7

約束の結婚式を行う日。
庭園には午後のやわらかな光が満ちていた。
白い花々が静かに風に揺れ、噴水の水音が遠くで小さく響いている。
その穏やかな景色はセラ嬢が大切にしている絵本の挿絵と驚くほどよく似ていた。

僕はベンチに腰を下ろし、膝の上に広げた本を見つめていた。
結婚式の場面、王子が想いを告げるページを、指でなぞるように何度も読む。
声に出すのは少し照れくさくて、唇の内側で言葉を転がすだけだった。


「……ここ、忘れないようにしないと」


独り言のように呟いたとき、控えめな足音が近づいてきた。


『総司さま』


顔を上げると、セラ嬢がそこに立っていた。
淡い色のドレスの裾を両手で整えながら、嬉しそうに微笑んでいる。


『お待たせいたしました。ピアノのお稽古が伸びてしまって、ごめんなさい』

「謝らなくていいよ。貸してもらった本を読んでたからさ」

『でも、三十分も遅れてしまいました』

「本当に大丈夫だよ。沢山ピアノ頑張ったんでしょ?偉いね」


セラ嬢は柔らかく口元を緩めると、僕の隣にそっと腰を下ろした。


『総司さま、お優しいです。本当に王子さまみたい』


その言葉に胸の奥がちくりとする。
正直に言えば、僕は自分が優しいのかどうかよく分からなかったからだ。
ヴェルメルにいた頃、たくさんの貴族と顔を合わせてきたけど、誰かと心から近しくなった覚えはなかった。
それに母からはセラ嬢には特に優しくするようにと、何度も言われている。
もちろん、この子に優しくしたい気持ちは本当だ。
でもそれが全部この子のためなのかと問われると、少しだけ自信がなかった。


「どうかな。僕は王子なんて、そんな立派なものじゃないよ」


ヴェルメルの家族が聞いたら、きっと笑う。
この子が大きくなって僕の立場や事情を全部知ったら、その時も今のように見てくれるんだろうか。
ふと、そんな考えがよぎる。


『そんなことありません』


セラ嬢は、まっすぐに僕を見て言った。


『総司さまは、とっても素敵です』

「ありがとう。セラ嬢こそ、素敵だと思うよ」


そう言葉を返すと、彼女は嬉しそうに、でも少し恥ずかしそうに肩をすくめてもじもじしていた。
その分かりやすい反応が可笑しくて、思わず笑ってしまう。
するとセラ嬢は上目遣いでこちらを見つめ、少しだけ声をひそめた。


『あの……始める前に、お願いがあるんです』

「お願い?」

『ご本では、王子さまとお姫さまって呼び合っていますけど……今日は、そうじゃなくて』

「うん?」

『本当のお名前で、呼び合いたいなって思ったんです。だって、総司さまは総司さまですし……わたしは、わたしですから』


少し照れたように、でも一生懸命言葉を選ぶその様子に自然と笑みがこぼれた。


「うん。それがいいね」


そう答えると、セラ嬢の顔がぱっと明るくなる。


「僕も、名前で呼びたいと思ってたんだ」


その言葉に安心したように頷いてから、彼女は思い出したように小さな掌を差し出してきた。


『ありがとうございます。それから……これを』


そこには二つのおもちゃの指輪があった。
彼女にとって大切な宝物だということが、彼女の丁寧な仕草から伝わってくる。


『ご本では、新郎さまが指輪を持つんです。ですから総司さまにおあずけしても宜しいですか?』

「わかったよ。ちゃんと大切に持っておくね」


両手で受け取り胸元にしまうと、セラ嬢は安心したように頷いた。


「じゃあ……やってみる?」

『はい、お願いします』


二人で庭園の中央へ進む。
ただの遊びのはずなのに、僕達が向き合うと空気が少し変わった気がした。
僕は深く息を吸い、本の言葉を思い出しながらゆっくりと話し始めた。


「セラ嬢。僕はあなたと一緒にいる時間がとても大切です。あなたが笑っていると僕も嬉しくなります。困っているときはそばにいたいと思います」


セラ嬢は両手を胸の前で重ね、じっと僕を見つめていた。
その言葉に僕の気持ちも自然と乗り、いつかこんな日が本当に来ればいいと思ってしまう。


「だからこれからもあなたを大切にします、ずっと」


胸元から指輪を取り出すと、セラ嬢の瞳がきらきらと輝いた。


「これは、その気持ちのしるしです」

『総司さま……』


彼女は大きな瞳で僕を見上げながら、やわらかな声で応えた。


『私も総司さまと一緒にいられることが、とても幸せです。総司さまはいつもお優しくて……私のことをちゃんと見てくださいます。ですから私も総司さまを大切にいたします。これからも、ずっと』


