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王太子の許可をもらい踏み入れた応接間は、正直あまりいい思い出がなかった。
あの王女と関わらなくて済んでいることに改めて安堵しながらも、今はセラの身体が心配だ。
腕の中に抱えていたセラをそっとソファーに下ろし、彼女の仮面を取るなり彼女の前に跪いた。


「痛いのは右足?」


舞踏会の会場で、セラが右足を踏み込んだ直後に、苦しげに顔を歪めていたのを思い出す。
その光景が頭をよぎりながら問いかけると、セラは静かに頷いただけだった。


「じゃあちょっと見るね」


ヒールのついた靴を脱がせる。
すると僕の手の上に乗った小さな足の指先を目にして、思わず息を飲んだ。


「……は?なんでこんなに……」


真っ赤に膨れた指先。
軽い靴擦れ程度の傷を予想していたのに、セラの右足は痛々しく腫れ上がっていた。
人差し指と中指のあたりは特に酷く、見るだけで痛みが伝わってくる。
セラ自身も、その光景に言葉を失っていた。


「ちょっと触るね。痛かったら言って」


なるべく優しく、指先に指を添える。
外から軽く圧をかけると、セラの身体が小さく跳ねた。


「……ここ、痛い?」

『……うん……』


震える声に胸の奥が締め付けられる。
関節ではなく、骨そのものが異様に動く感覚……嫌な確信が指先に伝わってきた。


「人差し指と中指、多分骨が折れてるよ」

『え……?』

「待ってて。少しでも楽にしてあげるから」


僕は立ち上がり、部屋の片隅に視線を向けた。
この場所には王女の近衛騎士だった頃によく来ていたため、王太子の言葉通り、簡易の医療箱が常備されていたことは知っている。
記憶を頼りに机の引き出しを開けると、そこには包帯、消毒薬、細い副木までがきちんと揃っていた。


「よかった……これなら大丈夫かな」


小さく呟きながら、医療箱を手に戻る。
彼女の足元に膝をつき、できるだけ落ち着いた声で言った。


「痛むと思うけど、骨を固定してあげないともっと腫れるかもしれないんだ。だから、少しだけ我慢してね」

『うん、ありがとう』


無理をしていそうなその笑顔を見れば、震える手を取り親指でその甲をなぞってしまう。
少しでも安心させたい、そんな気持ちが先に立っていた。

セラの右足をそっと支え、腫れの様子を確かめる。
皮膚の下で動く骨の感触からして、やはり中指と人差し指の骨は折れている。
相当痛かったはずなのに、泣きもせずに僕と踊りたいと言ったあの時の微笑みを思い出すと胸が痛んだ。


「……痛かったよね」


思わずこぼれた言葉に、セラはわずかに息を吸い込む。
僕は微笑を浮かべたまま、手を止めずに作業を続けた。
清潔な布で足を包み、腫れを抑えるように冷却薬を塗る。
細い副木を二本取り出し、慎重に指の形に沿わせて固定した。
動かないように包帯を丁寧に巻いていくと、ようやくセラの呼吸が落ち着いてきたのが分かる。


「これで少しは楽になると思うよ。痛みはまだある?」

『ううん、さっきよりずっと楽になったよ。どうもありがとう』

「どういたしまして」

『総司、すごいね。まるで医師の方みたい』


嬉しそうにそう言ったセラだけど、その顔はまだ僅かに青ざめていた。
僕は包帯の端を留め、彼女の足を両手で包み込んだまま、少しだけ目を伏せた。


「騎士だからね。任務先で仲間の怪我を見てるうちに、こういう処置は覚えたんだ。だからもう大丈夫だよ。僕がついてるから」


セラが小さく頷き、少しだけ微笑んだ。
でも節目がちなその表情は不安を抱えているようにも見えて、僕の心情も穏やかではいられなかった。


「それにしても、ぶつかったり、ちょっと足を踏まれた程度じゃこんなことにはならないよね。何があったの?」


あの時、ほんの一瞬でも目を離したのが間違いだった。
煩わしい誘いにも丁寧に返していたのは、全てセラとの将来のため。
騎士として、そしてセラの婚約者候補として恥じないよう、穏やかに応対していたつもりだった。
この子の将来を曇らせたくないと思ったからこその行動だったのに。

でもそのわずかな間に、セラはこんなにも痛ましい怪我を負ってしまった。
胸の奥で静かに沸き上がるのは、どうしようもない自責と、彼女を傷つけた誰かへの怒り。
その感情を押し殺そうとした僕の顔を見て、セラの瞳がわずかに揺れた。


