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それから、僕の療養生活が始まった。
アストリアはヴェルメルよりもずっと温かくて、空気も澄んでいる。
それでも僕はここに到着した翌日から熱を出し、部屋で静かに過ごす日が続いていた。
白い天蓋のついたベッドに横になり、窓から差し込む太陽の光に目を細めながら、ゆっくりと呼吸を整える。
遠くで鳥の鳴く声が聞こえて、庭の木々が風に揺れるのをただぼんやりと眺めていた。
ヴェルメルにいた頃は、今のように寝ていることは許されなかった。
熱で身体が動かなくても、母に叩き起こされ、怠けていると罵られ、無理に稽古場へ向かわされた。
苦しいと訴えても、周りの人達に根性が足りないと言われるだけだった。
でも、ここでは違う。
母は僕が咳き込んでいても、以前のように強く当たることはなかった。
周囲の目を気にしているのか、それとも療養のためにアストリアに滞在しているという建前からなのか、その理由はわからない。
ただ静かに寝ている僕を見下ろし、「早く良くなりなさい」と言って部屋を出ていくだけだ。
叩かれることもなく怒鳴られることもない。
苦しい身体をそのまま横たえていられるのは、安らぎのはずだった。
それなのに、なぜだろう。
胸の奥にぽっかりと穴が空いたみたいで、どうにも落ち着かない。
それはここに来た日以来、セラ嬢に会えていないからだ。
廊下を歩く足音が聞こえるたび、もしかしたら、と思ってしまう。
ドアがノックされるたび期待して顔を上げても、入ってくるのは公爵邸の侍女か、医師か、母だけだった。
「ごほっ……げほ……」
僕の身体が弱い原因は、早産だったせいで生まれつき肺が弱く、気管が人よりも細いせいだと医師から聞いた。
疲れが重なるとすぐに炎症を起こし、咳が止まらなくなり、熱を出してしまう。
命に関わる病ではないけど、身体が出来上がるまで無理は禁物なのだそうだ。
しっかりと休息をとれば。
少しずつ身体を鍛えていけば。
そう言われたけど、ヴェルメルでは休むことも正しく身体を鍛えることも、僕には許されなかった。
体力作りも出来ていないまま兄達に混じって稽古を重ねたところで、剣を振る腕を痛めたり、呼吸が追いつかずに倒れ込んだりするだけ。
それでも弱音は許されず、体調を崩すことさえ怠けだと片づけられた。
「……ごほっ、こほっ……」
この咳は喘息だ。
だから他人にうつるものではないのに、周りの人達の認識は違う。
僕が咳をすると、決まって嫌そうな顔をして口元を押さえる。
あるいは何も言わずに少し距離を取り、やんわりと部屋に戻るよう勧めてくる。
その扱いにはもう慣れていた。
きっとアストリア公爵家の人達も同じなのだろう。
僕が熱で寝込んでいても、セラ嬢も、公爵閣下も、夫人も、一度もこの部屋を訪ねてはこなかった。
でも……それでいい。
弱っているところなんて、見られたくない。
咳き込み、熱に浮かされている姿を見せたら、きっと失望させてしまう。
こんな身体の僕を見たら、それこそいつか婚約の話が持ち上がったとしても、断られてしまうかもしれない。
それだけは嫌だった。
だから今は耐えるしかないし、ちゃんと療養して咳が落ち着くまで無理はしない。
少しずつでいいから、身体を丈夫にするんだ。
元気になって、ちゃんと走れて、咳き込まずに話せるようになって。
そして早く、あの子と仲良くならないと。
そうでなければ、僕は本当に生きる場所を失ってしまう。
そうならないためにもまずは健康な身体を手に入れようと胸の奥で誓いながら、僕はそっと目を閉じた。
それからどのくらい経った頃だろう。
喉の奥が痛んで、僕は息苦しさと一緒に目を覚ました。
無意識のうちに小さく咳き込むと、誰かの手が僕の頭に触れていることに気づいた。
とても静かで、やさしい手だった。
重く垂れた瞼はまだ開かないけど、きっとこれは乳母の手なのだろう。
母が僕の頭を撫でてくれたことなんて記憶にないから、こうして誰かに触れられると、自然と乳母を思い浮かべていた。
