2
ヴェルメルを離れる日が、思っていたより早くやってきた。
僕と母を乗せた馬車は北から東へと進み、山道や街道をいくつも越えながら、アストリア公国を目指している。
休みを挟みながらだと、片道でおよそ二十数日ほどかかる旅だと御者が言っていた。
途中の宿では、母が何度も僕の額に手を当て、熱が出てないか、咳は出ていないかと確かめる。
薬草の匂いがする包みも、いつも手元に置かれていた。
なぜなら体調を崩せば、この旅そのものが無駄になる。
母が必死だということは、僕にもはっきり伝わってきた。
そうして何日かが過ぎ、ついにアストリア公国の国境を越えた時、母が静かに僕に告げた。
「総司、わかっているわね。今回ここへ来た理由は、表向きにはあくまであなたの療養よ。体が弱いあなたを気遣って、公爵家が特別に滞在を許してくださったの。この国はヴェルメルよりも空気が澄んでいるし、四季はあれど冬も厳しすぎない。温かい土地で静かに療養すればあなたの喘息も良くなるのではないかと、お考えになってくださったのよ」
一語一語を言い聞かせるように、けれど急ぐように言葉が続いた。
「それに公爵家としても、これは無意味なご厚意ではないわ。軍事国家同士、互いの家門を知ることは将来のためになる。大公家の子息を預かることで誠意を示したいというご判断も含まれているの。だから親切で迎え入れてくださったその形を絶対に崩してはならないし、あなたは病弱な子として静かに過ごさなければならない。余計な事情やヴェルメルの内情を匂わせるようなことは一切口にしないで」
「はい、母上」
「そして一番重要なのは、向こうのご息女と親しくなることよ。あなたたちが十分に打ち解けて、誰が見ても自然だと思えるくらい仲良くなれたら、その時にようやく婚約の話を切り出せる。だからあなたは彼女の心を絶対に掴むの。公爵家はきっと、あなたを預かる価値のある存在だと思ってくださっている。その期待を裏切るような振る舞いをすれば、二度と居場所は与えられないわ。今回が最後の機会なのだから、失敗は許されないわよ」
僕はただ、小さく頷くことしかできなかった。
心を掴むということがどんなことなのか、子供の僕にはまだよくわからなかった。
ただひとつだけわかっていたのは、ここで失敗すれば母の居場所も、僕自身の居場所もなくなってしまうということだった。
「……さあ、着いたわ」
ゆっくりと進む馬車は、すでにアストリア公爵邸の敷地の中に入っていた。
その広さはヴェルメルの大公家程ではないのに、目に映る景色はまるで別の世界のように輝いて見えた。
城門から邸へと続く一本道の両脇には、背の高い木々が整然と並び、若葉をたっぷりと広げている。
枝の隙間から差し込む陽の光が道にまだらな影を落とし、その足元には色とりどりの花が咲き誇っていた。
ヴェルメルの庭園も美しかったけど、いつも整えられすぎた静けさがあった。
でもこの場所では、まるで生きているものが息をしているみたいだった。
淡い色の花弁が風に揺れ、草木の香りが馬車の中にまで入り込んでくる。
それだけで少しだけ呼吸が楽になる気がして、僕は無意識のうちに深く息を吸い込んでいた。
やがて馬車が止まり、御者が扉を開く。
正面にはアストリア公爵家の当主である近藤公爵と、その奥方である夫人が並んで立っていた。
二人とも穏やかな表情でこちらを迎えてくれたから、僕と母は揃って一歩前に出た。
「このたびは突然の願いにもかかわらず、滞在をお許しいただき誠にありがとうございます」
深く頭を下げた母の言葉には緊張が滲んでいる。
夫人はすぐに母のそばへ歩み寄ると、優しくその肩を抱き寄せた。
「アンナ……本当に久しぶりね。あなたの手紙を読んで、すぐに来てほしいと思ったの。遠いところをよく来てくれたわ。療養のためだもの、どうか気兼ねせず、ここを自分の家だと思って過ごしてちょうだい」
「ありがとう、ユフィ」
その様子を見ていた近藤公爵も、穏やかに頷いた。
「遠路ご苦労でしたな。滞在の期限など、気にする必要はありませんぞ。体が落ち着くまで、好きなだけおられるといい」
その言葉には人としての温かさがあるように感じてしまう。
