6

アストリアに滞在してからニヶ月。
静かに療養を続けるうちに、僕の身体は少しずつ言うことを聞いてくれるようになってきた。
相変わらず熱は出るし、喘息が治ったわけじゃない。
それでも前みたいに何もできずに寝ているだけの日は確実に減っていった。

調子のいい日は、騎士団所属の方々に混ざって無理のない範囲で身体の動かし方を教わっている。
剣を振るうためじゃなく、まずは病に負けない身体を作るための稽古だ。
腕立て伏せも走ることも全部がまだ苦しいけど、不思議と嫌じゃなかった。


「ヴェルメルの坊ちゃん、だいぶできるようになってきたじゃねぇか!」

「この調子で続けりゃ、再来年には俺たちみたいになってるはずだぜ」


そう言って笑うのは、騎士団の中でも特に若い二人、永倉新八卿と原田左之助卿だ。
いつも冗談を言いながらも手は抜かずに、丁寧に稽古をつけてくれる。
三十回目の腕立てを終えた頃には、息が上がって腕も少し震えていた。
それでも顔を上げて、僕は二人を見た。


「いつか僕もお二人のようになれますか?」


そう聞くと、永倉卿も原田卿も示し合わせたみたいに大きく笑った。


「あったりまえだろ。その代わり、練習はサボんなよ」

「はい。必ず毎日続けますよ」

「それでいい。強くなって、うちのお嬢様を一緒に護ってやってくれ」


セラ嬢を護れるくらい強くなれたら、それ以上に嬉しいことはない。
僕が笑って頷いた時、すぐ近くから鈴を転がしたようなやさしい声が聞こえてきた。


『総司さま、お疲れ様です。お稽古はもう終わりましたか?』


僕の体力作りは、医師の指示に従って時間も内容もきちんと決められている。
だから彼女は、いつもこうして稽古が終わる頃を見計らって迎えに来てくれる。
この子が応援してくれているから、もっと強くなりたいと心から思えた。


「うん、終わったよ」

『わあ、良かった。向こうで一緒に休憩しましょう?』


口元に指先を添えて嬉しそうに微笑む姿は、まるで春の妖精のようだ。
僕が頷くと、横にいた原田卿と永倉卿が顔を見合わせてにやにやと笑い出す。


「可愛い彼女が迎えに来てくれるなんて、羨ましいこった」

「セラちゃんのこと大事にしてやれよ」

「大事にはしますけど……別に、彼女ではないですから」


からかわれているのは分かっているのに、顔が熱くなるのを止められなかった。
そんな僕たちを見上げて、セラ嬢は小さく首を傾げる。


『かのじょ?』

「セラとヴェルメルの坊ちゃんが、なかよしこよしってことだ」

『私と総司さまは、とっても仲良しですよ。ね、総司さま?』


まっすぐにそう言われると、どう答えていいのか分からなくなる。
あの日打ち解けてから、彼女はこうして自然に僕の傍にいてくれるようになった。
僕より二つ年下のセラ嬢には、きっと深い意味なんてない。
それでも傍にいてくれることが、たまらなく嬉しかった。


「……まあ、そうですね」

「何照れてんだよ、総司殿!」

「わっ、永倉卿、重いですって……!」


肩を組まれてよろけると、二人は声を立てて笑った。
最初は大公国の大公子として距離を取っていた二人も、今ではこんなふうに気安く接してくれる。
騒がしくて、遠慮がなくて。
でも腹違いの兄姉よりも、ずっと兄らしい存在だった。


『総司さま、そろそろ行きましょう?』


セラ嬢は、永倉卿に捕まっている僕の手をそっと取る。
少しだけそわそわした様子でそう言われて、僕は小さく頷いた。


「では、失礼します」


軽く頭を下げて二人に挨拶をし、僕たちは並んで庭園へ向かう。
歩調を合わせてくれるその横顔を見ながら、胸の奥がまた静かにあたたかくなっていった。


『総司さま、見てください』


声に導かれて目を向けると、アストリアの手入れの行き届いた庭園が、いつもよりきらきらして見えた。
広い芝生の上には大きな布が敷かれ、その上には小さくて可愛らしいお菓子や、湯気の立つお茶が並べられている。