でも、その撫で方はどこか不慣れで、少しぎこちない。
まるで触れていいのか迷いながら、そっと確かめるようだった。
おかしいなと思いながらも、意識がゆっくりと浮上してくる。
そもそもここはアストリアだから、この部屋に乳母はいないはずだった。
それなら誰が?そう思って瞼を開くと、すぐ目の前に大きな瞳があった。
不安そうに揺れながら、じっと僕を見つめている瞳。
僕の寝ているベッドの上にちょこんと乗り、恐る恐る僕の髪を撫でていたのは、セラ嬢だった。
その事実を理解した瞬間、胸が跳ね上がって反射的に身体を起こしてしまう。
けれど急に動いたせいで呼吸が乱れ、胸の奥が縮こまった。
「……ごほっ、ごほっ……げほっ……」
『……あっ、総司さま……』
「……はっ……げほっ……ごほっ……」
どうしよう、止まらない。
こんな姿を見られたらだめだ。
弱くて情けない姿なんて見せてはいけない。
だから息を整えるため、咳を必死に堪えようとした時だった。
セラ嬢の小さな手が、また僕に伸びてくる。
背中をさすろうとしてくれているのだと分かったからこそ、胸の奥がひやりとした。
もしうつると思われたら。
この子まで、僕から離れてしまったら。
そんな考えが一気に押し寄せれば怖くなり、僕は思わずその手を思い切り振り払っていた。
『……っ……』
小さく息を詰めたような声が聞こえて、はっとする。
「……っ、ごめ……げほっ……ごほっ」
違うんだ。
触れられるのが嫌なわけじゃない。
ただこの咳を、この弱さを、この子に向けるのが怖かっただけなのに。
言葉にしようとしても喉はうまく動かず、咳がそれを遮ってしまう。
彼女はどうすればいいのか分からないというような表情で僕を見つめ、大きな瞳は少しずつ潤んでいった。
「……ちが……」
声を出したつもりでも、音にはならなかった。
彼女は僕からそっと後ずさり、肩をすくめるようにして視線を伏せると、逃げるように部屋を出て行ってしまった。
閉まった扉を見つめながら、僕は呆然とその場で咳を繰り返すことしかできなかった。
追いかけて謝りたいのに身体は言うことを聞かなくて、また喉の奥が苦しくなった。
それから暫く時間が経ち、一人きりの部屋で、何度も胸を震わせる咳を繰り返しながら、ようやく少し落ち着いてきたころ。
控えめに部屋の扉がノックされた。
いつもならその音を聞いただけで、もしかしたらという淡い期待が浮かんでしまうけど、今はそんな気持ちは湧いてこなかった。
きっと、もう来てくれない。
そう思ってしまったのは、僕があの子を怖がらせてしまったからだ。
あんな乱暴に手を振り払ってしまったのに、何も伝えられないまま傷つけてしまった。
怒っているかもしれないし、悲しくなって僕の顔なんて見たくないと思っているかもしれない。
仲良くなりたいと思っていたのに、その気持ちとは正反対のことをしてしまった自分が情けなくて、胸の奥が苦しくなった。
でも静かに開いた扉の先、立っていたのはセラ嬢だった。
思わず目を見開いた僕と同じように、彼女も少し驚いた顔をして、でもすぐに不安そうに瞳を揺らす。
『総司さま……先程は、勝手に入ってしまってごめんなさい。あの……また、入っても宜しいですか?』
小さな声だったけど、一生懸命に言葉を選んでいるのがわかる。
僕は慌てて首を縦に振り、頷いた。
「はい、大丈夫です。どうぞ……入ってください」
また咳が出そうになるのをこらえながら、できるだけ優しく告げた。
『おじゃまします』
部屋に入ってきた彼女は、両手で何かを大事そうに持っている。
僕が身体を起こすと、彼女はすぐにそばへ来て、そっとそれを差し出してきた。
『これ、あったかい飲み物です。はちみつとミルクを混ぜて、それから……すりおろしたりんごも入ってます』
カップからは甘くてやさしい匂いがする。
温かいそれを受け取ると、彼女はふわりと微笑んでくれた。
『この前、風邪でずっと咳が出て、苦しくて眠れなかったことがありました。でもこれを飲んだら喉があったかくなって咳が少し治ったんです』
