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セラ嬢からの手紙を出して三日も経たないうちに、新しい手紙が彼女から届いた。
首を傾げてしまいながらも嬉しくて、すぐにその手紙を読み始める。
でもその内容は、僕が思わず目を見開いてしまうものだった。


――


親愛なる総司さま

総司さま、こんにちは。
お元気でお過ごしでしょうか?

立て続けにお手紙を差し上げてしまって、ごめんなさい。
ですが、どうしてもすぐにお知らせしたいことがあったのです。

実は、お父さまがお仕事のご都合で、北部へ行くことになりました。
国境近くの視察、それから北部の方々との大切なお話があるそうです。
そしてその旅に、わたしも同行させていただけることになりました。
お母さまも一緒です。

無理のないように、途中で知人の方のお屋敷に滞在しながら進めるよう、お父さまとお母さまが準備してくださいました。
わたしが総司さまに会いたいと思っていることを、お父さまとお母さまは、ずっと分かってくださっていたのだと思います。

つまり何をお伝えしたいかと言いますと、アンナ夫人と太閤閣下に滞在の許可をいただけたら、ヴェルメルにお邪魔できるかもしれません。
総司さまにお会いできるかもしれません。
まだ確かなことではありませんが、そう思うだけで胸がドキドキしてしまいます。
総司さまにお会いできたら、わたしはとても嬉しいです。

総司さま、ヴェルメルで待っていてください。
わたしは必ず、総司さまに会いにうかがおうと思っています。
どうかその日まで、お身体を大切になさってください。
またすぐにお手紙を書きますね。

セラ


――


気付けば、僕は椅子を押して立ち上がっていた。


「え?」


セラ嬢がヴェルメル来る?
僕の住む、大公家のこの屋敷に?

セラ嬢に会えるかもしれない喜びが心の中に湧き上がる。
けれど同時に言いようのない不安も押し寄せて、僕はただ立ち竦んでいた。

なぜならここは僕を疎ましく思う人達ばかりだ。
兄姉達は勿論、父上も、使用人も、皆僕に対する態度は冷たい。
その事実をセラ嬢に知られてしまうのではないかと思えば、会える喜びよりも不安の方が大きく膨れ上がっていくようだった。

それに北部では、僕の存在は軽んじられている。
ヴェルメルの弱き星なんて言われている時点で、そこに尊厳なんてものは微塵も存在していなかった。
僕の本来の姿を知ったら、セラ嬢はどう思うんだろう。
がっかりしたように瞳を伏せる彼女の姿を想像してしまえば、僕の心は穏やかではいられなかった。

本当は会いたい、凄く会いたいよ。
ただ、セラ嬢の中の僕はきっと本来の僕よりずっと立派で強い僕だ。
その期待を壊してしまうのが怖くて、この手紙を手放しで喜べない僕がいた。


けれど父上がアストリア公爵家からの提案を断る筈もなく、彼女がヴェルメルに滞在することはすぐに決まった。
その頃から兄姉達は僕の反応を嘲笑うように、セラ嬢の話題を敢えて出すことが増えていた。


「良かったじゃないか、総司。お前の婚約者になるかもしれないご令嬢がわざわざヴェルメルまで出向いてくれるんだろ?」

「どれだけ暇なのかしら。東部は随分とのんびりとされているのね。わたしは日々の習い事を疎かにはできないから、長旅なんてとても出来ないけれど」

「向こうも必死なんじゃないか?東部で他の御令息に相手にされないから、総司を逃がすまいと思ってるのかもしれないよな」

「はははっ、違いない。俺も楽しみだよ。総司の不細工婚約者に会えるのがさ」


以前口論をしてから、シリル兄様はことあるごとにセラ嬢のことを不細工令嬢と言って馬鹿にしてくる。
そのことに怒りを覚えながらも、あの子がヴェルメルに来てくれるのに、僕が揉め事を起こすわけにはいかない。
事を荒立てないためにも、僕は感情を殺してただじっと我慢していた。


「最近は随分おとなしいな。前まではアストリアのご令嬢のことを話せば、生意気な目つきで睨んできてたっていうのに」

「実際にヴェルメルに来たら、もう隠せないもんな。その令嬢が無能だってさ」

「まあ、総司と同等だからこそ縁談がまとまりそうなんでしょう?貰い手のない弟の相手をしてくれるんだもの、私達も失礼のないようにその子をもてなして差し上げないとね」


兄姉達が何を企んでいるかはわからないけど、他国のご令嬢に手をあげたり、あからさまな嫌がらせはできない筈だ。
なぜなら体裁を重んじている父にそんなことが知られようものなら、大変なことになるのは誰しも周知の事実だからだ。
とは言え、精神的いたぶりなら十分に仕掛けてくる可能性がある。
僕はなんとしてでもセラ嬢を守らなければと心で強く思っていた。


