3

その日は、いつもと同じような一日になるはずだった。

朝の鍛錬を終えた僕は、剣術の稽古へ向かう途中で父に呼び止められた。
父は僕を一瞥すると、そばに控えていた使用人へ短く指示を出し、それから淡々と言った。


「着替え次第、執務室へ来い」


それだけ言い残して、父は背を向けて歩いていく。
どうして呼ばれたのかはわからなかったけど、父の言葉に理由を尋ねることなど許されていない。
僕は小さく首を傾げながらも部屋へ戻り、言われた通り正装に着替えて執務室へ向かった。
重い扉を叩き、許しを得て中へ入ると、机の向こうに座る父の鋭い瞳が真っ直ぐに僕を捉えた。
その視線に射抜かれるたび、胸の奥が少しだけ強張る。
けれど目を伏せることはなく、静かに背筋を伸ばして父の前に立った。


「最近はだいぶ身体の調子が良いと聞いた。階級もシリルを抜いたそうだな」


この一年半、アストリアで教わった身体作りを僕は毎日欠かさず続けてきた。
呼吸の仕方から、食事、鍛錬の順番まで、教わった通りに一つも怠らなかった。
その結果、以前の僕とは見違えるほど身体は丈夫になり、喘息で寝込むこともなくなった。
背も伸びて、腕や肩には少しずつ筋肉がつき、鏡を見るたびに男らしい体付きに近づけている気がする。
そして剣の実力もそれと一緒に伸びていき、今では父の言う通り、シリル兄上に負けることもなくなっていた。


「はい、その通りでございます」

「学業の方も精進しているらしいな。この調子で努力を続けなさい」

「承知いたしました」


ようやく僕も父の目に映るようになった……そう思った。
ずっと昔から兄上たちの背中を見ながら、いつか父に認められたいと願っていたはずだった。
けれど実際にその言葉を聞いても、不思議なくらい嬉しいとは思えなかった。
なぜなら僕にとって一番大切なことは、父に認められることではない。
家門の期待に応えることでもない。
ただ一つだけ、セラ嬢にこれからも僕を想い続けてもらえるように、胸を張って隣に立てる男になること。
それだけが僕にとって何よりも大事なことだった。

もちろん、そんな僕の心情を父が知るはずもない。
父は僕の心など気にする様子もなく、いつもの低い声で言葉を続けた。


「今のお前ならば、良い相手も見つかるかもしれん。アストリアとは今まで通り交流しつつ、他にも目を向けてみてはどうだ?」


その言葉を聞いた時、胸の奥で心臓が嫌な音を立て、背中を冷たい汗がゆっくり伝っていく。
父に逆らうことは、この家では許されない。
兄上たちでさえ、父の言葉には従ってきた。
それでも僕は、気がつけば言葉が口からこぼれていた。


「いいえ。僕はセラ嬢と既に将来の約束をしています。他を探す必要はありません」


執務室の空気が、わずかに重くなる。
父の視線が、さっきよりも鋭く僕を射抜いた。


「口約束では何の価値もない。向こうにその気があるなら、とっくに婚約しているはずだからな」

「確かに今はまだ口約束です。ですが僕たちの関係がこのまま続いた暁には、婚約を認めてくださるというお話です」

「なぜこちらが認めてもらう立場でなければならんのだ。アストリアの他にも力のある家門はある。こちらが選ぶ側にならねばな」


何を言われても、僕の頭に浮かぶのはただ一人の姿だった。
柔らかく笑う、セラ嬢の顔。
僕の名前を呼ぶ、あの愛らしい声。
他なんて、とても考えられない。
父の前に立ったまま、僕は静かに拳を握りしめた。


「僕には、セラ嬢以外考えられません」


その言葉を聞いた父は、わずかに口の端を歪めた。
笑ったというよりも、嘲るように鼻で嗤ったといった方が正しい表情だった。


「ほう……そこまで言うのであれば、その理由を聞こう。大公家の息子ともあろう者が、まさか好きだからなどという児戯じみた感情を根拠に語るつもりではあるまいな。家門の婚姻を、そんな軽い言葉で説明できると思っているのか」


貴族の婚姻とは家門のためにあるものだ。
そこに個人の感情など入り込む余地はないと、父は昔から繰り返しそう言ってきた。
そしてそれは、北部の多くの貴族にとっても当然の考え方だった。
それでも僕は、胸の奥で灯っているものを確かめるように、ゆっくりと息を吸った。