「そうなんですか?」
『はい。だから総司さまも少しでも楽になったらいいなと思って、料理長に作ってもらいました』
その言い方があまりにも一生懸命で、胸の奥が温かくなった。
「……ありがとうございます」
一口、口に含むと、やさしい甘さがふわりと広がった。
はちみつのまろやかさに、りんごの爽やかな香りが重なって、喉通りが水とはまるで違う。
喉の奥に引っかかっていた痛みを優しく撫でてくれるみたいで、息が楽になる気がした。
これは……すごい。
僕はそのまま二口、三口と続けて飲んでしまってから、はっとしてカップを持つ手を止めた。
『おいしいですか……?』
そう尋ねるセラ嬢は、落ち着かない様子で僕を見つめていた。
小さな指をきゅっと握って、答えを待つその真剣な眼差しが可愛くて、僕は自然と笑っていた。
「うん、とってもおいしいよ」
気づけばすっかり気取らない言い方になってしまっていたけど、構わないと思えた。
だって、彼女が僕の言葉を聞いた瞬間、ぱっと花が咲いたみたいに笑ってくれたから。
「ありがとう。喉が凄く楽になったよ。ほら、さっきより咳も出てないでしょ」
『わあ、本当ですね。良かったあ……』
心から安心したようにそう言ってから、彼女は急に思い出したように口元を押さえた。
『あ……ごめんなさい。よろしゅうございました……』
その様子がいかにも幼くて、でも無理に大人ぶろうとしているみたいで、胸の奥が少し反応した。
この子がこんなにも素直でまっすぐなのは、きっとまだ小さいからだ。
あと何年か経てば、周りに合わせて言葉を選んで、本音を隠すようになるのかもしれない。
だけど今、目の前にいるセラ嬢は、何ひとつ飾らない澄んだ心のままだ。
だからどうか、このままでいてほしい。
そんな願いを胸に抱きながら、僕は静かに微笑みを向けた。
「二人でいるときは、こうしてあまり堅苦しくないほうが僕は嬉しいですよ」
『……本当ですか?』
「うん。セラ嬢が嫌じゃなければ」
『嫌じゃないです。私も……私もね、総司さまと仲良く、たくさんお話ししたいなって思ってたから』
そう言って、彼女は嬉しそうに僕を見上げた。
その瞳はさっきよりもずっと柔らかくて、胸につかえていた重たいものが少しずつほどけていく気がしていた。
「さっきは、ごめんね」
僕がそう言うと、彼女はぱちりと目を瞬かせた。
「急に手を払ったりして、驚かせたと思うから謝りたかったんだ。それに嫌だったわけじゃなくて、ただ……目の前で咳ばかりされた嫌だろうなって。うつるんじゃないかって、そう心配させるのが申し訳なくてさ」
そう口にすると、彼女は一瞬だけきょとんとした顔をして、それから小さく首を振った。
『うつらないって、お医者さまが言ってました』
その言い方はとても真面目で、でもどこか一生懸命で。
まるで「大丈夫だよ」と僕に言い聞かせているみたいだった。
『それに……総司さまつらいの、わたし……悲しいから。何かできることはないかなって思ったんです』
その一言が、胸の奥にすとんと落ちた。
この子の言葉は、どうしてこんなにも僕の心を温めてくれるんだろう。
「……ありがとう」
彼女はほっとしたように微笑んで、僕のベッドの横にちょこんと座った。
さっきよりも、ほんの少し近い距離。
その距離に今は不安はなくて、むしろ心地よかった。
「また咳がつらくなったら、その飲み物お願いしてもいい?」
『まかせてください。私が総司さまを元気にして差し上げます』
「ははっ、セラ嬢が?」
『はい。そのかわり、元気になったら私と遊んでくれますか?』
「もちろん。セラ嬢がしたいことになんでも付き合うよ」
目を輝かせた彼女を見て、思わず小さく笑ってしまう。
この子がいるなら。
このアストリアでなら。
ちゃんと休んで、少しずつ身体を強くしていけるかもしれない。
そんなことを、初めて思えた午後だった。
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