5
セラ嬢に手紙を出してから、日々が静かに流れていった。
僕は以前と変わらず、屋敷の裏庭で剣を振り、体を鍛える毎日を送っていた。
兄姉達からの嫌がらせも相変わらず続いていて、廊下でのすれ違いざまに突き飛ばされたり、食堂では僕の皿だけが乱暴に扱われる。
使用人の前では決して表立ってはしないけど、視線や仕草には隠す気もない嘲りが滲んでいた。
でも僕が顔色ひとつ変えずにやり過ごすものだから、あの人たちはそれが気に入らないらしい。
まるで僕の反応を引き出すこと自体が目的みたいだった。
だからこそ、僕はそれに一切反応しなかった。
殴られても、蹴られても、食事を台無しにされても、僕は歯を食いしばって耐えた。
泣いたり怒ったりしたら、負けだと思っていたから。
けれど、そんなある日のことだった。
午後になって、僕は一通の手紙を受け取った。
封蝋に見覚えのある紋章を見つけて、胸の奥が反応する。
それは待ちに待ったセラ嬢からの手紙だった。
思わず周囲を見回し、急いでそれを受け取ると、僕は自室へ戻ろうと足を速めた。
誰にも見られず、誰にも邪魔されずに読みたかった。
セラ嬢が何を書いてくれたのかを想像すると、心臓が速くなって楽しみで待ち遠しくてしかたない。
でも自室まであと少しというところで、背後からいきなり腕を掴まれた。
「そんなに急いで、どこへ行くんだ?」
振り返ると、そこにいたのは兄三人と姉が一人。
いつもの顔ぶれだった。
「放してください」
僕がそう言うと、長兄が手紙に目を留め、口の端を歪めた。
「なんだこれ?」
その声が耳に届いた時には、胸に抱えていたはずの手紙が乱暴に引き剥がされていた。
「返して!」
思わず声が強くなる。
それを聞いて、兄たちは顔を見合わせ楽しそうに笑った。
「そんなに大事なものか?」
「もしかして、ようやく決まりそうな婚約者からだったりして」
姉がひょいと手紙をつまみ上げ、乱暴な仕草でくるりと回す。
僕が取り戻そうと手を伸ばすと、別の兄に突き飛ばされ、背中を壁に打ちつけた。
肺から空気が抜ける感覚がして、酷く息が詰まって咳き込んでしまった。
「読む前に、ちょっと遊ぼうか」
兄の一人が封を無理やり破いた瞬間、紙が裂ける乾いた音が廊下に響いた。
その音を聞いた途端、胸の奥が強く締めつけられ、心臓が嫌な音を立てた。
やめてほしい。
それだけは奪わないでほしい。
僕にとって何よりも大切なものなのに。
「えっと、なんで書いてあるんだ?」
兄は楽しそうに笑いながら、紙を乱暴に広げ、文字の上を指でなぞった。
そこに並んでいるのは、セラ嬢が一生懸命に書いてくれたやさしい筆跡。
端は破れ紙も歪んでしまっているのに、それ以上に耐えがたかったのは、彼女の言葉をこの人たちに勝手に読まれることだった。
「親愛なる総司さま、だってさ。はははっ、お前なんかに手紙を書く物好きが本当にいるんだな」
「なあに、この字。ずいぶん下手ね。出来の悪い弟には、出来の悪い相手がお似合いってことかしら」
「東の公国のご令嬢だったよな。どうせ大したことない娘なんだろう。お前を受け入れるくらいだ」
セラ嬢のことを何も知らないくせに、兄姉達はまるで見てきたかのように好き勝手なことを言い合って笑った。
僕は唇を噛みしめ、俯いたまま耐えようとした。
これまでも僕自身がどんなふうに言われても、黙っていれば済んできたから。
でも胸の奥に積もっていく怒りは、少しずつ限界に近づいていた。
だって、何も知らないのに。
セラ嬢が、どんな人かも知らないのに。
気づいたときには、僕は怒りを抑えきれず、兄姉達をまっすぐに睨みつけてしまっていた。
「……なんだ?その生意気な目」
低い声でそう言った一番上の兄は、手にしていた手紙を強く掴み直した。
そして何のためらいもなく、びり、と音を立てて紙を引き裂く。
一度では足りないとでも言うように、もう一度、さらにもう一度。
セラ嬢の文字は、ばらばらに破られて床へと落ちていった。
