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それから数日が流れ、近藤公爵からは明日ヴェルメルへ到着されるとの知らせが届いた。
父が近藤公爵に婚約を急かすようなことを言わないか、どうしても気にかかる。
不安な心情を抱きながらも、その日僕たちは大公家の敷地の北側にある離宮に来ていた。
離宮の裏手には、湖と装飾用の水門がある。
庭園の景観を整えるために造られた古い設備だけど、この場所は幼い頃から好きだった。


「ここはね、昔の大公が造らせた場所なんだ。水位を少し変えるだけで、湖の様子が変わるんだよ」


そう説明すると、セラ嬢は目を輝かせた。


『水が動くだけで、景色も変わるなんて素敵ですね』


ここは人目も少なく、静かで落ち着いている。
ここなら余計な視線を気にせずにセラ嬢と二人で過ごせると思っていた。
けれど石段を下り水門の前に立つと、低い声が背後から落ちてきた。


「総司、何してるんだよ」


振り返ると、そこに立っていたのはシリル兄上だった。
淡い灰色の上着をきちんと着こなし、腕を組んでこちらを苛立たしげに見ている。


「水門をご案内しています。すぐに戻ります、兄上」


シリル兄上が答えるより先に、セラ嬢が静かに一歩進み出る。
石畳の上でドレスの裾をそっと整え、丁寧にカーテシーをした。


『シリル様。ごきげんよう。今総司さまに離宮を案内していただいてました。水門を拝見させていただいてもよろしいですか?』


シリル兄上の視線が彼女へ向かい、その瞬間わずかに揺れたのを僕は見逃さなかった。
兄上は彼女を見るとき、いつもどこか落ち着かない顔をする。
でも今日は、その落ち着かなさの中に、僕への苛立ちも混ざって感じられた。


「……勿論、僕は構いません。ですが、ここは足元が悪くて危険です。湖でしたら、シルヴァレイク・ガーデンから良く見えますので、宜しければ僕がご案内しましょう」

「いいえ、案内でしたら僕が致します」

「ここは公爵令嬢を連れて来ていい場所ではないと言ってるんだ。彼女をこんな場所に連れてくるとは配慮が足りないな」

「危険はありません。僕がついていますから」

「お前と一緒だから危険なんだろ」

「ここは危険な場所ではありませんよ。足場もあらかじめ確認しています」


できるだけ穏やかに告げると、兄上は小さく鼻で笑った。


「確認?お前が?自分の体調すら管理できなかった奴が、よく言うな」

「今は違います」

「何が違うんだよ」

「僕がセラ嬢をちゃんと守りますから、ご安心ください」


その一言が、兄上の神経を逆撫でしたのだろう。
石段を一段下り、間近に立った兄上の影が僕を覆った。


「弱いくせに、騎士気取りか?」


低く吐き捨てられた言葉と同時に、胸ぐらを強く掴まれた。
布地が軋み、喉元が締まり、呼吸が僅かに浅くなる。
それでも兄上を見つめる目だけは逸らさなかった。


「お前に何ができるんだよ。昔からそうだ。肝心なときに倒れて何一つやれてこなかっだろ。守るどころか足を引っ張るのが関の山だろうが」

「兄上がどう思おうと、セラ嬢は僕の婚約者になる方ですから、僕が守ります」


一瞬、空気が張り詰めた。
兄上の表情が歪み、その奥にある怒りと焦燥が痛いほど伝わってくるようだった。


「いい加減にしろよ。だいたいなんで俺が、お前の代わりにシルヴィア嬢と婚約させられないとならない?俺の相手が伯爵令嬢で、お前の相手が公爵令嬢なんてどう考えてもおかしいだろ……!」

「……は?どうしてそこでシルヴィア嬢が出てくるんです?シリル兄上はシルヴィア嬢のことをお気に召していたではありませんか。それを今更……」

「俺は身の程を知れって言ってるんだ……!」

「身の程なら分かっていますよ……!ですが、そのこととセラ嬢は関係ありません。兄上は結局、セラ嬢を実際にご覧になって気に入ったから、僕が彼女と過ごしてることが気に入らないだけじゃないですか」

「……お前っ……」


いつもなら静かにしている僕も、今日ばかりは黙っていられなかった。
散々、セラ嬢のことを大したことない、不細工だと小馬鹿にしていたくせに、実際に会った途端、あからさまに態度を変えたのは兄上のほうだ。

