3

僕たちの挨拶が終わると、セラ嬢は視線を僕の後ろへ移した。
そして何かに気づいたように、ぱあっと顔を明るくして、躊躇いもなく母のほうへ駆け寄っていった。


『もしかしてアンナ夫人でいらっしゃいますか?』

「あら、私のことをご存じなの?」


母が少し驚いたように目を瞬かせると、セラ嬢は嬉しそうに頷いた。


『はい。お母様から聞きました。大切なお友達だって』

「ふふ、そうなの。今日からよろしくね、セラさん」

『こちらこそ、よろしくお願いします。アンナ夫人の瞳、総司さまと同じ色をしていらっしゃいますね』

「まあ、よく見ているのね」

『だって、とっても綺麗だから。まるでエメラルドみたい』


その言葉に母は一度目を丸くしてから、くすっと笑った。


「そんなふうに言われたのは初めてかもしれないわ」

『本当ですか?でも、本当にそう思ったんです。光が当たると、きらきらしていて。いいなあ』


セラ嬢は、まるで見つけた宝物を教えるみたいに、無邪気にそう言った。


「ありがとう。セラさんこそ、とても可愛いわ。まるで妖精さんみたいね」

『わあ、妖精さん?うふふ、ありがとうございます』


楽しそうに笑う彼女を見て、僕は少し呆然としていた。

この子は、人と距離を測ることを知らないみたいだった。
相手が誰であっても、必要以上に構えず、でも失礼になることもなく、自然に心の中へ入り込んでしまう。
きっと、そういう子なんだ。
特別なことをしなくても、気づけば皆の中心にいて、いつの間にか好かれてしまう。
それは計算でも作法でもなく生まれ持ったものなのだと、子供の僕にもわかった。

気難しくいつも張り詰めている母でさえ、セラ嬢と話すときは信じられないほど柔らかな表情をして、作り笑いもなくただにこにこと穏やかに笑っている。
僕はその様子を黙って見つめながら、この子と一緒にいると世界は少しだけ優しくなるのかもしれないと感じていた。


「さあ、セラも座りなさい」


近藤公爵の呼び掛けにセラ嬢は小さく頷き、「はい、お父様」と答えてから、僕の隣へとそっと腰を下ろした。
椅子に座る前にスカートを整え、小さな手でハンカチを取り出して膝の上にきちんと広げる。
一つ一つの動きは丁寧なのに、どこかたどたどしくて、その一生懸命さがとても可愛らしかった。


「今日のピアノのレッスンはどうだったんだ?」

『はい。今日もとっても楽しくて……』


そう言ってから少しだけ言い直すように、「とても、楽しゅうございました」と付け加えるところも、なんだか可愛らしい。


『先生が……ええと……前より上手になりましたねって、言ってくださいました』


セラ嬢の言葉を聞いて、僕の母が微笑んで尋ねた。


「素敵ね。今はどんな曲を弾いていらっしゃるの?」

『今はモーツァルトのソナチネをおけいこしています』


その言葉に、母が目を見開くのがわかった。
まだ六歳の子が、指の動きも難しいその曲を弾いているなんて、聞いたことがなかった。
散々ピアノの腕を誇っていた僕の姉でさえ、あの曲を弾けるようになったのは、確か九つの頃だったはずだ。
それまでは簡単な練習曲ばかりで、ソナチネはまだ早いと言われていた。


「まあ……それは、とても難しい曲でしょう?」

『はい、とても難しいです。でもゆっくりなら大丈夫ですよって先生が言ってくださいました。右手と左手が仲良くお話できたときが一番好きなんです』

「……そうなの。でも、本当に素晴らしいわ。六歳でそこまで弾けるなんて」


僕は思わず、彼女の手元を見つめてしまう。
細くて小さくて、柔らかそうな指。
その指であの複雑な旋律を追っている姿を想像すると、それはただ上手いという言葉では片づけられないことだと思った。


