7

その日の夜、僕は執事に呼ばれて父の書斎へ向かった。
扉を叩き許しを得て入室すると、父は机の向こうに座り肘を組んでいる。
その右手にはシリル兄上、さらにその隣には兄上の母であるマルグリット夫人。
そして少し離れた位置に、僕の母が立っている。
皆の冷たい視線を見れば、それだけでこの場の立場がどちらに傾いているのかは十分に理解できた。


「シリルから話は聞いた。セラ嬢の身を案じたシリルの忠告を、お前は無視したそうだな」


僕は一瞬だけ、シリル兄上へ視線を向けた。
伏し目がちに立つその姿は、いかにも反省しているかのように見える。
でもほんのわずかに緩んだ口元の線が、彼の余裕を物語っていた。


「僕はあの場所は危険だと申し上げたのは、セラ嬢のお身体を案じてのことです。ですが総司は、大丈夫だと聞き入れず僕も少々むきになってしまいまして。その様子をご覧になったセラ嬢が、僕たちが本気で争うとお思いになったのでしょう。止めに入ってくださったのですが、揉めていた僕たちとぶつかりそのまま後方の湖へ落ちてしまわれました。今回のこと、僕の配慮が足りなかったのも事実です。申し訳ありませんでした」


完璧な弁明だった。
自らも責を負う姿勢を見せながら、実際の主因は僕の軽率さにあると印象づける、いつも通りの巧妙な立ち回り。
僕はただ、冷めた気持ちでそれを見つめていた。

僕が階段から落ちたときも。
以前、湖に突き落とされたときも。
どんな時も兄上は「足を滑らせただけだ」と言い、僕の不注意ということになった。
彼は決して正面から攻めずに、自分が不利にならないよう盤面を整える。
そのたびに、僕の胸に残ったのは言葉にならないやりきれなさだった。


「セラ嬢が湖に転落されたと聞いたときは、本当に驚きましたわ。ですが、大事に至らなくて本当によろしゅうございました」


しおらしくマルグリット夫人が口を開く。
細い指先を胸元に当て、憂いを帯びた面持ちを作っていた。
でも、大事に至らなくてよかったという一言で済ませられる話ではない。
事実まで飲み込むほど、僕は従順ではいられなかった。


「大事には至りませんでしたが、セラ嬢は左の額を怪我されました。その傷は、シリル兄上が彼女の手を乱暴に振り払った際、石柱にぶつかってできたものです。女性なのにお顔に跡が残ってしまうのではないかと、僕は心配でなりません」


いつも黙っている僕が、こうして言葉を返すことが意外だったのだろう。
母も、兄上も、明らかに苛立ちを含んだ視線を向けてくる。
父は椅子に深く腰を預けたまま、僕をじっと見つめた。


「ほう。ならば問おう。今回の件、誰に責任があると思う?」


感情の読めない父の視線が僕に向けられる。
僕はありのままの気持ちを、言葉を紡いだ。


「僕に責任はあります。彼女を護れなかった僕の力不足です。ですが女性に乱暴な振る舞いをした兄上にも、同等の責任があると考えます。本日の兄上の態度は、紳士的だったとはとても思えません」


シリル兄上はゆっくりと僕を見る。
その目には隠す気もない冷たい光が宿っていた。
でも今回の件をうやむやのまま終わらせることはできない。
だからこそ素直な考えを言葉にしたけど、父から返ってきたのは容赦のない言葉だった。


「甘いな。責任を分け合うなど弱者の理屈に過ぎん。護れなかったのは事実だろう。どれほど耳触りの良い正論を並べ立てようと、結果がすべてだ。強ければセラ嬢を抱き寄せたままその場を制し、シリルを黙らせることも出来たはずだ。結局、弱いお前が悪い」


これまで兄たちに理不尽に殴られても、陰で嗤われても、僕は黙って耐えてきた。
訴えたところで返ってくる言葉は決まっている、弱いお前が悪い、その一言だと分かっていたから。