床に散らばった紙切れを見下ろしたまま、僕はしばらく動けずにいた。
セラ嬢の文字だったものが、もう言葉の形を保っていない。
それを理解した時には、胸の奥に溜め込んでいたものが音もなく溢れ出し、考えるより先に体が動いていた。
僕は破れた手紙を踏みつけている兄へと駆け寄り、掴みかかるようにして腕を伸ばした。
「返せ……!」
声は震えていたけど、止めることはできなかった。
兄は驚いたように目を見開いたあと、すぐに顔を歪めて笑った。
「生意気だな」
突き飛ばされそうになった時、それを躱して必死にしがみつき、僕は夢中で手を伸ばした。
その拍子に指先が兄の頬を掠め、白い肌に赤い線が浮かび上がっていくのがはっきりと見えた。
「……っ!」
短い叫び声とともに、兄が顔を押さえる。
「この……!」
僕は強く殴られ、気付いた時には床に叩きつけられていた。
息が詰まり視界が揺れて、背中に走った痛みからしばらく立ち上がることもできなかった。
「調子に乗るなって言ってるだろ」
長兄の声は低く、冷たかった。
姉は少し離れた場所で腕を組み、呆れたようにため息をついている。
「自分の立場も分からないなんて、本当に出来の悪い子ね」
兄たちはそれ以上何も言わず、傷のついた頬を気にしながら、廊下の奥へと去っていった。
その背中を、僕は床に座り込んだまま見送ることしかできなかった。
やがて足音が遠ざかり、廊下に静けさが戻る。
僕はゆっくりと起き上がり、散らばった紙切れを一つずつ拾い集めた。
ばらばら破れて、もう元の綺麗な状態には戻らない。
それでもセラ嬢が僕に向けて書いてくれたものだと思うと、諦めることなんて出来なかった。
自室に戻ると、僕は扉を閉め、机の上に拾い集めた紙切れをそっと並べた。
セラ嬢の手紙だったものは、どれも端が裂けて形も揃っていない。
でも文字の形を頼りに、壊れた絵を元に戻すように並べ直し、合うところだけを書き物に使っていたアラビアゴムの糊で留めた。
やがて破れた跡は残りながらも、一通の手紙の形が戻ってくる。
僕はそれに小さな重しを置き、しばらく待ってからそっと目を落とした。
「……良かった。なんとか読めそうだ」
裂けた文字の間から、セラ嬢の声が聞こえてくる気がする。
そこに込められた優しさは、失われていなかった。
――
親愛なる 総司さま
こんにちは。
お手紙をありがとうございました。
総司さまがヴェルメルで元気に過ごしていると知って、安心しました。
でも、お友だちのお話はとても心配になりました。
体にあざがたくさんあると聞いて、きっと痛かっただろうなと考えました。
もしわたしがそのお友だちだったら、理由もわからないまま、毎日つらい思いをするのはとても悲しいと思います。
そしてそれを誰にも言えないのは、もっと淋しいと思いました。
もしわたしが誰かにいじめられて、しかもその人がとても強かったら、わたしは信じられる人にお話しすると思います。
ひとりでがまんしなくていいと、わたしは思います。
お話しするだけで心が少し楽になることもあると、前にお母さまもおっしゃっていました。
だから総司さまがそのお友だちの話を聞いてさしあげることも、きっと大きな力になっていると思います。
でもひとつだけ、わたしが思ったことがあります。
それはそのお友だちは、弱くないということです。
だって、つらいことがあっても、毎日をちゃんと立派に頑張っているからです。
それはとても強いことだと、わたしは思います。
強さは剣が上手だったり誰かに勝てることだけではないぞと、前にお父さまが教えてくださいました。
だからいじめてくる人たちより、そのお友だちの方がずっと強い人だと思います。
だからそのお友だちには、自信を持ってほしいです。
どうかそのお友だちが、これ以上悲しくなりませんように。
わたしも一緒にお祈りします。
遠くからでもお祈りは届くと、わたしは信じています。
それから、総司さまのことも気になりました。
ヴェルメルで毎日笑顔で過ごせていますか?