『……えっと、特に……何もないよ?』

「いや……骨折までさせられて、何もないってことはないでしょ?相手は?どんな奴だった?」

『それが、仮面で……よくわからなくて……』

「見たことはあった?学院の生徒?」

『それもよくわからなくて……』


確かに仮面舞踏会では、親しい間柄でない限り、相手が誰かなんてわからない。
だからと言って納得できるわけがなく、僕は小さく息を吐くと彼女の隣に腰を下ろした。


「それで、なんで骨折したの?」

『足を踏まれちゃったの』

「どんなふうに?」

『普通に……ぎゅって』

「あのさ、その程度で人の骨が簡単に折れるわけないでしょ。もう一回聞くけど、何があったの?」


その問いに、セラは言葉を詰まらせた。
彼女の目が、何かを躊躇うように泳いでいる。
どう話そうか悩んでいるのが分かるから、それが余計に胸をざわつかせた。


「セラ、話してくれないとわからないよ。僕たち、将来結婚するんじゃないの?」


その言葉に反応したセラは、ずっと俯きがちだった視線をようやく僕へと向けた。


「夫婦って、何でも話し合える関係じゃないと駄目だと思うんだ。問題があったら、一緒に考えて解決していく。そういう関係でいたいのに、なんで僕に隠そうとするの?」

『違うの、総司に隠そうとしてるわけじゃなくて……』

「でも話してくれないじゃない。そんなふうに黙っていられると、君とこの先、本当にやっていけるのかって心配になるんだけど」


もどかしさや苛立ちが渦巻いてしまうのは、僕を頼って欲しいしセラに一人で抱え込ませたくないからだ。
だからついきつい口調でそう言ってしまった言葉は、勿論僕の本心なんかじゃない。
だけどセラは目を見開くなり、その大きな瞳を瞬く間に潤ませた。


「別に変な意味じゃないからね。だから、泣かないでよ」

『……な、泣いてないけど……』


逸らされた瞳の奥に、今にも零れそうな涙の光が揺れていた。
この前だって、嘘泣きに見せかけていたけど、実際にはほんの少し潤んでいたよね。
普段、人前ではあまり泣かないセラだからこそ、僕のために感情を抑えきれずにいるその姿が、どうしようもなく愛おしい。
ただ優しく抱きしめたいだけなのに、心の半分ではその涙まで見ていたくなる僕がいる。
懸命に耐えようとする横顔を見るほどに、もっとセラの愛情を感じたくなってしまうみたいだ。


「へえ、そう?」


太腿の上に肘をつき、頬杖をしながらセラの顔を覗き込む。
視線を避けようとしながらも、涙を堪えるように眉を下げる仕草が切なげに見えた。


「何がそんなに悲しいの?」

『別に……悲しくなんて』

「悲しそうな顔してるけど」

『それは……総司が意地悪を言うから……』

「僕がいつ意地悪言ったのさ。別にセラを困らせようなんて思ってないよ」

『でも、私とうまくやっていけるか心配って言った……』


そう言いながら、再び涙を浮かべたその表情に、思わず息を呑んだ。
目尻に浮かんだ小さな雫が光を受けて揺れ、髪の影に隠れるように俯いた仕草がどうしようもなく可愛い。
胸の奥が熱を帯びて、静かに高鳴る鼓動を抑えられなかった。

昔からセラは、僕の何気ない一言に素直に反応して、ころころと表情を変える子だった。
笑ったり、拗ねたり、泣きそうになったり、その全部が愛おしくて。
その変化に僕まで嬉しくなったり、胸が締めつけられたりしながら、その度に心を掴まれていたんだと思う。

けれど今のセラは、以前よりずっと必死に僕を想ってくれている。
その事実に気づくたびにたまらなく嬉しくて、どこか熱に似たものが甘く苦しく広がっていった。
どうしてこんなにもこの子のすべてが愛おしくてたまらないんだろう。
いつまで経っても持て余し気味の自分の感情さえ心地良く感じながら、僕はただセラから目を離せずにいた。


「まあ、言ったけどね」


軽く笑って返しながらも、心のどこかではもう会話に集中できていなかった。
こんな話をしている場合じゃないのに、目の前のセラが可愛すぎて、ただ見惚れるように視線を奪われてしまう。

静かな時間が流れて、言葉が途切れたまま、僕はその横顔を眺めていた。
指先で触れたら壊れてしまいそうなほど儚くて、瞬きをすることさえ惜しかった。
でもそんな僕のすぐ横で、先に沈黙を破ったのはセラだった。


『意地悪じゃないなら……総司は私との将来……本当に心配に思ってるってこと……?』


言い過ぎたと気づいたのは、見つめていた横顔がふっと歪み、頬を伝って涙がひと粒落ちたから。
はっと我に返った時には、セラは堪えきれずに涙をこぼし、辛そうにきつく目を閉じていた。