本だと二人の会話はここで終わる。
互いに見つめ合って、少し恥ずかしい気持ちで微笑んでいた。
春の訪れを感じさせる風が吹き、髪を揺らして笑うセラ嬢がとても愛らしかった。


「えっと、これで結婚式は終わりだよね」


終わってしまうと、少しばかり寂しくも感じる。
でも僕の言葉を聞いたセラ嬢は少し不思議そうに首を傾げた。


『でも……』

「どうしたの?」

『ここで二人はちゅってするんですよ?』


思いがけない言葉を聞いて、僕は目を丸くする。
確かに本にはそう書かれていたけど、そこまで再現することは出来ないからだ。


「さすがにそれは……できないよ」

『でも、お父さまと山崎さんはしてくれました』

「え?」


近藤公爵はまだしも、山崎卿まで?
なぜか胸の奥が落ち着かなくなくなり言葉を失っていると、セラ嬢は慌てて続けた。


『あ……おでこに、ちゅってしてくれました』


その一言で、張り詰めていたものがふっと緩んだ。


「なんだ、びっくりしたよ」

『ごめんなさい……』

「じゃあ……おでこにするね」


一歩近づくと、セラ嬢は逃げずに少しだけ頬を染めながら、じっと僕を見上げている。
その距離が思っていた以上に近く感じられて、心臓の音が煩いほどだった。
そっと身を屈め、彼女の額に唇を触れさせる。
それは一瞬だったのに、胸が熱くなって息が詰まりそうになるのを感じた。


『ふふっ』

「どうして笑うの?」

『だってとっても嬉しいのです。このご本みたいな結婚式、ずっとしたいなって思ってたから』

「僕、ちゃんと出来てたかな?」

『はい。総司さまはこのご本の王子さまより、もっとずっと素敵でした』


セラ嬢は今まで見たことがないほど幸せそうに微笑んでいた。
頬を淡く染め、その笑顔はまるで光を抱いているみたいで。
その表情を見た瞬間、胸の奥を何かに強く掴まれた気がした。

ただの遊びのはずなのに。
ただのままごとのはずなのに。
この子の今の笑顔を、他の誰にも見せたくない。
そんな気持ちがはっきりと芽生えてしまったことに、僕はまだ気づかないふりをしていた。



その後部屋に戻ると、窓から差し込む夕方の光が床に長く伸びていた。
ベッドに腰を下ろしたまま、僕はぼんやりと今日の庭園のことを思い出していた。

僕を見上げて微笑んでいたセラ嬢の顔。
少し頬を染めながら、嬉しそうに指輪を見つめていた瞳。
おでこにそっと触れたとき、ふわりと花が咲いたみたいに笑った表情。
思い出すたびに胸の奥が揺れて、どきどきする。
理由はよく分からないけど、嫌な感じじゃなくて、むしろ大切にしまっておきたい気持ちだった。

……結婚式ごっこ、楽しかったな。

そう思いながら僅かに口元を緩めた時、扉が強く開く音がした。
振り向いた先に立っていたのは母だった。
昼間とは違い、その表情はどこか険しく感じて僕は慌てて立ち上がった。


「今日は、結婚式の真似事をしていたのよね?」

「はい。先ほど、庭園で……」


答えると、母は一歩こちらへ近づいた。


「それで、セラさんに婚約の話はしてみたの?」


母はずっと言っていた。
まずは子供同士で結婚の約束をすること。
それから近藤公爵とユフィ夫人に話を通すのが一番自然なのだと。
だから早く彼女と仲良くなりなさい、迷っている暇はないのだと。


「……まだ、できていません」


今日は結婚式ごっこのことで胸がいっぱいで、その先の話までは辿り着けなかった。
そのことを伝えようとした時、僕の視界が大きく揺れた。
母の手が僕の肩を強く掴み、そのまま壁へと乱暴に押しつけられる。
背中に鈍い痛みが走り、息が詰まった。


