悟でもあります』


王太子はきっと、この世界でも少なからずセラを特別に想っている。
この子に向ける優しい眼差しを、僕も何度も見てきたつもりだ。
だからこそ王太子の瞳が辛そうに歪められた時、胸が僅かに痛み出し、この先の言葉を聞くことが怖くなる。
けれど王太子は一つため息を吐き出すと、真剣な面持ちで言葉を紡いだ。


「俺はお前や沖田のことを大事な友人だと思ってるよ。だけど将来のことは、そう簡単に決めていい話じゃない。陛下にこの話をするっていうことがどういうことなのか、ちゃんと理解してるんだよね?」

『はい。私は総司となら、どんな困難も乗り越えていけると思うんです。公国をより良くしていくために、これからも努力を続けます。そしてその傍に総司がいてくれたら、私はどんな未来でも恐れません。私の気持ちはどんなことがあっても変わらないと言い切れます』


覚悟を決めたセラの真剣な眼差しは、とても綺麗だった。
正直な想いだけで未来を切り開いていこうとするセラの強さに胸を打たれ、僕もこの想いを伝えようと口を開いた。


「殿下。セラが申し上げたことは、僕の願いでもあります。アストリア家に忠誠を誓って以来、僕はセラのために剣を振るってきました。これからも、それは決して変わりません。公国の繁栄のために努力を怠らず、どんな使命にも応えるつもりです。そのうえで、彼女の傍で生きることをお許しいただけないでしょうか」


殿下はしばらく僕を見つめ、何かを決意したように頷いた。


「お前達の覚悟は確かに受け取ったよ」


その声には、諦めにも似た優しさがあった。
少しだけ微笑みを浮かべ、王太子は言葉を続ける。


「陛下には、俺から話しておこう。きっと陛下も、お前達の忠誠と誠実な想いを知れば、承諾してくださるはずだ。この国やアストリア公国のためにも、互いを信じ合えるお前達のような者が結ばれるのは、何よりの強みになるだろうからね」


セラの瞳が潤み、静かに頭を下げる。


『ありがとうございます、殿下。このご恩は、一生忘れません』

「心より感謝いたします、殿下」


殿下は小さく息を吐き、穏やかな微笑を浮かべた。


「……あーあ。まさか、こんな展開になるとはね。本当はもう少し、俺個人としてのわがままを言いたいところなんだけど」

『わがまま……ですか?』

「ああ、でもやめておくよ。そんなことをしても無駄だろうから」

『無駄?』

「まあ……早めに知れて良かった。あと少し遅かったら、こっちも手遅れになっていたかもしれないからね。でも今ならまだ引き返せるし、余計なことを考えるのはやめだ」

『手遅れ……?ご褒美のお話ですか?』


首を傾げるセラの姿があまりにも愛らしくて、思わず笑いがこぼれた。
王太子も同じように小さくため息をつき、どこか呆れたように僕の方を見やる。


「セラは本当に鈍感だね。沖田は薄々気付いてるみたいだけど」

「ええ、まあ……それなりには」

『え?そうなの?今の殿下のお話で何がわかったの?』

「さあ、なんだろうね」


僕と王太子が揃って笑いながら言葉を濁すと、セラは少し困ったように唇を尖らせて、僕を見上げた。
その仕草に自然と胸の奥があたたかくなり、不安や嫉妬の残滓が、少しずつ薄れていくのを感じた。

……ああ、もう大丈夫だ。
未来を疑う必要も、王太子に敵意を抱く理由も、何ひとつない。
心の底から、そう思えた。


「殿下、寛大なお心遣い、ありがとうございます。セラのことは、責任をもって僕が護ります」

「ああ、沖田なら大丈夫なんじゃない?でと万が一、困ったことがあれば俺に言ってくれ。出来る限り力になるつもりだから」

「殿下にそう言っていただけると、何より心強いですよ」

「当たり前だ。俺は友人として、お前達の幸せを願ってるよ」


その言葉は静かで、優しさを帯びていた。
その笑みの奥にある微かな痛みを感じながらも、確かな温もりが伝わってくるものだった。

まさか、こんな形で王太子との間に絆が生まれるとは思わなかった。
ほんの数日前まで、僕は自分の望む未来のために、王太子を見捨てることさえ考えていたというのに。

……でも、これがセラの力なんだ。
人を傷つけることなく、真心で誰かの想いを変えていく。
そのまっすぐな優しさが、世界を少しずつ動かしていく。

僕も見習わなければならない。
そして、この世界でこそ、僕は王太子を友人として認め、自分の意思で彼と向き合おうと思った。

嬉しそうに微笑むセラを見つめながら、胸の奥に静かな熱が宿る。
掴みかけたこの未来を絶対に逃すものかと、心に誓う僕がいた。

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