『今日は、総司さまと二人でピクニックの日なんです』


そう言って手を引かれ、促されるまま腰を下ろす。
セラ嬢は僕のすぐ隣に座ると、満足そうに微笑んだ。


「ピクニックなんて、初めてだよ」

『とっても楽しいんですよ。たまに小鳥さんも遊びに来てくれるんです』

「へえ、鳥も来るくらいならきっと美味しいんだね。じゃあ、僕もいただこうかな」


稽古の後は、どうしてもお腹が空く。
最近は前よりも沢山食べられるようになってきて、そのことが少し誇らしかった。
でもクッキーに手を伸ばした、その時だった。


『だめ』

「え?」


気づけば、伸ばした手は彼女の小さな手に包まれていた。


『まだ手を綺麗にしていないでしょう?ほら、このおしぼりでちゃんと拭かないと、お腹を壊しますよ』


いつものゆっくりとしたやわらかな話し方。
それなのにどこかお姉さんみたいな口調に、僕は思わず瞬きをする。


『今はね、おままごと中なんです』

「おままごと?」

『そう。総司さまは私の旦那さまで、私たちはこの前結婚したばかり、っていう設定なんです』

「ははっ、わかったよ」


よく分からないけど、可愛い提案を聞いて否定する気にはなれなかった。


『あなた、手を拭いて差し上げますね』


そっと包まれた手に、ひんやりとした感触が伝わる。
丁寧にゆっくりとおしぼりで拭かれて、なんだか胸のあたりが落ち着かなくなった。


「手は自分で拭けるよ。そんなこと、普通しないんじゃない?」

『しますよ?お母さまは、よくお父さまの手を拭いて差し上げてます』


その光景を想像してみて、少し考える。
確かにあのお二人なら、こんなふうに自然に触れ合っていそうだった。
だけどヴェルメルでは、父が母や他の奥方たちと寄り添う姿を見たことがない。
だから余計に、どうしていいか分からなくなってしまう。


『はい。綺麗になりましたよ。お菓子、どうぞ召し上がって』

「ありがとう。いただきます」


おままごとなんて、経験したことがない。
城に他の貴族の子供たちが遊びに来た時、女の子たちが楽しそうにしているのを遠くから見たことはあるけど、その中に入ったことは一度もなかった。
どう振る舞えばいいのか分からないまま、クッキーを手に取って口に運ぶ。
その時、ふっと視界に影が落ちた。
顔を上げると、すぐ目の前にセラ嬢の顔があった。


『ここについてますよ、あなた』


セラ嬢の手にしたハンカチが、そっと僕の口元に触れる。
柔らかな布越しに伝わる指先の気配と、すぐ目の前にある微笑みに、思わず息を止めてしまった。
だって、距離が近い。
あまりにも近くて、何を考えていたのか一瞬わからなくなる。


『あなた?』

「あのさ……なんだか、恥ずかしいよ」

『どうして?』

「どうしてって言われても……自分でも、よくわからないけど」

『あ、それなら……総司さまが奥さま役になりますか?』

「いや、そういうことじゃなくて」


自分でもどうして恥ずかしいのかははっきりしない。
嫌なわけじゃないけど、胸の奥がそわそわして落ち着かなかった。
それにこの役をちゃんと演じられるかと言われたら、正直自信がない。
真っ直ぐ見つめられるだけで、目を逸らしたくなってしまうくらいだから。


『……ごめんなさい、総司さま』


急に声の調子が変わって、僕は目を瞬く。


『おままごと、お好きではなかったのですね』

「え?」

『勝手に遊びを決めてしまってごめんなさい。総司さまは、お稽古でお疲れなのに』


さっきまで輝いていた瞳が、静かに伏せられる。
その様子を見て胸の奥が締め付けられたのは、優しいこの子にそんな顔をさせたくなかったからだ。


「違うよ。おままごと……したいよ」

『……でも……』

「今日が初めてで、よくわからないだけなんだ。上手くできないかもしれないから、不安っていうかさ。だから、もし変なところがあったら教えてくれる?」


そう言うと、セラ嬢の表情がぱっと明るくなる。
分かりやすいほどに瞳がきらきらと輝いて、その様子がとても可愛かった。
それにこの役を他の誰かに譲る気はなかった。
慣れないなら、慣れるしかない。
そう腹を決めた僕に、セラ嬢は嬉しそうに微笑む。


『ありがとうございます、総司さま。どこもおかしくないですよ。総司さまは総司さまのままで、とっても素敵な旦那さまです』


僕はずっと、自分のことが好きじゃなかった。
このままではいけない、弱いままでは駄目だと、いつも言い聞かせていた。
それにこんな僕を認めてくれる人なんて、この世界のどこにもいないと本気で思っていた。

でも、セラ嬢は違った。
僕が咳き込んでも、何度寝込んでしまっても、嫌な顔ひとつしない。
いつだってやわらかな声と、優しい眼差しを僕に向けてくれる。
そして今も僕は僕のままでいいのだと、そう言ってくれる。
この子は本当に、天使みたいな子だと思った。