そして公爵はゆっくりと視線を僕へと向けた。
「君が総司殿かな?」
名を呼ばれ、僕は教え込まれた通りに背筋を伸ばした。
「ヴェルメル大公家の末子、総司と申します。このたびはご厚意により、こちらで療養の機会を賜り、心より感謝申し上げます」
声が震えないよう、息を整えながら丁寧に頭を下げた。
「総司殿は年若いながら身のこなしに品があるな。凛々しく、実に素晴らしい青年だ」
「ええ、とても素敵です。これから仲良くしていただけたら嬉しいわ。宜しくお願いしますね」
胸の奥が少しだけざわつく。
褒められたことよりも、その眼差しが思いの外温かく感じてしまったことに戸惑っていた。
「そう言っていただけて感謝致します。こちらこそ宜しくお願い致します」
その言葉を返すだけで、精一杯だった。
この場所が、この人達が、これから僕に何をもたらすのかはまだわからない。
気を引き締めて立っていると、母は少し辺りを見回してから控えめに口を開いた。
「ところでお嬢様はどちらにいらっしゃるのかしら?」
その声にはどこか落ち着かない響きが混じっていて、僕は思わず母の横顔を見上げた。
「セラなら、今はピアノのレッスンを受けているところなの。もう少ししたら終わると思うわ」
「まあ……そうなのね。お会いできるのがとても楽しみだわ」
微笑む母の顔を、僕はしばらく黙って見つめていた。
思い返してみても、母がこんなふうに穏やかに笑っている姿を僕はほとんど見たことがない。
責める声や焦った眼差しばかりが思い浮かぶから、今のその微笑みが胸の奥に小さく灯るように感じられた。
近藤公爵もユフィ夫人もとても優しそうで、声の調子も視線の向け方も柔らかい。
それに触れて少しだけ肩の力が抜けた気がしていた。
でも……貴族は皆そうだ。
最初は誰もが親切で、丁寧で、穏やかだ。
けれど、それは決して僕自身を見ているわけじゃない。
ヴェルメル大公家の血を引く子供だから、そう扱われているだけだ。
もし僕に価値がないとわかったら。
僕と親しくしても家に益はないと判断されたら。
この優しさはきっと簡単になくなってしまう。
そう思うと胸の奥がまた締めつけられて、僕は無意識のうちに唇を噛んでいた。
その後、僕たちは城の中へと案内された。
通された部屋は明るく、窓から差し込む光が床にやわらかな模様を描いていた。
ほどなくして侍女が現れ、僕たちの前に紅茶と果物、そして色とりどりの菓子を並べていく。
甘い匂いに誘われて、思わず目がそちらへ向いてしまった。
なぜなら僕は、甘いものが好きだ。
けれどヴェルメルの大公家では、こうしたお菓子が僕の前に置かれることは殆どなかった。
兄や姉には「お前に食べる資格はない」と言われ、卓から外されるのが当たり前だったからだ。
だから僕がお菓子にありつけたのは、父が他家の令嬢を招いた席、いわば見合いのような場に限られていた。
その時は久しぶりに目にする甘味が嬉しくて、つい手を伸ばしすぎてしまったことがある。
すると一人の令嬢が、扇子越しに微笑みながら、こう言った。
「まあ……男性でいらっしゃるのに、ずいぶんお菓子を召し上がるのですね」
声は柔らかかった。
でもそこには、はっきりとした非難が滲んでいた。
貴族の男性は甘味に執着しないものだと、父からも教えられている。
嗜むとしてもほんの少し、節度をもって控えめに。
それが相応しい姿なのだという言葉を思い出しながら、僕は並べられた菓子に視線を落とし、決して手を伸ばさなかった。
ここでも気を抜いてはいけない。
僕はただ、価値を測られるためにここにいるんだから。
そう心の中で静かに言い聞かせながら、紅茶の湯気をじっと見つめていた。
大人達三人が穏やかに言葉を交わす間、僕は静かに微笑みを浮かべ、その会話に耳を傾けていた。
椅子には深く腰掛けすぎず、背筋を伸ばし、顎をわずかに引く。
視線は伏せすぎず、でも出過ぎることもなく、相手の胸元あたりに留める。
手は膝の上で重ね、指先まで力を抜かない。
それはヴェルメルの大公家で繰り返し叩き込まれてきた「大公子としての在り方」だった。
目立たず、乱さず、空気の一部になるように。
