7
明日はついにヴェルメルを出る日。
あと少しでセラ嬢に会えると思うと、嬉しいという感情が込み上げた。
以前彼女が読みたいと言っていた「星の王女さま」の本を持って行こう。
そんなことを考えながら、稽古の後、城へ戻るため石段を登っていた時だった。
「明日からお前の顔を見なくて済むと思うとせいせいするよ」
階段を登り終えると、不意に聞こえた冷たい声。
振り返れば、腹違いの兄の中でも一番歳の近いシリル兄上が立っていた。
僕より一つ上の彼は、挑発的な瞳で僕を睨みつけてくる。
それでも今日は、長男とその下の兄がいない分、まだましだと思えた。
「おい、聞いてるのか?」
こうして僕に突っかかってくるのは、今日の訓練の打ち合い試合で僕に負けたからかもしれない。
この一年、弛まぬ努力を続けてきた甲斐があり、剣の腕が上達していることは僕自身感じることができていた。
「聞いてますよ。それで、要件は何ですか?」
「……その態度、生意気なんだよ。兄上達がいないからって、俺にそんな態度取っていいと思ってるのか?」
「気分を害してしまったのなら謝ります。ですが僕もこの後荷造りがあるんですよ」
なるべく丁寧に、なるべく静かに言ったつもりだった。
すると兄は、ふっと小馬鹿にしたように笑った。
「アストリアなんて、あんな遠い場所によく行くよな。相手の公爵令嬢だって、どうせ大したことないんだろ?手紙の字も下手くそだったもんな」
セラ嬢のことを知りもしないのに、兄はそんな言葉を僕に吐く。
怒りを堪えているつもりでも、視線が鋭くなってしまうのがわかった。
「おい、なんだ?その目」
「彼女はとても素敵なご令嬢ですよ。僕よりも更に二つ下なんですから、字を書き慣れていないのは仕方のないことだと思いますけどね」
「いいや。俺の許嫁のシルヴィア嬢は、その頃からもっと綺麗だった。シルヴィア嬢と比べたら、そのアストリアのご令嬢とやらは大層不細工なんだろうな」
「……は?」
「ああ、悪い悪い。シルヴィア嬢は、最初はお前の婚約者になる筈だったんだよな。まあ、彼女が俺に惚れてしまったから俺の婚約者になったわけだけど。悪く思わないでくれよ」
確かに、シルヴィア嬢とは父の勧めで一度だけ会ったことがある。
でも僕は、彼女に興味を持ったことはなかった。
可愛いとか、一緒にいたいとか……そんな感情すら抱いた覚えはない。
だからだろう、僕は思わずふっと笑ってしまった。
「とんでもない。むしろシルヴィア嬢との縁談が成立しなくて良かったですよ。そうでなければ、アストリア家のご令嬢とこうして親しくなれませんでしたから」
「それは負け惜しみか?どう考えてもシルヴィア嬢の方がいいに決まってるだろ」
「兄上はセラ嬢とお会いしたことないので、おわかりにならないのは仕方のないことですよね。ですが言わせていただくと、セラ嬢はシルヴィア嬢の何倍も可愛い方ですよ」
「はははっ、有り得ないね。シルヴィア嬢は北部でも眉目秀麗で有名だ」
「彼女が眉目秀麗で有名だなんて、北部は東部に比べて随分とレベルが低いんですね。知りませんでしたよ」
僕らしくなかった。
兄に逆らったことも、こうしてくだらない挑発に乗ることも、今まで一度もなかったのに。
僕のことなら、何を言われてもいい。
慣れているし、耐えられる。
でもセラ嬢のことを悪く言われるのは、どうしても許せなかった。
「……今、何て言った?レベルが低いだと?」
兄の顔が、怒りで歪んだのがはっきりとわかった。
そして彼の手が伸びてきて、胸元を強く掴まれた。
「撤回しろ!」
怒鳴り声が、石造りの廊下に響いた。
僕の身体は小さく揺れたけど、視線は逸らさなかった。
「撤回しません」
「なんだと?」
「僕は、事実を言っているだけです」
「お前にシルヴィア嬢の何がわかる!」
確かに僕はシルヴィア嬢のことを然程知らない。
興味もないし、知りたいとすら思わなかった。
でも彼女が以前、咲いたばかりの小さな白い花を、何の躊躇もなく踏みつけていたのは知っている。
まるで邪魔なものを見るような冷たい視線は、そこにある命すべてを値踏みしているように見えた。
微笑みも声もどこか空っぽで、あたたかさなんて微塵も感じられない。
そんな相手を綺麗だとは到底思えなかった。
それに比べて、セラ嬢はその声も眼差しも柔らかくて優しい。
以前、庭園の中の木の下で息絶えた小鳥を見つけた時、彼女はまるで自分のことのように悲しんで、涙を流していた。
小さな手でそっと包むようにして土に埋めてあげていた姿を見て、胸の奥が熱くなったことを今でもよく覚えている。
「それなら兄上は、セラ嬢の何がわかるんですか?」
胸ぐらを掴まれたまま、僕ははっきりと言った。
「彼女は、誰よりも素敵なご令嬢ですよ。会ったこともないのに、彼女を貶めるような発言はしないでください」
そう言い切った直後、胸元を掴んでいた兄の手が、乱暴に僕を突き飛ばした。
