6
屋敷へ戻ると、すぐに医師が呼ばれた。
濡れた髪を丁寧に拭われ、額の小さな裂傷に白い包帯が巻かれていくのを、僕は少し離れた場所から見つめていた。
湖の水をわずかに飲んではいたけど、命に別状はない。
医師のその言葉を聞いた時、胸の奥に張りつめていたものがようやく少し解けた気がした。
それでも安堵と同じくらいの重さで、後悔が沈んだままでいる。
心配そうにベッド脇へ寄り添うユフィ夫人へ、僕は深く頭を下げた。
「セラ嬢をお護りできず、申し訳ありませんでした」
シリル兄上のことは口にしなかった。
ヴェルメルの内情を軽々しく話すべきではないし、あの時に手が届かなかったのは僕自身の未熟さだ。
「総司さん、顔を上げてちょうだい。あなたが謝ることではないでしょう?」
「ですが……僕が傍にいながらこんなことに。セラ嬢はまだ目を覚まされませんし……」
白い寝台に横たわるセラ嬢は、まるで精巧な人形のようだった。
濡れた睫毛は静かに伏せられ、整いすぎた横顔は息づいているのかさえ疑ってしまうほど静かで、胸がひどく痛くなる。
「総司さんがセラを助けてくれたのよ。水の中でこの子を抱えて泳ぐなんて、どれほど大変だったか。ここまで走って連れ帰ってくださったと聞きました。セラのために必死になってくださったのでしょう?」
「……それは、当然のことです」
「当然ということはないわ。それに咄嗟の事故だったんですもの。湖に落ちたのは総司さんの責任ではありません。あなたの迅速な判断があったからこそ、この子はここにいるのよ。ですから、どうかそんなお顔をなさらないで。そしてセラを守ってくれてありがとう。これからもセラと仲良くしてあげてね」
ユフィ夫人の穏やかな微笑みと優しい言葉に、僕の胸はより痛んだ。
「……はい」
短く答えながらも、心の奥では守ることができたなんて到底思えなかった。
あんなに近くにいたのに、僕は何もできなかった。
僕の手が届いていれば、彼女は冷たい水に沈まずに済んだかもしれないのに。
僕は静かにベッドの傍へ歩み寄る。
細い指先にそっと触れると温もりがちゃんとあって、今更ながら指先が震えそうになる。
この子に何かあったらと考えると、それは何より辛いことに思えた。
「セラ嬢……目を覚まされるまでここにいますね」
ユフィ夫人が出て行かれた後の静かな部屋。
寝台に座り彼女の寝顔を眺めていると、時計の針の音だけがやけに大きく響く。
額の包帯が胸を刺し、二度と同じような思いはさせたくないと強く思った。
たとえ相手が誰であろうと。
次に彼女へ手を伸ばす者がいれば、僕がそれを許さない。
穏やかに笑う僕のままでいられる保証はないけど、それでもいい。
この子を守れるのなら、それが最善の選択だからだ。
「……早く目を覚ましてください」
小さく呟いた時、指先が僅かに揺れた。
「セラ嬢……?」
伏せられていた睫毛がかすかに震えて、僕の世界が再び音を取り戻す。
どうか、もう一度その瞳で僕を見て。
そう願わずにはいられなかった。
息を詰めたまま見つめていると、ゆっくりと瞼が持ち上がり、まだ夢の中にいるように潤んだ瞳が僕を探す。
そして視線が重なった数秒後、彼女は安心したようにやわらかく微笑んだ。
『……総司さま……』
少し甘えるような掠れた声。
そのたった一言で、胸がいっぱいになってしまう。
無事でよかったと伝えたいのに、喉がうまく動かずに視界がぼやけていった。
セラ嬢は目覚めたばかりだというのに、僕を見て嬉しそうに笑っている。
その変わらない笑顔が嬉しくて、けれど同時に恐ろしくもあった。
もう二度とこの笑顔を見られなかったらどうしようと思った時間が、確かにあったから。
「……っ」
込み上げる熱を抑えきれず、僕は咄嗟に背を向ける。
寝台の縁に腰かけたまま、顔を見せないように背けてしまった。
『総司さま?』
泣くな。
泣くな、泣くな。
そう何度も自分に言い聞かせていたのに、どうしても堪えきれなかった涙が一粒、頬を伝った。