「セラ、違うよ」


気づけば反射的に身体が動いていた。
震える肩をそっと抱き寄せると、指先に伝わるぬくもりが切なく胸に沁みる。
罪悪感に胸を締めつけられながら、頬を伝う涙の跡を指でなぞると、濡れた瞳が僕を見上げてきた。


「僕はこれから先もずっとセラといたいよ。心配って言ったのは、君との未来を本気で考えてるからなんだ。この先全部うまくいくかなんて、そんなの誰にも分からないことだけどさ、でも……」


言葉を区切り、彼女の頭を引き寄せ胸に押し当てると、淡い髪の香りがふっと立ちのぼる。
腕の中にセラがいてくれるだけで、こんなにも僕の心は穏やかになるから不思議だ。


「僕は君を絶対に幸せにしたいって思ってる。それだけはずっと変わらないよ。だから話してもらえなかったり、頼ってもらえなかったりするのは正直少し寂しいし、そんな頼りない伴侶にはなりたくないんだ。僕が言った心配は、そういう意味だよ」


その言葉を聞いていたセラは、静かに僕の胸から身体を離し、涙で濡れた瞳を隠すように伏せた。


『総司のことは誰よりも頼りにしてるよ。でも今日のことは……ただ、余計な心配をかけたくなかったの。私……自分から総司と距離を取ったでしょう?それなのにこんなことになって、それだけで申し訳ないくらいなのに』


僕を想ってくれている気持ちが、まっすぐに伝わってくる。
その優しい気遣いが嬉しくて、けれど同時に泣かせてしまったことを悔やまずにはいられなかった。


「申し訳なく思う必要なんてないんだよ。セラは何も悪くないじゃない。そもそもなんであの時、僕から離れたのさ」

『なんとなく……?』

「まさか、僕が他の子と踊るかもって考えたわけじゃないよね?」

『そこまでは考えてないけど……邪魔はしないようにって思って……』

「なんでセラが邪魔になるわけ?」


セラは再び俯いて、指先で髪を弄びながら視線を泳がせる。
その遠慮がちな仕草が、昔から変わらなくて、思わず頬が緩んだ。


「僕としてはね、他の子と踊らないでって言ってもらえた方が嬉しいんだけど」

『あの場でそんなこと言えないよ』

「どうして?」

『どうしてって……総司のことが好きだから。わがままなことを言って、総司に嫌われたくないもん……』


その一言に、胸の奥が熱くなった。
涙に滲む声でそう言われただけで、言葉より先に抱きしめたくなった。


「この前は、まだ好きって言ってもらってないとか、わがまま言ってたのにね」

『あれは……わがままには入らないよ』

「そうなの?」

『……あれも、わがままだった?』


少し不安そうに尋ねてくる様子が可愛くて、セラの握られた手をそっと取った。


「別にわがままでもわがままじゃなくても構わないよ。思ったことは全部言ってよ。ちゃんと受け止めるからさ」


僕を見つめる瞳が大きく揺らいで、それはすぐに伏せられる。
でもさっきまでとは違い、白い頬を染めたその様子は少し嬉しそうだった。


『いいの?』

「いいも何もそうして欲しいんだよ。僕だってそうしてるし、セラはそんな僕のことをちゃんと受け止めてくれてるじゃない」

『私……ちゃんと、受け取められてるのかな?』

「うん、勿論。だからセラも、もっと僕に甘えてくれていいですよ」


セラの頭に乗せた手で撫でると、セラは少し照れくさそうにはにかんだ。
今までの泣き顔が嘘のように明るくなって、遠慮がちに僕の胸に抱きついてくるところがたまらない。


『私、好きになった人が総司で良かった。総司のこと、昨日よりもっと大好きになったよ』


その言葉も、擦り寄ってくる仕草もセラからの言葉も全部僕の宝物だ。
全てを受け止められるようにセラの身体をきつく抱きしめて、こつんと額を合わせた。


「僕も毎日、これ以上無理って思うくらいセラのことが大好きになってるよ。きっと結婚できる時には、好き過ぎて爆発してるかもね」

『ふふ、私も。それでも毎日たくさん、総司のことが好きになるよ』

「じゃあその分、幸せにならないとね」

『うん。総司といられたら私、毎日とっても幸せだよ』


それは僕も同じだ。
むしろ君が隣にいない世界には何の価値もないと思ってしまうほど、僕は君が好きで、何よりも大切に思ってるよ。
だからどうか、僕達の未来が今度こそ明るいものになりますように、そう願いながらセラに微笑みを向けた。


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