けれど、今回は違う。
あの子が巻き込まれ、冷たい湖に落ち、額に傷を負った。
あの白い頬が蒼ざめていた光景が、今も瞼の裏に焼きついて離れない。


「……では、シリル兄上の行いは悪くないと?」


絞り出すように問えば、父はわずかに目を細めた。


「重要なのは行動よりも結果だ。仮に今回、セラ嬢の身に取り返しのつかぬことが起きていたとしても、その責任は護れなかったお前にある。この世はな、優しさだけでは何も護れん。強い者が勝ち、弱い者は奪われる。それが現実だ。本気でセラ嬢を護りたいのなら強くなることだな。さもなくば、欲しいものなど何一つ手に入らんと思え」


悔しかった。
胸の奥が焼けつくように熱くなり、握りしめた拳がわずかに震えているのが自分でもわかるのに、それでも父の言葉を真正面から否定できない自分がいることが何よりも苦しかった。

なぜなら実際にセラ嬢は傷を負った。
それは紛れもなく僕が弱かったからだ。
強さがなければ何も護れないのだと、突きつけられた気がした。

優しいだけの自分ではいられない。
正しさなんて、何の意味もない。
彼女を護るためなら、どんな強さでも手に入れなければ。
たとえその過程で、今の自分が少しずつ削れていくとしても、あの子を護れない未来よりずっとましだと思えた。

僕はぎゅっと拳を握りしめ、その震えを押し殺すようにして、父の前で深く頭を下げた。


「……はい。肝に銘じます」


頭を上げたとき、視界の端にシリル兄上の横顔が映った。
その口元に浮かぶ、かすかな笑み。
その表情を見て、怒りが静かに湧き上がった。

あなたを、僕は絶対に許さない。
たとえ父が何と言おうと、世間がどう理屈をつけようと、僕の中では終わっていない。
だから待っていてください、兄上。
僕は僕のやり方で、必ずあなたを罰してみせます。
あなたが二度と余裕の笑みを浮かべられなくなるように。

胸の奥に広がる怒りは、じわじわと体内を侵す熱のように確実に消えないものへと変わっていく。
それを態度に出さないように気を配り、僕は書斎を後にした。



そして次の日。
ヴェルメル騎士団では、若年部隊による公開試合が行われた。
観覧席には団員たちが中央の円形試合場を静かに見下ろしている。
出場予定である僕は、シリル兄上より強くなったことを見せたかった。

なぜならここ最近、シリル兄上との打ち合いで僕が勝つこともあった。
けれど勝てば食事の皿をひっくり返され、稽古後に道具を隠されたり泥で汚されたりと、ささやかな嫌がらせが続く。
面倒で、煩わしくて、僕は本気を出さないことも多かった。

でも、ただ負けていたわけではない。
僕は常に観察していた。
兄上の足運びの癖や、踏み込みの直前に僅かに肩が上がること。
右からの強打のあと、必ず半拍遅れて左脇が甘くなること。
どうすれば完璧に崩せるのかを考えながら訓練を受けていた時間は、すべてこの日のためだったのかもしれないと考えてしまう。


「次、シリルと総司」


試合場には呼び上げの声が響く。
円形の石床に向かい合ったとき、兄上は余裕の笑みを浮かべていた。


「本気で来いよ、総司」


開始の合図と同時に、シリル兄上の剣が勢いよく振り下ろされる。
重く速く、観客を意識した華やかな一撃。
僕はそれを真正面から受け止めず、刃筋をわずかにずらして衝撃を逃がし、半歩退きながら呼吸を整える。
二撃、三撃と続く強打をいなしつつ、ただ静かに間合いを測り、肩の動きと足の運びを見逃さなかった。


「どうした?守ってばかりではつまらないぞ」


観覧席にいる団員たちからは小さな笑いが漏れる。
兄上はさらに踏み込み、僕にだけ聞こえる声で呟いた。


「この試合でお前に勝ったら、父上に頼んでみるつもりだ。セラ嬢を俺の婚約者にしていただけないかってね」


その言葉が耳に届いた時、胸の奥で何かが静かに凍りつく。
次の一撃を受け流したと同時に、僕は踏み込んでいた。
兄上の剣を強く弾き上げ、体勢を崩させ、そのまま懐へ滑り込む。
計算していた左脇の隙へ正確に木剣を叩き込むと、乾いた音が石床に鋭く響き渡った。


