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僕の父親は、誰の目にも偉大に映る人だった。
歴史あるヴェルメル大公国を治め、父の兄であるタルタリア帝国皇帝陛下の腹心として政治を担いながら、幾度もの戦で名を上げた人物だ。
北の大陸にあるこの軍事国家において、帝国の剣と呼ばれた父の名は常に畏敬と共に語られていた。

そんな父のもとに生まれた五人の子供のうち、僕は一番年少だった。
父には三人の妻がいて、母はその中で最も立場が弱い存在でもあった。

母の実家は、かつては名を持つ家門だったらしい。
けれど、父と婚姻を結んだ直後、政争に巻き込まれたことで没落し、援助も後ろ盾も失ってしまった。
本来なら婚姻によって得られるはずだった人脈や利益を、父は何一つ手にすることができなかったという。
それが父にとっては大きな誤算だったのだろう。
父は母に失望し、その感情は自然と僕にも向けられた。
期待も関心も向けられないまま、僕は価値をもたらさなかった婚姻の子として扱われるのが常だった。

他の二人の妻には、それぞれ父の役に立つ家柄があり、その子供たちもまた優秀で、将来を約束された存在だった。
それに比べて母と僕は、大公家の中でひっそりと影のように置かれていた。
きっと母は、父の寵愛を欲していたのだと思う。
家門を失い、居場所を失った母にとって、それだけが縋れるものだったのかもしれない。
だからこそ父の目に留まる存在として、僕を立派に育て上げることが母の唯一の希望だった。

けれど、僕は生まれつき身体が弱かった。
少し無理をすればすぐに熱を出し、喘息のせいで剣の稽古も続かなかった。
父の役に立つどころか、失望を重ねるだけの存在。
そんな僕を、母はよく罵倒した。
きっとそれはただの憎しみだけではなく、焦りと恐れが母をそうさせていたのだろう。
けれど当時の僕には、それを受け止める強さも、逃げる術もなかった。


「また熱を出したの?」


兄弟達と剣の稽古をしている途中、僕はここ数日の無理が祟って倒れてしまった。
身体の節々が痛く、呼吸も苦しく、咳が止まらない。
それでも僕の寝室へとやってきた母は、僕の身体を叩き起こして、頬を思い切り叩いた。


「起きなさい!あなたに休んでいる暇なんてないことくらい、わかっているでしょう……!」

「……げほっ……すみません……ですが、今日は……」

「根性が足りないのよ。いつもいつも休んでばかりで。あなたがそんなだから、あの子たちにまで私が馬鹿にされるんじゃない」


他の妻の子供たち四人は、皆母と僕を見下している。
僕は日々、兄達に殴られ食事を奪われ、嫌がらせを受け続けていた。
今回熱を出したのも、一昨日池に突き落とされたことが原因だった。


「熱が下がったら、また稽古を頑張ります」

「あなたが頑張ったことなんて一度でもあったかしら」


母は吐き捨てるように言った。


「どうしてあなたみたいな出来損ないが生まれてきたのよ。こんな弱い子、生むんじゃなかったわ……!」


胸ぐらを掴まれたまま浴びせられたその言葉は、最初こそ胸を抉るものだった。
今より幼かった頃は、ただこの人の愛情が欲しくてたまらなかったし、期待に応えられない自分が情けなくて憎くて、どうしようもなかった。
でもこんな罵倒も日常になれば、責められることにも、嫌悪の感情を向けられることにも日に日に慣れてきてしまう。
今はまず、弱った身体を少しでも早く休ませられるように、僕は従順な言葉を吐いた。


