7

どうやって公爵邸に戻ってきたのか、その記憶はまるで霧の中を歩いたように曖昧だった。
気がつくと僕は、冷えきった空気の中で、ただセラを見下ろしてた。

寝台に横たえられたセラからは、腹部に突き刺さっていた複数の矢は抜かれ、右目を潰していた短剣も取り払われている。
けれどその傷跡は生々しく残り、変わり果てた姿のセラを目の前に、僕は呆然と立ち尽くしていた。

山南さんが少しだけ顔を背けるように視線を落とし、表情を歪めている。
誰よりも冷静であろうとする人の、その抑えきれない痛ましい表情に、胸の奥で鈍い痛みが重く沈んだ。


「沖田、俺の方で出来る限り犯人の手がかりは探しておく。王宮の騎士や学院の関係者に聞き込みを行うから、それは任せてくれ」


傍らに立っていた王太子が、僕の肩に静かに手を置いた。
僕を気遣うような視線を受けても、ただ頷くことだけが今の僕にできる唯一の返事だった。

王太子が部屋を出て行くと、伊庭君と平助は肩を震わせながら涙を落とし、押し殺した嗚咽が静まり返った部屋に響く。
その時、慌ただしい足音と共に扉が開き、近藤さんと山崎君が駆け込んできた。
きっと公務から急いで戻ってきたのだろう。
息を乱し、血の気を失った顔で部屋を見回し、その瞳がセラの姿を捉えた。


「……あ……ああっ……そんな……っ……!」


近藤さんの声が、途切れた。
セラの姿を見た刹那、その大きな身体が崩れ落ちるように膝をつき、両手で顔を覆いながら震えていた。
普段、どんな時でも前を向き、誰よりも強くあろうとする近藤さんが、子供のように声を絞り出して泣いていた。


「なぜ……こんな……、誰が……誰がこんな無惨な真似を……!俺の大事な娘を……あんな優しい子を……なぜだ……っ」


その声は怒りで震え、どうしようもない悲しみを抱え込んだまま壊れてしまいそうだった。


「……っ……、お嬢様……」


山崎君の声も震えていた。
普段冷静な彼ですら、涙を隠すこともできないほど動揺していた。

そして、気づいた。
セラが亡くなった後の近藤さんの姿を、僕はこれまで一度も見たことがなかった。
けれど今まで渡り歩いてきたどの世界でも、近藤さんはセラが命を落とすたび、今のように酷く苦しんで、悲しみと憎しみに身を焼かれていたに違いない。
それを知ってしまった今、胸が強く締めつけられ、僕の視界が一気に滲んだ。
堪えていた涙が堰を切るように零れ落ち、声にならない嗚咽が喉を震わせた。
僕は近藤さんの前で膝を折ると、深く頭を下げた。


「……お嬢様を……セラを……お護りできず……申し訳……ありません……」


声はうまく出ずに、言葉の形を保つのがやっとだった。
平助も伊庭君も、震える声で続いた。


「総司と同じです……。俺も……俺もセラを護れなかった……すみません……っ」

「……僕も護衛として、お嬢様を護りきれなかったこと……心よりお詫び申し上げます」


三人の声が涙に濡れて重なった。
近藤さんは顔を上げ、涙に濡れた瞳で僕らを見つめた。
その目は赤く腫れ、憎しみと悔しさと、どうしようもない痛みを抱えていた。


「……お前たちのせいじゃない。お前達はよくやってくれていたよ。そんなこと、俺が一番わかっている……」


近藤さんはいつだってそうだ。
僕達のことを責めることはせず、どんな時も愛情と信頼で包んでくれていた。
けれど近藤さんが嗚咽を押し殺しながら続けた言葉には、彼らしくない憎しみが込められていた。


「……セラを……俺の娘を……こんな目に合わせた奴が……憎くて……堪らない……!俺は……絶対に許さんぞ……!」


その声は燃えるように低く、深い悲痛と怒りで震えていた。
部屋の空気が重くなっていくのを感じながら、僕はただ涙を押さえることもできずに、近藤さんの横で静かに頭を垂れるしかなかった。


