4

数ヶ月ぶりにヴェルメルの屋敷へ戻った僕を迎えたのは、以前と同じ冷たい空気だった。
廊下を歩けば、使用人達は一瞬だけ視線を向け、すぐに逸らす。
兄姉達のいる場所では、僕は空気のように扱われるか、馬鹿にされるかのどちらかだった。

けれど父は、アストリアから届いた書簡を読み、ひとまずは納得したらしい。
正式な婚約はなるべく早く整えろと言われたけど、以前のように僕の知らないところで縁談が次々と持ち込まれることはなくなった。

そんな中、アストリアでの療養のお陰で僕の身体は少しずつ健康を取り戻していった。
胸の奥にまとわりついていた重苦しさは薄れ、深く息を吸っても咳き込むことはない。
僕はより強い身体になるために、アストリアの騎士団で教えてもらったことを思い出して、自分の身体を鍛えることに専念した。

中庭を走るだけでは足りない。
時間が出来れば自室で腹筋や腕立て伏せを繰り返したり、壁に背を預けて脚を鍛え、重たいものを持ち上げては下ろす動作を何度も続けた。
手のひらには豆ができ、腕は鉛のように重くなったけど、筋肉が少しずつ硬くなっていく感覚がある。
身体が言うことを聞く時間も少しずつ長くなり、確実に体力がついた証のように思えた。

また、剣術の稽古にも以前より多く参加できるようになった。
倒れて運ばれることも、長く寝込むこともなくなり、稽古場に立ち続けられるようになった僕の変化は、兄達の目には不愉快に映ったのだろう。
ある日の午後、石畳の稽古場で僕が一人木剣を振っていると、その背後からは聞き慣れた嘲る声が落ちてきた。


「まだそんなことをしているのか?」


振り返ると、兄達が腕を組んで立っていた。


「最近は随分と元気そうじゃないか」

「だけどその剣の振り方じゃ、相手を笑わせるだけだけだな」


馬鹿にしたいならすればいい。
でも努力は必ず実を結ぶ筈だと、僕は剣を下ろさなかった。


「おい、聞いてるのか?」

「はい、聞いています。ですが、まだ稽古の途中ですので」


短く答えると、兄はつまらなさそうに笑った。


「そんなに稽古をしたいなら、勝負しようか」


そう言いながら、一番上の兄が近くの木剣を掴む。
稽古という名目で僕が一方的に殴られるのは今に始まったことではなく、僕の身体の至る所には痣や切り傷があった。


「稽古してる意味があるのか試してやるよ」


次の瞬間、兄の剣が容赦なく振り下ろされた。
受け止めようとした腕が弾かれ、衝撃が肩から背中へと走ると、足元が揺れて石畳に倒れ込んだ。


「ほらな。結局お前は頑張ったって無駄なんだよ」

「貧弱なのは相変わらずだな」

「はっ、もう立てないのか?」


笑い声が重なり、悔しさから息が詰まる。
それでも僕は、歯を食いしばって立ち上がった。


「……立てます」


兄は少しだけ眉をひそめ、再び剣を構える。
次の一撃は、より鋭くより強かった。
僕は剣を合わせながら、必死に目を凝らした。
兄の肩の動き、踏み込む足の癖、剣を振る前に生じるほんの一瞬の間。
別の兄も加わり、複数の剣が左右から攻め立ててくる。
何度も弾かれ何度も倒されても、僕は決して目を逸らさなかった。
いつかこいつらに勝って、僕が一番強いと証明したかったからだ。


「無駄にしぶといな」

「弱い奴とやり合ったって退屈だ。もう行こうぜ」


何度倒されても立ち上がり、剣を受けることを諦めないでいると、やがて兄達は興味を失い剣を下ろす。
去って行く後ろ姿を見送りながら、僕は木剣に縋るようにして立ち上がった。
全身を思い切り打たれた身体は、痛みで悲鳴を上げている。
でも心が不思議と穏やかだったのは、アストリアで出会ったセラ嬢の姿が浮かんだからだった。

僕は彼女に見合う男になりたい。
弱く憐れまれるだけの存在ではなく、隣に立てる存在に。
そのためなら、どれだけ痛くてもどれだけ苦しくても構わない。
その気持ちがある限り、僕はどんな努力でも出来る気がした。

それにヴェルメルでの毎日を送る僕にも、今は一つだけ楽しみがあった。
それは、セラ嬢との手紙のやりとり。
まだ少しおぼつかない字で一生懸命に書かれた彼女からの手紙は、どんなに疲れていても僕の心を癒し温かくしてくれた。