「セラ嬢は……僕が旦那さまになっても嬉しいって思ってくれるの?」

『はい、もちろん』

「それなら……」


きっと、この子は誰よりも優しい奥さんになる。
このおままごとみたいに、自然に笑って僕に触れてくれる。
もしセラ嬢が本当に僕の奥さんになってくれたら。
その時は、今みたいな穏やかであたたかな日々を過ごせるかもしれない。
この子のすぐ傍で、この子のために、僕は懸命に生きていける気がした。


『総司さま?』


僕を見上げる大きな瞳が、きらきらと揺れている。
胸の奥が早鐘みたいに鳴って少し苦しい。
それなのにその感覚が嫌じゃなくて、むしろ大事なものみたいに思えて、気がつけば僕は口を開いていた。


「本当に、僕のお嫁さんになってくれる?」


言ってしまった直後に、頭の中が真っ白になる。
断られたらどうしよう。
早すぎたかもしれない。

それでも、僕がここにいられる時間はきっと限られている。
母との約束があるからという理由よりも、今はただ他の誰かに取られたくないと思ってしまった。
そう思ったら、迷っている時間はない気がした。
でも必死な想いを込めた言葉だったのに、セラ嬢は微笑んで小さく首を傾げている。


『はい。わたしは、総司さまのお嫁さん役です』

「えっと……そうじゃなくて、おままごとじゃなくてさ」

『おままごと、しませんか?』

「するよ。するんだけど……僕達が大人になったらの話だよ」


するとセラ嬢はぱちぱちと瞬きをして、少し考えるような顔になった。


『大人になったら……わたしは、総司さまと結婚するのですか?』


あまりにも真っ直ぐな問いに、思わず言葉を飲み込む。
胸が苦しいほど鳴っていたけど、それでも目を逸らさず、意を決して彼女を見つめた。


「僕と結婚してくれたら、嬉しいです」


言ってしまった。
まだ出会ってから、ほんの数ヶ月しか経っていないのに。
それでも毎日顔を合わせて、笑って、話して。
仲良くなれたつもりでいたし、僕のこともそれなりに気に入ってくれているはずだと、そう信じたかった。


『わあ……』


小さな感嘆の声が零れる。
その理由はよくわからなかったけど、思い返せば初めて会った時も、セラ嬢は同じように僕を見上げてそう声を漏らしていた。
口元に両手の指先を添えて呟く仕草は、まるでどこかの国のお姫様みたいで。
その愛らしい姿を前に、僕はただ返事を待っていた。


『それは、総司さまと結婚式をするっていうことですか?』

「はい。セラ嬢さえ良ければ」

『嬉しい。わたしも、総司さまとずっと結婚式したいなって思っていたんです』


え、本当に?
それって、セラ嬢も僕との結婚を望んでくれているっていうこと?
心臓が一気に速くなって、胸の奥からあたたかいものが込み上げてくる。
こんなに嬉しいと思えたのは、生まれて初めてだった。


「……僕も、嬉しいです」


よくわからないけど、胸がいっぱいで目を離せなかった。
天使みたいなこの子の少し大人になった姿を思い浮かべていると、セラ嬢はぱっと顔を綻ばせて言った。


『それじゃあ、今度しましょう?』

「え?するって……何を?」

『結婚式です。私の大好きなご本にのっていて、ずっと総司さまに王子さま役をしていただきたいなって思ってたんです』


どうやら、いつの間にかおままごとの話に戻っていたらしい。
瞳を輝かせて話す姿は、とても可愛い。
でも僕が伝えたかったのは将来の約束であって、結婚式の真似事とは少し違う。
この子は、僕の言葉をどれくらい理解してくれているんだろう。
そう思って、もう一度口を開こうとしたその時、すぐ近くから別の声が聞こえてきた。