それからどれくらい時間が経っただろう。
誰一人として言葉を発せず、僕たちの時間が止まったままでいた時、その沈黙を破ったのは山南さんの落ち着いた声だった。


「沖田君、藤堂君、伊庭君。今日の出来事を、改めて近藤さんにもお話し頂けますか?」


穏やかな声音だったけど、その奥に張りつめた痛みが色濃く滲んでいた。

公爵邸に戻った時、僕たちが言葉にならない状態だったのを見て、王太子が代わりに大まかな事情を山南さんに伝えてくれていた。
けれど詳細を語れるのは、やはり僕たち三人だけだ。
悲しみに押し潰されてばかりでは、セラの無念が晴れることはない。
胸の痛みを無理に押し込めるようにしながら、僕は顔を上げた。
何があっても犯人を見つけ出す、その感情だけはまだ折れていなかった。


「ご存知かと思いますが……今日は王家が所有する森で、狩猟大会がありました」


声を落ち着けようとするほど、喉が苦しく軋んだ。
それでも一つずつ辿るように、セラと離れた後から、僕たちが森に戻った時の状況、王太子と共に彼女を探し、休憩用の邸宅で倒れている彼女を見つけた時のことまで、ゆっくりと言葉にした。
伊庭君と平助も涙を拭いながら自分たちの行動を説明し、そして最後に僕の方に視線をやった。


「沖田君が、どうして斎藤君に掴み掛かっていたのか……僕には理解が及ばないのですが」

「総司は動揺してただけなんだよな……?」


ふたりの眼差しには、はじめ君を疑いの目で見たくないという想いが透けて見える。
それでも僕は視線を逸らさず、近藤さんをまっすぐに見つめた。


「はじめ君は今日、狩猟大会に遅れて来ました。僕達が森に入る時、彼はその場所にいませんでした。そして、これはセラから聞いていた話ですが、はじめ君はセラに二人きりで話がしたいと申し出ていたそうです」

「……話……だと?」

「人に聞かれたら困る話だと言っていたらしいです。セラは安全が確保できる公爵邸でなら二人の時間を作ると言ったそうですが、その提案は断られたと言っていました。僕達が護衛から離れる狩猟大会の日に、時間を作ってもらえないか提案されたと」


平助が不安げに口を開く。


「なあ、その話って……何だったんだよ」

「それは僕にもセラにもわからないよ。ただ、セラは言ってたよ。僕たちが必死に護衛してくれてるのに、黙って勝手な行動はしたくないって。だからはじめ君に声をかけられても、皆の目が届く場所から離れないって……そう言ってたのに」


部屋の空気が張り詰め、皆が言葉を失う。
近藤さんの肩は、怒りなのか悲しみなのか分からない震えを帯びていた。
平助も伊庭君も、信じたい気持ちと現実の狭間でもがいているような表情だった。
そんな重い沈黙の中で、深く息を吐いた山南さんが、静かに口を開いた。


