10

僕がヴェルメルに帰らなければならない日がやってきた。
アストリアから離れることは淋しかったけど、今は以前より辛くない。
それはきっと、セラ嬢と交わしたあの約束があるからだ。

その約束を母に伝えたら、母もとても喜び僕に笑顔を向けてくれた。
そして出立する日にさりげなく近藤公爵とユフィ夫人にその話ができるよう、僕から約束の話を切り出しなさいと母から言われている。
馬車の前、僕の見送りをしてくれているセラ嬢を見つめながら、そのタイミングを窺っていた。


「こちらで療養させて頂いたおかげで、総司の身体もとても良くなりましたわ。大変お世話になりました」


僕も母と一緒に頭を下げる。
それから顔を上げてセラ嬢のほうを見ると、彼女の大きな瞳からはぽろぽろと涙がこぼれていた。
一生懸命こらえようとしているのに、どうしても止まらない、そんな泣き方だった。


「セラ嬢、いつも僕の身体を気遣ってくれてありがとう」

『……ううっ……』

「セラ嬢とアストリアで過ごせてとても楽しかったよ」

『わたしも……とっても楽しかったです……』


小さな肩が震えているのを見ると、胸の奥をぎゅっと掴まれたみたいになる。
笑顔にさせてあげたいのに、こうして悲しんでくれることがどうしようもなく嬉しくて、胸が熱くなった。


「あらあら。セラったら、こんなに泣いて……。余程、総司さんとお別れするのが悲しいのね」


ユフィ夫人が、困ったように優しく微笑む。
近藤公爵も僕と母を交互に見てから、ゆっくりと口を開いた。


「アンナ夫人、総司殿。もしよろしければ、ヴェルメルでの寒さが厳しい間はまたアストリアで過ごされてはいかがかな?」


思いがけない言葉に、僕も母も同時に目を見開いた。


「……ですが、よろしいのですか?」


母が少しだけ遠慮がちに尋ねると、近藤公爵は穏やかに頷いた。


「むしろ我々は是非来て頂きたいと考えておりますぞ」

「セラもこんなに悲しんでいるんですもの。それにアンナと過ごせて私もとても楽しかったの。また来てくださったら嬉しいわ」


その言葉を聞くと、セラ嬢が涙で濡れた瞳のまま僕と母を見上げた。


『お二人とも、またアストリアに来てくださいますか?』


小さな声だったけど、とても大切なお願いのように聞こえた。
僕が答えるより先に、セラ嬢は少し考えるようにしてから続けた。


『あの……もうずっと……このお城に住んでくださってもいいのですよ?』


その言葉に、場の空気がふっと和らぐ。
ユフィ夫人がくすくすと笑い、近藤公爵も目を細めた。


「はははっ、それは良いな。我々はいつでも歓迎致しますぞ」

「ありがとうございます。そう言って頂けてとてもありがたいです。またヴェルメルが寒くなる頃、改めてユフィにお手紙を差し上げても宜しいかしら?」

「ええ、勿論よ。セラと待っているわ」


微笑んだ母は、僕に柔らかな視線を向ける。
それはきっと、あの言葉を言いなさいという合図だろうと、僕はセラ嬢に告げた。


「ヴェルメルに戻ったら、すぐにセラ嬢に手紙を書くね。あと、あの約束もずっと忘れないから」

「あの約束?」


不思議そうに首を傾げたのはユフィ夫人だった。
その問いかけに応えるように、セラ嬢は涙を指先で拭い、少しだけ照れたように微笑んでから、近藤公爵とユフィ夫人のほうを振り返った。


『あのね、大人になったら総司さまと結婚するってお約束したんです』


はっきりと、けれど幼さの残る声音で告げられた言葉に、二人は思わず目を見開いた。
一瞬顔を見合わせるものの、そこに浮かんだのは驚きよりも、柔らかい表情だった。


「そうかそうか。どうやら子供たちは、我々より随分と先を見据えているらしいな」

「ふふ、本当に。セラはそれほど総司さんのことが大切なのね」

『はい。わたし、総司さまがだいすきです』


真っ直ぐな言葉に顔が少し熱くなるのを感じていると、母は二人の様子を窺うようにしてから、控えめに言葉を添えた。


「突然このような話をしてしまい、申し訳ありません。私も総司からその話を聞いた時は驚きました。セラさんのような素敵なお嬢様がお相手なんて恐れ多いことですわ」

「いやいや。総司殿のような立派な青年がお相手であれば、こちらとしても有り難い限りですぞ」


近藤公爵は僕とセラ嬢を交互に見つめてから、ゆっくりと口を開いた。


「今はまだ幼いが、こうして互いを想い合い、良い関係を築いていけるのであれば、それは何よりも尊いことでしょう。成長した先でもし二人の想いが変わらず同じであるならば、正式に婚約を結ぶという選択肢も決して悪くはありますまい」

