3
僕が一方的に握っていたはずの手は、いつの間にかセラの指と自然に絡まり合っていた。
視線が重なるたびに、お互いを確かめるようにそっと引き寄せられていく。
僕を求めるみたいに伏せられるまつ毛の揺れが、またひとつ静かに胸の奥へ落ちてきて、どうしようもなく好きだという気持ちが積もっていった。
そして唇が触れる瞬間だけを待って、セラがそっと瞳を閉じた時だった。
「お前たち、それいつまで続ける気?」
平静を装った声がすぐ近くから降ってきて、僕らは同時に動きを止めた。
反射的に顔を向けると、ドアの前に立つ王太子が、呆れたような表情でこちらを眺めていた。
『で、ででっ……殿下……っ』
セラはひどく慌てて、僕の手から離れ、距離を取る。
盛大なため息を吐いた王太子は、僕たちの向かいのソファーに腰を下ろし、足を組むと不機嫌そうに睨んできた。
「やだな、殿下。いらっしゃったなら、見てないで声をかけてくださいよ」
「俺はノックもしたし声もかけた。けど、お前たちが自分たちの世界に入り込みすぎて気付かなかったんだよ」
『……申し訳ありません。あの、いつからこちらに?』
「お前が、好きになった人が沖田で良かった……って言ってたあたりかな」
……うわ、そこから全部か。
あのやりとりを聞かれていたのは正直気まずいけど、こればかりは仕方ない。
苦笑いするしかできないまま隣を見ると、セラは顔を真っ赤にして俯き、完全に固まってしまっている。
「俺は治療のために応接間を貸したつもりなんだけど。誰がお前たちの密会場所として使っていいって言った?」
「すみません、殿下。でもおかげさまで治療はできましたよ」
「それならいいけどさ」
王太子の視線がセラへ向く。
副木で固定された指先と、その上から巻かれた包帯に気付いたのだろう。
首を捻ると、わずかに眉間に皺を寄せた。
「怪我ってそれか?ずいぶん大袈裟な処置に見えるけど」
「それが大袈裟でもないですよ。人差し指と中指、折れてますから」
「は?何をしたらそんなことになるんだよ」
「それを僕も、今から本人に聞こうとしてたところです」
僕達の視線を受けて、セラは一度唇をかたく結ぶ。
そして観念したかのように、ぽつりぽつりと話し始めた。
『最初は、後ろから誰かにぶつかられたんです』
強い衝撃で身体がよろけ、倒れそうになったところを別の男が支えたらしい。
けれどその男は、優しいふりをしながら、セラの足をためらいなく踏みつけたという。
『私の足を踏んだ人と私にぶつかってきた人は、知り合いのようでした。これは私の気のせいかもしれませんが、去っていく時……お二人とも私のことを睨んでいるように見えました』
予想していたより、ずっと事態は深刻だった。
その二人の男の目的が何なのか。
どうしてセラを傷付け、そんな露骨な敵意を向けたのか。
理由もわからないままだからこそ、胸の底にざらついた焦燥だけが積もっていく。
学院でセラが命を落とした時のことや、攫われた時のことが、記憶の奥から静かに這い上がってきた。
「つまり故意的に傷付けられたってことか。相手は?心当たりとかはないの?」
『何もわからないんです。どうして恨まれてるのかもわからなくて』
「そもそもお前も仮面をつけてた筈だよね。その相手の男たちは、本当にセラを狙ってたのか?」
『そうだと思います。私を支えた時、その男性が一度だけ私に声をかけてきたんです。大丈夫ですか、セラ嬢……と……』
二人の会話を聞き、胸の奥で何かが軋んだ。
拳を握る指先が強張ると、殿下がちらりと僕を見て、わずかに眉を寄せた。
「じゃあ、セラが狙われたのは確実ってことだろうけど。沖田が今にもそいつらを殺しに行きそうな顔をしてるね」
殿下の冗談めいた声音とは裏腹に、図星を刺された感覚があった。
本音を言えば、そうしたい。
ただそいつらの正体が何もわからない今は、感情だけで動くわけにはいかなかった。
セラが心配そうにこちらを見上げているから尚のこと、僕は冷静にならなければならないと、どうにか呼吸を整えた。
「何か少しでもそいつらの手かがりがあればいいんですけどね。セラは声を聞いても、そいつらに心当たりはないの?」
『うん、まったく……。一度でも話したことのある人だったらわかると思うんだけど、思い返してみても何も思い当たらなくて』
「じゃあ見た目は?何か特徴的なことがあれば僕に教えて」
