2

昨日、総司さまがヴェルメルへと戻って行かれた。
総司さまがいない朝は、たとえ太陽がきらきらしていても、どうしてか少しもきれいに見えなかった。
窓の外はいつもと同じなのに、胸の中だけがぽっかりと空いてしまったみたいだった。

レッスンを終えて庭園へ向かうと、気づけばいつも総司さまと一緒に歩いた小道で立ち止まってしまうわたしがいる。
でもいくら待っていても、総司さまはもう来てくださらない。
わかっているのに、どこかから現れてくれる気がして、少しだけその場を動けずにいた。
胸がぎゅっと苦しくなって、目の奥がつんとしてきたその時、わたしの肩にあたたかいものがそっと触れた。


「レッスン、終わったのか?」


振り返るとはじめがいた。
はじめもあと数日で、レーヴェルン公国に帰ると聞いている。
でもレーヴェルンは同じ東部にある公国だから、いつでも会いに行ける距離。
総司さまも東部に住んでくださっていたら良かったのにと、どうしても考えてしまう。


『うん、終わったよ。はじめは?』

「俺も稽古をつけてもらったところだ」

『そうなんだ、お疲れさま』


頑張って笑ってみたけど、すぐに気持ちは落ち込んでしまう。
そんなわたしを見て、はじめは僅かに眉を下げた。


「元気がないな」

『うん……。総司さまが昨日、ヴェルメルに戻られたから……』

「悲しいのか?」

『とっても悲しいよ。ヴェルメルは……遠いもん』


総司さまは、馬車でひと月近くかかったと言っていた。
そんなに遠い場所に行ってしまったのだと思うと、胸がまた痛くなる。

本当は、わたしもヴェルメルに行きたい。
でも何か月もレッスンを休めないことは、わたしでもわかっていた。
だからその気持ちは胸の奥にしまっていた。


「……そうか。確かにヴェルメルまでは距離があるからな。すぐに会えないと思うと……残念だ」

『うん……。もう少し近かったら良かったんだけどな』


早く冬が来ればいい。
そうすれば、また総司さまがアストリアに来てくださる。
次の冬になったら、また総司さまにお会いできるよね?


「珍しいな。セラがそこまで落ち込むところは初めて見た」

『そうかな?』

「ああ。いつもは落ち込んだとしても、数秒後にはまた元気になっているだろう」

『もう、そんなことはないよ?でも……今回はとても悲しくて……』

「何故、そこまで悲しいのだ?」

『それは……総司さまが特別だから?』


自然と出た言葉を聞いて、はじめはその目を見開く。
その反応を見てわたしが首を傾げると、藍色の瞳が逸らされた。


「だが……総司は身体が弱いと聞いた」

『うん。ぜんそくがあるから、そのことも心配なの』

「心配だから気になるのか?」

『ううん。気になるのは、総司さまのことが好きだからだよ』


はじめはまた目を見開く。
だからわたしも再び首を傾げてしまったけど、しばらくしてからはじめは言った。


「セラは……その……」

『うん?』

「……いや、なんでもない」


はじめはその時からあまり喋らなくなってしまった。
それから数日経って、レーヴェルン公国へと帰って行ったけど、はじめもきっと総司さまがいなくて淋しかったんだろう。
帰る時まで、あまり元気がないように感じた。


そして、それから数週間が過ぎた。
そろそろ総司さまからのお手紙が届く頃かもしれない。
そう思うだけで胸の奥がそわそわして、落ち着かない時間が増えていった。

公爵邸の回廊は、朝になるとやわらかな光が差し込む。
その窓辺に立ってわたしは何度も外を眺めるようになった。

今日は来るかな。
今日はまだかな。
そんなふうに考えている自分に気づくたび少し恥ずかしくなるけど、それでもやっぱり期待してしまう。

それを一週間ほど繰り返した、ある日のことだった。
伝令役の方が差し出してくれた封筒には、見慣れない紋章の蝋印が押されている。
手に取った瞬間、胸が小さく跳ねた。
差出人の名前を見れば、そこには何度も思い浮かべていた総司さまのお名前があった。


『お父さま、お母さま……っ、総司さまから、お手紙が届きました……!』


少し震えた声になってしまったけど、それでもちゃんと伝えられたと思う。
二人は一瞬目を見合わせてから、やわらかく微笑んでくれた。


「まあ、それは良かったわね」

「なんて書いてあるのか楽しみだな。読んでみようじゃないか」

『これは総司さまがわたしにくださったお手紙ですから……中は内緒です』

「……ん?そうなのか?」

「ふふ、それならゆっくりお部屋で読んでいらっしゃい」


お母さまの言葉にわたしは小さく頷いて、封筒を大切に抱えたまま自室へと向かう。
扉を閉めてベッドに腰を下ろすと、胸がいっぱいで少しだけ苦しい。
でも早く読みたくて我慢できなくて、指先で封筒をなぞってから、慎重に開いていった。