「事情は理解しました。ですが、それだけで彼を犯人と断定するのは些か早計でしょう」


穏やかな声音とは裏腹に、言葉のひとつひとつは鋭い。
僕は俯きかけた視線を上げ、淡々と答えた。


「……わかっています。でも、僕と殿下が邸宅に着いた時、そこに一人でいたのははじめ君でした。しかも動揺していて、狩猟用の弓まで持っていたんです」

「セラのあの姿を見たのなら、誰だって動揺するでしょう。それに弓を持っていた理由は、狩猟大会に出るつもりだったからではありませんか?」


すぐ隣で伊庭君が小さく声を挟むと、それに続いて平助も口を開いた。


「そうだって。はじめ君がセラにそんな酷いことをするわけないと、俺は思う」

「伊庭君と平助は、はじめ君を信じてるみたいだけど、その根拠はどこにあるの?狩猟大会に出るつもりだったなら、あの邸宅に寄らずに森に向かったはずだ」

「それは、テント下で皆が眠ってしまっていたからではないですか?僕と平助君も、戻ってから異変に気付き、辺りに人がいないか探して邸宅に辿り着いたんです」

「はじめ君も同じかもしれねーじゃん。そしたらたまたま邸宅でセラを見つけて、ショックを受けたところに総司と殿下が来ただけかもしれないだろ」

「その可能性は勿論あるよ。でも……だからと言って、はじめ君が犯人じゃない証拠にもならないよ。大会が始まってから、ずっと一人で行動していたのは事実だし」

「では沖田君。君は今日、一人にならなかった時間はないのですか?」


山南さんの問いに、僕は思わず目を見開いた。
森の中で狩猟していた時間だけは、僕も一人だった。


「……いえ……あります」

「状況だけ見れば、敷地内にいた全員に疑いがかかると言えます。森へ入った生徒だけでなく、眠っていた人たちも同様ですね」

「え?眠ってた奴らもか?」

「本当に眠っていたかはわからない、と山南さんは仰りたいのでしょう。お嬢様に手をかけてから元の場所に戻り、眠ったふりをした、と考えるなら……反抗は十分に可能です」


山崎君の静かな補足に、平助は息を呑んだまま黙り込む。
その少し後ろで黙って話を聞いていた近藤さんが、焦点の合わない瞳を揺らし、ぽつりと呟いた。


「……セラは……他の女子生徒と同じように、眠っていたのか……?」


掠れた声が落ち、部屋の空気が静かに張りつめた。
僕達は誰ひとりとして言葉を返せず、ただ近藤さんの揺れる瞳を見つめるしかなかった。

死の間際のセラが、どんな状態だったのか。
それを確かめる術がない以上、軽々しく返事などできるはずがない。
沈黙が続く中、近藤さんの肩がかすかに震えた。


「……セラは……っ、苦しまずに……逝けたのだろうか……」


その言葉に、胸の奥が強く締めつけられる。
涙を堪えようとしても、喉が熱くなるばかりだった。

あれほど無惨な遺体で見つかった以上、セラに一瞬でも意識があったなんて……そんな可能性を考えるだけで、心が押し潰されそうになる。
だから僕達は皆、自分の心を少しでも守るために同じ考えに縋ってるんだ。
セラは眠ったまま、痛みを知らずに逝ったのだと。
そうでなければ、立っていられる気がしなかった。

誰がセラを殺したのか。
その相手を憎いと思う気持ちは、熱が喉に刺さるほど強いのに、その犯人を追う気力さえ奪っていくほど、今の悲しみは深い。
一度目の世界での僕も、まさに同じだった。
愛する人の死を受け止めきれず、ただ崩れ落ちるばかりだった。

だから目の前の近藤さんの姿に、その時の自分を重ねてしまう。
近藤さんは今、一度目の世界での僕と同じ場所に立っている。
その瞳は生気をなくし、苦しむように顔を歪めると、その身体がふらりと揺れた。


「近藤さん……少し休みましょう」


支えたのは山崎君だった。


「いや……俺は平気だ。セラをこんな目に遭わせた奴を突き止めるまでは……」

「近藤さん」


僕は彼の正面に立ち、揺れる瞳を真っ直ぐ見つめた。


「王太子殿下もすでに動いてくださっています。今日の狩猟大会の敷地には、王宮の騎士達が大勢配置されていました。犯人を追う手がかりがあるか、これから僕が王宮へ行って確認してきます。分かったことは必ずすぐにお知らせします。なので……今は少しでも休んでください」

「総司……」

「大丈夫です。僕が必ず犯人を突き止めます。セラを傷付けた奴を、このまま放っておくつもりはありません」


一度目の世界では、セラが死んだ後は、僕も迷いなく後を追っていた。
でも、今は違う。
セラを狙っている誰かが確実にいるなら、そいつを突き止めずに回帰を繰り返したところで、セラを守れる未来には辿り着けない。
これ以上、彼女が苦しむ可能性を残したくなかった。
だからこれは誓いだ。
自分の心に刻み込むように、言葉を紡いでいた。


「……すまないな。父親なのに、俺は……情けないよ」

「そんなことありません。近藤さんほど、愛情深い父親を僕は知りません。僕がお嬢様をこんなにも大事に想えるのは……近藤さんが、セラをあたたかい人に育ててくれたからだと思っています」


その言葉は慰めではなく、僕の本心そのものだった。
この世界でセラに触れることはもう叶わない。
でも、あの子が心から大切にしていた父親が、今も目の前に立っている。
この人の心だけは、せめて僕が護らなくてはいけない。
そんな想いが、確かな強さで込み上げていた。


「ありがとう……総司」


近藤さんは僕の肩にそっと手を置き、痛みと温かさの混じった眼差しを向けてくれた。


「ただ無理はしないでくれ。セラは、総司に辛い思いをさせたくはないと思うからな」

「はい、わかっています」


近藤さんの手が離れ、彼は山崎君に支えられながら静かに部屋を出て行った。

僕は一瞬だけ目を閉じ、胸の奥でかすかに残るセラの気配を探す。
愛らしく笑うセラの声が、まだ耳のどこかに残っている気がした。

待っていて。
絶対に、このままにはしないから。
セラのために、近藤さんのために。
そして、自分自身のために。
犯人を必ず暴くという誓いだけを胸に、僕は歩き出した。

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