「何を悠長なことをしているのよ!私たちには、時間がないのよ……!」

「……っ、申し訳ありません……」


咄嗟に頭を下げようとするも、今度は頬にぱしりと乾いた音が落ちた。
避けることも許されない一打を受けて、頬がじんじんと痛み出す。


「ヴェルメルから手紙が届いたわ。旦那様が来月には戻ってくるようにと仰っていてね」

「……え?」


思わず顔を上げると、母は冷たい目でこちらを見下ろしていた。


「北部でローゼンヴァルト宮廷舞踏会が開かれるの。各国の要人と名門貴族、その子息子女が一堂に会する。あなたも大公家の子として、今年からは必ず出席しなければならないのよ」


喉の奥が冷たくなる。
またあの場所に戻らなくてはならない現実。
僕を見る皆の冷たい視線を思い出せば、心が嫌だと叫んでいるようだった。


「だからこそ、セラさんとの関係が大事なの」


母は声を落とし、僕の肩を掴む手により力を込めた。


「東部の軍事を担うアストリア家のご令嬢。血筋も後ろ盾も申し分ない。あの子と婚約できれば、あなたの立場は一気に揺るぎないものになる。逆に言えばここの公爵家との婚約がなければ、あなたは結局何も持たないままよ。だからあなたには絶対に後ろ盾が必要なのよ。婚約という形で確かな立場を」


母は手にしていた手紙を、強く握りしめた。
ここ最近は以前より穏やかだった母も、今は切迫した様相で言葉を続けた。


「旦那様からの手紙にも、はっきり書かれていたわ。この機会までに総司の立場は整えてあるのだろうな、と。このまま何もなければ、あなたはただの余分な子になる。それがどれほどまずいことか、分かるわよね?」


長兄は次代を継ぐ者として、すでに周囲から一目置かれている。
他の二人の兄にも家の外で確かな役目が与えられているし、姉もまた良縁とともに将来の立場が整えられている。
皆それぞれの居場所を持っているのに、僕だけがどこにも当てはめられていなかった。
北部では僕の身体が人一倍弱いことは知られていたし、先が長いかもわからない僕に嫁がせたい貴族はいない。
母の言う通り、このままでは僕に約束された未来なんて訪れる筈がなかった。


「いい?あなたがあの子に好かれるだけでは足りないの。ただ仲が良いお友達だなんて、何の意味もない。婚約という正式な形が必要なの。この家に選ばれること、それだけがあなたの未来よ」


頭の中に庭園の景色が浮かんだ。
風の中で、少し恥ずかしそうに笑ったセラ嬢の顔。
ただ一緒に過ごしただけで、幸せを感じられたあの時間。

胸の奥にあった温かさが、ゆっくりと押しつぶされていく気がして視界が滲む。
セラ嬢の笑顔を思い浮かべるたび、それが遠ざかっていく気がした。


「……わかりました」

「わかったと言うことは、明日あの子に言えるわよね」

「はい。でも、もし断られたら……」

「まだ小さい子よ。お菓子でも渡して機嫌を取れば大丈夫よ。それに結婚式ごっこをしたがるくらいなのだから、そういったことに憧れはあるわけでしょう?今がいい機会なんだから、絶対に逃してはだめよ。強引な手を使ってでも、はいと返事させなさい」


母のその言葉が、胸に刺さったまま抜けなかった。
だってそんなやり方で、あの子の未来やあの笑顔の先にある時間を無理やり縛ってしまってもいいのだろうか。
まだ何も知らない彼女に、よく分からないまま約束をさせてしまうことが本当に正しいことなのか。

でも、来月僕はヴェルメルに戻らなければならない。
それはもう決まっていることだ。
もしそれまでに婚約が決まらなければ、僕はここに来る前と何も変わらないまま。
何の形も持たないまま戻ったら、その先に僕の居場所なんてないかもしれない。

それを思うと、胸の奥がぎゅっと締めつけられた。
怖くて、不安で、どうしていいのか分からなかった。
セラ嬢の笑顔を守りたい気持ちと、自分が消えてしまうかもしれない恐怖が、胸の中で絡まり合う。

それでも……


「……はい、必ず」


そう言った自分の声は、思ったより落ち着いていた。
母は僕の返事に満足したように、何も言わずに部屋から出て行く。
潤んでしまった瞳を隠すように俯いて、明日が来ることを怖いと思う僕がいた。

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