――


親愛なる セラ嬢

こんにちは。
僕は今日、ヴェルメルに戻ってきました。
もう夜も遅いですが、屋敷に帰ってすぐ、セラ嬢に手紙を書いています。
体調は落ち着いているし、咳も今のところ出ていないよ。
セラ嬢が心配していないといいなと思って、まずそのことを書きました。

アストリアを出る前、セラ嬢が少し淋しそうにしていた顔が、まだ頭から離れません。
だから馬車の中でも、セラ嬢のことばかり考えていました。
毎日、本当に楽しかったよね。
僕はヴェルメルでも、セラ嬢と過ごした時のことを何度も思い出すと思うよ。

ヴェルメルは、アストリアよりずっと寒いです。
五月なのに息が白くなるし、庭に出ると冷たい風が頬に当たります。
でもそのかわり北部にしかない植物がたくさんあって、この前セラ嬢に話した栞の話を思い出しました。

同封した栞は、北部のスノウリリアから作られたものです。
雪が降るころにだけ咲く小さな植物で、乾かすと甘くてやさしい香りが残ります。
前にセラ嬢が、本を読んでいる時間が好きだと言っていたことを思い出して、これならセラ嬢に喜んでもらえるかなと思いました。
使ってもらえたら嬉しいです。

こちらでは、夜になると星がとても近く見えます。
その星を見ながら、セラ嬢も今ごろ本を読んでいるのかな、それとももう眠っているのかな、と考えています。

またお手紙を書きます。
セラ嬢も、どうかお元気でいてください。
あたたかくなっても、噴水にはあまり近づきすぎないようにね。
君が毎日笑顔で過ごしてくれることを願っています。

総司


――


手紙を読み終えると、心の中があたたかくなっていることに気づいた。
同封されていた包みを開くと、薄くて小さな栞が出てくる。
淡い色をしていて、鼻を近づけるとふわりとやさしい香りがした。
冷たい空気の中で咲くお花なのに、その香りはあたたかくて不思議だった。


『……スノウリリア』


総司さまが前に教えてくれた。
北部では本を大切にする人が、このお花で栞を作るのだと。
本を開くたびに香りがして、読んでいる時間がもっと好きになるのだと。

わたしはその話を聞いて、その香りを想像しながら、使ってみたいと話していた。
それをちゃんと覚えていてくれたことが、嬉しかった。
わたしが本を読むのが好きなことも、どんな話をしたかも、全部総司さまは忘れずにいてくれた。

胸がきゅっとなって、思わず栞を両手で包む。
するとさっきよりも少しだけ香りが強くなった気がした。


『……総司さま』


部屋の中は静かなのに、名前を呼ぶだけで心の中が忙しくなる。
遠くにいても総司さまと繋がっているみたいで、少しだけ淋しさがやわらいだ。

わたしは本棚に並んだ中から、一番好きなお話の本を選ぶ。
総司さまとした結婚式のシーンが載っているお話。
その本をそっと開いて栞を挟むと、ページの間からやさしい香りが立ちのぼった。


『総司さま、ありがとうございます』


言わずにはいられなくて、小さくそう呟いた。
この栞のおかげで、本を読む時間がいつもより特別になる気がする。

きっと今ごろ、総司さまもヴェルメルの空を見上げている。
寒い風の中で、ちゃんとあたたかくしているかな?
体調は悪くなってないかな?
心配と一緒に、会いたい気持ちがまた膨らむ。
でも手紙があれば、総司さまとお話しできているみたいで嬉しかった。

わたしは机に向かい、便箋を取り出した。
総司さまにお返事を書こうと思ったから。
栞から漂う香りを感じながら、ペンを握る。
胸の中のあたたかさを、そのまま言葉にできたらいいなと思わずにはいられなかった。


――


親愛なる 総司さま

こんにちは。
お手紙、ありがとうございます。
封筒に書かれた総司さまのお名前を見つけたとき、嬉しくて胸がいっぱいになりました。
すぐにお部屋に戻って、落ち着いてから読もうと思ったのに、我慢できずにすぐに開いてしまいました。

ヴェルメルに無事にお着きになったと書かれていて、ほっとしました。
咳も出ていなくて本当によかったです。
総司さまが元気だと、それだけでわたしの心も明るくなるんです。

一緒に入っていた栞、とても嬉しかったです。
栞のお話を聞いたときから、なんて素敵なのだろうと思っていましたので、香りを嗅いで幸せな気持ちになりました。
わたしが本を読むのが好きなことを覚えていてくださったことも、とても嬉しかったです。
総司さまが考えて選んでくださったのだと思うと、この栞がもっと大切なものになりました。

今はいちばん大切にしている本に、その栞を挟んでいます。
ページを開くとやさしい香りが広がって、総司さまが近くにいてくださるような気持ちになります。
この栞は、これからもずっと大切にしますね。
素敵な贈り物、本当にありがとうございました。