『二人とも背は高くて、多分総司と同じくらいだったよ。髪は……一人が赤茶色、もう一人が群青色……。わかる特徴はそのくらい』
正直、それだけだと糸口にすらならない。
王太子も同じことを思ったのだろう、一つ息をつくと苦笑いして口を開いた。
「セラが忘れてるだけで、そいつらに会ったことくらいあるんじゃない?」
『そうなんでしょうか……』
「何か恨まれるようなこと、してないの?」
その問いに、セラの視線が揺れた。
思い悩むように沈み込む姿が痛いほど胸に刺さり、僕は間髪入れずに言葉を繋いだ。
「セラは誰かに恨まれるようなことをする子じゃありませんよ」
「別にセラが悪いと言っているわけじゃない。ただ世の中には逆恨みする奴も多いって話だよ。例えば交際を申し込まれて振った相手だった、とかね」
「まあ……確かに、そういうことはありますけど」
「セラなら相当声をかけられてるだろうし、振ってきた男もそれなりにいるんじゃないの?」
『いいえ、そのようなことは一度もないです。私、全然好かれなくて。好きって言ってくれた人も、今までで総司だけですから』
セラは肩をすくめて、照れたように笑った。
本人は本気でそう思ってるんだろうけど、実際は違う。
公爵家がセラを社交の場に出さずに守ってきたからこそ、周りからの干渉を避けられてきただけだ。
学院でも、街でも、セラに見惚れてる男なんて山ほどいた。
平助も伊庭君も、はじめ君だってそうだ。
それに王太子だって、一時はセラに特別な感情を抱いていたのを僕は知っている。
それなのに、当の本人だけがその事実を知らない。
僕が苦笑したのと同じタイミングで、王太子が盛大に息を吐いた。
「お前さ、ほんと何もわかってないよね」
『え?』
「……まあ、いいけど」
王太子がやれやれといった様子で静かに息を吐く。
この人がかつて抱いていた感情を思えば、その溜め息の意味は察しがついたけど、彼は真剣な面持ちで僕達を見ると言葉を続けた。
「……で、本題に入ろうか。セラに怪我を負わせた奴らのことだけど、学院祭とはいえ、ここは誰でも簡単に入れる場所じゃない。入り口では必ず身分確認を行っている。そこらのごろつきや身元の怪しい連中が紛れ込める場所じゃないってことは、お前達もわかってるよね」
真剣な音色で尋ねられて、僕とセラも黙ったまま頷く。
「もちろん学院と関係のある商会や飲食店、服飾店なんかは、許可が出た者に限り出入りを認めているが……。あいつらだって馬鹿じゃない。王立の学院で問題なんて起こせば、王国そのものを敵に回すことになる。商売が関わる場で、普通余計なことはしないはずだ」
「つまり今回の二人は、かなり高い確率で貴族の家の人間……もしくは貴族に雇われた者、ということですよね」
「そういうことだ。普通の人間には絶対できないね」
王太子はゆっくり頷くと、椅子の背に肘をかけたまま薄く目を細めた。
「だから俺が動くよ」
「殿下が?」
「ああ。王立学院で起きたことなら、俺が動く理由としては十分すぎる。この学院は王家の管理下であり、生徒は客でもある。それに俺の命の恩人に手を出したっていうなら、黙って見逃すわけないだろ?」
わずかに口元を吊り上げた殿下の笑みに、胸の鼓動が自然と早まる。
静かに聞いていたセラも、驚きが隠せないように瞳を大きく開いていた。
「まず学院中に調査命令の通達を出す。アストリア家の令嬢に危害を加えた不審者が出た、全責任者は俺に当日の様子を全て報告しろってね。それだけで学院内の連中は、セラに何かあれば王国を敵に回すと周知する筈だ。あとは学院に関わりのある貴族や、ルヴァン管轄下の貴族にも手紙を出そう。今回の件で俺が腹を立てて犯人探しをしているとわかれば、いい牽制になると思わないか?」
『ありがとうございます、そう言っていただけてとても心強いです。ですが私のために殿下にそこまでしていただくのは……』
「セラ」
セラの言葉を遮ったのは、王太子からの申し出を断って欲しくなかったからだ。
どの世界でもセラは必ず死を迎える。
その理由は様々だとしても、この世界でもセラに向けられた悪意が確かに存在すると知ってしまった以上、王太子が動くと言ってくれることは、何より心強い後ろ盾に思えた。
僕がどれだけ護ろうとしても、相手が見えなければ限界がある。