「僕は、セラ嬢をお慕いしています」


父の前でこんな言葉を口にする日が来るとは、以前の僕なら想像もしなかっただろう。
それでも今の僕には、もう迷う理由がなかった。


「彼女を想う気持ちがあったからこそ、僕はまともに剣を振るうことができるようになりました。身体を鍛えることも、剣の腕を磨くことも、すべて彼女の隣に立つのに恥じない相手になりたいと思ったからです。勿論、まだまだ未熟であることは自覚しています。大公家の名に相応しい男になるには、これからも努力を続けなければならないでしょう。ですが彼女との将来があるからこそ、僕は努力を続けられるのです。僕にとってそれは、何より確かな理由です」


僕の言葉を聞き終えた父は、しばらく何も言わなかった。
重い沈黙が執務室の中に広がり、時計の針が進む音だけが微かに耳に届く。
その間ずっと、父は感情の読めない冷たい目で僕を見つめていたけど、やがて深く息を吐くとまるで呆れたように口を開いた。


「……愚かな」


低く吐き捨てられたその一言には、はっきりと軽蔑が滲んでいた。


「感情など捨てろ。あのようなものは人の判断を狂わせるだけの、ただの弊害に過ぎん。喜びも、悲しみも、楽しみも、苦しみも……そんなものをいちいち感じていては、まともな決断などできなくなる。愛情などというものは、人間を弱くするその最たる例だ」


その声には一切の迷いも躊躇もなく、長い年月をかけて固められた信念のような冷たさがあった。


「愛は人を縛る。守ろうとすれば判断を誤り、失えば苦しむ。そんなものは大公家の人間にとって、最も不要なものだ。心など最初から持たなければいい。そうすれば苦痛を感じることもないからな」


セラ嬢の出会う前までは、僕も感情なんて邪魔なだけだと思っていた。
感情がなければ、心ない言葉に傷つくことも、不甲斐ない自分に苛立つこともない。
心を殺して生きていく方が、感情一つに振り回されるよりずっと楽だと感じていた。

でも、今は違う。
あの子といる時の胸の高鳴りや、幸福感。
そして何より、誰かを特別に想う自分の中のあたたかな感情。
それを知った今は、想いこそが自分を突き動かす最大の原動力になるとわかった。
だからそれらを手放してしまったら、きっと僕の中には何も残らなくなってしまう。
そんな空っぽの状態で、ただ生きていくのなんて僕は絶対に嫌だ。


「それはできません。僕にとって、セラ嬢への想いは簡単に捨てられるものではありません」


そう告げた直後、父の拳が机を激しく叩いた。


「黙れ!随分と毒されているようだが、愛情などという実体のないものに縋ってどうする。そんなものは、明日には消えているかもしれないものだ。そんな不確かなものに、お前はすべてを賭けると言うのか」

「はい。賭けられます」


迷いなくそう答えると、父はしばらく黙って僕を見ていたものの、やがて小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。


「……いいだろう。そこまでセラ嬢が大事だと言うのなら、好きにするがいい」


その言葉を聞いた胸の奥がわずかに緩んだけど、父はまるでそれを見透かしたかのように続けて言った。


「もっとも、お前の意思など関係なく、すでに手は打ってあるがな」


ゆっくりと椅子に座り直しながら、父は事務的な口調で告げる。


「このあと、お前には一席設けてある。大陸中央に領土を持つローゼンガルト大公国のご令嬢との対面だ。将来を見据えた顔合わせだと思えばいい」


それがどういう席なのか、わからないほど僕も子供ではない。
家門同士の関係を見据えた顔合わせであり、将来の縁談を探る場だということくらい、すぐに察することができた。
言葉を失ったまま立ち尽くしている僕を見て、父はわずかに眉を動かしただけで、まるで当然のことを告げるかのように言った。