『まだ間違えてしまうところもあります。でもきれいな音が一緒になるととてもうれしくて、胸のここがぽわっとするのです』


彼女は笑顔でそう言って、小さな手で自分の胸をとん、と軽く叩いた。
その曲を弾けることもすごいのに、それ以上に音楽を奏でることに喜びを感じていることが眩しく思える。
そしてそれ以上に、この子の奏でる音をいつかそばで聞いてみたいと思ってしまった。


しばらくして、静かな足音とともに扉が開き、銀のトレイを持った侍女が入ってきた。
その上には、小ぶりで愛らしい洋菓子がいくつも並んでいる。
淡い桃色のマカロンに、木の実をあしらった小さなタルト、艶のあるクリームを絞った一口サイズのシュー。
どれも宝石みたいに整えられていて、思わず息を呑んでしまうほどだった。
それらは白い皿に美しく盛られ、テーブルの中央へと置かれた。


「これはセラの好物の盛り合わせでね」


近藤公爵が穏やかに言うと、ユフィ夫人も微笑んで頷いた。


「ええ。この子、甘いものが大好きなの。厨房に頼むといつも張り切って作ってくれるのよ」

『だって、とってもおいしいんですもの』


セラ嬢は嬉しそうに言って、胸の前で小さく手を組んだ。

僕はその洋菓子から目を離せずにいた。
甘い香りが鼻先に届けば、思わず手を伸ばしたくなったけど、この場で軽々しい振る舞いは許されない。
そう自分に言い聞かせて、膝の上で指をそっと握った。

でも、そのときだった。
セラ嬢が真っ先に皿へと手を伸ばし、両手で持ち上げて立ち上がった。


「こら、セラ。何をしているの?お行儀が悪いわよ」


ユフィ夫人がやんわりと声をかける。
けれど彼女は止まらず、そのまま僕の前でそっと皿を差し出した。


『総司さま、どうぞ』


柔らかな笑みを浮かべて、僕が取るのをじっと待っている。
自分が食べるためではなく、僕のために。
貴族としては正しい振る舞いじゃなくても、この子の好意が嬉しかった。


「ありがとうございます」


丁寧に一つを取り、口へ運ぶと、上品な甘さがゆっくりと広がった。
舌の上でほどけるその味に、胸の奥まで温かくなる気がした。


『おいしい?』


大きな瞳で見上げられて、思わず頷いた。


「うん、おいしいよ」

「総司、言葉遣いに気をつけなさい。あなたはお兄さんでしょう」


母からの指摘の言葉を聞いて、はっとして背筋を伸ばす。
気を許してしまった自分が、少し恥ずかしい。


「……はい。とても美味しゅうございます、セラ嬢」


僕の言い直した言葉を聞いて、一度きょとんとしてからセラ嬢が花のように微笑んだ。


「はははっ……」


低く、朗らかな笑い声をあげたのは近藤公爵だった。
豪胆でありながら、どこか肩の力の抜けたその笑みを浮かべて、僕とセラ嬢を見比べている。


「子供同士、そこまで堅苦しく構えることはないのではないか?」

「ええ。ここは公的な場ではないもの。総司さんも、どうぞ肩の力を抜いて。セラも親しく話せた方がきっと安心するわ」


二人の声には、押しつけがましさはなく、ただ自然な温かさがあった。
それでも、僕はどうすればいいのか戸惑ってしまう。
そんなふうに言われたことが、これまでになかったからだ。

親しく話すということは、簡単なようでとても難しいことだった。
なぜなら僕は、ここに迎えられた立場だ。
療養の名目で滞在を許され、庇護を受けている身。
そんな僕が公爵家のご息女であるセラ嬢に、言葉遣いや距離を崩して接することは無礼に当たらないのだろうか。
そんな僕の迷いを察したのか、母が小さく身を寄せるようにして言った。


