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応接間に入った僕は一礼し、定められた礼儀に従って名乗った。
相手の令嬢も同じように頭を下げ、僕を見て微笑んでいた。
母同士の挨拶が交わされ、家門の近況や大陸情勢の話がいくつか続いたあと、侍女が紅茶を運んでくる。
こうした席での会話はいつも同じような流れを辿り、家門の格を確かめ合うようなやり取りや互いの教育や趣味の話が少し出た後、母が僕を見て告げた。
「総司、庭を案内して差し上げなさい」
つまり、ここからは当事者同士で話せということだ。
僕は立ち上がり、令嬢に向かって軽く頭を下げた。
「よろしければ、庭をご案内いたします」
「ええ、ぜひ」
屋敷の裏手に広がる庭園は、セラ嬢と何度も歩いた場所だ。
ゆるやかな石畳の道を進むと、やがて木々が開け、その先に静かな湖が姿を現す。
湖面が光を受けて銀のように輝くことから、シルヴァレイク・ガーデンと名付けられたこの場所は、セラ嬢のお気に入りの場所の一つだった。
それなのに、他の令嬢を連れて歩かなければならないことが辛く感じられる。
こんな時間は一刻も早く終わって欲しいと願うばかりだった。
湖を見下ろせる場所には白い石造りのテラスがあり、そこにはすでに小さなテーブルと椅子が用意されている。
侍女が先回りして茶器を整えていたのだろう。
僕は椅子を引き、彼女を席へと促した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
彼女が腰掛けると、侍女が静かに紅茶を注ぎ、すぐに下がっていった。
気が付けば、周囲には僕たちしかいない。
僕はテーブルの向こうに座る彼女を見ながら、いつものように愛想のいい笑顔を作った。
こういう場での振る舞いには、もう嫌と言う程慣れている。
先程名乗った彼女の名前を頭で復唱しながら、僕は言葉を紡いだ。
「千嬢のご趣味は何ですか?」
よくある当たり障りのない質問だ。
こうして顔合わせの席につく機会はこれまでにも何度もあったけど、今までうまくいかなかったのは、会話の途中で僕が咳き込んだり、体調を崩したりしてしまうことが多かったからだ。
でもすっかり健康になった今、笑顔で会話を続けさえすれば、少なくとも当日に断られるような失態には繋がらない筈。
そう思って尋ねた僕に、彼女は紅茶のカップを持ち上げながら、ふっと微笑んだ。
「それは何のための質問なのかしら?」
僕は思わず目を見開いた。
さっきまでの丁寧な口調とは違い、少し砕けた声音だった。
小首を傾げた拍子に、千嬢の黒髪がさらりと揺れた。
「いえ、千嬢のお好きなものが知りたかったのでお尋ねしただけですよ」
「でもあなた、私に興味なんてないでしょう?」
完全に図星だったからこそ、僕は一度言葉を失う。
そもそも、そんなことを真正面から指摘してくるご令嬢がいるなんて思ってもみなかった。
沈黙が落ちる。
けれど、ここで取り繕っても意味がない気がして、僕は小さく息を吐いて言った。
「僕に興味がないのは、あなたも同じですよね。お互いさまではありませんか?」
思わずそう返してしまった。
元々僕は、余計なことを言わずに黙っている方だ。
けれど当たり障りのない言葉を並べても、この令嬢には通じない気がした。
だから少しだけ、踏み込んでみたわけだけど。
千嬢は一瞬きょとんとした顔をした後、くすくすと笑い始めた。
「ふふっ、良かった。大抵の人はああ言われると、そんなことありません、ぜひあなたとお近づきになりたいですって言ってくるのよ?」
「まあ、それが普通の返事でしょうね」
「ええ。でもね」
彼女は紅茶をひと口飲み、楽しそうに僕を見る。
「そういう人って、だいたいすぐ分かるのよ」
「何がですか?」
「本心じゃないってこと。だからあなたも、そういう人だと思ってたの」