それに冬に僕がアストリアへ行けなくなったのは、シリル兄上に階段の上から突き飛ばされ、怪我を負ったから。
あの時のセラ嬢に会えなかった悔しさを、僕はまだ忘れていない。
それなのにようやくヴェルメルまで来てくれたセラ嬢との時間を、また兄上の身勝手で振り回されるなんて耐えられなかった。

けれど、僕が言葉を落とした直後、兄上の拳が振り上げられる。
咄嗟に歯を食い縛ったけど、澄んだ声が緊迫した空気を裂いた。


『おやめください……!』


気づけば、セラ嬢が僕たちの間に身を差し入れ、兄上の腕にしがみついていた。


『総司さまは、私が頼んだのでご案内くださっているだけです。どうか、お怒りにならないでください』


その細い肩は震えているのに、僕を庇うために前へ出てくれたんだとわかる。
でも兄上の苛立ちは頂点に達していた。


「……っ、離してください」


そう言うや否や、兄上は力任せに腕を振り払う。
その勢いをまともに受けたセラ嬢の小さな身体は、大きく後ろへ弾かれた。
立っていた場所は石段の縁で、そのすぐ背後は水路へ落ち込む低い段差になっている。
彼女は踏みとどまることができず、後方へよろめいたまま水門脇の石造りの水位計に額をぶつけた。
鈍い音が響き、白い額に赤がにじむのが見えた時には、支えを失った身体がそのまま湖へと倒れ込み、冷たい水が彼女を呑み込んでいた。


「セラ嬢……!」


気付いた時には、僕は石段を蹴り、外套も靴もそのまま、迷いなく水へ飛び込んでいた。
六月とはいえ北部ヴェルメルの水は氷のように冷たく、全身を刺すような感覚に息が奪われる。
それでも構わず、水中へ沈みかける白いドレスを目で追い、必死に腕を伸ばした。

布越しに彼女の身体を掴み、力いっぱい抱き寄せる。
意識がないのか、まったく反応がない。
その重みと冷たさが、恐怖を現実のものとして突きつけてくるようだった。


「……はっ、セラ嬢……っ」


水の中でセラ嬢の名を何度も呼びながら、僕は必死にその身体を抱え上げ、水面へと押し上げた。
水を含んだドレスは思いのほか重く、冷え切った水が腕の力を奪っていく。
石段までのわずかな距離が、どうしようもなく遠く感じられた。
どうにか縁へたどり着き、彼女を抱き上げて石の上へ横たえる。


「セラ嬢、聞こえる?」


頬に触れた指先に伝わるのは、ぞっとするほどの冷たさだった。
唇は青く色を失い、左の額から流れた血がこめかみを伝っている。


「……セラ嬢、目を開けて……」


揺すりたい衝動を抑えながら、何度も呼びかける。
長い睫毛はぴくりとも動かないから、胸の奥が締め付けられた。
でも立ち尽くしている暇はないと、顔を上げ、兄上を見た。


「シリル兄上、人を呼んでください!医師を、早く!」


兄上は数歩離れた場所に立ったまま、こちらを見下ろしていた。
先程までの怒りはなかったけど、その代わりにわずかな動揺が浮かんでいた。


「……ほら、結局お前は守れないじゃないか」


低く吐き捨てるような声だった。


「言っておくが、俺は関係ないからな。その令嬢が勝手に落ちただけだ」


そう言い残し兄上は踵を返した。
足音が石畳を打ち次第に遠ざかっていく。
取り残された僕は悔しさから湧き上がる怒りを抑え、セラ嬢を抱き起こして背に担いだ。


「……大丈夫。必ず助けるよ」


濡れた身体は冷たく、力なく腕が垂れ下がる。
その感触が恐ろしくて、奥歯を強く噛み締めた。


「もう少しだから」


自分に言い聞かせるように呟き、石段を駆け上がた。
衣服は水を吸って重く、靴の中で水が跳ねるたびに足がもつれそうになる。
それでも足を止めることはできない。
胸が痛み、息が荒くなり、視界の端が揺れる。

それでもひたすらに走った。
離宮の庭路を抜け、大公家の本邸へと続く道を全力で駆ける。
かつて何も出来なかった自分の姿が脳裏をよぎる。
熱で倒れ、誰かの背中を見送るしかなかった幼い日々。
でも今は違うと思いたかった。


「セラ嬢、すぐ医師に診せます。だから……」


どうか、無事でいて
そう祈りながら、僕は主館の大扉へ向かって必死に走り続けた。

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