――


親愛なる総司さま

こんにちは。
お手紙、どうもありがとうございます。

総司さまからのお手紙が届くのがとても楽しみで、毎日城内の伝令役の方が来るお時間になると、わたしはつい回廊の窓辺で待ってしまいます。
今日いただいたお手紙を読んで、総司さまが毎日体づくりや剣術のおけいこをがんばっていると知りました。
それを思ったら、わたしももっとがんばらないといけないと思いました。
次にお会いする日までに、少しでも成長していたいです。

舞踏会のお話、とても素敵だなと思いました。
本で読んだことしか知らないのですが、広い広間に音楽が流れて、皆さまがきれいなお洋服を着ていらっしゃるのですよね。
総司さまのお姿を思い浮かべて、きっととても立派で素敵だったのだろうなと考えてしまいます。
わたしも早く大人になって総司さまと一緒にワルツを踊りたいです。
まだ習ってはいませんが、今から楽しみでなりません。

それからオルゴール、とてもきれいな音でした。
鳴らすと星が空からこぼれてくるみたいで、心が落ち着きます。
総司さまが選んでくださったのだと思うと、余計に特別な音に聞こえます。
素敵な贈り物、ありがとうございました。

そのお礼に、わたしからも贈り物をしたいと思います。
前にアストリアで総司さまがわたしの靴の泥を拭いてくださったとき、ハンカチが汚れてしまいましたよね。
そのことが、ずっと心に残っていました。
刺繍はまだ始めたばかりですが、ハンカチの端に小さな星をひとつ刺繍してみました。
上手ではないかもしれませんが、心をこめて作りましたので、受け取っていただけたら嬉しいです。

総司さまに大切なご報告があります。
わたしはついに、木登りを卒業することに決めました。
素敵なご令嬢は、きっと木に登ったりはしないと思ったからです。
高いところから庭園を見られないのは少しさびしい気もしますけれど、総司さまも努力されていると考えれば、わたしもこれくらいの我慢はできます。

それから、この前はクッキーを上手に作ることができました。
本当はひとつ前のお手紙で書きたかったのですが、あの日は焼いている間にうっかり眠ってしまいました。
目を覚ましたときには、クッキーは真っ黒になっていて、とても総司さまにお知らせできるようなクッキーではありませんでした。
でも、今回はとてもおいしく焼けたのです。
総司さまが今度アストリアにいらしたとき、食べてもらえたらうれしいです。
そのために、これから毎日クッキーを作る練習をしようと思います。

総司さま、ヴェルメルは寒くありませんか?
お風邪を引かれないよう、あたたかくして過ごしてくださいね。
どうかお身体に気をつけて、元気でいらしてください。
総司さまにお話ししたいことがたくさんあるので、今からその日が待ち遠しくてたまりません。

一つ、総司さまにおうかがいしたいことがあります。
総司さまはどんな女の子が好きですか?
教えていただけたら嬉しいです。

セラより


――


手紙を読み終えたあと、心に熱が広がっていく感覚がした。
窓辺でセラ嬢が手紙を待っている姿を思い浮かべてしまったからだ。
小さな手を胸の前で組み、遠くを見つめながら伝令の足音に耳を澄ませている……そんな光景がまるで本当に見たかのように想像出来てしまうんだから不思議だ。

木登りを卒業する、と書かれた一文に思わず苦笑が漏れた。
あの無邪気な彼女が、少し淋しい思いをしながらも、僕が頑張っているからと自分を律している。
それが言いようもなく、愛おしく感じられた。

クッキーの話では、自然と口元が緩み笑ってしまった。
真っ黒に焦げたお菓子を前に、きっと困った顔をしていたんだろう。
それでも諦めずにもう一度挑戦して、今度はとてもおいしく焼けたと胸を張る彼女の姿が目に浮かぶ。


「総司さまも努力されていると考えれば、わたしもこれくらいの我慢はできます……か」


その一文が、特に嬉しかった。
なぜって、僕も手紙を読む度、同じことを考えていたから。

剣に打ちのめされ、兄達に笑われ、倒れては立ち上がる日々を送っている僕だけど、そのすべてがセラ嬢の言葉ひとつで意味を持ち始める。
遠く離れていても同じ時間を生きようとしてくれているあの子のために、僕も負けられないと思った。