「申し訳ありません、母上。僕、強くなりますから」

「だったら、今すぐ稽古をしなさい。ほら、早く!」


腕を掴まれ、ベッドから引きずり下ろされる。
そのとき、見かねた乳母が、僕の前に立つようにして母を遮った。


「奥様、恐れながら申し上げます。総司様の体力は、もう限界でございます。これ以上無理をなされば、かえって長く床に伏すことになりかねません」

「あなたは黙っていなさい。これは親子の問題よ」

「ですが、明後日には旦那様もこちらにお戻りになられます。総司様が寝込まれていては、それこそさらにお叱りを受けるのではございませんか?」


はっとした様子で目を見開いた母は、僕を睨みつけるとそのまま乱暴に僕をつき飛ばす。
後ろに倒れた痛みに顔を歪ませた僕を見下ろし、母は言った。


「明後日までに人並みの身体になりなさい。それが出来なければ、あなたを殺して私も死ぬわ」


母からの言葉を聞き、思わず言葉を飲み込む。
去っていく彼女の後ろ姿をただ眺めることしかできない僕に、乳母の優しい声が耳に届いた。


「総司様、大丈夫ですよ。ばあやがいますからね」


どうして僕はこんなにも弱く生まれてきたんだろう。
どうして母の期待に何一つ応えることが出来ないんだろう。
僕が兄達のように健康で剣の腕に優れていれば。
姉のように頭が良くて愛嬌があれば。
父も母も僕に笑いかけてくれたかもしれないのに。


「もし、明後日までに元気になれなかったら……」

「ばあやが元気にして差し上げます、だから心配なさらないで大丈夫ですよ。ほら、総司様はおやすみになってください」


他の使用人達まで僕に冷たく接する屋敷の中で、僕に親切にしてくれるのは、乳母であるばあやただ一人だけだった。
僕を気遣い、唯一優しく接してくれる人だった。
だけど……


「お可哀想な総司様、ばあやは味方ですからね」


乳母から度々言われるその言葉は、まるで呪いのように僕にまとわりついていた。
僕は可哀想な人間なんだと……そう意識してしまえば、どうしても自分が惨めになった。
誰からも愛されず、何一つ満足に成し遂げられない。
僕が出来損ないで憐れな存在だから、ばあやは優しくしてくれるのだと、いつの間にかそう信じ込むようになっていた。
だからこそ乳母からの優しい言葉は慰めでもあり、同時に僕を余計に惨めにさせるものでもあった。


それから二日が経ち、父が屋敷へと戻られた。
夕食の席には久しぶりに家族が揃い、食事をする広間には賑やかな声が満ちている。
笑い声が交わされ、近況が語られ、父の機嫌も悪くはなさそうだった。
でも僕と母だけは、まだ一言も喋っていない。
母は背筋を伸ばし表情を固くしたまま父の顔色だけを窺っていて、僕はただ静かに席に座り、皿の上の料理を眺めていた。


「父上。ご報告がございます。先日の試験にて、騎士階級四級を取得致しました」

「僕からもご報告がございます。先日の北部演習において、戦術課題で最優評価を頂きました。教官からは、将来は参謀職も狙えると」


兄二人が胸を張るようにそう言うと、父は満足そうに顎を引いた。


「ほう、それは価値のある成果だ。剣や頭を使えるというのは強みになる。引き続き励め」

「この子達は幼い頃から剣や書物に励んでおりましたもの。あなたに認めていただけて、私も嬉しゅうございます」


大公家の正妻であるクラウディア夫人は、上品な笑みを浮かべてそう語る。
父は満足そうに頷き、彼女の言葉を肯定するように杯を置いた。
すると今度は、柔らかながらもどこか張り合うような調子で第一側室のマルグリット夫人も口を開いた。


「旦那様、お聞きになって。うちの子たちも、日々たゆまぬ努力を重ねておりますの」


その視線に促され、姉が姿勢を正した。


「お父様。私は今月、礼法と外国語の課程を修了致しました。またピアノの教師からも、覚えが早いと日々お褒めの言葉を頂いておりますよ」

「父上、僕は騎士候補生の模擬試合で三勝致しました。実習試験でも、前回より成績が上がっていますよ」

「それは良い。二人とも着実に力をつけているようだな、その調子で続けなさい」

「この子たちが旦那様のお目に留まるほど成長してくれて、私も安心しておりますわ」


広間の空気は、成果と称賛で満ちていた。
誰もがここにいる意味を示している、その輪の外にいる僕を除いて。
父の視線が、ゆっくりと僕に向けられた。
それまでとは違う、温度のない冷たい目だった。


「総司、お前の今月の成果を報告しろ」


名前を呼ばれただけで、喉がひくりと鳴った。
なぜなら今月も体調を崩してばかりで、胸を張って語れるものは見つからない。
僕は言葉に詰まり、視線を落とした。
でもその時、隣に座る母の気配が強くなり、青ざめた顔で鋭く僕を睨んでいる。
何でもいいから話しなさい、黙るな、そう言われているのがはっきりとわかる視線だった。