「期待を裏切ってしまいましたか?」
「ううん。少しは話しやすそうで良かったわ」
そう言って満足そうにしている彼女を見て、僕はほんの少しだけ肩の力を抜いた。
「そう思って頂けたのなら、光栄です」
「ええ、本当に」
じっと僕を見つめてくるその視線は、まるで相手の内側まで見透かそうとしているみたいで、思わず視線をそらしたくなるほど真っ直ぐだった。
僕は当たり障りのない微笑みを浮かべたまま、どう言葉を続けようかと考えていたけど、その沈黙を破ったのは彼女の方だった。
「ねえ、総司様。私たちしかいない時くらい、堅苦しい敬語はやめない?だってそんなの、窮屈なだけで何の意味もないもの」
そう言うなり、彼女はテーブルの上の紅茶を手に取ると、まるで喉が渇いていたかのように一気に飲み干した。
「……ふう」
満足そうに息を吐くその姿は、とても貴族令嬢の振る舞いとは思えない。
上品に振る舞っていた応接間での態度とはまるで違うから、目を瞬いてしまった。
「なに、その反応」
「いや、なんか君って面白いね。今まで、君みたいな子に出会ったことがないよ」
セラ嬢も、他のご令嬢とは全然違っていた。
あの子の場合は、なんて言うか……取り繕うということすら知らなくて、素直であまりにも無垢だった。
反して、目の前にいる千嬢は、全てをわかった上でうまく使い分けている。
少しでも素の自分でいたいという意思の強さが、その瞳からは見て取れた。
「お言葉だけど、私もこういう場で言い返されたのは初めてよ?興味ないことを指摘されて否定しないなんて、凄く失礼な人よね」
「僕は君の挑発に乗ってあげただけだよ。でも、気軽に話せるのは悪くないかな」
本来なら、もっと形式ばった会話が続くはずの顔合わせ。
家門の事情、将来の展望、互いの家柄、そういう堅苦しい話題を、取り繕った笑顔で交わすのが普通なのに。
けれど今このテラスには、そんな空気はまるでなかった。
気づけば、胸の奥に沈んでいた重たいものが、ほんの少しだけ軽くなった気さえしていた。
「でもさ、どうして僕が君に興味ないって思ったわけ?」
「別に深い意味はないわ。こういう席では、いつもああ言ってみてるの」
「まさか、みんなに?」
「ええ。その時につまらない答えが返ってきたら、その人とはおしまい。だって、取り繕った会話しか出来ない人となんてごめんだもの」
「でも最初は仕方ないんじゃない?貴族に生まれたからには、色々と柵はあるんだからさ」
「そうだとしても、女の子の私が先にそれを壊してあげてるのよ?それなのに乗ってこない男なんて最低じゃない」
「そういうもの?」
「そういうもの。その点、総司様は合格ね」
「それはどうも」
そう答えながらも、僕の心はまったく別のところにあった。
表向き普通に話していても、頭に浮かぶのはただ一人、セラ嬢のことだ。
もし彼女が今、この光景を見たらどう思うだろう。
きっと、またあの時みたいに泣いてしまうんじゃないか。
そう考えるだけで胸が痛む。
近藤公爵は僕を気遣って、彼女に他の縁談は持ち込まないとまで言ってくださっていたのに。
こうして別の令嬢と顔を合わせている今の状況は、どう考えても裏切りにしか思えなかった。
「わたしね」
ふいに、千嬢が静かな声で言った。
僕が顔を上げると、彼女は侍女を呼ぶこともせず、自分でポットを取って紅茶を注いでいた。
「こんなだから、いつも縁談を断られるの。義理の母からは、早く婚約して身を固めろって言われるけど……私の人生だもの。縛られていたくないの。でも将来が固まらないから、こうして何度もこういう席を設けられてしまって……疲れるわ。わたしはあの人の都合良く動く駒なんかじゃないのにね」
その笑みは軽やかなのに、瞳の奥にはほんの少しだけ寂しさが滲んでいた。
先程の夫人が義理の母ということは、きっと彼女にも彼女なりの事情があるのだろう。
応接間で両家が揃っていた時の姿とはまるで違う。
