9
王宮を出たあと、僕が向かった先は、斎藤公爵が治めるレーヴェルン公国だった。
王都からさらに東へ向かう街道は夜が深まるほど冷え込み、馬車の灯りが霧に滲んで揺れていた。
レーヴェルンは鉄鉱石と、そこから生まれる名産、レーヴェルン精鋼で繁栄してきた国だ。
強靭で純度の高いその鋼は武器にも武具にも適し、戦を好む他国が喉から手が出るほど欲しがる。
だからこそレーヴェルン公国は安定して国を繁栄させてきた。
城門の前に辿り着く頃には、夜はすっかり更けていた。
約束もなく訪れたのに、レーヴェルン家の執事は、僕がアストリアの騎士だと聞くと驚いた顔で奥へと走っていき、すぐに迎え入れてくれた。
案内された客室は、落ち着いた紺色の壁に、深い木の香りが漂っている。
ほどなくして侍女が紅茶と菓子を運んでくると、扉が強めに叩かれ、慌ただしく開けられた。
「総司っ……」
息を切らし、少し乱れた髪のまま入ってきたのは、はじめ君だった。
その頬はまだ腫れていて、それが僕のせいだという痛みが胸に沈む。
けれど、額にある擦り傷は僕の記憶にはないものだ。
どうしてついた傷なのか、その理由を考えながらも口を開いた。
「はじめ君、こんな時間にいきなり押しかけてごめん」
「いや、構わない。俺も総司と話がしたいと思っていた故、来てもらえて助かった」
はじめ君は僕の向かいに腰を下ろし、暫く沈黙が落ちる。
お互いに言葉を選んでいる静けさの中、僕は静かに話し始めた。
「さっきまで王宮にいてさ。殿下と聞き込みをしてたんだけど……君が遅れたのは、故意じゃないって分かったんだ。セラの件、はじめ君じゃなかったんだよね?」
御者の証言によれば、はじめ君が狩猟会場に着いたのは、僕たちが森から戻ってくる少し前。
その僅かな時間で、セラを縛り上げ、命を奪うような真似など到底できないと証明された。
他人を使うという可能性もなくはないとはいえ、そうするくらいなら疑われるような行動を取るはずがない。
何より、今のはじめ君の顔を見れば、彼が犯人ではないことは、痛いほど分かった。
セラを失った悲しみが、彼の表情に深く重く、刻まれているように見えたから。
「信じられないかもしれないが、俺ではない。俺がセラにあのような残酷なことをする理由など……ないからな」
絞るような声だった。
普段のはじめ君の調子とは違い、その節々には彼らしくない弱さが滲んでいた。
「実はセラから聞いてたことがあったんだ。はじめ君がセラと二人で話したいって言ってたって。あれ、なんだったの?」
予想していた答えは一つだけだった。
セラの母親のこと、そしてセラが毒を盛られた事件。
山南さんが以前、僕だけに教えてくれた秘密。
はじめ君は、何らかの形でそこに辿り着いたのだと予想していた。
「セラの母親の死の真相を知ったのだ。それで……その件で話がしたかった」
やっぱりそうか。
ここしばらく、はじめ君が苦悶の影を落としていた理由が、ようやくわかり腑に落ちた。
「僕もその話は知ってるよ。はじめ君の母君が関わっていて、セラにも毒を盛った。だから近藤さんは、彼女を死刑に処した……そう聞いたけど」
「……総司も知っていたのか」
「僕だけね。でも、このことはセラも、伊庭君も、平助も知らないよ」
「セラは本当に知らなかったのか?」
「うん。もしかして、セラに謝ろうとか……そう考えてたの?」
はじめ君は、深く息を吐いた。
静かな諦めと、どうしようもない後悔が混ざったような呼吸だった。
「ああ……。知らない可能性もあるとは考えていた。だが、知った上で何も知らなかった頃のように過ごすことは俺には出来なかったのだ」
真面目で、不器用なほどに誠実なところははじめ君らしい。
彼の表情は今も歪んでいて、まるでその痛みが外からでも伝わってくるようだった。
はじめ君は事実を知ってから、ずっと苦しんでいたのかもしれない。
母親の罪を知り、セラの過去を知り、そして自分が彼女の傍にいる資格を疑いながら。
「……そっか。それなのに、今日ははじめ君を疑って……ごめん。その頬も、悪かったって思ってるよ」
謝って許されることではないだろう。
セラの死という悲しみに暮れているはじめ君を、僕は一方的に責めたんだから。
でもはじめ君は首を横に振ると、寂しそうな笑顔を僕に向けた。
「気にするな。あんたも動揺していたのだろう。俺ではないと思ってくれてるなら、それで構わない」
こうなった今、王太子やはじめ君の優しさがやたら身に沁みる。