そして何より、このハンカチ。
セラ嬢が自らの手で刺繍してくれた、世界で一つだけの贈り物。
広げてみると、端に一つ水色の小さな星が輝いていた。
あの小さな指先で頑張って刺してくれたと思えば、このハンカチがより愛おしいものに感じられた。


「返事を書こうかな」


セラ嬢の手紙を大切に畳み、僕は机の中から真っ白な便箋を取り出す。
いまだに手紙を書くのは慣れないけど、僕にとってこの時間は何よりも大切な時間だった。


――


親愛なるセラ嬢

こんにちは。
お手紙をありがとう。

こちらこそ、セラ嬢からのお手紙は毎日とても楽しみにしています。
遠いので届くまでに時間がかかってしまいますが、いつも手紙を読んだらすぐに返事を書いています。
いただいたハンカチも本当に嬉しかったです。
星の刺繍も、とっても上手だったよ。
セラ嬢が一針ずつ心を込めて作ってくれたので、大切な宝物になりました。
これからずっと僕のそばに置いておくね。

木登りを卒業したと書いてあって、少し驚きました。
僕は木登りは悪いことだとは思わないけど、セラ嬢が自分で考えて決めたことなら、僕は応援したいと思います。
少し淋しい気持ちも、きっと大切な気持ちなんだと思うよ。

それに、クッキーを作れるなんて本当にすごいね。
前は失敗してしまったって書いてあったけど、諦めずにもう一度作ったところがセラ嬢らしいなと思いました。
次にアストリアに行けたとき、セラ嬢のクッキーを食べられるのを楽しみにしています。
毎日作るのも楽しいと思うけど、食べ過ぎてお腹をこわさないように気をつけてね。

僕はヴェルメルで、元気に過ごしています。
毎日兄上達に稽古をつけてもらいながら、成長出来ることに喜びを感じて


――


ここまで書き進めて、僕は思わず手を止める。
兄上達に稽古なんてしてもらっていないのに、嘘を書くことが嫌だった。
でも、すべてをありのまま書いてしまうこともできない。
この手紙は、セラ嬢を心配させるためのものじゃないからだ。

それでも、少しでもあの子の考えを知りたかった。
僕は静かに最後の一文を消し、深く息を吸ってから、もう一度文字を書き始めた。


――


僕はヴェルメルで、毎日元気に過ごしています。
でも、最近ひとつだけ悩んでいることがあります。
それは僕の友人の話です。

その友人は、稽古という理由で兄達から木剣で一方的に叩かれていると言っていました。
身体を見せてもらったら、腕や背中にたくさんの痣があって、とても心配になりました。
どうにかしてやめさせたいと思っているけど、僕には口出しできません。
僕以外には相談することもできない、と友人は言っていました。

セラ嬢なら、もし誰かにいじめられたらどうしますか。
その相手が自分よりずっと強い人だったら、どうすればいいと思いますか。
暗い話をしてしまって、ごめんなさい。
でもその友人は自分が弱いせいだと悩んでいるので、セラ嬢の考えを聞かせてもらえたら嬉しいです。

それと手紙に書いてあった好きな女の子のことだけど、僕は優しい女の子が好きだと思います。
セラ嬢のように、話していると心が落ち着いて、一緒にいると穏やかな気持ちになれる子です。
セラ嬢はどんな男の人が好きですか?

もうすぐ春が終わって、夏が来ますね。
ヴェルメルの夏は涼しいけど、アストリアの夏はどんな感じなんだろうと、よく考えています。
また寒くなった頃に、セラ嬢に会えるのを楽しみにしています。

どうか、元気でいてください。

総司


――


書き終えると、僕はほっと息を吐いた。
友人の話に置き換えはしたけど、誰かに悩みを打ち明けたのは初めてだったから、胸の奥に溜まっていたものがわずかに軽くなった気がした。

セラ嬢は、どんな返事をくれるだろう。
そう思った途端、じっとしていられなくなった。

僕は手紙を丁寧に折り、封筒に収めて封蝋を押すと、部屋を飛び出す。
石造りの回廊を駆け抜け、書簡を預かる執務室へ向かった。


「アストリア宛の私信です。次の定期便にのせてください」

「確かにお預かりいたします」


書記官はそう言うと、僕からそっと手紙を受け取る。
僕が再び中庭へ出ると、夕暮れの空が淡く染まっていた。
遠いアストリアを思い浮かべながら、僕は今日もセラ嬢のことを考える。
いつか来るだろうあの子と過ごす未来を想像すると、明日からの日々もまた頑張ろうと思うことができた。


- 459 -

*前次#


ページ:

トップページへ