「ふふ、楽しそうね」


その声に振り返ると、ユフィ夫人がやさしく微笑んで立っていた。
隣には母の姿もある。
母はまず僕を一度じっと見てから、セラ嬢へと視線を移した。


「セラさん、ご機嫌よう。うちの総司は、失礼なことをしていないかしら」

『アンナ夫人、お母様、ごきげんよう』


セラ嬢は僕の隣からすっと立ち上がると、二人の前まで歩み寄り丁寧にスカートをつまんで一礼した。


『総司さまは、今日もとてもお優しいです』

「それなら安心したわ」

「セラは総司さんが大好きだもの。毎日遊んでいただけて、本当に有難く思っているのよ」


ユフィ夫人のやわらかな視線が僕に向けられて、胸の奥がくすぐったくなる。
僕もすぐに立ち上がり、二人に頭を下げた。


「ごきげんよう。ユフィ夫人、母上」


母上の視線が少しだけ厳しくて、少し不安になる。
そのときセラ嬢がユフィ夫人の手を握って、ぱっと顔を輝かせた。


『あのね、お母様。今度、総司さまと結婚式をするんです』

「まあ、結婚式?」


セラ嬢とユフィ夫人のやり取りを聞いて、母上の肩がわずかに揺れた。
そして少し期待を含んだ眼差しで、セラ嬢を見つめる。


「セラさんは総司と結婚なさるの?」

『はい。ご本に書いてあった結婚式で、総司さまが王子さま役をしてくださることになったんです』

「王子様……役?」

「セラが大好きな本があってね。最後に王子さまとお姫さまが結婚式をする場面があるの。それをどうしても実演したいみたいなのよ」


くすくすと笑うユフィ夫人。
その隣で、母の表情がほんの少しだけ曇るのが分かってしまった。
それはきっと僕も同じ気持ちだったから。
さっき言った言葉の意味が、この子にはまだ届いていない。
そう思うと、胸の奥がちくりとした。


「王子役を務めるのは、なかなか難しいものですよ」


突然知らない声がして、僕はそちらを向いた。
そこには一人の若い騎士が静かに立っていた。
その隣には外出から戻ったばかりの近藤公爵が、にこやかな笑みを浮かべている。


「総司殿、紹介しよう。彼は山崎丞君だ。我がアストリアが誇る立派な騎士だぞ」

「近藤さん、褒め過ぎでは……」

「いいえ、山崎さんはとても勇敢な騎士だと私も思うわ」


評価の言葉に、山崎卿は少しだけ困ったように視線を伏せた。
そして一歩前に出ると、僕の前で深く頭を下げる。


「はじめまして、大公子殿下。山崎丞と申します。以後、宜しくお願い申し上げます」

「はじめまして。ヴェルメル大公国第四公子、沖田総司です。本日はお目にかかれて光栄です」


僕も真似をして、きちんと頭を下げる。
子供なりに失礼がないようにと必死だった。
山崎卿はそんな僕を見て、ほんのわずかに口元を緩めた。


「お噂はかねがね伺っております。とてもお優しい大公子殿下だと」

『そうなんです。総司さまは世界で一番優しい王子さまなの』


王子様という呼び方に、少し照れくさい気持ちになる。
山崎卿は僕達を見比べて、優しく言葉を続けた。


「本の王子様役、という話でしたら自分も一度、務めさせていただいたことがあります」

「山崎卿も?」


思わずそう口にすると、近藤公爵が声を立てて笑った。


「はははっ、実は俺もだ」

「え……?」


意外な告白に目を見開くと、近藤公爵は肩をすくめてみせた。


「セラに頼まれてな。「王子さまをやってください」と、ずいぶん真剣な顔で言われたよ」

『はい。お願いしました』

「それで、どうだったんですか?」


恐る恐る尋ねると、山崎卿が小さく息を吐いた。


「結果から申し上げますと……俺では役不足だったようです」

「俺とて同じだ。理由を聞いても「何か違う」の一点張りでなあ」


近藤公爵と山崎卿は顔を見合わせて苦笑していた。


「剣の持ち方や立ち姿は褒めていただいたのですが、それ以上は言ってもらえませんでした」


山崎卿はそう言って、どこか照れたように視線を逸らす。
近藤公爵は楽しそうに僕の方を見て、軽く顎を上げた。


「だがな、不思議なことにセラは最初から総司殿だけは別だと言っていた」

「別……ですか?」

『はい』


セラ嬢は一歩近づいてきて、僕を見上げた。


『総司さまは、そのご本の王子さまにとても似ていらっしゃるのです。茶色の髪も翠の瞳も、それからとても優しいところも。だからね、総司さまと結婚式をしたいんです』


セラ嬢は、両手を胸の前でぎゅっと組んだ。
その声は無邪気でまっすぐで。
彼女自身は深く考えていないとわかっていても、胸が熱くなるのを感じた。


「はは、参ったな。これはもう総司殿に任せるしかない」

「ええ。お嬢様の理想の王子様ができるのは、総司殿だけのようです」


皆の視線を一斉に受けて、少しばかり気恥ずかしくなる。
でもこんなにも名誉な役割はないから、僕はセラ嬢の前に膝をついて目線を合わせた。


「僕が王子様役をするよ」

『ほんとうですか?』

「うん。うまくできるかは分からないけど、セラ嬢がそう言ってくれるなら頑張るよ」


僕の言葉を聞いて、セラ嬢の顔がぱっと花が咲いたみたいに明るくなった。


『嬉しい。ありがとうございます、総司さま』


この役は、誰にも譲りたくない。
それはこれから先、大人になってもずっと。
そう思ってしまった自分に少し驚きながら、僕の隣で微笑む彼女の顔を見つめていた。

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