自分でも信じられなくて、思わず指先でその跡に触れると……濡れている。
誰かに涙を見せるなんて、いや……そもそも泣くことなんて、記憶の限りもう随分前からなかったのに。
小さい頃からずっと一人で、淋しさも痛みも自分の中にしまい込んで生きてきた僕にとって、人前で泣くことはどこか遠い世界の出来事みたいなものだった。
感情を表に出さないようにと厳しく躾けられてきたし、誰かに縋ることも、慰めを求めることも、最初から自分には許されていない。
何より、自分の弱さや心の内を外に出すことを、僕自身がずっと避けて生きてきた。
それなのに今、胸の奥が妙に熱くて、うまく息も出来ない。
きっとさっきまで、セラ嬢の身に何かあったらどうしようと考え過ぎていたせいだ。
この小さな身体が傷ついてしまったら。
もう会えなくなってしまったら。
そんなことばかり考えていたら、心がずっと締めつけられていて、無事な姿を見た瞬間にそれが一気にほどけてしまったのだと思う。
そのとき、背中にふわりと触れる温もりがあった。
驚くよりも早く、細い腕がそっと回されていた。
『総司さま、大丈夫です。わたしがいますよ』
耳元で聞こえたその声に、胸が大きく鳴った。
振り返ると、セラ嬢がすぐ近くにいて、小さな身体で僕を抱きしめてくれてる。
あまりにも当たり前みたいな顔でそこにいるものだから、僕は一瞬言葉を失ってしまった。
『総司さまが悲しい時は、わたしがぎゅっとしててあげます』
そう言って、セラ嬢はほんの少しだけ目をぱちくりとさせて、それから柔らかく微笑んだ。
『総司さま、泣いていらっしゃいますか?』
「泣いてませんよ」
反射的にそう答えたけど、僕の声は自分でも情けなくなるくらい弱々しかった。
けれどセラ嬢はそれ以上何も言わず、ただ小さな手を伸ばして僕の頭に触れる。
そして子供をあやすみたいに、ゆっくりと優しく撫でた。
『いいこ、いいこ』
その仕草は無邪気で、まるで泣いている子供を慰めるみたいだった。
年下の女の子に慰められているなんて、普段の僕なら耐えられないはずなのに。
なのに、どうしてだろう。
今は、離れてほしくないと思ってしまった。
背中に回された細い腕は、とても小さくて頼りないのに、不思議なくらい温かくて、安心する。
頭を撫でてくれる手も、僕を見上げるその瞳も、全部が優しかった。
今のように誰かに抱きしめられるのも、泣いてもいいみたいに受け止めてもらえるのも、記憶の限り初めてだった。
胸の奥にずっとあった空っぽな場所に、ゆっくりと温もりが広がっていく。
まるで僕が今まで抱えてきた孤独ごと、セラ嬢が全部包み込んでしまうみたいに。
どうしてこの子は、こんなことをするんだろう。
どうして僕に、こんなにも優しいんだろう。
ただ、可愛い子だと思っていた。
優しい子だと思っていた。
守ってあげたい存在だと、そう思っていた。
だけど今、胸の奥にあるこの気持ちはそれだけじゃない。
もしこの子がいなくなったらと思うだけで息が苦しくなるし、傷つく姿なんて想像したくもない。
さっき流れたあの一粒の涙は、きっとその答えだったんだ。
僕はもう、セラ嬢のことをただ好きなだけでは済まなくなっている。
こんな気持ちは初めてだった。
僕はきっと、この温もりを忘れない。
僕の背中に回された、この小さな腕を。
僕の頭を撫でてくれる、この優しい手を。
そしてこんな僕を当たり前のように抱きしめてくれるこの子のことを、僕は手放すことなんて出来ないだろう。
セラ嬢が僕を抱きしめてくれたこの瞬間に、僕の中で何かが確かに変わってしまったのだから。
「なんだか……恥ずかしいな。君にここまで慰めてもらうなんてさ」
背中に回された柔らかな腕の温もりを感じながら、僕は少し困ったように笑った。
でも、普段の僕なら落ち着かないはずなのに、今はこの温もりが離れてしまうのが少し惜しいとすら思ってしまう。