それから季節は巡り、ヴェルメルにもやわらかな六月がやってきた。
長い間、白く覆っていた雪はすっかり溶け、陽射しも少しずつあたたかくなっていた。

そして僕が十歳になって、ほんの数日が過ぎたころ。
大公家の広い前庭に、一台の立派な馬車がゆっくりと入ってくる。
深い藍色の車体に、アストリア公爵家の紋章が金で描かれていた。

父と母、そして僕の三人で中央の噴水前まで足を運ぶ。
一年半ぶりに会うことになるセラ嬢を想うと、胸の奥がやけに騒がしくなるのを感じた。
馬車が近づくのを眺めながら、父が低く笑った。


「公爵は仕事で数日遅れての到着になるらしいが……総司の婚約者になるかもしれん相手がどれほどのものか、楽しみだな」


その言葉には、いつもの人を値踏みする色が含まれている。
アストリア公爵家がヴェルメル大公家に相応しいか判断するつもりだということは僕にもわかった。

やがて馬車は静かに止まり御者が扉を開くと、先に姿を現したのはユフィ夫人だった。
陽の光を受けて淡く輝く藤色のドレス。
細やかなレースが袖口に揺れ、すらりとした首筋には真珠が一連、上品に光っている。
落ち着いた微笑みを浮かべ、ゆっくりと石畳に足を下ろす姿は、まるで絵画の中の貴婦人のようだった。


「……ほう」


父の漏らした声には感嘆がにじんでいるのがわかって、僕は少しだけ安堵する。
ユフィ夫人は優しい笑顔を浮かべながら、綺麗に一礼した。 


「太閤閣下、本日はお招きいただき誠にありがとうございます。アストリア公爵に代わりまして、まずはご挨拶に参りました。ユフィリアと申します」


ユフィ夫人の澄んだ声が辺りの空気に溶けると、父は満足げに頷いた。


「遠路はるばるご苦労でありました、ユフィ夫人。ヴェルメルへようこそ。どうか今日はゆるりと過ごしていかれてください」


そのやりとりを見守りながら、僕は無意識に馬車の中を探していた。
すると小さな手が扉の縁にかかり、現れたのはセラ嬢だった。
淡い桃色のドレスは、朝露を含んだ花びらみたいにやわらかく揺れている。
以前より少しだけ背が伸びたのか、腰の位置が高くなっていて、動くたびに軽やかに布が波打っていた。
ふわりとハーフアップされた髪には小さな白薔薇の飾り。
陽を受けた頬はほんのり桜色で、その仕草ひとつひとつが、驚くほど女の子らしくなっていた。

……こんなに、成長していたんだ。

小さくて、儚くて、守ってあげないとと思わせる子だったのに。
今もその面影はあるのに、どこか凛とした気配が加わっていた。
彼女が僕を見つけたその瞬間、ぱあっと花が咲き誇るみたいに笑った。
その様子き胸が強く打たれて、あまりにも綺麗なその笑顔を目の前に、鼓動がさっきまでとは比べものにならないほど早くなった。
セラ嬢はユフィ夫人の隣へと進み、上品に裾をつまんで一礼した。


『はじめまして、太閤閣下。アストリア公爵家が娘、セラと申します。本日はお招きいただきありがとうございます。皆様にお会いできることを、とても楽しみにしておりました』


僕は思わず父の横顔を見ると、父はにこやかに微笑んでいる。
その笑みは柔らかいけど、目はきちんと彼女の所作を見ていた。


「これはこれは……とても愛らしいお嬢さんですな。いやはや、驚きました」

「そのように仰っていただき、光栄でございます」

「年若いながら、実に美しい所作でいらっしゃる。花がそのまま形を得たようだ」
 

父が人を褒めるところを見るのはいつぶりだろう。
セラ嬢は少し頬を染め、もう一度小さく頭を下げる。
その仕草がまた可愛らしくて、その姿を見下ろしていた母も嬉しそうに声を弾ませた。