踏ん張る暇もなく、足裏が空を切る。
石段を踏み外したと気づいたときには、もう遅かった。
世界がぐるりと回り、視界が逆さまになる。
身体は階段を転がり落ち、硬い石に何度も叩きつけられた。
衝撃のたびに息が喉の奥で潰れ、空気を吸うことすらできない。
ようやく止まった時には、左腕に走る鋭い痛みと、胸の奥を締めつけるような圧迫感に、思わず声が漏れた。
「……うっ……」
動こうとしても、身体が言うことをきかない。
指先ひとつ動かすのにも、耐え難い痛みが走った。
石段の上に立つ兄の姿が、視界の端に映る。
彼は僕を見下ろし、冷たい目で一瞥しただけで、何も言わずに屋敷の中へ消えていった。
助けを呼ぶ声も出ないまま、ただ薄れていく意識の中でセラ嬢の顔だけが浮かんでいた。
早く立ち上がらないと。
そう思っても、身体は重く意識は闇に沈んでいった。
それからどれくらい経った頃だろう。
重たいまぶたを持ち上げると、僕は自室のベッドの上にいた。
でも身体を動かそうとして、息を呑んだ。
胸に走る痛みと、左腕の違和感が、現実を突きつけてくるようだった。
「……っ」
そのとき、視界の端に影が落ちる。
僕を冷たい瞳で見下ろしていたのは、母だった。
「ようやく目が覚めたのね。医師が診たところ、肋骨にひびが入っているそうよ。左腕は骨折ですって」
その言葉に、僕は思わず目を見開いた。
まさか、出立前にそんな怪我を負ってしまうなんてと、背筋に嫌な汗が伝う。
「……明日は、予定通りアストリアに向かいますよね?」
震えそうになる声を、必死で抑えた。
母は僕を見下ろしたまま黙り、それから冷ややかに告げる。
「医師は安静が必要だと言っていたわ。この状態で長旅など、到底許されることではないそうよ。それに旦那さまも、大公家の名を背負う者が包帯だらけの無様な姿を晒して公爵家を訪ねるなど、礼を欠くにも程があると仰っているの」
「……僕の身体なら、大丈夫です。多少の怪我なら、問題なく行けます。アストリア公爵家にもご迷惑がかからないようにしますから、明日は……」
最後まで言い終える前に、頬に衝撃が走った。
乾いた音が部屋に響き、視界が揺れる。
母の手が僕の頬を思い切り打ったのだと、遅れて理解した。
「無理に決まっているでしょう!」
母は怒りを浮かべた表情で、声を荒げる。
その剣幕に、僕は一度言葉を飲み込んだ。
「その身体で長旅ができるとでも思っているの?揺れる馬車、荒れた街道、夜毎の宿泊。少しでも具合が悪化すれば、見知らぬ土地でどうするつもり?それだけではありません。アストリアは東部で名門の公爵家よ。療養とはいえ、怪我人を寄越すなど無礼もいいところ。包帯だらけで満足に礼も取れず、剣も持てない姿を晒すなんて、家の恥だと思いなさい!」
捲し立てるようにそう言った後も、母の言葉は止まらなかった。
「そもそもこんな大事なときに、どうして怪我をしたの!あなたは、いつもそう。自分がどれほど周囲に迷惑をかけているかわかっているの?!」
僕は唇を噛みしめながら、震える声で答えた。
「……シリル兄上に、突き飛ばされました。今日、稽古のあと……」
石段での出来事を、途切れ途切れに話す。
けれど母の表情は、怒りから冷笑へと変わっただけだった。
「だから言ったでしょう。全て弱いあなたが悪いのよ。自分の身も守れないから、そんなことになるの。力の差もわからずに口答えするから、怪我をするのよ」
そう言い残し、母は踵を返す。
「噂というものがどれほど恐ろしいか、あなたもわかっている筈よ。大公家の子が道中で倒れたなんて知られたら、恥晒しにも程があるわ。これ以上、病弱だ役立たずだと噂がたてば、誰が責任を取るのというの?こんな怪我をした時点で行けるわけがないのよ。だから今回は中止です。これは感情の問題ではなく、大公家として当然の判断よ。これ以上、家の足を引っ張らないで」
扉が強く閉められ、部屋は静寂に包まれる。
ベッドの上で、僕は天井を見つめたまま動けなかった。
胸の痛みは、肋骨のせいだけじゃない。
この現実を受け止めきれなくて、ただ呆然と痛みを感じることしか出来なかったのかもしれない。
今頃セラ嬢は、僕が来る日をきっと楽しみに待ってくれている。
前回の手紙で、来月にはアストリアに行くねって約束したのに。
「……っ」
一生懸命に書かれた手紙。
無理をしていないかと、何度も繰り返される僕への気遣い。
読むたびに胸の奥があたたかくなって、強くなれた気がした。
それを思い出した途端、喉の奥が詰まり視界が滲む。
込み上げてくるものをぐっと耐えて、僕は一人呟いた。
「……セラ嬢、ごめんなさい……」
声は小さく、かすれていた。
謝っても届かないと分かっている。
それでも、言わずにはいられなかった。
約束を守れなかったことが、悔しくて、情けなくて。
静まり返った部屋の中で、その呟きは誰にも届かないまま、静かに消えていった。
ページ:
トップページへ