そうしていれば余計な叱責を受けずに済む。
そう意識をして座っていると、ふとユフィ夫人の視線がこちらに向けられた。
「総司さんは、とても落ち着いていらっしゃるのね。まだ八歳でしょう?」
その声音は柔らかく、僕は小さく息を整えたまま僅かに笑みを浮かべた。
「身体が弱いから大人しいだけよ。剣術も学業も、病のせいで思うように進まなくて……困っているの」
「そう……。でも、ここでの療養で総司さんのご体調が少しでも良くなるといいわね。無理をなさらず、穏やかに過ごしていただきたいわ」
「ああ、何事も焦る必要はないですからな。もし剣術にご興味を持たれることがありましたら、アストリア騎士団にて稽古のお相手を務めさせることもできますぞ」
僕は近藤公爵の言葉を胸の中で反芻してから、教えられた通りに椅子からわずかに身を起こし、丁寧に頭を下げた。
「そのようなお心遣いをいただき、恐れ入ります。公爵閣下とユフィ夫人のお気持ちをありがたく受け取り、静養に努めたいと存じます。もし許される日が来ましたら、その折には騎士団でのご指導を賜れれば幸いです」
言い終えた瞬間、部屋の空気がわずかに変わった気がした。
近藤公爵とユフィ夫人が、同時に目を丸くしたのだ。
何かまずいことを言っただろうかと、胸の奥がひやりとして体が固まる。
けれど次に返ってきたのは叱責ではなかった。
「これは……見事だな。八歳でその受け答えとは。言葉を選び、相手を立てる。立派なご教育を受けておられる」
「ええ、本当に。それに所作もとても美しいわ。素晴らしいことよ」
褒め言葉が重なる。
その一つひとつが僕の中にうまく収まらず、居場所を失ったみたいに胸の奥で跳ね回った。
大公家では僕が褒められた記憶はないに等しい。
だからどう反応すればいいのかわからず、視線を落とすことしかできなかった。
そんな僕を見て、ユフィ夫人がくすりと笑う。
「総司さんは、こんなに落ち着いていらっしゃるから……セラと会ったら、驚かせてしまうかもしれないわね」
それを聞いた近藤公爵は少しだけ困ったように、それでも嬉しそうに目を細めた。
「確かになあ。あの子は、じっとしているのが苦手な子でなあ。庭を駆け回っては、すぐに靴を汚してしまうのだ。注意しても、次の瞬間には別のことに夢中だ」
そう言いながらもその声には咎める色はなく、むしろ温かな響きが滲んでいるように聞こえた。
「ふふ、可愛らしいお嬢様なのね。益々お会いできるのが楽しみだわ。思えばユフィも、見た目とは違って随分とおてんばだったものね」
くすくすと笑う母の声に、ユフィ夫人は少しだけ眉を吊り上げ、わざとらしく胸を張る。
「それはいつの話をしているの?私はもう、おしとやかな淑女よ」
そう言いながら、少し膨れたような顔で紅茶に口をつける。
その様子に、近藤公爵は堪えきれないように声を上げて笑った。
「はははっ、確かに今はな。だが少し前までは……」
「あなた?もう、その話は終わりです」
ユフィ夫人は咳払いを一つして、近藤公爵を少し睨んでいた。
それでも二人の間には柔らかな空気が流れていて、言葉の端々に互いをよく知る者同士の親しみが滲んでいた。
その光景を、僕は少し不思議な気持ちで眺めていた。
ヴェルメルの大公家では、父はいつも言っていた。
「貴族たるもの感情を表に出すな。喜びも怒りも弱みになる」と。
感情は人を惑わせ、判断を鈍らせる。
出世と家の繁栄において必要なのは冷静さと結果だけで、心の揺れなど邪魔なものに過ぎない、そう教えられてきた。
だから感情のままに表情を変え、笑い合う二人を見ていると、胸の奥がそわそわして落ち着かない。
こんなふうに笑っていてもいいのだろうか、と考えてしまう。
貴族とはこうでなければならないという決まりが、静かに僕の中で軋んでいた。
それからしばらく談笑していると、部屋の扉が軽くノックされる音がした。
ユフィ夫人が立ち上がり、扉の方へと向かって行った。
「ピアノのレッスンが終わったみたいね」
侍女の一人が扉を開け、その後ろから小さな影が見えた。
『お母様、本当に総司さまがいらっしゃったのですか?』