「……素振りを」


指先が震える。
絞り出した声は、自分でも驚くほど小さかった。


「毎日剣の素振りを……欠かさず続けています……」


一度沈黙が落ちる。
そして兄妹たちの間から、押し殺したような笑い声が漏れた。


「素振りだってさ」

「ねえ、それは成果って言えるの?」

「子供の遊びじゃないか」

「父上、ご存じでしたか?」
 

兄の一人が、わざとらしく肩をすくめた。


「総司は今月も、何一つ結果を出せておりません。稽古でも倒れてばかりで、皆の足を引っ張っている始末です」


彼がそう口にしたのを合図にしたかのように、他の兄姉たちも次々と言葉を重ねていった。
それはまるで、最初から用意されていたかのように淀みなく、僕という存在を否定するためだけに集められた報告の羅列だった。


「剣の稽古では始まって間もなく息が上がり、周囲の進行を止めていました」

「学問の時間も集中力が続かず、何度も退出しています。それに咳がうるさくて、指導の妨げになることもありました」

「先日なんて、池に落ちて高熱を出したそうですよ。自分の不注意で騒ぎを起こし、使用人にまで迷惑をかけるなんて困ったものです」


それらの言葉には、隠そうともしない嘲りが滲んでいる。
その視線の先にいるのが自分だということを、否応なく突きつけられた。
父は否定もせず、止めもせず、終始黙って彼らの話を聞いていた。
その沈黙こそが、何よりも恐ろしかった。
やがて父はゆっくりと僕に視線を向けた。
その目には怒りすらなく、あるのは値踏みを終えたあとの冷え切った判断だけだった。


「……なるほど。どれもヴェルメル家の子として誇れるものではないな」


低く抑えた父の声が広間に落ちると、僕は慌てて椅子から立ち上がり、その場で深く頭を下げた。


「成果をあげられず、申し訳ありません」


そうするのが当たり前だった。
母に叱られるたび、そうしてきた。
少しでも早く謝って、少しでも早く怒りが収まるようにと、幼い僕なりに身につけた術だった。
けれど、父が椅子から立ち上がる気配を感じた時には、ぱんっと乾いた音が広間に響いた。
何が起きたのか理解するより先に、頬に強い衝撃が走り、身体が横へ吹き飛ばされる。
足が床から離れ、そのまま勢いよく床へ倒れ込んだ。


「……っ」


痛いと思うよりも先に、頭の中が真っ白になり、僕は倒れたまま呆然と床を見つめていた。
頬が熱い、頭が揺れる。
耳の奥では、さっきの乾いた音がいつまでも鳴り続けているようだった。
やがて鼻先から何かが落ち、床に小さな赤い雫が落ちる。
それが自分の血だと気づくまでに、少し時間がかかった。


「頭を下げるな!貴族たるもの、安易に詫びるものではない!頭を垂れるということが、何を意味するかわかっているのか!」


父の怒声が広間に響き渡り、冷たい視線が倒れた僕を射抜いていた。
母に怒鳴られるときとは比べものにならないくらい怖い。
何をしても正解がわからず、どうすれば怒られずに済むのかさえ、わからなくなってしまうような恐ろしさだった。


「おい、総司。鼻血が出てるぞ」

「やあだ、汚い」

「ははっ、間抜け面がもっと間抜けになったな」


兄や姉たちの嘲るような言葉をきっかけに、広間のあちこちから笑い声が漏れた。
使用人たちも顔を伏せて笑いを噛み殺しながら、時折僕を盗み見る。
その目に浮かんでいるのは心配でも憐れみでもなく、ただ僕の無様な姿を面白がるような薄い笑みだった。
二人の夫人も同じだった。
汚らわしいものでも見るように目を細め、倒れた僕を冷ややかに見下ろしている。
そして母は、僕と目が合うより早く、何事もなかったかのように視線を逸らした。
僕は床に倒れたまま、そんな人たちをぼんやり眺めていた。

頬はまだ熱く、鼻から流れた血が唇に触れている。
痛くないわけではないし、怖くないわけでもないのに、不思議と涙は一滴も出てこなかった。
きっと、もう慣れてしまっていたんだ。
この家では僕が傷ついても誰も困らないし、誰も手を差し伸べない。
幼い僕にも、それだけはよくわかっていたから。

そうして僕は、傷ついた心を守るように、誰にも期待しないことを覚えていった。
誰かを信じなければ、裏切られて傷つくこともない。
誰かの優しさを求めなければ、それが与えられないことに悲しむ必要もない。
それが、この家で生きていくために幼い僕が身につけた、ひどく歪んだ諦めだった。


