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総司さまと初めてお会いしたのは、冬の冷たい空気が庭園に吹き始め頃だった。

知らない方に会うというだけで胸がそわそわして不安を抱えていた私に、総司さまは優しく微笑んでくださった。
その笑顔を見た時、胸の奥があたたかくなったのを今でもよく覚えている。

総司さまは、私が大好きだった絵本の中の王子さまによく似ていた。
やわらかな色の髪と、穏やかな緑の瞳。
物語の中からそのまま歩いてきたみたいな、素敵な男の子だと思った。

けれどお母さまは教えてくれた。
総司さまは、生まれつきお身体があまり丈夫ではなく、ぜんそくという咳がたくさん出てしまうご病気をお持ちなのだと。

実際、アストリアにいらしたばかりの頃、総司さまは一日のほとんどをお部屋で過ごしていた。
私は何もできず、ただ心配することしかできなかった。
だから神様には何度もお願いをした。
どうか総司さまが元気になりますように、と。

春が少しずつ近づく頃、その願いが届いたのか、総司さまが寝込むことは少なくなっていった。
レッスンの合間に一緒に庭園をお散歩したり、芝生の上でお弁当を広げたり。
二人で過ごす時間が増えていくことが、私はとても嬉しかった。


「セラ嬢、ちょっと待って」


ある日、庭園で遊んでいると総司さまがそう声をかけてくる。
言われた通りに足を止めると、総司さまは私の前にしゃがみ込んだ。


「靴のベルトが外れてる。このまま走ると危ないよ」


そう言って私の靴に手を伸ばし、丁寧にベルトを直してくれる。
その横顔はとても優しくて、見ているだけで胸がドキドキした。


『ありがとうございます』


足元を見ると、靴はちゃんと元通りだったけど、泥が少しついてしまっていた。
レディは靴を汚してはいけないと、お父さまとお母さまに言われているのに、私ははしゃぎ過ぎてよくこうしてしまう。
総司さまの前で靴を汚してしまったことが恥ずかしくて、胸の奥がきゅっと縮こまった。
けれど総司さまは立ち上がらず、そのままポケットから白いハンカチを取り出す。
そして私の靴にそっと当てて、泥をやさしく拭き取ってくれた。


「はい。これでもう大丈夫だよ」


私の靴は、元のようにきれいになっていた。
でもその代わりに、総司さまの真っ白なハンカチには泥の跡が残っていた。


『ごめんなさい……。総司さまのハンカチを汚してしまいました……』


胸がいっぱいになって、後悔の気持ちが溢れてくる。
ちゃんと言いつけを守っていれば、こんなことにはならなかったのにと思った。
けれど総司さまはくすりと小さく笑って、穏やかな声で言ってくれた。


「気にしなくていいよ。昨日は雨だったからね。泥がつくのは仕方ないよ」

『でも……』

「ほら、行こう。今日はせっかくいいお天気だから、思い切り遊ばないとね」


とても優しい人だと思った。
靴を直してくれたことも、泥を拭いてくれたことも。
それ以上に、私が思い切り遊びたかった気持ちをちゃんとわかってくれているみたいで嬉しかった。


『総司さま、ありがとう』


差し出された手をそっと握ると、総司さまは柔らかく微笑んでくれる。
その顔をみると心がぽわっとあたたかくなって、知らなかった気持ちが胸の中でお花を咲かせたように明るく広がっていく気がしていた。