「ええ、いらっしゃっているわ。ご挨拶なさいね」
扉の手前、ユフィ夫人のドレスの陰に隠れて、その姿はまだ見えない。
でも鈴を転がしたようなあどけない声は、とても柔らかく聞こえた。
この子が……僕がこれから仲良くならなければならない相手。
もしかしたら、婚約を結ぶことになるかもしれない相手。
そう思った途端、胸の奥が縮む。
気になって仕方がないのに、その姿をこの目で見ることが少し怖かった。
母に視線で促され、僕は椅子から立ち上がる。
背筋を伸ばし呼吸を整えながら、数歩前へ進んだ。
そんな僕に気付くと、ユフィ夫人がこちらへ振り返る。
けれどその背中に張り付くようにして、その子はまだ姿を見せなかった。
「あら?セラ?」
「はははっ、照れているのか?」
近藤公爵の声に、ユフィ夫人は困ったように微笑む。
「ごめんなさいね。少し人見知りする子なの。大人相手だと平気なのだけれど、同じくらいの年の子と遊ぶことは滅多にないから」
僕はどうしていいかわからず、視線を彷徨わせた。
これまで会ってきたのは、僕より年上か、せいぜい同じくらいの令嬢ばかりで、こんなふうに隠れてしまう子は初めてだった。
「総司、声をかけて差し上げて」
母の言葉に頷いて、僕はユフィ夫人の背後に隠れたままのその子に、できるだけ柔らかい声を向けた。
「セラ嬢、はじめまして。ヴェルメル大公国の総司と申します。突然で驚かせてしまったなら、ごめんなさい。もしよろしければ……少しずつで構いませんから、僕とお話ししていただけると嬉しいです」
僕と母のこの先の居場所。
それがこの小さな子との関係にかかっているかもしれないと思うと、足元が揺らぐような心地がした。
でもユフィ夫人の背中からそっとその子が姿を現すと、一度僕の周りの時間が止まったように感じた。
淡い色の髪が光を受けて揺れ、大きな瞳がまっすぐ僕を見つめている。
目が合えば胸の奥が揺れて、息の仕方を忘れてしまったみたいになった。
どうしてこんなに心臓が早くなるのか、自分でもよくわからなかった。
ただ目を離したくなくて、瞬きすることすら惜しくて、世界に音がなくなったように感じられる。
こんなにも無垢で、こんなにも愛らしい存在を、僕は見たことがない。
天使……っていうのは、きっとこういう子のことを言うんだ。
そんな考えが自然と浮かんでしまうほど、童話の中からそのまま出てきたような彼女の存在に、僕は圧倒されていた。
『……わあ……』
その子の口から洩れた小さな感嘆の声が、何を意味しているのかもわからない。
僕もまた言葉を失い、ただその子を見つめ返していた。
「ほら、セラ。ご挨拶なさい」
ユフィ夫人に促されてその子は一歩前へ出ると、先ほどまでの戸惑いが嘘のように柔らかな所作でスカートの端を取り、綺麗なカーテシーを見せた。
『はじめまして。アストリア公爵家が娘、セラと申します。総司さま、遠いところから、よくいらしてくださいました』
その声は澄んでいて、春の風みたいだった。
僕は我に返り、丁寧に一歩下がって礼をした。
「お目にかかれて光栄です、セラ嬢。このように温かく迎えていただき、心より感謝いたします。これからの滞在の間、よろしくお願いいたします」
そう告げたとき、その子はふわりと僕に微笑んだ。
それは今まで僕が見てきた令嬢たちの笑みとは、まるで違っていた。
きちんと形を整えた微笑みでも、相手の反応を窺うためのものでもない。
ただ嬉しいから笑った、というのがそのまま伝わってくるような笑顔だった。
胸の奥が、また強く揺れる。
どうしてだろう。
その笑顔を向けられただけで、喉の奥が熱くなって、頬までじんわりと火が灯る。
……可愛い。
心の中でそう思った自分に驚いた。
誰かを見てこんなふうに思ったことも、心が動かされたことも、今まで一度もなかったから。
僕は言葉にできない気持ちを抱えたまま、ただ彼女を見つめていた。
胸が高鳴る理由も、顔が熱くなる訳もわからないまま、それでも確かに何かが僕の中で変わっていく気がしていた。
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