「何をしている!早く立ち上がれ!」


父の怒声に、身体が強張った。
僕が呆然と床に倒れたままでいるのが気に障ったのだろう。
気づいたときには父が目の前まで迫っており、胸ぐらを乱暴に掴まれていた。


「……うっ」


息が詰まり、身体が引きずり起こされる。
そして掴まれたまま身体を壁へ叩きつけられ、背中に鈍い衝撃が走った。


「ごほっ……!」


咳がこみ上げ、僕は小さく身体を折る。
ただ目の前の父を見上げながら、どうすればこの人の怒りを鎮められるのか、それだけを必死に考えていた。


「謝罪とは己が下であると示す行為だ。それを軽々しく行う者に、誇りも覚悟もない。大公家の血を引く者でありながら、出来が悪いからといって身を縮めて許しを乞うな」


吐き捨てるようにそう言われても、僕はどうしていいのかわからず、ただ固まったまま立ち尽くしていた。
何も言わずに立っていれば、不遜だと言われる。
頭を下げれば、誇りがないと切り捨てられる。
僕はどう振る舞えばよかったのだろう。
正解がどこにも見当たらなかった。


「顔を上げろ」


父の声にびくりと身体が跳ねる。


「お前のその姿勢が何より気に障る。惨めさを盾にして責を逃れようとするな」


逃れようなんて思っていなかった。
ただ怒りがこれ以上向けられないようにと、考えていただけだった。
それに僕だって身体が健康なら、もっと剣術や学業だって死に物狂いで頑張るのに。
でもそんな僕の気持ちは父には伝わらず、胸の奥が苦しくて呼吸が浅くなる。
喘息による発作が始まり、ぜえぜえと咳き込み始める僕を見た父の目には、失望だけが浮かんでいた。


「同じ屋敷で育ち同じ血を引いていながら、これほど違うものか。俺の子とは到底思えないが……一体、誰に似たのだろうな」


父の視線がゆっくりと僕から外れる。
そして隣に座る母へと向けられると、広間には重い沈黙が落ちていた。
その静寂に耐えきれなくなったのだろう、母は小さく息を吸い、震える指先を膝の上で握りしめる。
やがて意を決したように立ち上がり、深く頭を下げた。


「すべて私の不徳でございます。総司がこのような体で生まれ、旦那様のお役に立てていないのも、すべて……」


以前は今のような光景を見るたびに、心が強く締めつけられていた。
僕が出来損ないだから、母はいつも頭を下げなければならない。
何をしても認めてもらえず、役にも立てない自分が情けなくて、苦しくて仕方がなかった。
だから、少しでも父に認めてもらえるように、身体が辛くても稽古を休まず、必死になって努力していた。
けれど、どれだけ鍛えても身体は思うように丈夫にはならず、ようやく積み重ねたものさえ、ひとつの失敗で簡単に踏みにじられてしまう。
そんな日々を繰り返すうちに、今はもう、母を気遣う感情すらも湧いてこなかった。
だって、どうせ僕は何をしたって駄目なんだ。
どんなに努力したくても、身体が言うことをきいてくれないんだから。
だったら僕は一体何の為に、この世界に生まれてきたんだろう。
そんな投げやりな思いさえ、いつの間にか僕の中では当たり前になっていた。


「謝罪が聞きたいわけではない。お前たちが、ここにいる意味を聞いている」

「……それは……」

「この大公家に、何をもたらせる?それが答えられぬのなら、ここに存在する意味はない」


母は言葉を失った。
唇がわずかに動くものの声にはならない様子だった。
そして父のその言葉を待っていたかのように、マルグリット夫人が静かに口を挟んだ。


「もしこの先も家のご負担にしかならないのでしたら、離縁をお考えになってもよろしいのではございませんか?」


その一言で、母の顔から血の気が引いた。
涙に濡れた目で、必死に言葉を探しているのがわかった。


「恐れながら……私は東部アストリア公爵家に、旧友がおります。彼女は今、アストリア公爵家に妻として迎えられ、奥方の立場にございます。若い頃より親交が深く、今も文を交わしている仲です」


母は必死だった。
一言でも、ここにいる理由を示そうとしていることが伝わってくるものだった。


「アストリア公爵家は、東部において軍事と交易に強い影響力を持っております。もしご縁をお取り持ちする機会を頂けましたら、大公家にとって有益なお話を出来るのではないかと……」