『恥ずかしくないです。いつもは総司さまがわたしを慰めてくださいますから、今日はわたしの番なだけですよ』
「僕が?」
思わず聞き返すと、セラ嬢はこくりと頷いた。
『わたしが泣いてしまうと、総司さまはいつも優しくわたしの涙を拭ってくださるでしょう?』
その言葉を聞いて、ふと昨日のことを思い出した。
それに以前、アストリアの庭で小鳥の亡き骸を見つけてしまったセラ嬢が、ぽろぽろと涙をこぼしていた時も、僕は慌ててハンカチを取り出して、この子の頬を伝う涙を拭ってあげた。
でも、それだけだ。
僕は、この子みたいに誰かを抱きしめてあげたことなんてない。
優しく包み込むみたいに、温もりを分けてあげたこともない。
そもそも、誰かが泣いている時にどうすればいいのか、僕にはよく分からなかった。
「僕はたいしたことしてあげられてないよ」
そう言うと、セラ嬢は少しだけ不思議そうに首を傾げた。
『どうしてですか?わたしは総司さまが涙を拭いてくださって、心がとっても温かくなったのに』
その言葉を聞いて、胸の奥が少しだけ痛んだ。
僕はこの子に、どれだけ温かさを返してあげられているんだろう。
昨日も今日も、この子を悲しませてしまった。
危ない目にも遭わせて、怪我までさせてしまって、それなのに今こうして慰めてもらっているのは、また僕の方だ。
守られてばかりいる自分が、急にひどく情けなく思えた。
もっと強くなりたい。
もっと優しくなって、この子の身体も心も守れるようになりたい。
そんなことを考えながら、僕はそっと手を伸ばした。
今度は僕の方から、目の前の小さな頭に触れる。
柔らかな髪を指先で撫でると、セラ嬢は少しだけくすぐったそうに目を細めた。
「怪我のところ、痛くない?」
『けが?』
「頭、ぶつけちゃったでしょ。手当てはしてもらったけど、痛くないかなって」
そう言いながら、僕はさっき手当てされたばかりのその額を思い出す。
赤く血が滲んでしまっていたのを見た時、胸の奥がひどくざわついた。
もしあれがもっと酷い怪我だったらと思うだけで、さっきみたいに息が苦しくなりそうだった。
『全然痛くないですよ』
「それならよかったけど……」
そう言いながら、僕はもう一度この子の頭をそっと撫でる。
本当に大丈夫なのか、どこか痛いところはないのか、まだ心配で仕方がなかったからだ。
だけどセラ嬢は、そんな僕を見つめながらにこにこしていた。
「セラ嬢。寝てないと駄目だよ、今はまだ安静にしていないと」
『でも、総司さまがとても悲しそうでしたから。それにわたしは大丈夫です。総司さまが助けてくださいました』
湖に落ちた瞬間の光景がよみがえる。
間に合わなかったかもしれないという恐怖が、今も胸に残っているようだった。
「……ううん。君を守ってあげられなくてごめんね」
『どうして謝るのですか?』
「僕がそばにいたのに、落ちるのを防げなかったからだよ」
『でも、すぐに抱き上げてくださいました。湖に落ちた時はとても怖かったですけど、水の中で総司さまがぎゅっとしてくださって、あたたかくて……それで安心しました。だから謝らないでください』
小さな手が、そっと僕の手を握った。
『総司さま、助けてくださってありがとうございます』
その言葉の重さが、甘く胸に広がるようだった。
小さくて、やわらかくて、守るべき存在のはずなのに、彼女は時々こんなにも真っ直ぐに僕を包んでしまう。
「セラ嬢をもう二度と、危ない目には遭わせません。僕が必ず護ります、何があっても」
好きだと強く思う。
この子が隣にいなくなる未来なんて考えたくもない。
この温もりを手放したくないから、僕はもっともっと強くならなければならない。
「だから、ずっと僕の隣にいてください」
『はい。ずっと総司さまの隣にいます』
セラ嬢は少し頬を染め、やわらかく笑う。
その言葉と笑顔を胸に刻みながら、微笑みを返した僕がいた。
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