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それから、どのくらい経ったんだろう。
身体を軽く揺すられてゆっくりと目を開けると、さっきまで淡い光に包まれていた寝室はすっかり暗くなっていた。


「まったくもう、こんなところで何をしているの?探したのよ」


母の声が降ってきて、一気に意識がはっきりする。


「……母上?」


慌てて起き上がると、母が怪訝そうに僕を見下ろしていた。
その後ろにはユフィ夫人。
そしていつの間にいらしたのか、近藤公爵まで立っていたから僕は急いでベッドから降りて姿勢を正した。


「近藤公爵、お久しぶりでございます。ヴェルメルまでお越しいただき、ありがとうございます」


少しだけ声が固くなるのを自覚しながら、きちんと頭を下げる。
すると近藤公爵はほがらかに微笑んでくれた。


「久しいな、総司殿。相変わらず立派な佇まいでいらっしゃる。こちらこそ、娘が世話になっているようで感謝しているよ」


その穏やかな声を聞いてほっと息を吐くと、母は小さくため息をついた。


「申し訳ありません。まさかこんな場所で昼寝をしていたなんて」


視線の先ではセラ嬢がすやすやと愛らしい寝顔で眠っている。
どうやら僕たちは、話しているうちにそのまま眠ってしまったらしい。
外はもうすっかり夜で、部屋には母が灯したのだろうランプの光が揺れていた。


「いいえ、こちらこそ総司さんに遊んでいただけてありがたいわ。セラが離宮が気になるって、ずっと話していたのよ。もしかして総司さんに駄々を捏ねて、ここに連れてきていただいているのではないかと思って来てみたけれど、やっぱりここにいたのね」

「いえ、僕も久しぶりに離宮に足を運べて楽しかったですよ」

「総司殿がいてくれて助かるよ。セラは好奇心が強いからな。安心して任せられるのはありがたいことだ」

「もったいないお言葉、ありがとうございます」


ユフィ夫人は僕に一度微笑みを向けると、ベッドへ歩み寄りセラ嬢の頬にかかった髪をそっと払っている。
その様子を優しい瞳で見つめていた近藤公爵が、腕を組み少し困ったように言った。


「セラは一度寝るとなかなか起きないからな。このまま部屋まで運んで寝かせてやってはどうだ?」

「だめですよ。まだ夕食も食べていないし、お風呂と歯磨きもしていないのよ?」

「しかしなあ、起こすのも可哀想だろう」

「変な時間に寝ると、生活のリズムが狂ってしまうでしょう?起こさないといけません」


ユフィ夫人は可愛らしい声のままきっぱりと言い切る。
公爵は肩をすくめながらも、「わかった」と言って笑みを浮かべた。
そのやり取りを見ていると、自然と口元が緩む。
仲睦まじいお二人の様子が、なんだかとてもあたたかかった。

いつか……僕もセラ嬢と結婚したら、あんなふうになれるだろうか。
ふとそんな想像をしてしまう自分に気づき、胸がくすぐったくなる。
さっき感じていた言葉にできないような熱はもう落ち着いて、今はただ穏やかな感情でセラ嬢の寝顔を眺めていた。


「セラ、起きなさい」


ユフィ夫人が優しく揺すると、彼女は小さく身じろぎをする。
まだ夢の続きにいるみたいに、とろんとした目で辺りを見回していた。


『うう……ねむいです』


かすれた高い声が可愛い。
思わずくすりと笑ってしまうと、彼女ははっとしたように僕を見た。
それからぱちぱちと瞬きをして、慌ててベッドの上にきちんと座り直す。
その様子が可笑しくて、僕はまた笑ってしまった。


「セラ、起きたか!父様もようやく仕事を終えてヴェルメルに来たぞ!」


近藤公爵は満面の笑みで彼女を抱き上げる。
軽々と高く掲げ、そのままくるりと回った。


『あっ、お父さま……目が回りますっ……』

「あなた、屋敷の中で騒がしくしないでと言っているでしょう?」

「おお……すまなかった。またやってしまったな。ならば肩車にするのはどうだ?」

『お父さま、少し落ち着いてください。総司さまの前で恥ずかしいです』

「なっ、そうか?そうだな……それはすまなかった」


肩をすくめて、少しだけしゅんとした顔でセラ嬢を下ろす近藤公爵。
その様子を見てユフィ夫人がくすりと笑い、セラ嬢もつられるように笑う。
幸せそうな三人のやりとりを、僕は少し離れた場所で眺めていた。

ヴェルメルのこの屋敷では、アストリアの人たちのように声を上げて笑うことはない。
家族が揃っても、いつもどこか張り詰めた空気が漂っていた。
それに僕は今まで一度も、父上に抱き上げられたことも、肩車をしてもらったこともない。
それが普通だと思っていたし、疑問に思ったこともなかった。
比べるものを、知らなかったから。

けれど今は知ってしまった。
理由なんてなくても笑い合えること。
叱る声さえどこか優しいこと。
触れ合う距離がこんなにも近いこと。
あたたかくて、飾り気がなくて、心から幸せそうに笑う家族。
胸の奥が痛くなり、寂しくもあり、羨ましい……なんて。
そんな幼い子みたいな感情を抱くとは思わなかった。

……みっともないな、僕。

自分の情けない感情に気づけば、無意識に唇を結んでいた。
輪の外に立ったまま、取り残されたような気持ちでいると、ふいにセラ嬢がこちらを振り向いた。
視線が合うと、彼女は何かを感じ取ったようにためらいもなく小走りで僕のもとへ駆けてくる。
そして僕の手を両手で包むように握り、ふわりと微笑んで僕を見上げた。