「セラさん、すっかりお姉さまになられてとても綺麗よ。ユフィにもお会いできて嬉しいわ」

「どうぞ中へ。公爵閣下にも早くお目にかかりたいものですな。長旅、さぞお疲れでしょう。心ばかりですが、歓迎の支度を整えておりますよ」


大人達が楽しそうに言葉を交わしながら先を歩いていく。
その少し後ろで、僕はそっとセラ嬢の手を取った。

小さくて、やわらかい手。
前に触れた時よりも、少しだけほっそりした気がして、胸がまたどきりと鳴る。
それでも目を逸らしたくなくて、僕はまっすぐに彼女を見つめた。


「セラ嬢、お会いできて嬉しいです」

『わたしもとても嬉しいです。毎日総司さまのことばかり考えていました』


あの頃と同じ、高くて少し甘えたような声。
僕を見上げる澄んだ瞳も変わらない。
でも今はただ可愛いだけじゃなく、とても綺麗になった。
だからそんなことを言われたら、どう返事をするべきかもわからなくなりそうだ。


「その髪飾り、とてもよく似合っています」

『ありがとうございます。総司さまにそう言っていただけて嬉しいです』


柔らかく、少し照れながらも逸らさない視線。
そして少しだけ声を弾ませて言ってくれた。


『総司さまも、前より更に凛々しくなられたと思います。そのお召し物もとてもよくお似合いで、とっても素敵です』

「そうかな……。ありがとう」


思わず名前を呼ぶと、首を傾げるその仕草まで前よりもずっと愛らしくて、僕は握った手にほんの少しだけ力をこめる。
こんなにも可愛くてきれいになったセラ嬢を、誰にも見せたくないと思ってしまった。


「行きましょうか」

『はい』


大公家の正門をくぐると、白い石造りの外壁が陽を受けて静かに輝いていた。
何度も見てきたはずの屋敷なのに、今日はなぜか少しだけ違って見えるのは、隣にセラ嬢がいるからだろう。

控えの間を抜けて向かった先は、客人を迎えるための大広間。
磨き上げられた床に、僕達の姿が淡く映る。
扉が静かに開かれると、室内の空気が変わったのを感じた。
そこに並んでいたのは第一夫人と第二夫人、そして兄姉達。
父上が柔らかい所作で、一歩前に進み出た。


「本日はお越しいただき、心より歓迎いたします。ささやかではありますが、家族を紹介させていただきましょう」


その言葉と同時に、第一夫人が優雅に視線を上げた。
そしてユフィ夫人の姿をその視界に入れた瞬間、ほんの僅かに息を呑んだ。
第二夫人も同じだった。
完璧に整えられた微笑みが明らかに揺らぎ、兄姉達もはっきりと顔色を変えた。
ユフィ夫人の気品と綺麗さは場の空気を塗り替えてしまうくらい圧倒的で、その隣に立つセラ嬢へと視線が移ったとき、今度は隠しきれない驚愕が浮かんだ。


「大公家第一夫人、クラウディアにございます。本日はお目にかかれて光栄ですわ」

「第二夫人、マルグリットでございます。お会いできて光栄です、どうぞごゆっくり過ごされてください」


次いで長兄が静かに名乗り、長姉、下の兄達もそれぞれ一歩進み出て礼を取る。
その視線が、途中で何度もセラ嬢に向けられているのが気にかかった。


「ユフィリアにございます。本日はお招きいただき、心より感謝申し上げます」


ユフィ夫人がゆるやかに前へ出て、扇を胸元に添えカーテシーを披露した。
そしてセラ嬢も僕の隣からそっと進み出て、スカートの端をつまみ柔らかに礼をした。


『セラと申します。本日はお招きいただき、ありがとうございます。皆さま、どうぞよろしくお願いいたします』


セラ嬢が春の花がひらくみたいにふわりと微笑むと、その笑顔を目の前に下の兄二人が頬を染めた。
目を逸らすでもなく、どこか落ち着かない顔付きでセラ嬢を見つめている。
その様子を見て、胸の奥がすっと冷える感覚を覚えた。

……面白くない。
どうしてそんな顔が出来るんだと思うのは当たり前だ。
散々馬鹿にして、不細工だなんだって言ってたのに。
セラ嬢を見るなり、彼らの目の鋭さは嘘のようになくなっていた。


「では折角です。ここで食事を摂りましょう」


父の言葉にそれぞれが頷くと、長いテーブル席へと腰掛ける。
セラ嬢は僕の向かいに腰掛けると、嬉しそうにまた微笑んでくれていた。

食事の席が始まると、銀器の触れ合う澄んだ音とともに、穏やかな会話が広がっていった。
季節の移ろいの話題から始まり、ヴェルメルの近況、王都の催し。
表向きは和やかだけど、その言葉の端々にさぐりが混じっているのを僕は感じていた。
アストリア公爵家は、いまどの程度の勢いを保っているのか。
財政や後ろ盾、東部全体を率いるルヴァン王国との関係。
父上も、第一夫人も、第二夫人も、穏やかな微笑みを浮かべながら、巧みに問いを重ねていた。