困ったことはありませんか?
もしあったら教えてください。
わたしはいつでも総司さまの味方です。
好きな女の子のお話も、うれしかったです。
やさしい女の子が好きだと書いてあって、心が温かくなりました。
わたしは強くてえらい人よりも、やさしい男の人が好きです。
誰かのことを大切に思える人がいいです。
総司さまはそういう方だと、わたしは思っています。
だから少し落ち込んでしまった日は、総司さまの笑顔を思い出すと元気になれます。
わたしも総司さまが悲しい気持ちでいる時は、はげましてあげられるような女の子でいたいです。
もうすぐ季節が変わりますね。
わたしは春と夏が好きでした。
でも、今は冬が一番楽しみです。
総司さまに会えるからです。
どうかお身体を大切にしてください。
またお手紙を書きますね。
セラ
――
最後まで読み終えると、胸の奥が温かくなっているのに気づいた。
傷つけられて破られても、この手紙はちゃんと僕のところに届いている。
そして縮んでしまった僕の心を勇気づけてくれていた。
セラ嬢は知らない、友人の話が僕自身のことだって。
それでも彼女からの言葉は、僕の心にある傷を静かに掬い上げるようなものばかりだった。
弱くない、強い……そう書かれている文字を見つめながら、喉の奥が詰まるのを感じた。
男が泣くなんてだめだ。
強くならないといけない。
そう思って、これまで何度も歯を食いしばってきた。
殴られても、馬鹿にされても、必死に耐えてきた。
剣を振れば嫌なことは忘れられたし、我慢していればいつか終わると信じてきたから。
でもセラ嬢は一人で我慢しなくていいと言ってくれている。
味方だと言ってくれるその一言が、どうしようもなくあたたかくて。
その言葉を見た時、胸の奥で張りつめていたものが、静かに音を立ててほどけていくのを感じた。
文字が滲んで見えなくなり、慌てて目をこすったけど涙は止まらなかった。
机の上に置いた手紙に、ぽたりと雫が落ちた。
紙を濡らしてしまったことに気づき、袖で目元を拭ったけど、もう遅かった。
「……ぅっ……」
誰も見ていないこの部屋で、セラ嬢の言葉に包まれながら、僕は小さく息を漏らした。
声を上げないように肩を震わせながら、もう涙は止まらなかった。
やさしい男の人が好きだと書かれたところを、もう一度読む。
誰かを大切に思える人がいいと書かれたその言葉を見て、剣や身体だけではなく、こういう強さも持てるようになりたいと思った。
それに僕も同じだ。
辛いことがあった日は、セラ嬢の笑顔を思い出すと元気になれる。
それは自分だけだと思っていたから、彼女も僕と同じ気持ちでいてくれていると知って、言葉にできないくらい嬉しかった。
泣き終わるまで、少しだけ時間がかかった。
でも涙が止まったあと、胸の奥には確かな温かさが残っていた。
遠く離れた場所にいるセラ嬢が、僕のことを大切に思ってくれている。
その事実が僕にとって何よりの支えだった。
手紙を大切に畳み引き出しの奥にしまう。
そして僕は静かに息を整えながら心の中で誓った。
僕は絶対にセラ嬢を大切にしよう。
どんなことがあっても一番の味方になって、あの子を悲しませるものがあるなら、僕が前に立って護れるようになりたい。
だから、明日からも努力しよう。
剣を振り、心を鍛え、逃げずに立っていられるように。
それが今の僕にとって生きる理由であり希望なのだと、はっきりと感じていた。
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