あの時の浅はかな自分の行動を悔いながら、そっと息を吐き出した。
「ありがとう、そう言ってくれて。でも、その額の傷はどうしたの?」
はじめ君の前髪の間から覗く傷は赤く血が滲み、その周りも僅かに痣になってしまっている。
「これは先程、父と取っ組み合いになってできた傷だ」
「取っ組み合い?はじめ君が?」
「先程の総司と同じだ。俺は、父がセラに手をかけたのではないかと疑ってしまったからな」
「……でも、はじめ君の父君ではなかったんだよね?」
「ああ。別の場所に出掛けていた裏も取れた。ただ……父が近藤公を良く思っていないことを知っていた故、疑わしく思ってしまった」
はじめ君が、静かに視線を伏せる。
その横顔はいつも以上に硬く、どこか痛みに耐えているようにも見えた。
彼の話によれば、以前から父君と近藤さんの間には深い溝があったらしい。
セラへの婚約の話を父君に持ちかけた時、予想通りに猛反対されたという。
でもその理由を聞いた時、はじめ君はようやくすべてを知ったのだと。
父君は、セラの母親をいまだ忘れられずにいる。
それを奪った近藤さんとのわだかまりも、決して消えていない。
そして何より、自分の妻だった女性がセラの命を脅かしたことに対して、重い罪悪感を抱き続けていた。
「父とは最近揉めてばかりだった。セラと関わることすら反対されていた故、それならば何故、早く真実を話してくれなかったのだと……納得出来ないのは当たり前だ」
その声音には、怒りではなく、深い疲労が滲んでいた。
父親を責めたいわけではない。
それでも自分の人生まで縛られる理由にはならない……そんな感情が混ざっているように感じられた。
「それで、父君がセラを手にかけたと思ったの?」
「可能性は十分あると思っていた。父はセラの母親を愛していたが、同時に憎んでもいたからな」
「最終的に近藤さんを選んだから?」
「ああ。それにセラの母君は、その心までも近藤さんに注ぐようになった。せめて想いだけは自分に残しておいて欲しかったと……そう言っていた。だからこそ母親に年々似てくるセラに殺意を覚えたのかと疑ってしまった」
言葉にするたび、はじめ君の表情が痛ましく歪んでいく。
その感情は父親への憎悪ではなく、自分が疑ってしまったことへの深い後悔に近く見えた。
「総司は王宮で聞き込みをしていたと言っていたな。何か手がかりは得られたのか?」
様々なことが絡み合う中で、今一番に考えなければならないのはセラの命を奪った犯人のことだ。
はじめ君も同じなのだろう。
瞳を鋭くすると、僕にそう尋ねてきた。
「残念ながら手がかりはなかったよ。あの敷地内に侵入者がいたのかもわからない。このままだと、あの場にいた人物だけに的を絞ることもできないんだ」
「あの場にいた全員が眠っていたからな。何人かを揺さぶってみたが、皆死んだように眠っていて全く起きる気配がなかった」
「セラは千ちゃんの隣にいたんだ。千ちゃんを揺さぶってみたけど……同じだった。眠ってるっていうより完全に意識を手放しているような感じだったね」
あの時の節操感が蘇り、僕は拳をきつく握る。
誰がセラを、何の目的で……。
その怒りが身体中に溢れ返っているのに、どこにもぶつけることはできなかった。
「何故セラが狙われなければならなかったのだろうか」
「仮にだけど……もし今回のことが近藤さんを苦しめるためだとしたら、はじめ君の父君は何か心当たりとかない?近藤さんが誰かに恨みを買ってるとか」
「俺もそれは聞いてはみたが、ここ最近は故意に親しくはしていないからわからないそうだ」
「……そっか、わかったよ。僕は一度公爵邸に戻って、城の人たちにも話を聞いてみるよ」
容疑者の唯一の可能性が絶たれた今、ここで長居をしているわけにはいかない。
僕が立ち上がると、はじめ君もそれに続き、僕を見てその瞳を揺らした。
「総司、俺に出来ることがあればいつでも声をかけてくれ」
「ありがとう、はじめ君」
この世界ではじめ君と言葉を交わすのもこれが最後になるだろう。
僅かに笑みを浮かべると、僕はここを去るべく足を踏み出した。
何一つ手がかりがない中でも、この件にはじめ君や彼の父君が関わっていないのなら、それに越したことはない。
セラを失った痛みを抱えながら、あの子の笑顔ばかり思い浮かべてしまう僕がいた。
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