言葉は次第に弱くなり、最後は消え入るようになった。
それでも、母は父を見つめ続けていた。
自分と、そして僕の居場所を、必死に繋ぎ止めようとするかのようだった。


「アストリアか。東方に領土を構える軍事国家。規模こそヴェルメル大公国には遠く及ばぬが、機動力と戦略に長けた豊かな国だな。独立性も高く、周辺諸国との均衡を保っていると聞く。確かに軍事を担う国同士、無用な同盟ではないかもしれん」


父のその言葉に、母はまるで溺れる者が水面を見つけたかのように、はっと顔を上げた。


「そのアストリア家には、子はいるのか?」

「は、はい。一人、女の子がおいでだと聞いております」

「ほう。年は?」

「総司より、二つほど年少かと……」


父の視線が、再び僕へと向けられる。
それは先ほどの冷たい値踏みとは違う、別の意味を帯びたものだった。


「ならば、こうしよう。アストリア公爵家のご息女と、総司を婚約させればいい」

「婚約……でございますか?」

「東方の軍事国家と縁を結べるなら悪い話ではないからな。東部との関わりを持てれば、陛下も喜ぶだろう」

「ですが……」

「総司に他の使い道があるというのか?」


何一つ成し遂げられない僕に使い道があるとすれば、同盟を目的とした婚約を結ぶことだけなのだろう。
言葉を失った母を見て、父は口元に笑みを浮かべた。


「しばらくの外出を許す。その旧友を頼り、お前と総司でアストリアに身を寄せるといい。婚約が正式に取り付けられるまで、戻ってくる必要はない。成果もなくこの屋敷に席を置く理由はないからな」


言外に含まれた意味は、あまりにも明白だった。
結果を出せなければ、帰る場所はない。
母は青ざめたまま震える足で一歩前に出ると、深く頭を下げた。


「……ありがたく、承ります」


婚約。
その言葉は、いつまでも消えずに僕の心の中に残っていた。
会ったこともない相手と、これからの先の人生を共にする。
そう考えた途端、息が詰まり心臓のあたりが縮むのを感じた。
なぜなら、嫌だと思ったから。
はっきり拒めるほど強い感情ではないけど、僕の中に確かに芽生えてしまった感覚だった。

父はこれまでも、何人ものご令嬢を僕の前に連れてきたことがある。
そのたびに僕は、教え込まれた通りに背筋を伸ばし、正しく挨拶をして、静かに椅子に座りながら期待されている役割を演じた。
そんな僕に対して、皆最初は親切だった。
優しい声で話しかけてくれて、微笑みも上品で、僕の体調を気遣う言葉さえ口にしてくれる。
だけどその振る舞いは長くは続かなかった。

咳を堪えきれずに僕が口元を押さえた瞬間、その子との間に距離が生まれる。
まるでうつるものを見るように、気づかれないように身を引かれたり、慌ててハンカチで口元を覆われたりする。
息が苦しくなって返事が遅れると、困ったような、どう扱えばいいのかわからないような表情が浮かべる。
誰もはっきりとは嫌だと言わないのに、彼女達から向けられる冷たい視線は胸に刺さった。

それに皆、貴族としての作法を何より大切にしていたから、立ち居振る舞いや笑みの形、言葉の選び方が似ていた。
それ自体は悪いことではないけど、取り繕った会話ばかりで心を通わせられるような相手はいなかった。
「お身体が繊細なのですね」と口にする声は皆揃って穏やかで、思いやりがあるように聞こえるけど、その瞳にはこれ以上近づかないでほしいという意思表示がはっきりと浮かんでいる。
優しい言葉の裏には棘があり、僕を値踏みする視線は彼女達からも感じられた。

だからアストリアのご令嬢と聞いたとき、心が重く沈んだ。
だって、きっと同じだ。
会えば、身体が弱い僕にがっかりする。
また気まずい空気が流れ、居心地の悪さだけが残る。
そして僕との婚約なんて、受け入れてくれる筈がないだろう。
そう思うと、どうしようもなく嫌だった。
また僕の心や、僕という存在が傷付けられることは明確だったから。

けれどその気持ちを言葉にすれば、母がまた頭を下げることになる。
父に何の価値もないと罵られる。
それがわかっていたから、僕は何も言えず、ただ静かに俯くことしか出来なかった。

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