『総司さま』


セラ嬢と出会って、僕はあたたかさや、誰かの隣にいることの幸せを知った。
セラ嬢が僕に触れて名前を呼んでくれるだけで、さっきまで胸を締めつけていた寂しさが音もなく溶けていくようだった。


『総司さまがいてくださって、わたしとっても楽しかったです。離宮も見られましたし、お昼寝も安心でした』

「僕も楽しかったよ。昼寝はするつもりなかったんだけね」

『でも、総司さまのお隣はあたたかかったです』


安心して眠れたのは僕の方だ。
僕が何か言葉を返そうとした時、彼女は僕を上目で見つめたまま指をもじもじさせると、小さな声で言った。


『あの……総司さま?』

「どうしたの?」

『今日の夜、総司さまと一緒に寝てもいいですか?』


予想外の提案に、思わず目を丸くする。


「うん、僕は構わないけど」


反射的にそう答えてから、大人たちの方を見る。
母は見るからにきょとんとしていて、ユフィ夫人も目をぱちぱちさせている。
そして近藤公爵が今までで一番慌てた声を上げた。


「んんん……?!それはいかん!いかんぞ!」

『どうしてですか?』

「どうしてもこうしてもない!まだ早すぎる!」

「あなた、落ち着いてください。声が大き過ぎますよ」


ユフィ夫人が苦笑しながらたしなめる。
その横にいた母が咳払いを一つして、笑顔を浮かべた。


「セラさん。それはね、もう少し大きくなってからのほうがよろしいの」

『どうしてですか?お昼寝はできましたのに』

「昼寝と夜は違うのだ!」

『何が違うのですか?』


確かに昼と夜で何がそんなに違うんだろう。
近藤公爵は一瞬言葉に詰まり、それから咳払いをした。


「そ、それはだな……夜は……特別だからだ」

『特別?』


セラ嬢がきょとんとしている横で、僕も首を傾げる。
特別と言われてもますますわからなくて考えていると、そんな僕たちの様子を見ていたユフィ夫人が優しく笑った。


「仲が良いのはとても嬉しいことよ。でもね、夜はきちんと休む時間なの。それぞれのお部屋で眠るのが決まりなのよ」


そう言われると、なんとなく納得する。
理由はよくわからないけど、大人が言うのならそうなんだろう。


「……じゃあ、だめなんだね」


僕がそう言うと、セラ嬢はほんの少しだけ俯いた。
さっきまで嬉しそうに弾んでいた瞳がしゅんと影を落とし、眉がかすかに下がる。

……そんな顔、させたいわけじゃないのに。
少しでも笑顔に戻ってほしくて、気づけば僕はそっと彼女の手を取っていた。


「夜は無理でも、またお昼寝なら一緒にできるよ」

『では、また一緒にお昼寝をしてくださいますか?』

「うん。約束」


曇っていた瞳がすぐに光を取り戻し、彼女は安心したように微笑んだ。
ユフィ夫人がくすくすと笑い、母もやれやれという顔で小さく肩をすくめている。
近藤公爵は大きく息を吐き、それから満足そうにうなずいた。


「うむ。ふたりとも聞き分けがよいな。偉いぞ」


そう言うやいなや、大きな手が僕たちの頭にのしかかる。
遠慮のない力でわしゃわしゃと撫でられ、前髪が乱れた。


『きゃっ』

「……わっ」


驚きと同時に力強く引き寄せられて、気づけば僕とセラ嬢は近藤公爵の腕の中にいた。
広い胸板と厚い腕に包まれて、息が一瞬詰まる。
戸惑いが先に立つけど、それ以上に胸に広がったのは言葉にできないあたたかさだった。

……きっと父親に抱きしめられるっていうのは、こういう感覚なのかもしれない。
照れくさくて視線の置き場に困るのに、嫌ではなくて。
むしろ心の奥が満ちていく感覚だった。


「よしよし。本当に偉いぞ」


近藤公爵は嬉しそうに言い、さらに僕たちを抱き寄せた。


『ふふ、お父さま苦しいですよ』

「ああ、すまんすまん。ついな」


それでも腕の力は、しばらく緩まなかった。
母が少し目を細めて、それでも微笑みながら言った。


「公爵。総司が固まっておりますよ」

「ん?おお、すまんな。総司殿」

「いえ……」


声がわずかに上ずると、ユフィ夫人が僕に向かってやわらかく微笑んだ。


「総司さん、ごめんなさいね。驚かせてしまったでしょう?」

「いいえ、大丈夫です」


本当は驚きよりも別の感情のほうが大きかった。
胸がいっぱいで、うまく言葉にできないだけだ。


『総司さま。ぎゅっとしてると、あたたかいですね』


真横にいるセラ嬢がそう言って、僕を見上げる。
近藤公爵の腕の中で、セラ嬢は甘えるように僕の肩に頬を擦り寄せた。


「……うん、あたたかいね」


温もりは勿論、こうして過ごす時間そのものがあたたかい。
近藤公爵はそっと腕の力を緩めると、最後にぽんと僕の背を叩いた。


「総司殿。これからもセラをよろしく頼むぞ」

「はい。任せてください」


胸の奥に残ったぬくもりは消えない。
羨ましいと思っていたはずなのに、いつの間にか僕もその輪の中に入っていた。
少し照れくさくてあたたかい。
そんな幸せな気持ちを胸に抱えたまま、僕は静かに微笑みを浮かべていた。

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