それに総司さまは、ただ優しいだけの人ではなかった。


「セラ嬢、そんなに身を乗り出したら危ないよ。もう少し離れて」


ある日噴水の中を覗き込んでいると、総司さまがそう言って、私の肩をそっと掴んだ。
その手つきはやさしかったけど、きちんと止めようとする力があった。

同じような注意を、前にお母さまからもされたことがある。
その時にお母さまが言っていた言葉を、私はふと思い出した。


「お母さまがあなたを注意するのはね、怒っているからではないの。あなたのことが大事で、心配だから注意するのよ」


総司さまもお母さまと同じ気持ちなのか気になった。
だから思わず後ろを振り返ると、彼は少しだけ眉を下げてやさしい声で言ってくれた。


「注意してごめんね。でも寒い日に噴水に落ちたらきっと凄く冷たいし、風邪を引いちゃうかもしれないでしょ?」


その言葉を聞いて、私ははっきりとわかった。
総司さまは私を大切に思ってくれているから、心配して注意してくれたのだって。

胸の奥がまたぽわっとあたたかくなる。
そして気づけば、前よりももっと総司さまが好きになっていた。
この人に心配をかけるようなことはしたくないと強く思った。


『ごめんなさい。これからは気をつけます』

「うん。あ、これ使って」


ふわりと首元にかけられたのは、総司さまがしていたマフラーだった。
柔らかな毛が私の首を包み込み、あたたかさが広がる。
総司さまはそれを見て、やわらかく微笑んだ。


「君がしてて」

『でも、総司さまが寒くなってしまいます』

「僕は大丈夫だよ。セラ嬢が風邪を引いちゃうのは嫌だからさ」


どうしてこんなに優しいんだろう。
私は総司さまに、何をしてあげられるのだろう。
嬉しい気持ちと、何も返せていないような心細さが混ざって、気づけば指先をもじもじと弄ってしまっていた。

そんな私の様子を見て、総司さまはくすりと笑う。
そして私の大好きな、あのやさしい笑顔を見せてくれた。


「僕、セラ嬢といると楽しいよ」

『本当ですか……?』

「うん。ずっとアストリアにいたいくらいだ」


私もずっと総司さまと一緒にいたいと思った。
もしさよならをしなければならない日が来たら……。
そう考えるだけで、悲しくて泣いてしまいそうになる。

お父さまやお母さまに抱く好きとはまた違う、総司さまにだけ向ける特別な好きという気持ち。
よくわからないけど、総司さまが私にとってとても大切な人だということだけは、はっきりと感じていた。


『ずっとアストリアにいてください。ヴェルメルに帰らないで』


思わずそう言ってしまった私を見て、総司さまは目を見開いた。
けれどすぐに眉を下げて、どこか淋しそうな笑顔を浮かべる。


「そうできたらいいな」


その笑顔がどうしてか胸に残った。
笑っているのに、少しだけ悲しそうに見えたから。

北部にあるヴェルメルは、アストリアからとても遠い場所だと聞いている。
それでも、総司さまがいるヴェルメルに私も行ってみたいと思ってしまった。



春の日差しが温かくなってきた頃、わたしの願いは叶わずに、総司さまがヴェルメルに戻ることになった。
総司さまはヴェルメルの大公子だから、出席しなければならない大切な催し物があるらしい。
そのことを知った夜、わたしはお父さまとお母さまの前で声をあげて泣いていた。


『……ひっ……う……ううっ……』


言葉にならない気持ちがあふれて、涙が止まらない。
お父さまとお母さまは何も言わず、ただ私の頭を撫で、抱きしめてくれていた。
困ったような、それでもやさしい顔で、「また会えるわ」と声をかけてくれる。


『次は……いつ会えるのですか……?』

「そうだな……。聞いてみなければ分からないことだが、また寒くなった頃、療養も兼ねて来てもらえば良いのではないか?」

「そうね。総司さんのお身体にとっても、それがいいと思うわ」

『それでしたら、もう春と夏はいりません。毎日冬がいいです……』


私は、春と夏が好きだった。
庭園が色とりどりの花で輝いて、とてもきれいだから。
でも総司さまがいないなら、どんなに花が咲いていても、わたしの心は淋しいまま。
たとえ空気が冷たくても、総司さまが隣にいてくれる冬のほうがずっとあたたかく感じられた。


「セラは総司さんのどんなところが好きなの?」


お母さまのやさしい指先が、私の頬をつたう涙を拭ってくれる。
三人で過ごす静かな部屋の中に、私が鼻をすする小さな音だけが響いていた。


『総司さまのやさしいところが好きです』

「そうなのね。どんなふうに優しいの?」

『どんなふうに……?』

「そうね。たとえば……沢山可愛いねって褒めてくれるとか、お菓子を沢山わけてくれるとか。あとはセラが少しやんちゃなことをしても、全部許してくれるとか」


お父さまとお母さまのやさしい眼差しに見守られながら、私はこれまでのことを思い出した。
総司さまのこと、一緒に過ごした時間、その中にあった沢山のやさしさ。
私はゆっくり考えながら、一つずつ言葉にしていった。