「ですが、よろしいのですか?総司はこちらにお世話になる身ですし、あまりに気安くしてしまうのは失礼ではないかと……」


申し訳なさそうに下げられたその声に、ユフィ夫人はすぐに微笑みを深め、セラ嬢の肩にそっと手を置いた。


「いいえ。むしろアンナにも総司さんにも、そうして頂きたいの。この子にとっても、格式張った言葉より素直に話して頂けるほうがずっと嬉しいはずだもの」


近藤公爵とユフィ夫人の言葉を聞いて、セラ嬢の顔が明るくなった。


『……私もそうしていいの?』


小さな声でそう言ってから、はっとしたように背筋を伸ばす。


『そうしても宜しいのですか?』


そう言いながらも、嬉しさはどうしても隠せないらしく、口元がふわふわと緩んでいる。
ユフィ夫人が、その様子を愛おしそうに見つめて微笑んだ。


「ええ。かしこまらなくていいのよ」

「子供同士だ。礼儀を忘れねば、それで十分だろう」


近藤公爵の言葉に、セラ嬢はこくりと頷き、それからそっと僕の方を見た。


『総司さま?』

「はい」

『ええと……その……』


指先をもじもじさせながら、思い切ったように顔を上げる。


『わたしたち、そんなにむずかしいお言葉を使わなくても……よろしいのですね?』

「……はい。そう、仰っていただいていますから」


そう答えると、セラ嬢はぱあっと花が咲いたみたいに笑った。


『わあ、よかった……!あ……ごめんなさい。つい……』


両手で口元をおさえる仕草も可愛くて、その小さな存在をじっと見つめてしまう。
それから僕の隣の椅子にちょこんと腰かけて、彼女は少しだけ身体をこちらに向けた。


『あの……総司さまは、甘いものはお好きですか?』

「はい、好きです」

『私もとっても好きなんです。あのね、ここのお菓子、どれもとってもおいしいのですけれど……』


テーブルの上のお皿を、ちらりと見る。


『この小さなケーキが、いちばん好きなんです。ふわふわしていて』

「ふわふわ……ですか?」

『はい。お口に入れると、すぐなくなってしまうんです』

「それはおいしそうですね」


僕がそう言うと、セラ嬢は嬉しそうに何度も頷いた。


『はい。だから総司さまにも、ぜひ召し上がっていただきたいなって思って』


その言葉に、胸の奥が温かくなった。

今まで会ってきたご令嬢たちは、彼女のように自分の感情をまっすぐ表現したりはしなかった。
どこか計ったような笑顔で、無難な言葉だけを選んでいた。

でもこの子は違う。
嬉しいことは嬉しいまま、好きなものは好きなまま、素直に感情をそのまま僕に向けてくれる。


『はい、どうぞ』


彼女は自分から手を伸ばせずにいる僕に気づいたのか、小さなイチゴのショートケーキをそっと取り上げて、僕の目の前の取り皿へと置いてくれた。
恐る恐る一口運ぶと、口の中でふわりと溶けるような軽さと、甘さの中にほんのり混じる酸味が広がって、思わず目を見開いてしまう。
本当にふわふわで感動していると、セラ嬢が嬉しそうに僕を見つめていた。


『おいしいですか?』

「とってもおいしいですよ」

『ふふ、良かった。総司さまが笑ってくれて』


自分が自然に笑顔になっていることに、そのとき初めて気づいた。
なぜなら僕がいつも浮かべていた笑顔は、どれも作られたものばかりだった。
失礼にならないように、叱られないように、怒りを向けられないように。
でも今は、そんなことを考えずにただおいしいと思い、嬉しいと感じて笑っていた。


『総司さま、もしよろしければ……これから仲良くしていただけたらうれしいです』

「はい。僕も……そうしていただけたら、嬉しいです」


セラ嬢は、ふわりと微笑んだ。
心の中を隠そうとしない、あたたかくて澄んだ笑顔。
その笑顔を見たら、頬が少し熱くなって視線を逸らしてしまいそうになった。
誰かと話すことが、こんなにも嬉しいと思えたのは初めてだった。
そう思いながら、僕はもう一度、隣に座る彼女の笑顔を見ていた。

この先に何が待っているのかなんて、まだわからない。
でもこの瞬間だけは、胸の中がやさしい光で満たされている気がしていた。


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