総司さまがいなくなってから、庭園は少し静かです。
一人で歩くと、ここで一緒にお話ししたな、とかここで笑ってくれたな、とかそんなことばかりを思い出します。
庭園のお花は綺麗ですが、総司さまと一緒に見たときのほうがずっと綺麗だった気がします。
同じ景色なのに不思議です。

寒い北部にいらっしゃると思うと、ちゃんとあたたかくしているのかなと、つい考えてしまいます。
どうか無理をなさらず、お身体を大切になさってください。
わたしは総司さまの言いつけを守って、噴水には近づき過ぎないようにしています。

総司さまのお手紙を読むと嬉しくて、読み終わるとまた最初から読みたくなります。
何度読んでも、心があたたかくなります。
きっとわたしは、総司さまのことを考えるのがとても好きなのだと思います。

総司さまに早くお会いしたいです。
声を聞きたいですし、笑ったお顔も見たいです。
これからも、たくさんお手紙を書いてもいいですか?
総司さまからも、またお手紙をいただけたら嬉しいです。
わたしも総司さまが毎日笑顔で過ごしてくれることを願っています。

セラ


――


ゆっくり丁寧に、総司さまを想う気持ちを込めて手紙を書いていく。
書き終わって見てみると、思っていたより長くなってしまったことに気がついた。
でも本当は、これでも伝え足りないくらい。
総司さまにお伝えしたいことは、次から次へと溢れてくるから。


『わたしも総司さまに何か贈り物したいな』


総司さまは甘いものがお好きみたいだから、甘いお菓子を贈って差し上げたい。
でもどうせなら少しくらい特別なものがいい。
できれば総司さまが手に取ったとき、笑顔になってくれるようなものを。

そして思いついたのが、クッキーだった。
前に読んだお菓子の本には、何度も目を通している。
材料も手順も頭の中に入っているから、あとは実際に作るだけ。
お母さまにお願いすると、少し驚いた顔をされたけど、すぐにやさしく頷いてくださった。


「いいわよ。ただし、厨房では騒がないこと」

『はい。ちゃんと静かに作ります』


そう約束して、わたしは胸をドキドキさせながら厨房に向かった。
料理長は最初とても心配そうにこちらを見ていたけど、「全部、自分一人で作ります」と告げると、少し離れたところで見守ってくれることになった。

生地をこねるのも、めん棒で伸ばすのも、型抜きをするのも、全部一生懸命だった。
星の形や、お花の形。
総司さまはどの形が一番好きだろう。
そんなことを考えながら並べていくと、胸がぽわっとあたたかくなる。

オーブンに入れて、扉を閉めて、あとは焼けるのを待つだけ……のはずだった。
火を見つめているうちに、だんだん目が重くなってくる。
そしてはっと気付いて目を開けたとき、厨房には焦げた匂いが広がっていた。


『……あっ』


慌ててオーブンを開けると、そこに並んでいたのは真っ黒になったクッキー。


『……そんな……』


さっきまで、あんなにきれいだったのに。
総司さまのことを思いながら作ったのに。
胸が苦しくなって、わたしは急いでお母さまのところへ向かった。


『……クッキー、失敗してしまいました』


事情を話すと、お母さまは眉を下げながらもやさしく微笑んでくださった。


「また作ればいいじゃない」

『でも……総司さまに贈りたかったのです。お手紙と一緒に……』


そう言った途端、目の奥がじんと熱くなる。
一日も早くお手紙は送りたい。
でもクッキーはもう間に合わない。
しょんぼりしていると、お母さまがくすくすと笑った。


「手作りのクッキーを贈るのは、ちょっと難しいのではないかしら?」

『どうしてですか?』

「だって、届く前に傷んでしまうでしょう?」

『……え?あ……そうなんですね……』


せっかく作ったとしても、総司さまのところに届く前に、食べられなくなってしまう。
それでは意味がない。
がっかりして俯いたわたしに、お母さまはそっと続けて言った。


「でもね。たくさん練習して上手に焼けるようになったら、総司さんがまたアストリアに来てくださったときに、食べてもらえばいいじゃない」


その言葉を聞いて、未来の想像をすると、胸の奥があたたかくなった。


『はい。そのときまでに、上手に作れるようになります』


きっと総司さまはそのほうが喜んでくださる。
目の前で焼きたてを食べてもらえるかもしれない。
そう思うと失敗したクッキーのことも、少しだけ許せる気がした。

これはもう、がんばるしかない。
次こそはちゃんとおいしく焼けるように。
総司さまに食べていただくその日のために。

でも、それまでヴェルメルでも総司さまがたくさん笑顔でいられますように。
わたしは頭の中で総司さまのことを思い浮かべながら、あのやさしい笑顔を思い出していた。

- 457 -

*前次#


ページ:

トップページへ