『可愛いって……言っていただいたことはないです』

「そうなの?」

『はい。でも新しい髪飾りをしたり、初めての髪型をした時、すぐに気付いて似合ってるねって言ってくださいます』

「ほう。総司殿はセラのことをよく見てくれているのだな」

「ふふ、そうね。女性は些細な変化に気付いてくれる男の人が好きだもの、総司さんはさすがね」


総司さまのことを褒めてもらえるのが嬉しくて、私は気づかないうちに少し笑顔になっていた。
そしてまた総司さまのことを思い浮かべて、二人に向かって口を開いた。


『それとお菓子ですが、わたしはいつも食べたいと思うものが沢山あって……』

「はははっ、確かにそうかもしれんな」

『総司さまはそれをわかっていらっしゃるみたいで、よく最初に今日はどれが食べたいのって聞いてくださるんです』

「まあ、取り分けてくださるの?」

『それもありますけど、食べ過ぎてお腹を壊したら大変だからって。だから沢山の種類を食べたいときは、僕と半分こして食べようねって言ってくださいます』


わたしの言葉を聞いて、顔を見合わせたお母さまとお父さま。
そして再びわたしを見つめると、さっきよりもっと優しい笑顔を浮かべていた。


「そうか。総司殿はやはりしっかりしていて、思いやりのある立派な青年だな」

「ええ、本当に。セラの身体のことまで気にかけてくれるなんて、なんて素晴らしい方でしょう。他にはどんなところが優しいの?」

『あとは……お靴の泥を拭いてくださったこともありました。それにこの前は、わたしが噴水を覗き込んでいたのです。そうしたら、もう少し離れないと危ないよって教えてくださって……』


あの時のことを思い出す。
真剣な声だったけど、その声も総司さまの瞳もとてもやさしかった。


『わたしが噴水に落ちたら冷たいし、風邪を引いてしまうかもしれないからって心配もしてくださいました。あと、首に総司さまがしていたマフラーも巻いてくださったんです』


総司さまのやさしさを思い出すたび、胸の奥があたたかくなる。
話し始めると次から次へと思い出が浮かんできて、私は一生懸命言葉をつないでいた。
少しでも、総司さまのことを伝えたくて。
お母さまとお父さまは途中で口を挟むことなく、静かに私の話を聞いてくれていた。


「話してくれてありがとう。セラが総司さんを好きな理由、よくわかったわ」


お母さまはそう言って、私の頭をそっと撫でる。
その手はとてもあたたかくて、また涙がこぼれそうになった。


「大切な人と離れるのはつらいものだ。セラがそう思うのはちっとも悪いことではないぞ」

『……でも、とても淋しいです』

「ええ、淋しいわね。でもね、それほど大切に思える人に出会えたことはとても幸せなことよ」


お父さまも静かに頷いた。


「総司殿なら、きっとまたセラに会いに来てくださるだろう」

『……本当ですか?』

「ああ。彼はとても思いやりのある青年だ。縁を大切にしないはずがない」

「それにね、想っている気持ちは離れていても消えないわ。お手紙だって書けるでしょう?」

『お手紙?』

「そうよ。総司さんにお手紙を出したらきっと喜んでくださるわ」


その言葉を聞いて、胸の奥に小さな光がともる。
離れてしまっても、できることがあるのだと初めて気づいた。


『わたし、総司さまにお手紙を書きたいです』

「うむ。それはきっと、総司殿の力にもなるだろう」


私はこくんと頷いた。
涙はまだ止まらなかったけど、心の中は少しだけ前よりも明るくなっていた。

総司さまは、遠くのヴェルメルへ行ってしまう。
それでも、また会える日が来ると信じていた。
そして、それまでの間も総司さまのことを大切に想い続けるのだと強く思う。
春の夜の静かな部屋で、私は胸の中に総司さまへの想いをそっと抱きしめていた。


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