ユフィ夫人は、そのすべてに感じよく応じていた。
決して多くを語らず、けれど不足もないところはさすがだと思う。
そして話題が自然な流れを装いながらセラ嬢へと移ると、父上がナイフを置きゆっくりと口を開いた。


「アンナより聞き及んでおります。セラ嬢はピアノにおいて、年齢にそぐわぬ才をお持ちとか」


その言葉に、第二夫人がユフィ夫人に微笑んだ。


「まあ!それは素敵ですこと。実はわたくしの娘もピアノを嗜んでおりますの。音楽は心を豊かにいたしますものね」

「ええ、そうですわね」

「せっかくですもの。よろしければ、セラ嬢とエリザベートで一曲ずつ披露なさってはいかがでしょう。ささやかな余興として」


長姉であるエリザベートは、ヴェルメルでも注目を集めるほどのピアノの腕前だ。
第二夫人の自慢であるエリザベートの実力を見せつけるつもりなのは、僕の目から見ても明らかだった。


「確かに、それは良い案だな」


父上が頷くと、ユフィ夫人は穏やかにセラ嬢へ視線を向けた。


「どうする?せっかくのお申し出よ。弾かせていただく?」


その声音は優しく、娘の意思を尊重するものだった。
セラ嬢はほんの少しだけ指先をもじもじとさせて、ちらりとユフィ夫人を見上げた。


『実は先程、そちらのピアノを見てからずっと弾きたいと思っていたのです。長旅でしばらく触れていなかったから、少しだけさびしくて』


はにかむような笑みは、少しばかり遠慮がちに見える。
するとその様子を見ていた長姉が立ち上がり、優雅に微笑んだ。


「それでしたら是非、セラ嬢がお先に演奏なさってくださいませ。わたくしはその後を務めさせていただきますので」


セラ嬢は丁寧に礼を述べ、席を立つ。
ピアノの前へ進み、裾を整え、美しい所作で一礼してから椅子に腰掛けた。
城の従者が静かに椅子の高さを調整すると、セラ嬢はその従者にまで、やわらかく微笑みかけて頭を下げた。


『ありがとうございます』


セラ嬢が鍵盤の上にそっと指を置いたとき、自分が弾くわけでもないのに、胸の奥が落ち着かなくなった。
だって大人達の前で披露することを考えたら、僕なら緊張してしまいそうだからだ。

でもそんな僕の心配を他所に、最初の音がころりと転がる。
その聞き覚えのあるメロディーは、ショパンの子犬のワルツ。
その旋律は本当に子犬みたいで、速い曲なのにセラ嬢の指はまるで遊んでいるみたいに自然に動いていた。
細かな音がきちんとそろっていて、ひとつも転ばない。
小さな手なのに、どうしてあんなに正確に鍵盤をつかまえられるんだろうと、僕は思わず指先を見つめてしまった。

しかも、ただ軽やかなだけじゃない。
ちゃんと強弱がついていて、旋律が歌っている。
七歳の子が弾いているなんて信じられないどころか、まるで先生の演奏みたいだと僕は思った。

その横顔は真剣なのに嬉しそうで、見ているだけで胸がいっぱいになる。
気がつけば、広間はすっかり静まり返っていた。
兄上達も夫人達も、父でさえじっと聴き入っている。
終わりが近づくにつれて、テンポはさらに軽やかに弾み始めて、最後の和音までぴたりとそろって、きれいに引き上げられた。


「これは……素晴らしい!」


父が思わず声を上げて拍手を送ると、周りも誘われるように拍手を繰り返す。
セラ嬢は静かに立ち上がり、丁寧に一礼した。
頬はほんのり赤く染まっていたけど、顔を上げたとき、彼女は僕を見て嬉しそうに微笑んでくれた。


「まさか七歳でここまでの演奏が出来るとは感服です。毎日、どのくらい練習をしているのかな?」


父の問いを聞いて、セラ嬢は少し首を傾げてから、素直に答える。


『レッスンは毎日一時間です。あとは、弾きたいときに弾いています』

「……一時間?」


姉が小さく呟く。
姉上は毎日何時間も先生につきっきりで習っているし、レッスンがない日でも第二夫人に言われて、一日に何度も鍵盤に向かっている。
それなのに、セラ嬢は一時間。
だけど彼女のことだから、自らピアノに向かう時間は多いんだろう。
きっとあの音は本当に好きだから生まれる音なのかもしれないと思ったら、胸があたたかくなった。

さっきまであんなにきらきらした音を広間いっぱいに響かせていた子が、今はただあどけない笑顔で素直に立っている。
その様子を眺めながら、改めてセラ嬢は凄いと考えていた。

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