「ええ。大切なのは、時間をかけて気持ちを育てていくことですもの。未来の可能性として、そうしたご縁が結ばれるならとても素敵なことだと思うの」

「ありがとうございます。そのようにお考えいただけるなんて、総司にとってもこれ以上ない光栄です。ただ……差し出がましいことを申し上げるようで申し訳ないのですが、少し事情をお話ししてもよろしいでしょうか?」


近藤公爵とユフィ夫人は、母の言葉に頷き、黙って耳を傾けてくれた。


「ヴェルメルでは、幼い頃に婚約を結ぶのが古くからの慣わしです。特に総司のように、家の名を背負う可能性のある子は、早くから縁を定めるのが当然だと考える者も多く、主人もその一人です。縁談は早ければ早いほど有利だ、時期を逃せばかえって立場が弱くなると……そう申しております」


その言葉に、胸の奥が少しざわついた。
僕が家の名を背負う可能性なんてないとわかっていたからこそ、母の言う嘘の言葉を聞いて、罪悪感から心が苦しくなっていくようだった。


「けれどそれがこの子にとっては、どうやら重荷になっているようで……今回、アストリアで療養させて頂いた理由の一つは、体調の優れない総司に立て続けに縁談の話が入ろうとしていたからなのです」


実際、僕には父が用意した縁談が沢山あった。
けれど未子で病弱な僕は、将来の見通しが立たないどころか、長く生きられるかもわからないと北部で噂されている。
このままでは剣すら満足に扱えないだろう、と。
ヴェルメル大公国の弱き星……生まれは高いが、本来期待された輝きを放てず、いずれ消えてしまうかもしれない存在。
そんな言葉を向けられる僕に、早い段階から将来を約束したいと思う相手なんて現れるはずがなかった。

だからこそ、母はセラ嬢に望みを託したのだと思う。
幼くてまっすぐで、彼女のご両親も僕の悪い噂を知らない。
優しいアストリアの人たちを騙しているみたいで、胸はどうしても痛んだ。

でも、僕はきっと変わってみせる。
僕を慕ってくれるセラ嬢を、いつか本当に幸せにしてあげられるように。
母様は最後に僕のほうへ視線を向けてから、再び近藤公爵へと向き直った。


「総司は誰かを大切に思う気持ちをきちんと理解してからでなければ、そのような話を受け止められない子です。だからこそ、この子が自ら選んだセラさんとのご縁を、母親として見守っていきたいと考えております。ですからもし可能であれば、正式な婚約に至らずとも構いません。せめて総司をセラさんの第一のご縁としてお考え頂ける、確かな約束を頂けませんでしょうか。そうすれば主人も、これ以上この子を急かすことはないと思うのです」


その声には、母としての切実な願いが込められていた。
暫くの沈黙の後、近藤公爵は深く頷いた。


「成る程。事情はよく分かりましたぞ。幼少期に婚約を定める慣わし……それほどの重圧の中に総司殿がおられたとは、我々も思い至らなかった」

「ええ。それはお身体にも心にも堪えますわね。アンナも総司さんも大変だったでしょう」


近藤公爵とユフィ夫人は互いに顔を見合わせ頷き合うと、改めて母へと向き直った。


「今すぐ正式な婚約を交わすことは出来ませんが、セラの将来の伴侶として、総司殿を第一の候補として考えることを我々夫妻としてお約束しましょう。なので娘に他の縁談を持ち込むことは決してしませんぞ。これからも二人が交流を続け、成長した先で想いが同じであるなら、その時は正式に婚約を結ぶことを検討させて頂きたい。その前提として、総司殿を最優先とする旨を大公閣下へ書簡にてお伝えするというような形で宜しいかな?」


その言葉を聞いて、母の表情がはっきりと和らいだ。
胸の奥にあった不安が、ようやくほどけたようだった。


「ありがとうございます。そのお言葉を頂けるなら、親としてこれ以上望むことはありませんわ」


近藤公爵は満足そうに頷くと、僕の方を見て穏やかに微笑んだ。


「でしたらまた是非、アストリアへいらしてください。ここはこれからも総司殿を迎える場所ですから」

「ええ。何度季節が変わっても、年月を重ねても、このご縁を大切に育てていきましょう」


ユフィ夫人がそう言ってセラ嬢の髪を優しく撫でると、彼女も嬉しそうに顔を綻ばせた。


『総司さま、これからも仲良くしてくださいね』

「こちらこそ。またアストリアに来るので、待ってて頂けますか?」

『はい。総司さまが来てくださる日を、今から楽しみに待っています。わたしも総司さまにお手紙を書きますね』


この場所でこの人たちと交わした言葉と想いを、いつか本物に出来るように。
僕でも彼女の隣に立てる未来を迎えられるように。
僕はこれから精一杯努力しよう。
そう静かに誓いながら、僕は陽だまりのような彼女の笑顔を心に刻んだ。

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