「有効打、総司!」


審判役の騎士が高らかに宣言し、観衆がどよめく。
本来なら、そこで勝負は決していた。
騎士の試合では明確な有効打が入れば、その時点で勝者が告げられ、双方が礼を交わして終わるのが定めだからだ。

けれど僕の足は止まらなかった。
体勢を崩した兄上へさらに一歩踏み込み、返す刃で肩を打つ。
続けざまに胴を、腕をと打ち据えると、周りの空気が一変し制止の声が四方から飛んできた。


「総司、やめろ!」


シリル兄上がよろめき、その額に木剣が当たった時、皮膚が裂け細い赤が流れ落ちる。
僕の腕は軽く、視界は冴え渡っているようだった。


「おい!やめろ……!」


シリル兄上の声が震え、その瞳に初めて明確な恐怖が浮かぶ。
その表情を見た瞬間、胸の奥から込み上げる熱があった。
僕を弱いと断じ、余裕の笑みを浮かべていた人が、今は僕を恐れている。
木剣を振るうたびに兄上の身体が揺れ、誇り高い姿が崩れるんだから、なんて愉快なんだろう。
苦しげに歪む顔が視界に映るたび、鼓動が速まり血が全身を巡るようだった。

今までやられたぶん。
湖へ落とされたセラ嬢のぶん。
そのすべてを叩き返すかのように、僕は打ち込み続ける。
気づけば口元に笑みが浮かび、息は荒く、腕は止まることなくシリル兄上を強打していた。


「総司、止まれ!」


複数の団員が駆け寄り、後ろから強く腕を掴まれる。
動きが封じられてもなお、前へ出ようとする衝動が身体を震わせて、石畳に滴る赤がやけに鮮やかに見えた。

僕は確かに勝った。
けれど胸の奥で脈打つこの熱が、ただの勝利の高揚ではないこともはっきりと自覚していた。


「お前……何をしたかわかっているのか?」


顔を上げると、クラウス兄上が険しい表情で僕を睨みつけていた。
普段は冷静を装っている彼が、ここまで露骨に怒りを滲ませるのは珍しい。
けれど僕は、思いのほか落ち着いていた。


「何を、とは?」


わずかに首を傾げながら問い返すと、兄上の眉間の皺が深くなる。


「試合は終わっていたはずだ。一本入った時点で勝負は決していた。それを理解していなかったとでも言うつもりか?」

「理解していますよ。ですが父上や兄上はいつも仰っていたでしょう?弱い僕がすべて悪い、と。ですからこの場合も同じです。弱いシリル兄上が悪い。それだけのことだと思うんですけど」


一瞬、周りの空気が凍った。
周囲の団員たちのざわめきが広がり、クラウス兄上の視線が鋭くなった。


「理屈を捏ねるな。何の当てつけかは知らないが、あそこまでやっていい理由にはならない」

「理由が必要なんですか?」


静かに、けれどはっきりと続ける。


「兄上たちは今まで、僕に稽古だ、試合だ、と言って、複数人で木剣を振るってきましたよね。倒れても立たせて、また打ち込んで。あれにもすべて理由があったということですか?」

「あれは……!お前の剣の腕を鍛えてやるためにっ……」

「わかっていますよ。すべて、僕を鍛えるための善意の行動だったんですよね」

「……っ」

「でしたら、今回も同じです。僕なりの稽古の一環ですよ。ですからこれも善意です。違いますか?」


観覧席のざわめきが一層強まり、クラウス兄上の表情が強張る。
これ以上踏み込まれれば、都合の悪いことが表に出る……そんな焦りが滲んでいることは明確だった。


「……もういい」


吐き捨てるようにそう言うと、兄上は周囲の団員へ鋭く命じた。


「シリルを救護室へ運び、医官を呼べ」


数人の騎士が慌てて駆け寄り、意識のあるシリル兄上を支えながら運んでいく。
その横顔は蒼白で、額にはまだ血が滲んでいた。
僕はそれを見送りながら澱のように溜まっていた何かが少しだけ軽くなった気がしていた。

視線を上げると、澄みきった青空が広がっている。
まぶしいほどに高く、何事もなかったかのように穏やかだ。
その向こうにふとセラ嬢の笑顔が浮かぶ。
僕なりの戦い方がわかってきた今、早くあの子に会って、この勝利を彼女に伝えたかった。


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