「言っておくが、お前に拒否権はない」


その一言はあまりにも冷静で、反論の余地など最初から存在しないかのようだった。
それでも僕は、思わず言葉を絞り出す。


「ですが……」

「この冬、お前は予定通りアストリアへ行くつもりなのだろう?」


その言葉を聞いた瞬間、胸が強く跳ねた。
僕は何も答えられず、ただ父を見つめることしかできない。
父はそんな僕の反応を見て、淡々とした口調で続けた。


「ならば、今日の相手に気に入られるよう努めろ。今までのように相手方から断られることがあれば、その時はアストリア行きは中止だ」

「……そんなっ、何故ですか?」

「本来、お前にはもう療養など必要ない。身体は十分に回復しているのだからな」


アストリアに行けなくなるということは、つまりセラ嬢に会えなくなるということだ。
セラ嬢は冬に僕が行くことを、あんなに楽しみに待っていてくれているというのに。
それだけはあってはならないと、僕は思わず一歩踏み出していた。


「ですが、父上もセラ嬢との婚約は望まれていましたよね?」

「確かに、アストリアのご息女は見目麗しく、才もありそうだ。相手として不足はあるまい。だが近藤公は当面の間、婚約を結ぶつもりはないようだった。つまりお前はまだ値踏みされている段階だということだ。最終的に選ばれるかどうかなど、わからんだろう」

「お言葉ですが、値踏みされているわけではありません。公爵閣下は、僕たちの気持ちが育った時には正式に婚約を結ぶと仰っています」

「ならばお前は、その愛情とやらが本当に育つとでも思っているのか?」


父は椅子の背にもたれながら、まるで事実を述べるように言葉を重ねた。


「セラ嬢を見ていて思わんか。あのご息女は恐らくこれから先、多くの男の目を引くことになるだろう。東部を統治するルヴァン王国には、お前と同じ歳の王太子殿下がおられるそうだ。そしてその王国の管轄下には、いくつもの大公国や公国がある。それらの家門の嫡男たちもまた、セラ嬢と歳の近い者が多いと聞いている。その中で天秤にかけられた時、ヴェルメルの嫡男でもないお前が選ばれると本気で思っているのか?」


その言葉が胸の奥に深く突き刺さり、僕は何も言えず、しばらく黙り込んでしまった。

確かに今、セラ嬢はまっすぐ僕を見てくれている。
僕の名前を呼び、笑いかけてくれる。
けれど彼女はまだ、僕より二つ年下の少女だ。
これから成長していく中で、もっと立派でもっと魅力的な男たちに出会うかもしれない。
僕より身分の高い者、剣の強い者、あるいは王族……そんな人間が彼女の前に現れたら、彼女の気持ちが変わる可能性がないとは言えない。
そんな不安が胸の中に生まれた瞬間だった。

それでも、僕は信じていたかった。
あの子の想いを。
あの子がかけてくれた言葉を。
僕の前で笑う時、碧色の瞳は本当に嬉しそうに輝く。
あの光が、いつか他の誰かに向けられるなんて。
そんな未来を、僕はどうしても信じたくなかった。

だから僕は、父を真っ直ぐ見て言った。


「はい。そうなれるように、どんな努力でもするつもりです。必ずセラ嬢を射止めてみせます」


父はしばらく僕を見つめていたけど、やがてゆっくりと口の端を歪めた。


「ならば見せてみろ。セラ嬢を惹きつけられるというのなら、今日これから会う令嬢にもうまく立ち回れるはずだ。それができぬというのなら、お前は所詮その程度。セラ嬢との未来を望むだけ無駄ということだ」


父はそう言い切ると、机の上の小さな鈴を鳴らした。
すぐに扉が開き、執事が静かに入ってくる。


「準備は整っております。ローゼンガルトのご令嬢は、すでに応接室に。アンナ夫人も既に着席されております」

「総司を案内しろ。行け」


その一言には、有無を言わせない力があった。
僕はしばらくその場に立ち尽くしていたけど、やがてゆっくりと頭を下げた。


「……承知しました」


執事に導かれ、僕は執務室を出る。
長い廊下を歩きながら、胸の奥が重く沈んでいくのを感じていた。
それでも僕は、足を止めることはできなかった。
もしここで背を向ければ、アストリアに行くことはできなくなってしまう。
それだけは、絶対に受け入れられなかった。

やがて執事が足を止め、大きな扉の前で静かに振り返る。


「こちらでございます。中には先方のご夫人とご息女がいらっしゃいますので」


重厚な扉の向こうには、ローゼンガルト大公国の令嬢が待っている。
僕は一度だけ深く息を吸い、胸の奥にある灯火を思い出した。
大丈夫だ、そう心の中で呟きながら、僕は扉の前に立つ。
セラ嬢への罪悪感を押し殺して、僕は部屋へと入って行った。


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