けれど殿下が動けば、貴族社会が動き、国そのものが味方になる。
だからこそ僕はセラを制し、真っ直ぐ王太子に向き直った。
「殿下、今回の件ですがセラを護れなかったのは僕の落ち度です。今後はこのようなことがないよう改めて気を引き締めるつもりではいますが、殿下にお力添えいただけるのならそれほど心強いことはありません」
「当然だ。別に今回のことを沖田のせいだと言うつもりはないけど、実際護衛一人の力では護るのに限界がある。お前は確かに強いけど、敵が見えなければそもそも戦いようがないからね」
「実はセラは以前に誘拐もされています。他にも出先で襲撃されたこともありますし、誘拐組織の潜伏先を突き止めた時も、この子の情報が流れていました。セラを狙ったその組織全てに、依頼主から指示を受けた形跡があったんですよ」
僕の言葉を聞いて、セラは驚きを隠せない様子でこちらを向いた。
『……え?』
「今まで黙っててごめん。君を不安にさせないように、僕も城の皆も君にだけは言わないようにしてたんだ」
不安を押し隠せない瞳で僕を見上げるその表情が、胸を締めつけた。
でもこの先を一緒に歩んでいくつもりだからこそ、もう隠してはいけないと思い告げた言葉だった。
「アストリア騎士団でもずっと犯人を追っていますが、いまだ何の手かがりも得られていないのが現状です。護衛を徹底していたので、最近は大きな動きはなかったんですけどね」
「でも今日、久々に起こってしまったってことか」
「はい。ただ依頼主本人は、自らの手を汚さない可能性が高いと思っています。最初の誘拐事件から全てが同じ者の仕業だとしたら……この四年の間、セラを狙い続けていることになります。何かしらの目的があってもおかしくありません」
「なるほど。そうだとしたら、警戒心が強くて相当粘着質な相手だな」
今回の世界では、贈り物に刃が仕込まれることも、学院で襲われることもなかった。
でもどの世界でも、セラが狙われていた事実だけは変わらない。
そして今もまだ、その影が完全に消えたわけじゃない。
だからこそ、僕は王太子に深く頭を下げた。
「セラはアストリア公国にもルヴァン王国にも欠かせない人です。僕も公爵家や王国のために尽力すると誓います。なので、殿下。どうかお力を貸していただけないでしょうか?」
その様子を見て、セラも僕の隣で頭を下げる。
すると王太子は小さく笑って、「顔を上げてくれ」と言った。
「だから、最初から力を貸すって言ってるじゃないか。そんな仰々しくされるのはごめんだね」
「すいません。ですが、一応この国の王太子殿下相手なので」
「悪いけど、俺は心を許した友人に権力を振りかざすつもりはないんだ」
得意そうに言う殿下に、つい笑みがこぼれる。
殿下も同じように笑って続けた。
「安心しなよ。正直、この前はお前たちの件を陛下に口添えしたくらいで、恩返しにもならなかった。だから今回はちゃんと動くつもりだ。俺が動けば、セラに下手な真似をする者なんていなくなるさ。その家ごと、まとめて吹き飛ぶことになるだろうからね」
まだ未来への不安はある。
でもこの世界ではルヴァン王国の王太子がセラを護るため動いてくれる。
このことは、不安に押し潰されていた僕の心を救い上げてくれる出来事だった。
『殿下、ありがとうございます。こうして助けていただけることは、とても心強く感じます。どうか、よろしくお願いいたします』
「僕も改めて感謝します、殿下」
「俺がやりたくてやることだ。気にする必要はない」
王太子はふっと目を細めて、少しだけ柔らかい声音になる。
僕達に向けられたその眼差しは、配慮に満ちていた。
「まあ、任せておいて。セラは色々不安だろうけど、あまり思い悩む必要はないよ。これからは力になるし、傍に沖田だっているんだから存分に頼ったらいいんだよ」
セラがわずかに頬を染め、王太子の目を見返し言った。
『はい、そうします。殿下も総司もありがとう』
セラとの未来を追い求めてがむしゃらに世界を渡り歩いてきたけど、こんなに希望が持てたのは初めてだった。
この子に出会う前、人との絆なんて何一つ信じていなかった僕が、今はこうして周りの人達に支えられている。
そのあたたかさを心に噛み締めながら、隣で微笑むセラを眺めていた。
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