今の彼女は、鎧を脱いだみたいに自然だった。
そしてこの子もきっと、いつも自分を取り繕って生きているのかもしれないと思った。
「僕も同じだよ」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれていた。
「今日のことを聞いたのは、ほんの少し前だしね。今まで身体が弱かったこともあって、僕は婚姻を結んで後ろ盾を得ることでしか、家門の役に立てないって思われてきたから」
「……そう」
彼女はしばらく黙って僕を見ていた。
それから、ふっと小さく笑う。
「じゃあ私たち、似た者同士じゃない」
「かもしれないね」
「だったら一つ、提案があるんだけど」
「提案?」
「ええ」
彼女はいたずらっぽく目を細めた。
「お互い、面倒な縁談をこれ以上増やしたくないでしょう?」
「まあ、それはそうだけどね」
「だったら、親たちを黙らせる方法を考えればいいのよ」
「……は?黙らせる方法?」
思わず素の声が出たけど、千嬢は平然として言葉を続けた。
「簡単な話よ。私たちが表向き仲が良いってことにしておけばいいの。将来を前向きに考えているって見せておけば、しばらく他の縁談は止まるでしょう?もちろん、本当に婚約する必要はないわ。ただ順調に進んでいるように見せるだけ。正式に婚約の話が出た時は、喧嘩でもしたふりをしてうまく引き伸ばせばいいのよ」
湖から吹いてきた風がテラスをやわらかく通り抜けていく。
その風に撫でられて、千嬢の黒髪がさらりと揺れた。
「どう?」
彼女は真っ直ぐ僕を見るけど、僕はすぐには答えられなかった。
確かに理屈としては筋が通っている。
でも、その提案をそのまま受け入れるには、どうしても一つだけ気になることがあった。
「確かに利害は一致してると思うけど、僕たちにその気があるって思ったら、すぐに婚約の話が進む可能性もあるよね」
家同士の思惑というものは、本人たちの事情よりもずっと速く動くことがある。
特に今回のように、両家ともこの縁談を前向きに考えているなら尚更だ。
仲が良さそうだと判断された瞬間に、外堀から固められる可能性だってある。
僕がそう言うと、千嬢は少しだけ目を瞬かせたあと、ふっと肩を揺らして笑った。
「意外と真面目ね、総司様」
「真面目っていうか……現実的に考えてるだけだよ」
「大丈夫よ、ちゃんと抜け道はあるわ。私の家はね、婚約を決める時、必ずある条件を挟むの」
「条件?」
「一定の期間、二人で交流を続けて、本当に相性が良いか確かめること。正式な婚約を結ぶ前に、最低でも一年は様子を見る決まりなのよ」
なるほど、と僕は内心で頷く。
確かにそれなら、婚約の話が具体的に上がったとしても、そこから更に一年は猶予がある。
たったの一年程度なら父もとやかく言わずに待つと思えた。
「つまり交流を続けて、一年経ちそうな時に断ればその分引き伸ばせるってことだね」
「そう。婚約は双方の同意が必要なわけだし、私たちが共謀している限り、そう簡単に婚約の話は進まないわ。だからこれは、ただの共犯関係」
「共犯?」
「ええ。お互い、面倒な縁談から逃げるためのね」
彼女はいたずらっぽく目を細めた。
湖の水面が、午後の光を受けて静かに揺れている。
僕はしばらくその景色を見つめてから、ゆっくり息を吐いた。
「分かった。その提案、受けるよ」
そう言うと、彼女の口元に満足そうな笑みが浮かんだ。
「交渉成立ね、総司様」
湖からまた風が吹いてきて、テラスのカーテンが揺れる。
僕はその風を感じながら、セラ嬢のことを思い浮かべていた。
できることなら千嬢との婚約の話が具体的に出てしまう前に、セラ嬢と正式な婚約を結びたい。
あの子との未来を確実なものにしたい。
そう願わずにはいられなかった。
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